2013年5月5日日曜日

5月4日、朝ミサ説教:世の憎しみからわたしたちを守るための武器はへりくだりとおとなしさ

朗読個所  : 使徒言行録16・1-10
           ヨハネ15・18-21

バチカン、5月4日10時45分(ACI/EWTNニュース)

 聖マルタの家の小聖堂で今朝捧げられたミサの説教において、教皇フランシスコは「この世の王子(=支配者)」である悪魔とは対話はできないと確言した。

 「この世の王子との対話は出来ないのですよ。このことをはっきりさせておいてください」と教皇は強調し、「対話というのは愛徳から、愛からもたらされるのです。けれどその王子とは対話は不可能です。わたしたちを守る、神の言葉をもって答えることのみできるのです」と指摘した。。

 「(悪魔は)イエスに対してしたように、わたしたちにもするでしょう」と教皇は示唆した。

 「『そら見ろ』というでしょう。『ほんのちょっとした脱税だよ。大したことない。何でもないことだ』と言ってくるのです。そして軽く外れた道へとわたしたちを導き始めるのです」と忠告した。

 フランシスコは悪魔の嘘というのは「方便、善意の嘘です。『これをやれよ、これをやれよ。これをやれってば。問題ないよ』と招き、そうやって少しずつ少しずつ始まっていくのです。いつもそうでしょう?」と指摘した。

 「みなさんはこう尋ねるでしょう。『神父さん、この世の王子(悪魔)が差し出してくるこうした誘惑、こうしたへつらい、こうした試みから身を守るための武器は何でしょう?』と。武器は、イエスの武器と同じ、つまり、神の言葉です。対話ではなくて、いつも神の言葉です。それに続いて、へりくだりとおとなしさです」。

 教皇は「イエスのことを考えましょう。その平手打ちを受けた時のことを。なんというへりくだりでしょうか!なんというおとなしさでしょうか!イエスはあの人々を中傷することができたはずではありませんか。違いますか?」

 「イエスについて、その受難について考えましょう。その預言者は言います。「屠り場に引かれていく子羊のように」。彼は泣きません。全然です。そしてへりくだりとおとなしさで通します。これがこの世の王子、この世の霊に耐えられない武器なのです。なぜならその提案は世俗的権力の提案であり、虚栄からの提案、悪い仕方で手に入った財産の提案だからです」。

 教皇は「今日、イエスがわたしたちに、このわたしたちに対して、イエスに従う人々に対して世が抱くこの憎しみについて思い出させます」。 なぜなら「彼がわたしたちを救い、わたしたちを贖ってくださったからなのですと強調した。

 教皇は「なぜなら羊は柔和で謙遜だからです」と、わたしたちが羊たちのように留まらなければならないと指摘した。

 その説教のクライマックスで、教皇はおとめマリアに「わたしたちが、イエスの方法でおとなしくなるのを支え、イエスの仕方で謙虚である」ようにと願った。



(バチカンラジオ、ポルトガル語のページの翻訳)

 世の憎しみからわたしたちを守るための武器はへりくだりとおとなしさである。これは、教皇フランシスコの、キリストの愛と世の支配者の憎しみの間での戦いについての説教の中心であった。「主は、驚かないようにと言っています。世は彼を憎んだように、わたしたちを憎むであろうからです」と教皇は思い起こさせた。

 「キリスト者の歩みは、イエスの歩みです。イエスに従うものでありたいならば、他の道はありません。しかし彼が示したこの道があるのです。この結果のひとつは、世の人からの憎しみ、またこの世の王子(支配者)からの憎しみです。世は自分のものを愛するはずです。「わたしがあなたがたを世から選び出した」というのは、まさに彼が世からわたしたちを救いだした、ということです。わたしたちを選び出された。ひたすら恵みによって!その死と復活によって、世の力、悪の力、この世の王子(支配者)の力からわたしたちを解放してくださいました。そして憎しみの源はこれです。わたしたちが救われている、このことにあります。そしてその王子(支配者)はわたしたちが救われていることを望みません。それを憎むのです」。そういうわけで、教会の最初期から憎しみと迫害があり、今日まで続いているのである。「世界には、迫害されているキリスト教共同体がたくさんあります」と教皇はつらそうに見解を述べた。「今日は、最初期よりも多いでしょう。今日、今、ここ数日、ここ数時間」。

 教皇はさらに問い続けて言った。「それはなぜでしょうか?世の霊というのは憎むものだからです」。そこから、いつでも実際的な警告がもたらされる。「この世の王子との対話は出来ないのですよ。このことをはっきりさせておいてください。今日、わたしたちの間では対話が欠かせません。平和のために必要なのです。対話というのは一種の習慣になっています。互いに理解し合うために、わたしたちの間でどうしてもなければならない態度なのです。そしていつも保たれなければならないものです。対話というのは愛徳から、愛からもたらされるのです。けれどその王子とは対話は不可能です。わたしたちを守る、神の言葉をもって答えることのみできるのです」。

 教皇フランシスコは続けて言った。「主は、わたしたちが羊たちであり続けるようにとわたしたちに望んでいます。なぜなら羊であることをやめるならば、『羊を守って、狼たちの手に落ちてくださる牧者』 はいないということになるからです」。
 (SP)

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