2013年5月1日水曜日

4月29日、朝ミサ説教:神の赦しを謙虚に受け入れるために、罪を恥じる


朗読個所:   使徒言行録14・5-18
           ヨハネ14・21-26
バチカン、4月29日11時37分(ACI/EWTNニュース)
Avergonzarse de los pecados con humildad para acoger perdón de Dios, pide el Papa

 教皇フランシスコは今朝の聖マルタの家でのミサの説教で、キリスト者は神の赦しを謙虚に受け入れるために、自分の罪を恥じることができなければならないと指摘した。

 この聖体祭儀には、APSAのバチカンの従業員や、使徒座遺産管理の従業員、シスターの一団が参列しており、教皇はヨハネの第一の手紙で「神は光であり、彼の内には闇はなかった」という個所についてコメントをした。

 教皇フランシスコは「わたしたちは全員、自分の人生の中で闇の部分をもっています。自分の意識においても、暗い時があるのです。けれど、それは闇の中を歩くという意味には直結しません」と強調した。

 「闇の中を歩むというのは、自分自身に満足しきっている状態、救いの必要性がないと信じ切っている状態です。それこそが闇なのです!この闇の道に入り込んでしまうと、そこから後に引くことは簡単ではありません」。

 「そのため、ヨハネは続けます。おそらくこの考え方は考えを巡らすのに役立ったからでしょう。『もし罪を犯さずにいるというなら、わたしたちは自分自身をだましており、真理はわたしたちのうちにありません』。自分の罪を見なさい。わたしたちの罪を。わたしたちは皆罪びとです。みんなです。……これが出発地点です」。

 「しかしもしわたしたちの罪を告白するなら、神さまは忠実で、罪をゆるしあらゆる悪からわたしたちを清めてくださるほど正しいのです。そして、わたしたちに、―そうでしょう?―あの、あれほど善意に満ち、忠実で、わたしたちをゆるすほどに正しいあの主を示して下さるのです」。

 教皇はさらに、「主がわたしたちをゆるしてくださる時には、何よりも自分自身に対して正義を行っておられます。というのは、主はわたしたちを救い、わたしたちをゆるすために来られたからです」と言った。わたしたちを息子たちに対する一人の父の優しさをもって受け容れながらである。「主は、ご自身を恐れる人に対して、また彼のもとに向かう人々にやさしい方です」。そして優しさをもって「わたしたちをいつも理解して下さいます」。

 わたしたちに「あの、彼のみが与えられる平和を」賜ろうとなさる。たとえわたしたちの服を洗って汚れを綺麗にするために、「ゆるしの秘跡に行くのは洗濯に行くのと同じようなものだと何度考えたとしても」、「これこそが和解の秘跡の時に起こる出来事なのです」。

 「けれど告解部屋のイエスは洗濯機ではありません。それはイエスとの出会いですが、このわたしたちを待っているイエス、わたしたちのあるがままを待っておられるイエスとの出会いなのです。『しかし主よ、わたしはこんなふうですが…』、本当のことをいうのは恥ずかしいです、『こんなことをしてしまったし、あんなことを考えてしまったし』というのは・・・。けれど、恥を感じるというのは、キリスト者としても人としても本物の徳です……。恥じる能力」。

 「イタリア語でこういう言い回しがあるか分りませんが、わたしたちのところでは、恥を感じられない人のことを『厚かましい人(恥知らず)』と呼びます。というのは、恥じる能力がないし、恥じるというのは謙虚jな人の徳、謙虚なあの男性、あの女性の徳だからです」。

 フランシスコはさらに、信頼すべきである、なぜなら罪を犯す時、父の前にわたしたちを弁護している方がおられるからです。「イエス・キリストは、正しい人」。そして彼は「主の前でわたしたちを支えておられ」、わたしたちの弱さを前に、わたしたちを弁護します。けれど、「わたしたちの罪びととしてのまことの姿」を、「信頼をもって、また喜びをもって、化粧で塗りたくることなく」主のみ前に据えなければならないのである。

 「絶対に、神の前で化粧をしてはなりません」。そして恥は徳のひとつなのです。「幸いなる恥」なのです。「これはイエスがわたしたちに望んでおられる徳です。つまり、謙虚さと素直さです」。

「謙虚さと素直さというのは、キリスト者の生活の枠のようなものです。キリスト者というのはいつもそのように進みます。謙虚さと素直さをもって。そしてイエスはわたしたちを赦すために待っておられるのです。主にわたしたちは問いかけることができるでしょう。赦しの秘跡に行くというのは、「拷問のワン・セッションに行くことではないんですか?と。違います!それは神を賛美しに行くことなのです。なぜなら罪びとのわたしが、主のおかげで救われたからです。

 「そして主はわたしを棒でたたいて懲らしめるために待っておられるのでしょうか?違います。わたしを赦すための優しさをもっているのです。『ではもし明日同じことをしてしまうとしたら?』もう一度行ってください。もう一度、もう一度、もう一度…と。主はあなたをいつも待っておられます。この主の優しさ、この謙虚さ、この素直さがあなたを待っています。

 その後この信頼が「わたしたちに呼吸の間を与える」ようにと指摘した。教皇は「主がわたしたちにこの恵みを与え、真理はその光であり、神の前での本物か偽物かというメディアの闇ではない部分であるため、真理をもって彼のもとにいつも行くこの勇気を下さるように」誓いを立てた。「神がわたしたちにこの恵みを与えてくださいますように!なれかし(アーメン)。

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