2013年5月19日日曜日

5月18日、朝ミサ説教:キリスト者は他人の人生に首を突っ込みたくなる誘惑に勝たなければならない

朗読個所:   使徒言行録28・16-20、30-31
           ヨハネ21・20-25

バチカン、5月18日15時43分(バチカンラジオ)
 
 聖マルタの家の今朝のミサでのフランシスコの勧告はこれであった。さらに教父は噂話や妬みがどれほどキリスト者の共同体に大変な害を及ぼすかについても強調した。そして同様に、「自分たちに都合のいい半分だけを言う」ことはできない、と加えた。このミサでは、ローマの総代理のダニエル・グレッヒ師が共同司式をした。校長であるエンリコ・ダル・コヴォロ卿に率いられたラテラン大学の学生たちのグループ、ネオ・カテクメナルのキコ・アグエリョ、カルメン・エルナンデスとマリオ・ペッツィ、一致と自由のロベルト・フォントランとエミリア・グアルニエリが列席した。

 「あなたに何の関係があるのか?」と、パパ・フランシスコは、ペトロが他人の人生、「イエスが愛しておられた」弟子ヨハネの人生に首を突っ込んだところでイエスが彼に向けるこの問いを出発点にしてその説教を発展させた。強調して言った。「ペトロは」、主と「愛の対話をしたところでした」。けれど対話が「本筋から脱線してしまいました」。そして「他人の人生に首を突っ込む」という誘惑に苦しみもした。パパの観察によれば、「俗っぽく言えば、お節介に」ペトロはなった。フランシスコは他人の生活に首を突っ込む二つの仕方について考えを巡らせた。特に、「比較」、「他人と比べること」である。こうした比較がある時には、「苦い感覚(悲しみ)で終わり、また妬みに終ります。しかし妬みはキリスト者の共同体にカビを生えさせ」、共同体にとって「とてつもなく悪く」、「悪魔が好むものです」と言った。 この誘惑の二つ目の様式は、噂話である、と付け加えた。噂話は「実に行儀のいい仕方」で始まるが、後に「隣人の皮をはいで」終わる。

 「教会でどれほど噂話をするでしょう!わたしたちキリスト者は、どれほど不平不満を垂らすでしょう!噂話は、擦りむくことなんですよ、わかってますか?互いに害を及ぼし合うことです。他の人を小さくさせたがるようなものでしょう、違いますか?育む代わりに、他の人がけなされるようにして、自分は立派に感じる。それじゃだめですよ!噂話をして回るのは、一見いい気分なようです。なぜかよく分らないけれど、一見いいものに見える。蜂蜜の飴のようなものです。違いますか?一つ食べると、あぁ、おいしい。じゃぁもう一つ、もう一つ、もう一つと、そして仕舞いにはお腹が痛くなってしまう。ではなぜ?噂話というのは、はじめは甘いけれど、あとで自分をダメにします。自分の魂をダメにするのです!噂話は、教会において破壊的です。破壊的なんですよ……。少しカインの精神に似ているかもしれません。兄弟を(言葉)で殺害する。兄弟を殺害することなんですよ!」

 この歩みを続けると、「わたしたちは行儀のよい方法で、悪いくせを持ったキリスト者になります!」 けれど、どのように噂話は示されるのだろうか?ふつうは、「三つのことをします」とローマ司教は言った。

 「情報を不十分に伝えること。わたしたちに都合のいい半分だけを言って、他の半分はしゃべらない。残りの半分はわたしたちに不都合だから伝えないのです。笑っている人もいますね~。でも本当のことでしょう?違いますか?そういうの、見たことありますよね?そうやってまかり通る。二つ目は、中傷です。誰かが欠点をもっていたり、大失敗を犯してしまった時にこれを他の人に話すことです。『ニュースキャスター』になりきるのです……。そしてその人の名誉は崩れ去ります!三つ目は、悪口です。人のことで本当ではないことを言うことです。それこそ兄弟殺しです!この三つ、情報を不十分に伝えること、中傷、悪口、みんな罪です!それらはみんな罪なんですよ!これは皆さんの子供や兄弟姉妹という人格の中におられるイエスにびんたを張るのと同じです」。

 パパは理由を述べた。ここに、なぜイエスが、ペトロに対して「あなたに何のかかわりがあるか?お前は、わたしに従いなさい!」と言ったようにわたしたちにも同様にするのかの理由がある。本当に主はわたしたちに「道を示している」のである。

 「噂話はやっている本人にも良くありません。というのは、教会においてその破壊の精神にあなたを導くからです。『わたしに従いなさい!』という、このイエスの言葉は素敵ですね。それはわたしたちにとって、実に透明で、実に愛に満ちています。まるで『騙されてはいけませんよ。救いが他の人との比較や噂話にあると信じるようなことがあってはなりません。救いはわたしの後について行くことそのものなのですよ』と言っているかのようです。イエスに従うこと!今日、主イエスに他人の人生に決して首を突っ込まない恵み、行儀はいいけれど悪いくせのあるキリスト者にならない恵み、イエスに従う恵み、イエスの後を、その道を行く恵みを願いましょう。そしてこれで充分なのです!」

 説教の間、教皇は幼きイエスの聖テレジアの人生のエピソードをも思い出した。彼女はイエスに、なぜ彼はある人にはたくさん与え、他の人には少ししか与えなかったのかと自分の中で問いかけていた。そこでその姉が指抜きとコップを手にし、両方を水でいっぱいにして小テレジアに、どちらによりたくさん入っているかを尋ねた。将来の聖女は「二つともいっぱいだわ」と答えた。パパは言った。イエスは、「わたしたちとこういうことをするのです」。「あなたが偉大な人か小さい人かには興味がありません」。興味があるのは「あなたがイエスの愛で満たされているかどうかです」。
 (RC-RV)

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