2014年3月25日火曜日

教皇の使徒的勧告『福音の喜び』第二章までの翻訳

 ぼちぼちマイペースで翻訳している、教皇フランシスコが11月末に刊行した『福音の喜び』ですが、ようやく2章の終わりまで翻訳しました。翻訳がスムーズでないところも多くて申し訳ありませんが、どきっとさせられる挑戦に満ちた教皇の勧告です。本物のキリスト者になりたい気分が高まります。挑戦が突きつけられています。
「挑戦というのは、乗り越えるためにあります。現実的でありましょう。けれど喜びと勇気、希望に満ちた献身を失わずに。わたしたちから宣教の力が奪われないようにしましょう!」(『福音の喜び』109:第二章の最後の項より)
 『福音の喜び』(個人的な西和訳の試み)のブログページへジャンプ!

2014年3月24日月曜日

3月21日(金)、朝ミサ説教:神の言葉の「所有者」にならないための謙遜と祈り

   心の中で神の言葉を「殺す」ことのないために、謙虚であること、祈ることを知っていることが必要である。これは、聖マルタの家の小聖堂で祝われた朝ミサの説教で福音のコメントをするにあたり今朝パパ・フランシスコが指摘した二つの態度である。

 もし一キリスト者として謙虚でなく、祈ることがないなら、神の言葉の所有者になり、自分の好みに従った答えを導き出すこともあり得ます。この罠を前に警戒網を張るために、パパは、イエスが語ったブドウ園の労働者の譬え話、最初にしもべたちを殺し、最後には相続財産を自分のものにしようという意図でブドウ園の主人の息子を殺す殺害者たちの譬えを語る、当日の福音に基づいてこの考えを繰り広げた。この譬えは、ファリサイ派の人たち、長老たち、祭司たちが聞いたものです。つまり、「かみのことばにたいして開かれた心を」持たないために「どこまで堕ちてしまったか」を理解させるためにイエスはこの言葉をこの人々に向けたのです。

「これはこうした人々のドラマですが、わたしたちのドラマでもあります!神の言葉を我が物顔で所有してしまったのです。そして神の言葉が彼らの言葉になり、自分の関心に従った言葉、自分の主義主張、自分の神学に従ったものになり、しかし自分に仕えるものになってしまったのです。そして一人一人自分の意志、自分独自の関心に従ってこれを解釈するのです。これが、この民のドラマなのです。そしてこのことを続けるために、人殺しをするのです。これがイエスに降りかかった出来事なのです」。

 「祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスの子の言葉を聞いた時自分たちについて語られていたことを理解しました。イエスをとらえて殺そうとしました」。これと同様に、「神の言葉は殺されます。捕えられます。聖霊が彼ら一人一人の願望という檻の中に綴じこまれているのです」。そしてこれはぴったりわたしたちに生じる出来事なのです。「わたしたちが神の言葉の新しさに開かれていない時に、わたしたちが神の言葉に従順ではない時に」。

「けれど、わたしたちに希望を与えるフレーズがあります。神の言葉はこうした人々の心の中で死んでいて、わたしたちの心の中でも死ぬことがあり得るのです。けれど、それでは終わらないのです。なぜなら、素朴な人々、貧しい人々、神の民の心の中に生きているからです。捕まえようとしたけれど、神の民の群集に恐れをなしたのです。なぜならイエスのことを預言者であるとみなしていたからです。この素朴な群衆は、イエスの言っていたことがその心に良いものをもたらし、心に温もりを与えていたためイエスの後をついて行っていた人々ですが、この人々はあやまつことがありませんでした。神の言葉を自分の関心のために用いることはなかったのです。もう少しいい人になろうと感じ、努めたのです」。

 その説教を結ぶにあたり、フランシスコは問いかけた。「ではわたしたちは、神の言葉を殺さないために何をすることができるでしょう?従順であるために、聖霊を檻に閉じ込めないために、どうすればいいのでしょう?」その答えは、「二つのシンプルなことです」。

「これが神の言葉を聞こうと望む人の態度です。まず第一に、謙虚さ。第二に、祈りです。この聖書の人々は祈っていませんでした。祈る必要性がなかったのです。自分のことを大丈夫だ、強い、「神のようだ」と感じていたのです。謙虚さと祈り。謙虚さと祈りをもってわたしたちは神の言葉を聞きこれに従うために前進していくのです。教会の中で。教会の中での謙虚さと祈りです。そうすれば、わたしたちに、この聖書の人々に起きたことは生じないでしょう。神の言葉を守り、これを殺すことはないでしょう。わたしたちが神の言葉だと信じていながら、わたしたちの都合でまったく変えられた言葉とはならないでしょう。

(María Fernanda Bernasconi – RV).

3月20日(木)、従業員たちに:仕事がなければ人間の尊厳は傷ついている。危機から脱却するための連帯と創造性を

 パパ・フランシスコは今朝、イタリアのテルニにある特殊木材工場の従業員や管理者たちを迎えた。その教区の司教と信者の一団が伴い、その工場の設立150周年を記念しての教皇訪問である。そこでパパは労働の優先的な価値と経済危機を前にしての創造性と連帯の必要性を繰り返した。

 「労働が社会にとって、また家族にとって、個々人にとって本質的な現実であること、その主要な価値は人の人格の善であることを再確認しなければなりません。というのもこれをそれぞれの態度や知的能力、創造的能力、手に職のある能力をもってあるべくして実現するからです。ここから労働には経済目的と利潤だけがあるのではなく、何よりもまずこれが人とその尊厳にかかわる目的があるということが派生するのです。そしてもし仕事がないなら、その尊厳は傷ついているのです!雇用のない人、あるいは不完全雇用すらない人は、実際、社会の辺境に疎外され、そのようにして社会疎外の犠牲者になってしまう危険性があります」。

 「ヨーロッパの実に多くの国々に影響するストライキの重大な問題を前に何を言うことができるでしょう?これはもはや仕事に場を作ることのできない経済システムの結果です。なぜならその中心に金銭と呼ばれる偶像を据えたからです。ですから、さまざまな、政治的主体、社会的主体、経済的主体は、尊厳に満ちた仕事に努める可能性をだれもが保証されるために正義と連帯に裏打ちされた、今とは異なる焦点を推進するように呼ばれているのです。仕事は、すべての人にとっての善であり、すべて人の手の届くところにあるべきです。この重症な困難と雇用不足の局面を創造性と連帯の道具でどうにかしなければならないのです。信頼と希望をもって未来に目を向ける従業員と勇気ある民芸品製作者の持つ創造性。そして、なにかを手放し、欠乏を体験している人々を助けるために、より目覚めた生き方を受け入れる社会のメンバー全員の間での連帯です」。

 「この大いなる挑戦は、全キリスト者共同体をむき出しにします…。最初の献身的約束は、いつでも信仰とイエス・キリストへの捧げの根を再燃させることにあります。信仰、これが一キリスト者の決断に関する指導原理です。信仰は山をも動かすのです!キリスト者の信仰は自分で抱えている兄弟愛を背負うことを通して社会を豊かにする能力があるのです…。決してよりよい未来を期待するのをやめないでください。悲観主義の渦巻きに囚われないようにしてください。もしそれぞれがふさわしいことを提供し、もしすべての人が中心に人間の人格をその尊厳とともに据えるなら、もし福音から着想を得た連帯と兄弟愛に満ちた分割を固めるならば、厳しく困難な経済的また労働的時代の憔悴状態から抜け出すことができるでしょう。

3月19日(水)、一般謁見:ヨセフ、マリアとともに、イエスのうちに実現された神のわざの協力者

 イエスの「教育者、聖ヨセフ」が3月19日のパパ・フランシスコの要理のテーマであった。水曜日の一般謁見において、ローマ司教は、仕事も教えながら、身体的また心理的な部分での健やかな発達に必要なものが不足しないようにとイエスのことを心配したヨセフとマリアの重要な務めを思い返した。
(RC-RV)

スペイン語でのパパの要理の要約とあいさつ

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 この要理でわたしは聖ヨセフについて、イエスの教育者としてのことを語りたいと思います。実際、イエスの「知恵と背丈と恵みにおける」 成長に寄り添う姿を聖書はわたしたちに告げます。この三つの局面がわたしたちの回想を導くことになります。最初に、ヨセフとマリアはイエスの身体的心理的な面での健やかな発達のために必要なものが不足しないようにと心配します。ヘロデに脅かされてなされた、厳しいエジプトへの逃亡の日々にイエスを守ります。イエスに仕事も教えます。その後大工の息子として知られるようになっているわけですから。二つ目に、ヨセフとマリアは、聖書を聞くことを教え、安息日ごとに会堂に連れて行きながら、イエスが知恵、神への聖なる畏怖において成長するように心を配ります。そのようにしてわたしたちは、イエスが12歳の時に、律法学者たちと神殿で議論している場面に出合います。最後に、恵みにおける成長ですが、神のわざではありながら、ヨセフとマリアに大いなる共同者としての姿を見ています。というのも、彼らはイエスにとってみ旨や聖霊の働きへの従順、祈りと神との一致の生活の模範だったからです。

 心からスペイン語圏の巡礼者の皆さんにあいさつします。特にスペイン、メキシコ、エクアドル、アルゼンチン、その他のラテンアメリカ諸国から来ているグループに。親たち、教育者たち、司祭たちのために聖ヨセフの取り次ぎを願いましょう。この聖なる父祖の模範によって、その子供たちや弟子たちの知恵と背丈、恵みにおける成長に寄り添うことができるように。どうもありがとう。

3月18日(火)、朝ミサ説教:四旬節は生き方を変えるのに役立つ。聖人の「衣装をかぶった」偽善者をやめよう

 四旬節は「生き方の調整をする」ための時、「主に近づくため」の時です。パパ・フランシスコは今朝聖マルタの家の小聖堂で祝われたミサの説教でこう強調した。教皇は「他の人々よりも自分の方がよい」と感じないようにと忠告をした。そして偽善者たちは「よい人の衣装をかぶって」、誰もが「義とされる必要性がある」のだから「誰も自分自身で義(ただ)しくあることはない」ということを理解しないのだ、と語った。

 「回心」という言葉でパパ・フランシスコはその説教を始め、これがイエスに「近づくため」の絶好の時である四旬節のキーワードであることを強調した。そしてイザヤ書からとられた第一朗読のコメントをしながら、ソドムとゴモラのような「二つの町」を回心へと主が招くさまを観察した。誰にでも「自分の生き方を変え」、いつも何かが見つかる場所である「わたしたちの魂をよく」見る「必要性がある」のは確かなのです。四旬節はまさにこのことです、つまり、主に近づきながら「生き方の調整をすること」です。なぜなら彼は、「わたしたちに近くにいてほしい」と望んでおり、「わたしたちのゆるしのためにわたしたちを待っている」ことを約束しているからです。しかしながら、主は「誠実に近づいてくること」を望んでいて、わたしたちが偽善者にならないように気を付けるよう招きます。

「偽善者は何をしますか?衣装で変身するのです、いい人の衣装をかぶるのです。模範的な人の顔付をし、天を仰いで祈り、人に見られ、他の人よりも自分の方がただしいと感じ、他の人々を軽視するのです。『でも、わたしはすごいカトリックなんですよ。なぜってわたしの叔父はたくさん献金してきたし、私の家族はこういう家族で、それでわたしはこういう風で…、こういうことを学んできて…、誰それ司教を知っているし、誰それ枢機卿、誰それ神父を知っているし…わたしは…」と。ほかの人たちよりも自分の方がよいと感じています。これを偽善と呼びます。主は「いいえ、は、いいえとしなさい(ダメはダメ)」 と言っています。誰も自分で正しくあることはありません。誰もが義とされる必要性があるのです。そしてわたしたちを義とする唯一の方はイエス・キリストです」。

 こういうわけで、「この見せかけが通り過ぎると、本当の姿が見える、つまり、キリスト者ではないことがわかってしまうような、衣装をかぶったキリスト者にならないために」主に近づかなければならないのです。偽善者にならずに主に近づくためにどうすればよいかという問いを前に、フランシスコはその答えは第一朗読で主自身がわたしたちに与えてくださっていると語った。「身を洗いなさい、清めなさい、その行いの悪いところを私の目の届くところから遠ざけなさい、悪を行うことをやめなさい、良いことを行うことを学びなさい」。これが招きです。そしてわたしたちがよい道を進んでいることを示すしるしはどのようなものかを問うにあたり、パパはこう語った。

「『抑圧されている人を救い、孤児に義を行い、やもめの件を擁護しなさい』。隣人や病人、貧者、欠乏にある人、無知な人のために時間を割きなさい。これが試金石なのです。偽善者はこれをするすべを知りません。できないのです。なぜならあまりに自分のことでいっぱいで、他の人々に目を向けるには盲目になっているからです。少し歩き始めて主に近づけば、主の光がこうした物事をみえるようにし、兄弟たちを助けに行けるようにしてくれるものです。これがしるしです。これが回心のしるしなのです」。パパはたしかに「すべてのことが回心であるわけではない」と見解を述べた。それは、実際、「イエス・キリストとの出会い」なのですが、「わたしたちがイエス・キリストと共にいることのしるしはこれなのです」。マタイ福音書の25節で読まれるように「兄弟や、貧しい人々、病気の人々を、主が教えてくださったように世話することなのです」 。

「四旬節は、主に近づくために生き方の調節をするため、生き方に秩序を与えるため、生き方を変えるための時です。主から離れていることのしるしは、偽善にあります。偽善者は主を必要とせず、自分で自分を救い、そうして、聖人の衣装を身に着けていると考えるのです。わたしたちが主に近づいていることのしるしは、償いをもって、ゆるしを願いながらなされるもので、わたしたちの欠乏にある兄弟たちの世話をすることにあります。主がわたしたちに光と勇気のすべてをくださいますように。わたしたちの中に生じていることを知るための光と、回心して主に近づく勇気を。主の近くにいることは素晴らしいことです!」

(María Fernanda Bernasconi – RV).

3月23日(日)、お告げの祈り:四旬節は自分の内側を見つめ、より本物の霊的望みが生じるようにする絶好の時で、祈りにおいて主にこれを求めるとき


 再び雨模様の主日に、フランシスコは何千もの信者たちや巡礼者たちとともに、サンピエトロ広場でお告げの祈りを祈った。イエスとサマリアの女性との出会いについて言及する福音箇所に触れた。イエスはサマリアの女性に水を飲ませてくれるようにと求める。こうして「敵意の壁を乗り越えます…そして女性たちを前にした偏見の枠組みを壊すのです」。「イエスのその渇きは、水に対する渇きと言うよりは、渇いた魂のことです。イエスはサマリアの女性に水を飲ませてほしいと頼むのですが、そうすることで、彼女自身の中にあった渇きを目に見える形にするためだったのです」。

 お告げの祈りの後、パパは肺結核に襲われて苦しむすべての人々、そしてさまざまな仕方で彼らを支える人々のために祈るように招いた。そして今度の金曜日と土曜日に、多くの教区と世界の小教区で行われる回心の儀式に参加するようにと勧告した。「これはゆるしの祭典になることでしょう」と。
 (MZ, jGO- RV)


パパの言葉


あいする兄弟姉妹の皆さん、おはよう! 

 今日の福音はシカルで、サマリアの女性が毎日水を汲むために通っていた古い井戸のそばで起きた、この女性とイエスとの出会いを紹介しています。あの日、「旅に疲れて」座っていたイエスと出会います(ヨハネ4章6節)。このようにしてユダヤ人とサマリア人の間にあった敵意の壁を乗り越え、女性たちを前にした偏見の枠組みを壊します。イエスの単純なお願いが、誠実な対話の始まりです。この対話を通して、イエスは、とてもデリケートに、人の内側にある世界に入っていきます。その人というのは、社会の枠組みによれば、言葉を向けられることすらままならない存在でした。けれどイエスはこれを成すのです、いいですか?イエスには恐れはありません。イエスは人を見ると、前に進みます、なぜならその人を愛するからです。わたしたち全員のことをイエスは愛していますから、決して偏見で人の前を無視して通り過ぎることはないのです。イエスはサマリアの女性を自分の現実の前に立たせ、彼女を裁くのではなく彼女が配慮されている、認められている、と感じさせるようにし、そのようにして彼女の中に日々の惰性を超えていく望みを目覚めさせるのです。

 あのイエスの渇きは、水に対する渇きというよりも、渇いた魂に出会うことに対する渇きでした。イエスはその心を開くためにサマリアの女性に出会う必要性を感じていたのです。彼女に水を飲ませてくれるようにと頼み、そうして彼女自身のうちにあった渇きの証拠を見せるのでした。女性はこの出会いで心の琴線に触れられた感じを抱きます。イエスにあの深い、誰もが内側に持っているけれど多くの場合気づかずにいる問いを向けるのです。

 愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしたちにもたくさん訊きたいことがありますが、なかなかそれをイエスに投げかける勇気が見つからないのです!四旬節は自分の内側を見つめ、より本物の霊的望みが生じるようにする絶好の時、祈りにおいて主にこのための助けを求めるときなのです。サマリアの女性の例は、次のように表明するようにとわたしたちを招いています。「イエスさま、その水をわたしにください、そうすればもう渇きをおぼえないでしょう」。

 福音は弟子たちが、自分たちの先生がその女性と話していたことに驚いたと言っています。けれど主はさまざまな偏見よりも偉大ですので、サマリアの女性といるために留まることを恐れません。憐みは偏見よりも偉大です。このことを私たちは良く学ばなければなりません。いいですか?憐みは偏見よりも偉大で、イエスは実にあわれみ深い方です、本当にとても。あの井戸端での出会いの結果、女性は変えられました。「ツボを置きっぱなしにして」(28節)、町に走っていき、自分のした尋常ではない体験を語ります。「わたしは自分がしてきたことをすべて語った男性に出会いました。きっと、メシアです」と。やる気満々でした。井戸の水を探しに行ったら、別の水、永遠のいのちにまで跳ね上がる憐みの生きた水に出会ったのです。いつも探していた水に出会えたのです!村に走っていき、彼女を裁き、彼女を拒んできたあの村に走っていき、メシアに出会ったことを告げるのです。そのメシアが自分の生き方を変えてくれたのだ、と。なぜならイエスとのどの出会いも、わたしたちの生き方を変え、いつも一歩先に行き、もう一歩神の方に近づくようにしてくれるからです。そのようにして、どのイエスとの出会いもわたしたちの生き方を変えるものです。いつでもです、いいですか?いつもそうなのです!

 この福音で、「わたしたちのツボを置いていく」ほどの評価をも見出します。そのツボは表面的に重要だけれど、「神の愛」を前にするとその価値も褪せるもののシンボルです。だれもがこれを一つ持っています。誰もが一つかそれ以上持っていますよ、いいですか?わたしは皆さんに尋ね、自分にも問いかけます。「君の内なるツボはどれですか?あなたにのしかかり神からあなたを引き離すあのツボはどれですか?」と。すこしこれを話しておくと、心をもってわたしたちに別の水、わたしたちを主に近づかせる別の水をわたしたちに差し出してくれます。

 わたしたちは、洗礼によってはじめられ、サマリアの女性のようにイエスと出会うことの喜びを兄弟たちに証しするべきキリスト者のわたしたちの生活の重要性と意義を再発見するように呼ばれています。出会いの喜びを証しすることです。

 どのイエスとの出会いもわたしたちの生き方を変えます。またどのイエスとの出会いもわたしたちを喜びで満たします。わたしたちにやってくるあの内なる喜びです。そうして主はこうした素晴らしいことをしてくれるのです。主はわたしたちの心の中で働くことを知りません。主には、わたしたちに勇気があり、わたしたちのツボを脇にやるとき、わたしたちの心の中で働くことができます。


お告げの祈りの後で

愛する兄弟姉妹の皆さん、


 明日は世界肺結核の日を祝います。この病気で苦しんでいるすべての人々と、彼らをさまざまな仕方で支えている人々のために祈りましょう。

 次の金曜日と土曜日は、償いの特別な時間を持ちます。「種のための24時間」と呼ばれるものです。サン・ピエトロ大聖堂で午後に祭儀をもってはじめられ、ローマのいくつかの教会は夜の間開かれていて、祈ったりゆるしの秘跡を受けたりすることができます。これはゆるしの祭典になるでしょう。このイベントは世界中の多くの教区や小教区でも行われることになっています。

では、皆さんに心からあいさつします。ローマの信徒の皆さん、多くの国々からの巡礼者の皆さん、特にクロアチアのザグレブとザバラの皆さん、ドイツのボッホルトの皆さん、日本の瀬戸市カピタニオ高校の皆さん、イリノイ州の学生の皆さん、スペインのフェロルの学生の皆さん。


 アルタムーラ、マテラ、トレヴィリオ、フロレンシア、サレルノ、ベネチア、サンタ・セヴェリーナ、ヴェルデリーノの信徒グループの皆さんにあいさつします。チェンブラとラヴィスの子どもたちに、コンヴェルサーノの子どもたちに、ペスカーラのヴァレマーレの子どもたちに、聖ペトロ城のスカウトの皆さんに、カリアーリトジョイア・タウロの学生たちに、ミラノの14歳の子どもたちのグループにあいさつします。

 最後にボランティアのためのサービス・センターに、マサテのACLIサークルに、ナポリのムリアルド家協会に、オルヴィエトの市警察にあいさつします。

 皆さん全員に、良い主日がありますように。おいしいお昼を楽しんでください。また会いましょう!
(MZ, jGO- RV)

2014年3月23日日曜日

3月16日(日)、お告げの祈り:神と出会うために山に上り」、より欠乏にある人に向かって温もりをもって「下りていく」こと


 主日のマリアに基づく出会いの場で、「イエスの弟子たちであるわたしたちは、神の声を聞き、その言葉を真剣に受け止める人物であるように呼ばれている」ことを思い返させながら、パパ・フランシスコはこの四旬節台に主日の福音の二つの要素、「上り」と「下り」を取り上げた。変容とこの出来事が行われた場所について回想しながら、「山は神との近さの場所であり、神との緊密な出会いの場、祈りの場、主の現存の前にいる場所を代表している」ことを強調した。

 「けれどわたしたちはそこに留まってはいられないのです!」ローマ司教は強調した。祈りにおける神との出会いはわたしたちを新たに「山から下りていく」ようにと促し、もう一度、飢えや不正、物質的・霊的貧困に見舞われている多くの兄弟たちとの出会いの場である下の方、平地に返すようにと促すことにくぎを刺した。こうした困難にある私たちの兄弟たちに対して、わたしたちは神と体験した体験の実りを分かち合い、彼らと受けた恵みの宝物を分かち合うようにと呼ばれているのである。そしてわたしたち自身が慰められたのだから、彼らを慰めるのである。

 この使命は善教会に関わることであり、まず第一に司牧者たち、つまり四教団と司祭団の責任である、と教皇は繰り返し、彼らをわたちたちの母マリアにゆだね、四旬節の道のりを信仰と寛大さをもって続け、さらにもう少し多く祈りにおける「上り」と兄弟愛における「下り」について学べるように招いた。
(CdM - RV).

3月22日(土)、コラール協会に対して:真理、善意、美の道を続けてください。

 パパ・フランシスコは、土曜日の午前中にクレメンティーナ・ホールで、コラール協会のメンバー約400名を迎えた。彼らはラジオ・テレビ情報エージェンシーやラジオ・テレビの広告利権といった、アナログ・デジタルの地方ラジオ・テレビ事業やインターネット事業の代表者である。教皇はコミュニケーション・メディアの仕事の価値を強調し、彼らにその使命をよく果たすための三つの道を提案した。また、教会における司祭職中心主義のテーマも取り上げた。

コラール協会へのパパの言葉

 おっしゃってくださったことにとても感謝します。そして皆さんがしている仕事に感謝します。あの真理。メディアをもって真理を探し求めること。けれど真理だけではないですよ、いいですか?真理と、善意そして美、三つ一緒です。皆さんの仕事はこの三つも道を発展させなければならないのです。真理の道、善意の道、美の道です。けれど、あの真善美は、中身のある真善美ですよ、いいですか?中からくるものです。人間らしいものです。そして、真理の道において、三つのどの道においても、失敗に出会ったり、罠にすら出会ったりすることもあり得るのです。「でも、わたしは真理を探し求めているのです…」という人はしかしよく注意していてくださいね、いいですか?知能の働かないインテリにはならないでください。「でも、わたしはこうやっています、善を求めているのです…」という人はしかしよく注意してください。善意のない倫理の熱狂主義者にはならないでください。「わたしは美が好きです」という人は、いいですね、けれど注意してください。多くの人がやっているそういうやり方を踏襲しないでください。つまり、美を化粧で作り上げ、存在しない人工的な美を作る化粧品を探すような美の探究ではないように。神様から来るものとして、そして人の中にあるものとしての真、善、美です。そしてこれこそがメディアの仕事、皆さんの仕事なのです。あなたは二つのことについて語りました。わたしはそれをもう一度取り上げたいと思います。なによりもまず、皆さんの仕事のハーモニーに満ちた一致です。けれど、大きな放送局もあれば、小さい放送局もあります。けれどもしコリント人への聖パウロの手紙の12章を読むなら、教会には大きいも小さいもないということを見ることになります。それぞれがそれぞれの機能を持ち、他のものにそれぞれなりの助けをしています。手は頭がなければ存在できず…と、わたしたちは全員メンバーで、皆さんのメディアも、より大きい過労がより小さかろうが、すべてメンバーで、教会における奉仕の召命にハーモニーを与えているのです。誰も小さく感じてはなりません。ほかのより大きなものに比べてとても小さいなどと感じてはならないのです。神の前では、キリスト者の謙遜において、誰もが小さいのです。けれど、誰もがそれなりの機能を持っているのです。全員、全員です!教会におけるのと同様です。わたしにはこのような問いができるでしょう。教会で一番重要なのは誰でしょう?と。教皇でしょうか、それとも教会のために毎日ロザリオの祈りを唱えているあのおばあちゃんでしょうか?そういうことは神様が答えればいいのです。わたしにはいうことができません。一人一人の大切さは、この調和にあります。なぜなら教会はさまざまなものが織りなすハーモニーだからです。キリストの体はこのさまざまなものが織りなすハーモニーなのです。そしてこのハーモニーを作るのは誰かと言うと、それは聖霊です。それがどんなものよりも重要なことです。このことと、あなたがおっしゃったもう一つのことです。わたしはこれを強調したいと思います。これは重要です。一致を探し求めることと、大きい魚が小さい魚を食べるという論理(弱肉強食の論理)に従わないことです。

 あなたはもう一つのことを言いました。それはわたしが使徒的勧告『福音の喜び』でも言及していることです。
 わたしは聖職者主義について語ってきました。これは、悪の一つです。教会にある悪の一つなのです。けれど共犯の悪です、いいですか?なぜなら、司祭は信徒を聖職者主義に染める誘惑にかられるのが好きだからです。けれど、多くの信徒たちが、跪いて、聖職者主義を求めているのですよ、なぜならその方が楽だからです。そっちの方が居心地がいいんですよ、でしょう?そしてこれはどちらの手も染めた罪なんですよ、いいですね!そしてこの誘惑にわたしたちはうち勝たなければならないのです。信徒は信徒、洗礼を受けた者でなければなりません。その洗礼からくる力を持っているのです。奉仕者です。けれどその信徒としての召命をもって、です。そしてそれは売られることなく、取引されることなく、他の人と共犯になることもないものです。なぜなら・・・いいえ!わたしはこういうものなのです!なぜならそこにアイデンティティがあるからです。

 何度もこのことを聞いてきました。いいですか?わたしの地元で。「でもわたしは、自分の小教区で、知ってますか?とってもいい信者がいるんですよ。この人はまとめるのがうまくて…司教様、どうでしょう、この人を助祭にしたら?」そうやって神父の提案というのはすぐにこうです。聖職者主義にはめることです。この信者に…なってもらいましょう。でもなぜですか?なぜ助祭や神父は、信徒よりも重要なんですか?違いますよ!それは間違いです!あぁ、その人はよい信徒ですか?そのことを続ければいいんです。そしてそのように育っていってください。なぜならそこにキリスト者の属性のアイデンティティがあるからです。わたしにとって、聖職者主義は、信徒の成長を妨げます。けれど私が行ったことをしっかりと肝に銘じていなさい、いいですか?これは両方の共犯の誘惑なのです、いいですか?なぜなら聖職者主義にされることを望む信徒が存在しなければ、聖職者主義はあり得ないからです。これ、はっきり分かりますか?こういうわけで、皆さんには今していることに感謝するのです。ハーモニー。これも別のハーモニーです。なぜなら信徒の機能は司祭にはできないことで、聖霊は自由だからです。時々あることをするように神父にインスピレーションを与えることもありますが、別に信徒にインスピレーションを与えることもあるのです。

 司牧委員会で語られることがあります。司牧委員会は本当に大切なものです。小教区は、そしてこの中で教会法を引用しますが、司牧委員会と財政委員会を持っていない教会は、良い教会ではありません。命が足りないのです。それから、多くの徳があります。最初に指摘したことです。善意の道を行くこと、真理の道、美の道を行くことです。そしてこれらの道には実に多くの徳があります。けれどメディアの罪もあります。いいですか?わたしがこのことについて少し語ってもいいでしょう?わたしにとって、コミュニケーションのメディアの罪は、特により大きなメディアの罪は、嘘と欺瞞の道を行くことにあります。そして三つあります。情報を流さないこと、誹謗中傷、名誉棄損です。この最後の二つは重症です。いいですか?けれど最初のものほど危険ではありません。なぜでしょう?皆さんに説明します。誹謗中傷は死に至る大罪ですが、はっきりさせ、それが誹謗中傷であったことを知らせるに至ることができます。名誉棄損は死に至る大罪ですが、「しかしこれは不正だ、なぜならこの人はあのときに、こういうことをしたが、そのあとで悔い改めて、生き方を変えたからだ」と告げるに至ることができるからです。けれど情報を流さないこととは、つまり、物事の半分だけを伝えること、自分にとって都合のいいところだけを伝えて残りの半分を伝えないことなのです。そのようなものです。テレビで目に入るものや、ラジオで耳にすることに完璧な判断を与えることはできません。なぜなら要素がなく、それを与えてもいないからです。この三つの罪から、お願いですから、逃げなさい。情報を流さないこと、誹謗中傷、名誉棄損からです。

 皆さんがしていることに感謝します。それからサンチリコ枢機卿には、皆さんにわたしが書いた演説を渡すように言っておきました。けれど枢機卿の言葉を聞いていたら、このことを自然と言った方がいいというインスピレーションが来たので、皆さんには心からの言葉遣いで話しました。皆さん、本当にありがとう。では、皆さん、アヴェマリアの祈りをマリア様に向けて祈りましょう。それから祝福をします。アヴェマリア…

 (RV-CM/MZ)

3月22日(土)、マフィアの人々への言葉:回心してください。地獄に終わらないようにするためにはまだ間に合うから。

 「マフィアの犠牲者のための徹夜の祈り」における教皇の回想

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 ローマのこの遅い時間帯に、ラテンアメリカで今夜と明日体験されることになっている「記憶と献身の日」とその前夜の徹夜の祈りを前に、皆さんと会う機会を与えてくれて、どうもありがとう。ルイジ・チオッティ師とその共同者たち、それからこの小教区のフランシスコ会の司祭たちにも感謝します。ラテンの司教、ここにおられるクロチアータ卿にもあいさつします。ありがとうございます。

 私が望んでいることは、皆さんと一つの希望を分かち合うことです。それは次のようなものです。ゆっくりと、責任の意味が世界のあらゆるところにはびこっている汚職を乗り越えられるように、ということです。そしてこれは内側から、良心や意識から出なければならず、そこから改めて癒し、振る舞い方や人間関係、選択、社会ネットワークを改めて癒し、そのようにして正義が居場所を得、育ち、根を生やし、悪にとってかわらなければなりません。

 わたしは皆さんがこの希望を強く感じていることを知っています。そしてその希望を皆さんと分かち合い、今夜も明日も、ラテンにおいても、物理的には行くことができなくても皆さんの近くにいること、そして粘り強さと持続性が求められる子の歩みにおいて皆さんと共にいることを皆さんに伝えたいと強く望んでいます。

 特に、皆さんの中で愛する人を失った方々、マフィアの暴力の犠牲者の皆さんにわたしの連帯を表明したいと思います。皆さんの証しに感謝します。なぜなら皆さんは閉じこもらず、開き、出てきて、その痛みの話と希望の話をしてくださったからです。これはとても大切なことです。特に青年たちにとって!

 わたしは皆さんとともに祈りたいと思います。そしてこれを心から行います。マフィアの犠牲者すべてのために。また、つい数日前、他欄との近くで、子どもにすら慈悲のなかった犯罪が遂行されました。けれど同時にみなさん、共に、前進していく力、諦めずに汚職に対して戦い続ける力を求めるために祈りましょう。

 そしてわたしは、今日ここに顔を出していない重要な人物たちに一言言わずにこれを終えるわけにはいかないと感じています。不在の主人公の人々です。マフィアの男性たち、女性たちです。お願いですから、生き方を変えてください。回心してください。悪を行うのをやめてください。そしてわたしたちは皆さんのために祈ります。回心してください。跪いて願います。それは皆さんの善のためなのです。今生きているこの生き方は、皆さんに快楽を与えないでしょう。喜びを皆さんに与えないでしょう。幸福を皆さんに与えないでしょう。汚い商売の数々、マフィアの犯罪の数々で今手にしている権力、金銭は、血に染まったかね、血に染まった権力ですが、来るべき命にこれを持っていくことはできないのです。

 回心してください。地獄に終わらないようにするためにはまだ間に合います。地獄こそがもしみなさんがこの歩みを続けるなら待っているものです。皆さんは父や母を持っていたのです。彼らのことを考えてください。少し涙を流し、回心してください。

 わたしたちを助けてくれるように私たちの聖母マリアにともに祈りましょう。アヴェマリア…
 

(traducción del italiano: RC - RV)

3月20日(木)、朝ミサ説教:あなたは、誰に信頼していますか?

 
 自分や自分の財産、自分の主義主張に信頼を置く人には不幸が定められています。主に信頼する人は一方、乾季であっても実りをもたらします。セマルタの家でのミサで、木曜日の朝にパパ・フランシスコが語った言葉である。

 「人に信頼し肉体に支えを求めながら、その心が主から離れている人は、呪われている!」 「自分自身を信頼する人」は「ステップ気候の地方にある小灌木の茂み」のようになりる。荒れた中で実りもなくなり死んでしまう。パパは、この日の第一朗読が定義している言葉に始めた。一方で、「主に信頼する人は祝福されている!」「その人は水辺に植えられた気がその根を流れに向けて伸ばし、暑さが訪れても恐れず、その葉はいつも生い茂る。乾きの年にも揺るがず実りをもたらさなくなることはない」。「主においてのみ、わたしたちの信頼というのは確かなものになります。ほかの信頼は役に立ちません。わたしたちを救うことがないのです。わたしたちに命を与えないのです。わたしたちに喜びを与えないのです」。そしてもしそれを知っていながら、「わたしたちが自分たちに信頼すること、知り合いの友人に信頼すること、恵まれているよい環境や自分の主義主張に信頼することを好む」のなら、「主はすこし脇に追いやられています」。人はこのように、「展望もなく、開かれた扉もなく、窓もなく」自分自身に閉じこもります。そして「救いはありません。自分では自分を救うことができないからです」。そしてこれが福音書の金持ちに生じることなのです。「すべてのものを持っていて、紫の衣を着て、毎日素晴らしい宴会をして食べていた」あの金持ちです。「あんなにも幸せ」でしたが「自分の家の扉の所に傷だらけの」貧しい人が横たわっていた「ことに気づかなかったのです」。教皇は、福音書が貧しい人の名前を口にすることを強調した。その名前はラザロであった。いっぽうで、金持ちの方には「名前がない」のである。

 「そしてこれが自分自身や人の力や可能性には信頼するけれど神には信頼しない人の一番激しい呪いです。名前を失うことです。あなたの名前はなんですか?数値や銀行の名前が挙がるでしょう。あなたは何と呼ばれているのですか?多くの財産や家、多くのもの…あなたは何と呼ばれているのですか?持っているもの、さまざまな偶像。そしてあなたはそうしたものに信頼を置いている。こういう人は呪われています」。

 「だれもがこうした弱み、脆さを持っています。自分の希望を自分自身、あるいは友達、あるいは人間的な可能性だけにおいて神のことを忘れてしまうという弱さです。そしてこれはある道にわたしたちを導くのです…不幸の道です」。

「今日、この四旬節の日に、「わたしの信頼はどこに置かれているのだろう?主だろうか、それともわたしは自分で作り上げてきたものや偶像に信頼を置く異教徒だろうか?わたしにはまだ名前があるだろうか?それとも名前を失い始め、自分のことを「わたし・俺、わたしに、わたしと、わたしのために、わたしだけ」としか呼ばなくなっていないだろうか」と自問することは益になります。自分のため、自分のため…いつもこうした利己主義、「自分」があります。これはわたしたちに救いをもたらすことはありません」。

 けれど「最終的には」あの自分自身に信頼して「名前を失ってしまった」人々に「救いの扉があります」。

「最後の最後の、一番最後にいつも一つの可能性があります。そしてこの人は、名前を失ってしまったことに気づいた時、すべて、あらゆるものを失ってしまった時、目を上げ、たった一言口にするのです。『お父さん』。そして神の答えは一言、『わが子よ!』 もしわたしたちのうちだれかが人生の中で、人や自分自身だけに信頼して、名前を失い、尊厳を失ったなら、この言葉を言う可能性だけが残るのです。それは不思議で、より素晴らしく、より強いものです。『お父さん』。神様はわたしたちに見える扉を開こうと待っており、わたしたちにこういうのです。『わが子よ』と。わたしたち全員に主のみに信頼し、物事や人の力ではなくただ彼にのみ信頼する知恵をくださる恵みを主に願い求めましょう。

(RC-RV)


3月17日(月)、朝ミサ説教:人のことを裁くなんて、わたしは何者だろう?



憐れみに出会うためにゆるすこと。これがわたしたちの心と世界に平和をもたらす道です。これが月曜日に聖マルタの家でささげられたミサの間に教皇が語った説教のまとめである。


 「あなたたちの父があわれみ深いように、あなたたちもあわれみ深い人になりなさい」パパはイエスの勧めについてコメントしながら、すぐに「このあわれみの態度を理解するのは簡単ではありません」と告げた。なぜなら我々は裁くことに慣れているからである。「わたしたちはふつう理解とそれからあわれみにすこしスペースを空けるゆな人ではないのです」。「あわれみ深い人であるためには、二つの態度が必要です。一つは自分自身に関する理解です」。つまり「自分にはよくないものがたくさんある、自分たちは罪びとである」ということを知ることです。そして悔い改めを前に、「神の義があります…それはあわれみとゆるしに形を変える義です。けれども罪そのものに対して恥を感じる必要があります。

「ここにいる誰も人を殺したことはありません。それは確かですが、小さなことがたくさんあります。日々の罪、毎日の罪がたくさんあるのです。…そして『なんてこったい。なんて狭量なんだろう。主に反することをしてしまった!』と。 これが恥を感じるということなのです!神と前に恥を感じること、そしてこの恥じらいは恵みなのです。罪びとであるということにある恵みです。『わたしは罪びとで、あなたの前で恥を感じ、あなたにゆるしを乞います』。単純なことですが、『わたしは罪を犯しました』と口にするのは本当に大変なのです。

 しばしば、アダムやエバのように他の人に自分の罪をなすり付けて自己正当化することがあります。「おそらく、他の人が自分を促した、こうするようにと道を整えたかもしれませんが、行ったのは自分なのです!もしわたしたちがこうするなら、どれほど多くの善を行うことでしょう、自分が謙虚だからということで!」そして「この悔い改めの態度をもってわたしたちはよりあわれみ深くなる余裕を持ちます。なぜなら自分自身の上にある神の憐みを感じるからです」。主の祈りの時に言うように、「ゆるしてください。わたしたちがゆるしましたから」と。そのようにして、「もしわたしがゆるさないなら、わたしは少し蚊帳の外にいることになるのです!」

 あわれみ深い人であるためのもう一つの態度は、「心を大きくすることです」。なぜなら「小さい心」や「利己主義は憐みに開かれていないからです。

「心を大きくすること!『でもわたしは罪びとです』。『見て、この人こんなことしている、あの人あんなことしている…でもわたしもたくさん似たようなことをしてきた!人のことを裁くなんてわたしは何者だろう?』。この『人のことを裁くなんてわたしは何者だろう?』というフレーズです。『この人のことを悪く言うなんてわたしは何者だろう?こうしたこをするなんてわたしは何者だろう?同じこと、あるいはもっとひどいことをしたのにわたしは何者だろう?』 大きな心を!そして主はその人に言います。『裁くな、そうすればあなた方も裁かれることはない!人を断罪するな、そうすればあなたがたも断罪されることはない!ゆるせ、そうすればあなたがたもゆるされる!与えよ、そうすればあなたがたにも与えられる!この心の広さを!では、どのようなものが与えられるのでしょう?よいはかりではかられ、牛ぎゅうづめに、ゆすぶってさらにスペースを作って溢れるほど、ふところいっぱいに与えられるものです。これが前掛けをして麦を拾いに行った人がもっともっと多くの麦をいただくために前掛けを引っ張る人々のイメージです。もし大きな心があれば、より多く受けることができるのです」。

 大きな心は「人を断罪するのではなくゆるし、忘れます」なぜなら「神がわたしの罪を忘れてくださったからです。神はわたしの様々な罪を許してくださったのです。心を大きくすること。これは素晴らしいことです。あわれみ深い人になりなさい」。

「あわれみ深い男女には大きな、大きな心があります。いつも他の人々をゆるし、罪に関しては自分の罪だけを考えます。『この人がどんなことをしたか見た?』 と言われて『あの人に対してわたしは十分してきたことがあるから、干渉しません』 と答える。これが求めなければならない憐みの道です。もしわたしたちすべてが、すべての国々が、すべての人々が、すべての家族が、すべての隣近所が、この態度をしていたら、世界にどれほどの平和があることでしょう!わたしたちのこころにどれほどのへいわがあることでしょう!なぜならあわれみはわたしたちを平和に導くからです。いつも思い返しなさい。「人のことを裁くなんてわたしは何者だろう?」と。自らに恥じ、心を大きくすることです。主がこの恵みをくださいますように」。
(RC - RV)

2014年3月13日木曜日

教皇、韓国訪問中に殉教者の列福式を予定



 パパ・フランシスコの三つめの使徒的訪問は、今度の8月14日から18日、大韓民国へのものとなる。この訪問の日程は月曜日、ローマ聖庁の報道事務局によって公式発表されたものである。明記されるべく、これはデジョン教区で繰り広げられる第六回アジア・ユース・デーを機に行われるものである。しかし、ローマ聖庁法同事務局長のフェデリコ・ロンバルディ神父が詳らかにしたものによれば、パパはそこで、韓国の殉教者の一グループの列福式を司式することにもなっている。

「(教皇としてわたしは)アジアに行かなければならないのです。なぜならパパ・ベネディクトにはアジアに旅行する時間がなく、このことは大切なことなのです」 。昨年の7月28日、ブラジルでのワールド・ユース・デーが終わったばかりで飛行機に乗っている間に記者団と愛情たっぷりの会話をしながらアメリカ大陸を後にし、ヨーロッパへと帰還していたその時、すでにパパ・フランシスコのまなざしはさらに遠く、東方に向けられていたのである。報道陣を前にしたその言葉には、自らを中心から外れたあらゆる場所を中心するよう考慮することを習慣としている牧者としての個人的な促しもあるが、そこにはある「展望」の力もある。つまり、15年前に、大聖年を間近に控えたあの年、ヨハネ・パウロ二世がはっきりとその使徒的勧告『アジアにおける教会』において宣言していたことである。「まさに十字架が最初の千年紀にヨーロッパの地に根を下ろし、第二の千年紀にアメリカとアフリカの地に根を下ろしたように、第三の千年紀にはこの広大で活力にあふれた大陸において信仰の豊かな実りが得られる」ことが期待できる(1)、と。フランシスコは15年たって、心に、先日1月13日にローマ聖庁を訪れた外交団に対する謁見で表現された、はっきりとした望みを抱きつつ、ヨハネ・パウロ二世の足跡を追うように準備しているのである。

「大韓民国との外交関係50周年を記念し、全高麗の民の全のために、関心のある政党が意見の一致と可能性のある解決のポイントを探すのをやめないようにすることを後ろ盾にし、朝鮮半島における和解の賜物をわたしは神に求めます。アジアは、事実、そのさまざまな市民的、民族的、宗教的構成要素の間での平和裏な共生の長い歴史があるのです」。

 そのようなわけで、50年来の冷戦のさなかを生きている地に平和のメッセージをもたらし、アジア版のワールド・ユース・デーとの一種とも捉えられうるあのイベントの主人公である青年たちを抱擁するための旅行となる。しかしパパの心の中には、何よりも地元の小さな教会や、年代記が、布教国の教会ならどこにでもあるような生き、物事を始めるきっかけとなることを示している少数派が、自らの血をもって払われつつ基礎を据えられた巨大な後ろ盾を支えにできるようにという目標があり、これからもあるであろう。この特別な認識は、まさにローマ司教から、訪問の歩みを続ける中で運ばれることになり、こうして1791年から1888年の間に侵攻に対する憎しみのために殺された神の僕、パウロ・ユン・ジチュン信徒と123人の同志殉教者のためにささげられた祭壇を立てることになる。



(RC-RV)

(1) 使徒的勧告『アジアにおける教会』1項。教皇ヨハネ・パウロ二世「アジア司教協議会連盟(FABC)第六回総会でのあいさつ(マニラ、1995年1月15日」11項(Insegnamenti XVIII, 1 [1995]159)。

2014年3月11日火曜日

教皇フランシスコ、8月に韓国を訪問することを公表

 この月曜日の正午に、ローマ聖庁の報道部は、パパの大韓民国への使徒的訪問を公表した。

 大韓民国と韓国の司教団の招きを受け入れて、教皇フランシスコは2014年8月14から18日に、デジョン教区で繰り広げられる第六回アジア・ユース・デーを機に、大韓民国への使徒的訪問を実現する予定である。

「わたしたちの国にとって、大きな喜びであり祝福であります」。パパの韓国訪問の宣言の後のソウル大司教の言葉。

 パパの韓国への訪問の宣言の情報が入ってすぐ、ソウルの大司教、アンドリュー・イェオン・ソジュン枢機卿は、教皇に対する歓迎と感謝のメッセージを公表した。教皇様はアジアの青年たちと韓国の全信徒たちに出会うために「わたしたちの国に向けてこんなにも長距離の旅をすることを決めてくださいました」。

「新しい枢機卿たちの擁立にあたって感謝ミサをしたときに、教皇様はわたしに本当に韓国を愛してくださっていることを示す、愛情に満ちた言葉をくださいました。今、わたしたちの国に来るということが現実のものとなり、わたしは神のあふれんばかりの恵みを感じ取っています」、こう紫色の聖衣に包まれた枢機卿は、このパパの韓国訪問が「わたしたちの国にとって大いなる喜びと祝福である」ことを明確にしながら書いた。「パパ・フランシスコの訪問が朝鮮半島に和解と平和をもたらしてくれるように祈ります。アジア全体にとって、わたしたちの主の平和を感じる機会となるようにと望んでいます」。「また貧しい人々や阻害されている人々が希望を回復するときともなりますように」ソウルの大司教はこう付け加えた。
 (RC-RV)

3月9日、お告げの祈り:世俗のメンタリティは神とその愛への飢えを失わせつつ人間の基本的な必要性のレベルを下げる。

 ちょうど正午に、素晴らしい太陽の日に、パパ・フランシスコは何千もの信者たちやサン・ピエトロ広場に訪れる約束をしていた多くの国々からの巡礼者と共にお告げの祈りを祈った。


3月7日、朝ミサ説教:主が求める断食は、兄弟のいのちのことを心配すること


 自分は兄弟や姉妹の肉体を恥じていないか?これがパパ・フランシスコの金曜日の朝聖マルタの家でささげられたミサの説教の中心となる問いであった。パパは、信仰生活は貧しい人々に向かう相徳の生活と直接関連していて、これがないのに信仰宣言するのは、ただの偽善である、と強調した。

 キリスト教は魂のない規律や相徳の全くない心を隠すために偽善の見た目の良い顔をする人々のための形式的な規則遵守の便覧ではありません。キリスト教は恥じることなく苦しむ人に身をかがめるキリスト自身の「肉体」 なのです。この対比を説明するために、教皇は今日のイエスと、断食を尊重しないからということで弟子たちを批判する律法学者たちとの間にある福音に見られる対話を改めて取り上げた。弟子たちとファリサイ派の違いと言えば、ファリサイ派の人たちは断食をたくさん実践するのである。実際、律法学者たちは律法の順守を一つの「形式」に変えてしまい、「宗教的生活」を「倫理規定」に変え、その根本、つまり「救いとえらび、契約の歴史」を忘れてしまったのです。

「一人の御父の愛を主から受けること、民のアイデンティティを主から受け、その後これを倫理規定に変えてしまうことは、あの愛の賜物を拒絶することです。こうした偽善的な人々は、いい人たちで、しなければならないことをすべて行うのです。いい人に見えるのです!倫理を守る人ですが、善意のない倫理になりがちです。なぜなら一つの民への帰属の感覚を失ってしまったからです!主は民の内奥に、一つの民に帰属することにおいて救いをもたらすのです」。

 しかしながら、すでに預言者イザヤは、第一朗読で思い返されている個所で、はっきりと神の展望における断食とはどのようなものかを描写しています。「不正の鎖を説くこと」「抑圧されている人を開放すること」であるけれど、「あなたのパンをおなかのすいている人に分け与え、屋根を持たない貧しい人々を家に泊めること」、「誰かが裸であるのを見つけたらこれを覆ってあげること」でもあります。

「あれこそが主が望まれる断食なのです!兄弟のいのちのことを心配する断食、イザヤ自身も言っていることですが、兄弟の肉体に恥を感じない断食です。わたしたちの完徳、わたしたちの聖性は、わたしたちが選ばれ送り込まれているわたしたちの民とともに前進します。わたしたちの最も大きな聖性の働きは、まさに兄弟の肉体にあり、イエス・キリストの肉体にあるのです。今日の聖性の働きは、わたしたち、ここでの、祭壇でのものであり、偽善的断食ではありません。今日ここに来られるキリストの肉体を恥じないことなのです!これがキリストの体と血の神秘なのです。それはおなかのすいている人とパンを分かち合い、病人や老人といった、代わりに何もわたしたちにくれることのできない人々を癒し、肉体を恥じないこと、それです!

 これは「より難しい断食は」「善意の断食」であることを意味します。これは、傷ついた男性に身をかがめるよきサマリア人にできた断食であって、あの同じ不幸な人を見るけれども、おそらく伝染を恐れて歩き続ける司祭のものではありません。そういうわけで、「これは今日、教会の提言です。自分の兄弟や姉妹の肉体をわたしは恥じていないだろうか?」

「施しをするとき、自分は手に触れずにお金を落とすのだろうか?そしてもし偶然その手に触れれば、この手を急いでひっこめないだろうか?施しをするとき、自分は兄弟や姉妹の目を見つめるだろうか?ある人が病気だと知っているなら、この人に自分は会いに行くだろうか?ぬくもりをもってその人にあいさつをするだろうか?おそらく、わたしたちの役に立つであろうサインがあります。それは一つの問いです。自分は病気の人々や、老人、子供たちを優しくなでることができるだろうか?それとも愛に満ちて撫でる感覚を失ってしまっただろうか?あのような偽善者たちは人を愛をもってなでることを知りませんでした!これを忘れてしまっていたのです…。自分の兄弟の肉体を恥じないこと。それはわたしたちの肉体なのです!わたしたちがこうした兄弟、こうした姉妹に対してふるまうその仕方によってわたしたちは裁かれるでしょう。
 (RC-RV)

2014年3月9日日曜日

教皇の胸元の袋の秘密

2014-03-07 Radio Vaticana

 パパ・フランシスコは胸のところに、ブエノス・アイレスの聴罪司祭であった老司祭のロザリオについていた十字架の入った袋を下げている。ヨハネ・パウロ二世がアルゼンチンの首都にいったときにヌンツィオの聴罪司祭を求めたのだが、それが彼であった。ローマ司教は教区の司祭たちとの四旬節を始めるにあたっての集会で、あわれみの恵みを強調しながら、自分の体験を語った。恵みは四旬節だけでなく、呼び求めなければならないものである、と、全教会において今は憐みの季節であることを指摘しながら語った。

「そこにはいつも人々の行列ができていました。聖体教会のところです。そのころ、わたしは管区の副管区長で管区センターに住んでいました。そして毎朝、早い時間に階段を下りて、何かファックスに届いていないかをチェックしていました。そして復活祭の朝に共同体の上長からのファックスを読みました。『昨日、復活徹夜祭の30分前に、アリスティ神父がなくなられました。享年94あるいは96歳。葬儀は某日になります…」。そして復活祭の朝は、復活祭に一般的にしていたように、老司祭たちの住居にいる司祭たちと昼食を食べに行かなければなりませんでした。そして、自分に言いました。昼食後、教会に行こう、と。それは大きな教会、とても大きな教会で、美しい地下空洞がありました。地下空洞に下り、そこにお棺がありましたが、他には二人の老女だけが祈っていただけで、一本の花すらありませんでした。私は思いました。でもこの人は、ブエノス・アイレスの全司祭の罪をゆるしてきて、わたしの罪もゆるしてくれて、一本の花もないとは…… 花屋に行き、というのは、ブエノス・アイレスでは、十字路をわたるとそこに花屋が並んでいるのです。そうして花を、バラの花を買いました。…… 戻って、お棺を、花を添えてキレイに準備し始めました。そこで、その手にロザリオがあるのを見たのです。… そこで、わたしに何かが起きたのです…だれでもうちに持つ泥棒って、あるでしょう?花を整えながら、ロザリオの十字架をつかみ、少し力を入れてこれをもぎ取りました(笑)。その瞬間神父さんを見て、こう言いました。「あなたの憐みの半分をください」。何か強いものを感じて、こうする勇気とこういう祈りをする勇気が与えられたのです!そしてそのあとで、その十字架をここに、この私の小さな袋(自分の胸のところを指さしながら)に入れました。そしてその日から今日まで、その十字架はいつも私と一緒にあります。そして誰かに対して悪い考えが生まれるとき(笑)、わたしの手はここに(自分の胸のところを指しながら)いつも向かうのです。そして恵みを感じるのです!(拍手)そのことはわたしが快く感じることです。
 
 あわれみ深い司祭の模範、傷に近づく司祭の模範がどれほど益になることか!もしこのことをよく考えると、皆さんは間違いなく多くの多くのこういった人を知っていると思います。なぜならイタリアの司祭たちはすばらしい司祭たちですから!みなさんはすばらしい司祭です。わたしはもしイタリアがこれほど強くあり続けるなら、わたしたち司教団よりも、司祭団のことを言っていますよ!本当に、でしょう?皆さんを慰めるために香をたくことはありません。これが何か私が感じていることです。

 あわれみ。天にいる多くの司祭たちのことを考え、この恵みを彼らに求めなさい! その信者たちに対して持っていたあの憐れみを皆さんにくれますように。そしてこうすることは益となります。

 静聴、どうもありがとう、ここにいてくれて、どうもありがとう。これであいさつに代えます。次はなんでしたっけ?あ、祈りでしたね。(笑)

 主のみ使いのお告げを受けて…
(CdM - RV)

2014年3月7日金曜日

第51回世界召命祈願の日メッセージ



教皇メッセージ
51回世界召命祈願の日
2014511日、復活節第四主日
テーマ:召命、真理の証し

愛する兄弟姉妹のみなさん、

1.福音書は「イエスは町や村を残らず回って……群衆が《飼い主のいない羊のように》弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(マタイ93538節)と語っています。この言葉はわたしたちを驚かせます。なぜなら誰もがまずは畑を耕し、種を蒔き、世話をしなければ、そのあとで、ふさわしい時に多くの収穫を得られないと知っているからです。ところがイエスは、「収穫は多い」と断言します。では誰がそのような結果が得られるように働いたのでしょう?答えはたった一つ、神です。明らかにイエスが語る畑は人類、つまりわたしたちのことです。そして効果をもたらした働きが「多くの実り」の原因であり、それは神の恵み、神とのコムニオン(聖体的一致)です(ヨハネ155節参照)。ですから、イエスが教会に求めている祈りとは、そのみ国に奉仕する人々の数を増やすようにとの願いのことなのです。聖パウロは、こうした「神の協働者」の一人でしたが、福音と教会のために疲れ知らずの働きをしました。彼には個人的な体験の意識がありました。どの点まで神の救いのみ旨は測り知れないか、また恵みが主導的にはたらいているということがあらゆる召命の源泉であることを。使徒はコリントのキリスト者たちに「あなたたちは神の畑なのです」(Iコリ39節)と思い起こさせています。そのように、まずわたしたちの心の中に神のみが与えることのできるあふれんばかりの収穫に対する驚きが生まれ、その後で、いつでもわたしたちに先立つ一つの愛に対する感謝が生まれ、最後に、神がなさったわざ、そして神と共に神のためにわたしたちの自由な献身を求めるわざに対する礼拝が生まれます。

2.わたしたちは何度も次のような詩篇のことばで祈ってきています。「主はわたしたちを作られた。わたしたちは主のもの、その民、その牧場の群れ」(詩1003節)、あるいは「主はヤコブをご自分のために選び、イスラエルをご自分の宝とされた」(詩135編4節)と。そういうわけで、わたしたちは神の「所有物」なのです。それは奴隷にするという意味での所有ではなく、神とわたしたちを一つにし、わたしたちの間でも「神の愛は永遠なので」(詩136編参照)永遠に留まる契約に従って一つにする強い絆のことを言っているのです。たとえば、預言者エレミヤの召命の物語では、神がわたしたちの中でそのみことばが実現されるために一人ひとりのためにたゆまなく目覚めていることを、神が思い起こさせます。そこで選ばれたイメージは、春にいのちの再生を告げながら最初に花開く植物である、アーモンドの枝です(エレミヤ1章11‐12節)。あらゆるものは神からもたらされ、それは神の賜物なのです。世も、いのちも、死も、現在も、未来も。けれど、使徒パウロは確認します。「あなたたちはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Iコリ3章23節)。ここで、神に留まるあり方が説明されています。新しいいのちへのわたしたちの誕生の始めから洗礼(という恵み)を下さったイエスとの二つとない個人的な関わりを通して、です。そういうわけで、キリストこそが、「心を尽くし、理解を尽くし、存在を尽くして」(マルコ12章33節)神を愛しながら、神に信頼するためにそのみことばをもってわたしたちをたゆまず問いただす方なのです。ですから、あらゆる召命は、道には多様性があるわけですが、いつでも自分自身からの過越しをして、キリストとその福音に自分の存在の中心を置くことが求められるのです。結婚という生き方においてもそうですし、修道奉献という形や、司祭という人生においてでも、神のみ旨にそぐわない考え方や行動の仕方を乗り越える必要があるのです。それは「主への礼拝と兄弟姉妹の中におられる主への奉仕へとわたしたちを導く過ぎ越し」なのです(2013年5月8日、女子管区長国際連合の総会での演説)。ですから、だれもが自分の心の中でキリストを礼拝するように呼ばれているのです(Iペトロ3章15節参照)。そうして、わたしたちのうちで育ち、隣人への具体的奉仕へと姿を変えるべきみことばの種のうちに住まう恵みの促しにわたしたちが到達できるようになるのです。恐れてはなりません。神は情熱と巧みさをもって、人生のそれぞれのステージにおいてその御手の実りである働きを続けておられるのです。神は決してわたしたちを見捨てません。ご自分のプロジェクトがわたしたちの中で実現されることに関心をもっておられるのです。けれどこれをわたしたちの同意と協力によって達成したいと望んでおられるのです。

3.今日もイエスは生きていてわたしたちの日々の現実の中で歩んでおられます。そうして一番後ろの人たちから始めてすべての人に近づき、わたしたちの悪や病気を癒します。わたしは今、教会に鳴り響くキリストの声を聞くよい心がまえのある人たちに向けて、自分の召命はどれであるかを理解できるように語ります。イエスに耳を傾け、イエスについて行き、「霊であり命である」(ヨハネ6章63節)イエスの言葉によって内面的に変えてもらうようにと、わたしは皆さんを招きます。マリアは、イエスの母でありわたしたちの母ですが、(カナの婚宴の席で口にした)同じことばをわたしたちにも繰り返します。「この人の言う通りにしなさい」(ヨハネ2章5節)と。よりよいエネルギーを皆さんの中で、また皆さんの周りに目覚めさせることのできる共同体的な歩みに信頼して参加することは、皆さんに有益です。召命はほんものの教会生活という文脈の中で、互いの奉仕となる、相互愛によってよく培われた畑で成熟する実りです。勝手に生まれる召し出しも、勝手に体験する召し出しもありません。召し出しは神の心から生じ、兄弟愛の経験のうちに、忠実な民というよい土地で芽生えるのです。「あなたがたが互いに愛し合うなら、あなた方がわたしの弟子であることをすべての人が知るようになる」(ヨハネ13章35節)とイエスが言ったではありませんか。

4.愛する兄弟のみなさん、この「一般的なキリスト者の生活の《高い次元》」(ヨハネ・パウロ二世、使徒的書簡『新千年紀の初めに』31項)を生きるということは、時には流れに逆らって進み、わたしたちの内外で、障害に出会うこともあるということです。イエス自身がわたしたちに忠告しています。神のみ言葉のよい種は、時には悪者に盗まれ、動揺によって阻まれ、思い煩いや世俗の誘惑で窒息させられることもあるのです(マタイ131922節参照)。こうした困難はすべてわたしたちの気を落とさせもっと居心地のいいように見える小道へと撤退させるかもしれません。けれど本当の召命の喜びは、主であるイエスが忠実であること、イエスと共になら歩むことができ、神の愛の弟子かつ証し人となり、大きな理想や大いなるものごとに心を開くことができるということを信じ体験することにこそあるのです。「わたしたちキリスト者は小さなことのために主から選ばれたわけではないのです。いつも、もっと向こうへ、偉大なことに向かって行きなさい。青年たちよ、偉大な理想のために人生を賭けに出しなさい!」(2013年4月28日、堅信式ミサ説教)。司教団のみなさん、司祭団のみなさん、修道者のみなさん、キリスト者共同体のみなさん、キリスト教家庭のみなさん、お願いです。この方向に召命司牧を導いてください。そうして青年たちが歩む聖性の道のりを一緒に歩いてあげてください。主人公であるがために、「一人ひとりのリズムに合わせることのできる、ほんものの聖性の教育法が強く求められるのです。この教育法は個人的援助やグループでの援助の伝統的な形と、教会に認められている団体や運動で近年提供されている形のすべてに向けられている提案の豊かさを統合すべきなのです」(ヨハネパウロ二世、使徒的書簡『新千年紀の初めに』31項)。

 そういうわけですから、み言葉に耳を傾け、これを受け入れ、これを生き、そうして実りをもたらすために「よい土地」となるようにわたしたちの心を整えましょう。わたしたちが祈りや聖書、感謝の祭儀、教会で祝われ体験される諸秘跡、体験された兄弟愛をもってイエスと一つになればなるほど、あわれみと真理、正義と平和の御国の奉仕において神に協力する喜びがわたしたちの中で育つのです。そして収穫は豊かであり、それもわたしたちの中にどれだけ恵みを素直に受け入れることのできるかによってさらに豊かになるのです。この願いをもって、皆さんにはわたしのために祈ってくださることを求めつつ、心から皆さんに使徒の祝福をいたします。

2014115日、バチカン

3月6日(木)、朝ミサ説教:もし十字架が、イエス抜きの十字架なら、それはキリスト者の十字架ではない


 謙遜、従順、寛大さ。これがキリスト者のスタイルで、イエスが行ったように、十字架を通る道であり、喜びへと導く道です。聖マルタの家でのミサの間に木曜日の朝、その説教で語られたパパ・フランシスコのことばである。

 灰の水曜日語の木曜日の典礼が勧めている福音において、イエスは弟子たちにこう言います。「わたしの後をついて来たい人は、自分自身から退き、日々の自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」。これは「キリスト者のスタイルです」なぜなら、イエスがまず「この道」を巡ったからです。

「この道の外にキリスト者の生活を考えることはできません。いつも彼がまずなしたこの道が存在するのです。謙遜の道、また自分自身に対する辱しめ(へりくだり)の道、そうしてその後再興するために。これが道です。キリスト者のスタイルは、十字架がなければキリスト者のものではなく、もし十字架がイエスのいない十字架でも、キリスト者の十字架ではありません。キリスト者のスタイルはイエスと共なる十字架を受け取り、前進するものです。十字架抜きでも、イエス抜きでもありません。

 イエスは「模範を示し」、「神と同じでありながら」「自分自身を辱しめ(へりくだり)、わたしたち全員のために下僕となりました」。

「そしてこのスタイルはわたしたちを救い、わたしたちに喜びをもたらし、わたしたちを実りをもたらす能力のある者とするでしょう。なぜならこの自分自身を辱しめる(へりくだりの)道は、利己主義の道やただ自分だけのための財産すべてに執着する道と正反対だからです…。この道は他の人々に開かれています。なぜならあのイエスが開いた道は、恥辱(へりくだり)の道であり、あの道はいのちをささげるためにつくられたからです。キリスト者のスタイルはまさにこの謙遜の道、従順の道、おとなしさの道なのです」。

 「だれでも自分のいのちを救いたい人は、それを失うでしょう」とイエスは繰り返しました。なぜなら「もし麦粒が死なないなら、実りをもたらすことができない」からです。そして「これは、喜びをもって成されます。なぜなら喜びは自分自身をわたしたちにささげるからです。イエスに従うことは喜びです。けれどイエスのスタイルでイエスに従うのであって、世のスタイルで従うのではありません」。キリスト者のスタイルに従うということは、「一人ひとりできる形で」「自分自身にいのちを与えるためではなく、他の人々にいのちをささげるために」主の道を歩きまわることを意味します。それは寛大さの精神です」。わたしたちの利己主義は他者の前で自分のことを重要な人物であるように見せたがるようにわたしたちを促します。一方、『キリストに倣いて』の本は、「わたしたちに最高に美しい助言をしています。『知られないことやまるで何ものでもないように判断されることを愛しなさい』。これがキリスト者の謙遜、あのイエスが最初に実践したものです」。

「そしてこれこそがわたしたちの喜びです。そしてこれこそがわたしたちの実りをもたらす能力です。つまりイエスと共に行くことです。他の種々の喜びには実りをもたらす能力がありません。世界じゅうを手にすることだけを考えるけれど最後にはいのちを失い人生を台無しにします。四旬節の初めにあたり、このキリスト者のスタイル、奉仕のスタイル、喜びのスタイル、へりくだりのスタイル、主と共に主が望まれるとおりに実りをもたらす能力のスタイルを、主が少しわたしたちに教えてくださるようにと願い求めましょう」。 
(RV-RC)

2014年3月6日木曜日

3月5日(水)、灰の水曜日ミサ説教:四旬節は摂理的に、わたしたちを目覚めさせ、しびれや惰性から抜け出して頭をはっきりさせるために訪れる


「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」(ヨエル2章13節)

 この心にしみる預言者ヨエルの言葉をもって、典礼は今日、わたしたちを四旬節へと導き、心の回心にこの恵みの時の特徴があることを指摘します。預言としての呼びかけはわたしたち全員にとって挑戦となっており、これからまぬかれる人はだれもいません。そして回心は外面的な形式や曖昧な抱負に狭められるものではなく、人格の中心、意識の中心部から全存在まで含み、これを変革させるものだということを思い起こさせます。

 わたしたちは、日々の習慣に挑戦状を突きつけ、目と耳を開き、しかし何よりも、心を開いてわたしたちの「小さな庭」からずっと外に出ていくようにと努力するような道を歩み始めるように呼ばれています。

 神と兄弟たちに対して開くこと。わたしたちはますます作為的な世界、「行うこと」、「役立つ」ものの文化の中にいます。そこでは知らず知らずのうちにわたしたちの視界から神を除外しています。そうして視界に拡がる地平線そのものを除外しているのです。四旬節は「頭をはっきりさせる」ように、わたしたちは被造物であって、単純に言えばわたしたちは神ではない、ということを思い出すようにわたしたちを招いています。

 日々の小さな環境に目をやると、権力争い、土地を巡る争いもあり、こう考えるものです。でもこの人たちは創造主にでもなろうとしているのだろうか。まだ自分たちが神ではないことに気づいていないのか、と。

 また、他の人々に対しても、自分自身を閉ざし、彼らのことを忘れる危険にも走ります。けれどわたしたちの兄弟姉妹の困難や苦悩がわたしたちを問い正す時になって初めて、その時初めてわたしたちは過越への回心の歩みを始めることができるものです。それは十字架と放棄の意味を理解していく道のりです。

 今日の福音はこの霊的な歩みの要素を指摘しています。祈り、断食、施しです(マタイ6章1-6,16-18節参照)。この三つは見せかけのものごとに支配されないために必要な役割を演じています。いのちの価値は他者に認められることや成功に依拠するものではなく、内面にどれほどのものをもっているかにあるのです。

 最初の要素は、祈りです。祈りはキリスト者の力、信仰を持つすべての人の力です。わたしたちの人生の弱さやもろさにおいて、わたしたちは親に対する子の信頼をもって神の方を向き、神とのコムニオン(聖体的一致)に入ることができるのです。わたしたちに悪く働き、わたしたちの心をかたくなにしうるあまりに多くの傷を前にして、わたしたちは、神の温もりを味わうために神の限りない愛の海である、祈りという海に(ザブンと飛びこんで)浸るように呼ばれているのです。

 四旬節は祈りの時です。より濃厚な祈りの時です。より多く祈りの時間をとり、より熱心に祈る時であり、兄弟たちの必要性をより多く背負う、取り次ぎの祈りの時です。貧困の苦悩の実に多くの状況のために神の前で取り次ぐための時です。

 二つ目の、四旬節にとりわけ目立つ要素は、断食です。形式的な断食、あるいはこれをすると安心するから実際にはわたしたちを「満足させる」ような断食をしないように注意しなければなりません。断食は、ほんとうにわたしたちの安全を欠かせ、同時にそこから他者への益を生み出すなら、困難にある兄弟に対して身をかがめ、その人の身元を引き受けるよきサマリア人のスタイルを培うのを助けるならば、意味があります。断食とは目覚めた生き方を選ぶこと、そのスタイルで、廃棄せず、「使い捨てる」ことのない生き方を選ぶことにあります。断食することは本質的なものに心を連結させ、分かち合うようにとわたしたちを助けます。これは不正や暴挙、特に貧しい人たちや小さな人々に関するそうしたものに対する意識と責任があることのしるしです。そしてそれは神とその摂理に対するわたしたちの信頼のしるしなのです。

 三つ目の要素は施しです。施しは無償性を指します。なぜなら施しという行為において、見返りを期待できない誰かに与えるのですから。無償性は、神からすべてただで受けたこと、つまり何かの功績によらずに受けたことを自覚し、他の人々にただで与えることを学ぶ、キリスト者の特徴の一つであるはずです。あらゆるものが売り買いされている今では、しばしば無償性は日々の生活の一部を成していません。

 あらゆるものが計算と分量で測られるものとなっています。施しは、強迫観念からの解放、所有欲からの解放、持っているものを失う恐れからの解放、自分の財産を他の人々と分かち合うことを望まない人の悲嘆からの解放である、賜物の無償性を生きるのを助けてくれます。

 その回心の招きをもって、四旬節は摂理的に、わたしたちを目覚めさせ、しびれや惰性に流されて進む慣れから抜け出して頭をはっきりさせるために訪れます。預言者ヨエルを通して主がわたしたちに向けて告げる勧告は強烈で明白です。「心を尽くして(全身全霊で)わたしに立ち返りなさい」(ヨエル2章12節)。なぜ神に立ち返らなければならないのでしょうか?なぜならわたしたちの間で、社会の中で、教会の中で、何かがうまくいっていないからです!そして変わる必要が、変化をもたらす必要があり、これを回心する必要性がある、と呼ぶからです! 

 いま一度、四旬節は、わたしたち自身の中で、またわたしたちの周りで何か新しいことを実現することができるということをわたしたちに思い出させるために、その預言的呼びかけを向けにやって来ます。それは単純に、神は忠実だからです。神が忠実なのは、自分自身を偽ることができないからです。なぜなら彼は忠実であり、善意とあわれみにおいて豊かであり続け、いつもゆるし新たにやり直す心構えができておられるからです。この親に対する子としての信頼をもって、歩み始めましょう!
 
(María Fernanda Bernasconi – RV).

3月5日(水)、一般謁見:四旬節の意味


  この灰の水曜日に、パパ・フランシスコは、何千人もの信者と巡礼者に囲まれて、ローマで「洗礼を、最も深く体験する回心の強烈な季節」である四旬節の道のりを歩み始めた。ローマ司教は、この季節に、わたしたちは、わたしたちに多くのものを下さりわたしたちの益となることを実現してくださる神への感謝の態度のためにわたしたちの考えと心を準備しながら、わたしたちの救いのために主が実現する素晴らしい物事をより意識するようにと呼ばれている、と具体的に明言した。「四旬節は、悪の現実を前に反応する能力を取り戻す時、隣人愛に回心していくための絶好の時です」。「隣人愛は、その貧しさをもってわたしたちを豊かにするために貧しくなられた主との感謝とあわれみの態度を生み出す愛です」 (RC-RV)

2014年3月5日水曜日

2月14日、結婚を準備しているカップルのための演説

質問1:「いつまでも」ということに対する恐れ

 教皇さま、一生の忠実を約束するのはあまりに難しい事業だと考えている人は、今日たくさんいます。いつまでも一緒に生きるという挑戦は美しく、魅力的ですがあまりに強制的で、ほぼ不可能だと感じている人が大勢います。このことについてわたしたちを照らしてくださるようにお願いします。

 証しと問いに感謝します。皆さんに説明しましょう。彼らはわたしに前もって質問を送ってきたのです。よく理解できます。そうやって、わたしが考えをまとめ、もうすこししっかりした答えを考えられるように、ということですね。「いつまでも」愛し合うことは可能かどうかを問いかけることは大切なことです。この質問はわたしたちがしなければならない問いです。「いつまでも」愛し合うということは可能なのだろうか?と。今日、決定的な選択をすることに恐れを抱いている人々はたくさんいます。ある青年がその司教にこう言っていました。「わたしは司祭になりたいのですが、10年だけじゃダメでしょうか」。決定的な選択を恐れていたのです。けれどそれは一般的な恐れです。わたしたちの文化に独特のものです。全生涯のための選択をすることは、不可能に思えるのです。現代では、あらゆることがすごいスピードで変化し、何も長期間続かないのです。そしてこのメンタリティが多くの人を、「愛が続く限りわたしたちは一緒にいます」と語る結婚を準備するに至らせているのです。ではその後は?よろしく、ではまた会いましょう、と、このように婚姻が終るのです。けれど、「愛」について何を理解しているのでしょう?ただの感情や心身の状態でしょうか?確かに、もしこれであれば、その上には何か確かなものを建設することはできません。けれどそうではなく、愛が一つの関わりである場合、それはひとつの成長していく現実であり、例として、家のように建設されるとも言い得るのです。そして家は共に建てるのであって、一人でするものではありません。建設するとは、ここでは成長に役立ち助けるということを意味します。愛するカップルのみなさん、皆さんは共に育ちこの家を建て、いつまでも一緒に生きる準備をしています。皆さんは押しては弾く感情の砂にこの基礎を据えようとは思っていません。そうではなく、本物の愛、神から来る愛という岩に据えようと思っています。家族はこの、愛情と援助、希望と支えの空間であるような家が建てられるように育つことを望む愛の計画から生まれます。神の愛はしっかりしていていつまでも続くので、家庭を建設する愛も、しっかりとしていていつまでも続くものであってほしいと思うのです。お願いです。「その場限りの文化」に負かされてはならないのです。この今日わたしたち全員に押し寄せている、このその場限りの文化。これは機能しません!というわけですが、「いつまでも」に関するこの怖れはどうすれば癒されるのでしょう?これは日を追うごとに、主イエスに、日々の霊的な歩みに姿を変えていく生き方のうちに委ねながら癒されていくものです。それは一歩一歩からできています。小さな一歩一歩、信仰において成熟した男性、女性になっていく約束によって建てられた共通の成長の一歩一歩なのです。なぜなら、愛するカップルのみなさん、「いつまでも」というのはただの継続期間の問題ではないのです。婚姻は続くかどうかだけで実現されるのではなく、その質も重要なのです。いつまでも一緒にいて愛することを知るというのはキリスト者負債の挑戦です。わたしの脳裏に浮かんできているのはパンの増殖の奇跡です。皆さんのためにも主は皆さんの愛を増殖させ、日々のできたてでよいその愛を差し出すことができるのです。その愛の無限の予約があるのです!イエスは皆さんの一致をもとにした愛を与え、日々これを新たにし、新たな力を与えます。そしてこれを、家族が子どもたちと一緒に育つ時に、より大いなる力で行うのです。この歩みにおいて、いつも、祈りが大切ですし必要です。彼が彼女のために、彼女が彼のために、そして二人で一緒に。皆さんの愛を増殖させてもらえるようにイエスに願いなさい。主の祈りでわたしたちはこう言います。「主よ、わたしたちに日ごとのパンを、今日下さい」と。夫婦はそのように祈ることを学ぶことができます。「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」と。なぜなら日々の夫婦の愛がパンだからです。魂の本物のパン(糧)、前進し続けるためにみなさんを支えるパンだからです。そして祈りです。これを暗唱して言えるか見るために練習してみましょうか?「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。さぁみんな一緒に。「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。もう一度!「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。これはカップルと夫婦の祈りです。わたしたちに愛し合うこと、好き合うことを教えてください!イエスに委ねれば委ねるほど、皆さんの愛は「いつまでも」続くもの、刷新できるものになり、あらゆる困難に打ち勝つでしょう。皆さんの問いに答えて言おうと思っていたのはこれです。ありがとう!

質問2: 一緒に生活すること: 夫婦生活の《スタイル》

 教皇さま、毎日一緒に生活することは美しく、喜びをもたらし、支えます。けれどそれは直面すべき挑戦です。わたしたちは愛し合うことを学ばなければならないと信じています。カップルの生活の《スタイル》があります。わたしたちが学びたいと望んでいる日々の霊性があります。教皇さま、このことでわたしたちを手伝ってくださいませんか?

 一緒に生きるということは、アートです。忍耐強く、美しく、魅力的な歩みです。たがいの愛をゲットしたときに終るものではありません。それよりも、まさにその時に始まるものなのです。この日々の歩みにはルールがあります。それは次のあなたがことばにしてくれた三つのことばに要約できます。それはすでにわたしが多くの家族に何度も繰り返し言ってきたことです。そして皆さんはもう覚えて互いに使うことができるものでしょう。「失礼」、つまり、「いいですか」と、あなたがおっしゃった「ありがとう」と「ごめん」です。
 「いい?失礼」。これは他者のいのちに敬意と注意を払って入っていくことのできる礼儀正しい頼みです。これしてもいいかな?こういうことをするのは好き?これを始めようと思うけど、どう?子どもたちをこう育てるのはどう?今夜外に出ない?…と質問することを学ぶべきです。結局、許可を得るというのは、他の人々のいのちに礼儀正しく入ることができるということを意味するのです。けれどよくこのことを聞きなさい。他の人々のいのちに礼儀正しく入っていくことができる、ですよ。簡単なことではありません。これは簡単ではないのです。しばしば、その代わりに、すこし山登りの靴のように、重々しく鬱陶しい仕方を用いてしまいます。本物の愛は固さと強引さで押し付けられることはありません。聖フランシスコの『小さい花』の中でこのような表現にまみえます。「愛する兄弟、知っていておくれ。礼節は神に属するものだということを。礼節は愛徳の姉妹。憎しみを消し、愛を育むもの」(37章)。そうです、礼儀正しさは愛を保つのです。そして今日、しばしば暴力的で傲慢なわたしたちの家庭やわたしたちの世界には、よりたくさんの礼儀正しさが必要です。そしてこれは家で始めることができるものなのです。
 「ありがとう」。この言葉を口にするのは簡単なようですが、そう簡単でもないことを知っています。けれど重要です!子どもたちには教えますが、自分ではその後で忘れてしまいます。 感謝は大切な感情です。ルカ福音書を覚えていますか?あぁ、その前に。ある老婦人が、かつて、ブエノス・アイレスでわたしにこう言いました。「感謝は高貴な土に育つ花です」と。この花が育つために魂の貴さが必要なのです。ルカ福音書を覚えていますか?イエスは十人のハンセン氏病者を癒し、たった一人だけがイエスに感謝を述べるために戻って来ます。そして主は言います。他の九人は?どこにいるんだ?これはわたしたちにも当てはまります。感謝をすることができるでしょうか?皆さんの関わりにおいて、夫婦生活の朝を迎えるにあたり、相手が神さまからの賜物であることを活き活きと認識していることが大切です。そして神からの賜物には、ありがとう!というのです。いつも感謝がなされます。そしてこの内なる態度をもって互いにありがとうと言い合いましょう。一人ひとりに。強要のある人であることを見せるために知らない人に使われる丁寧な言葉ではありません。夫婦生活においてよく、共に前進し続けるために、互いにありがとうと言い合う必要があるのです。
 三つ目、「ごめん」。生きているとたくさんの過ちや間違いを犯します。すべて話しましょう。けれどおそらくここには一度も過ちを犯したことのない人もいるかもしれません。一度もミスを犯したことのない人、そのあたりにいたら、手を上げてください。誰もが失敗するものです。誰もがです!おそらく、何もミスのない日というのはないでしょう。聖書は一番の義人も一日に七回罪を犯すと言っています。そのように、わたしたちはミスします…。ここに、この単純なことば、「ごめん」を使う必要性があるのです。一般的に、わたしたちの一人ひとりは、他者をとがめ自分を正当化する傾向にあります。これはわたしたちの父祖アブラハムに始まりました。神がアダムに、「アダム、お前はあの実を食べたのか?」と質問したとき、「わたしですか?いいえ!彼女がわたしにくれたんです」と答えます。「すみません」「ごめんなさい」と言わないために他者をとがめること。これは古い話しです。これは多くの惨劇の源にある本能なのです。自分のミスを認め、赦しを願うことを学びましょう。「今日声を荒げたならごめん」、「あいさつしないで通り過ぎたんだったらごめん」、「待たせたなら、ごめん」、もし今週口を利かなかったなら」、「ほとんど人の話を聞かずにしゃべりすぎて」、「もし忘れたことがあったらごめん」「ごめん、怒っていて、八つ当たりしちゃった」。日々たくさん「ごめん」を言うことができます。このようにしてもキリスト者の家族は育ちます。完璧な家族は存在せず、完璧な旦那もいないし、あるいは完璧な妻も存在しないことをだれもが知っています。完璧なしゅうとめについては言わないようにしましょう(笑)…。わたしたち、罪人がいるのみです。イエスは、わたしたちのことをよく知っており、わたしたちに秘訣を教えてくれます。ゆるしを乞わずに、わたしたちの家、わたしたちの家族に平和が戻らずに一日が終ることが決してないようにすることです。夫婦間でのケンカはお約束です。なぜならいつも何かあって、ケンカをしてしまったのです。おそらく怒ったことがあるでしょう。サラが飛んだかもしれません。けれどお願いですからこのことを覚えていなさい。平和を産みださずに一日を終えることが決してないように。決して、決して、決して!これが秘訣です。愛を保ち平和を成すための秘訣なのです。美しい演説をする必要はありません。しばしばこんな仕草が、そうして平和を作ります。決して終ることのない…なぜならもしあなたが平和づくりをせずに一日を終わらせるなら、内側にあるものは、翌日には冷め、固くなり、平和づくりはより難しくなります。もし互いに赦しを求め合い、互いに赦し合うことを学ぶなら、婚姻は続き、前進するでしょう。金婚を祝う老夫婦たちがここ、聖マルタの家に謁見やミサに訪れる時、彼らにわたしは尋ねます。「誰が誰に耐えたんですか?」これは美しいことです!誰もが互いに見つめ、わたしを見、こう言うのです「二人共です!」そしてこれは美しいものです。これは美しい証しです。

質問3:婚姻の儀のスタイル

 教皇さま、ここ数カ月、わたしたちの結婚式のためにたくさん準備をしています。わたしたちの結婚式をよく祝うために何か助言をいただけますか?

 ほんものの祭りとなるような仕方ですべてを行いなさい。なぜなら婚姻は一つの祭りだからです。キリスト者の祭りであって世俗の祭りではありませんよ。
 その日の喜びのより深い動機は、ヨハネ福音書がわたしたちに指摘しています。カナの結婚の奇跡を覚えていますか?あるところまできて、ワインが足りず、結婚式はだめになりそうでした。紅茶をすすって祭りが終る状況を想像してください。いや、これではだめですね。ワインがなければ祭りはありません。マリアの提案で、その時、イエスは初めて自分のことを明かし、しるしを行います。水をワイに変え、そのようにしながら、結婚式の宴会を救うのです。カナで二千年前に起こったことは、あらゆる結婚式の宴会で実際に起こります。皆さんの婚姻を満たし深く本物にするものは、その恵みを掲示し与える主の現存となります。これは「よいワイン」を差し出すその現存です。イエスこそが、心を本当に熱くする完全な喜びの秘訣そのものなのです。そのパーティーにいるのは、イエスの現存なのです。美しいパーティーになるといいですね、けれどイエスと共に。世俗の精神と共に、ではありません。だめですよ!主がそこにおられる時、感じ取ることができるものです。
 そうは言っても、同時に、皆さんの婚姻が意識のはっきりしたものであること、本当に大切なものを強調することはよいことです。外側のシンボルや宴会、写真、ドレス、花とかいったものを一番心配している人もいます。そうしたものはパーティーに大切なものです。けれど、そうしたものが皆さんの喜びの本当の動機、つまり皆さんの愛に対する主の祝福を指し示すことができるかどうかにかかっています。カナでのワインのように、皆さんのパーティーの外的なシンボルが主の現存を啓示させ、皆さんと列席者の全員に皆さんの喜びの起源と動機を思い起こさせることができるように、できる限りのことをしなさい。
 けれど、あなたがおっしゃったことで、ざっと再確認したいことがあります。そのまま見過ごしておきたくないからです。婚姻は日々の仕事でもあります。民芸品職人の仕事、金細工職人の仕事とでも言えましょう。というのは、夫には妻をますます女性らしくさせ、妻には夫をますます男らしくさせる務めがあるからです。男として、女として、人間性においても成長すること。そしてこのことは二人の間で行われるのです。これは、共に育つ、と呼ばれるものです。これはつかみどころのないところからくるものではありません。主はこれを祝福しますが、皆さんの両手から、皆さんの態度から、皆さんの生き方から、皆さんの互いの愛し方から来るものなのです。自分たちを育てること!いつも相手が成長できるようにできる限りのことをすること。そのために働きかけること。そのように、どうなるかわかりませんが、あなたのことを考えると、ある日あなたの街の通りを歩いていると、人々が「ごらん、あの素敵な女性を、なんて強いんだろう!…」「あぁ、この旦那さんなら、わかるよね」と言うでしょう。またあなたに「ごらん、あの人を」「あの奥さんなら、わかるよね」と言うでしょう。これです。ここにいたることです。自分たちを共に、互いに育てることです。そして子どもたちはこの、互いに、より男性らしく、より女性らしくなるようにしながら、共に成長したパパとママを持った、という遺産を受け継ぐでしょう。

3月3日(月)、スペイン司教評議会への演説


 愛する兄弟のみなさん、スペイン司教評議会の議長が皆さんを代表して、神のことばがとても早い時期から根を張り、協調と文化、聖性の実りをもたらししたスペインにおいて旅路を続ける神の民に忠実に仕えようという固い決意を表現してくださいまして、感謝します。皆さんはこれを特にまぢかに迫った、教会の最初の女性教会博士である(アヴィラの)聖テレジアの生誕500年記念をもって強調したいと望んでおられます。

 今、皆さんは多くの洗礼を受けた人々の無関心という厳しい経験に苦しんでおり、プライベートな生活で神を脇にやり、公的な環境で神を除外し、世俗的な文化を目の前にしなければならない時にいますが、皆さんの歴史を忘れないことはよいことです。そこから神の恵みは決して消えることなく、指令が寛大に今の現実において働き続けていることを学ぶのです。いつも、わたしたちの司牧的配慮に任されている人々の心に多く種を蒔く方に信頼しましょう(使徒的勧告『福音の喜び』68参照)。


 司教たちには福音の勇気ある本物の宣言をもってこの種に芽を出させ、模範と教育、身近さをもってその成長を丁寧に世話し、「主のブドウ園」、つまり誰も除外されたままにはならない園の総体においてこれを調和する務めが任されています。ですから、愛する兄弟のみなさん、努力の出し惜しみをせず、すべての人の心に届く福音に新しい道を開き、すでにその内側に救っているもの、つまり友であり兄弟としてのキリストを見出すことができるようにしてください。


 「仕えられるためではなく仕えるために来られ」(マルコ10章45節)、神の時を謙虚に尊重でき、忍耐づよく、出会いに行くための最初の一歩を踏み出すのに恐れることなく一人ひとりの成熟の過程を尊重できる主の足跡を追っていくならば、この道を見出すのは難しいことではないでしょう。主はわたしたちに、心と心を通わせて温もりとあわれみをもってすべての人に耳を傾け、本当に一つにし互いの建設に役立つことを探求することをわたしたちに教えます。

 この探求において、司教が孤独を感じたり、孤独な状況を作ったりしないことが大切です。自分に任された群れにも神の事柄に対する嗅覚があることを意識することです。特に、信者たちやその日々の必要性や気づきをもった密接な接触によって、直接の協力者たちである司祭たち。霊的に豊かな経験と様々な分野における宣教的使徒的献身による奉献生活者たち。そしてより様々な生活状況から、そしてそれぞれの力量に応じて教会の証しと使命を前進させる信徒たちです(第二バチカン公会議エキュメニズムに関する憲章『世の光』33項)。

 また、信仰の仲介がますます疎遠になりその伝達に困難が絶えないような現実の今の時というのは、皆さんの教会に、離れてしまった人々を呼び、信仰を、特に子どもたちにおいて強めるための、ほんものの継続的なを据えることが強く求められています。そのために、キリスト教の生活を始めるプロセスに特に注意を払うことを忘れないで下さい。信仰はただの文化遺産ではなく、イエスとの個人的な出会いとわたしたちに提供される新しいいのちの自由で歓喜に満ちた受容から生まれる賜物、プレゼントなのです。このことはたゆまぬ宣言と継続的な鼓舞を求めます。そうして信者が洗礼において受けた神の子であるという条件をもって一貫性を持つようになるためです。

 誠実な信仰を目覚めさせ、再燃させることは、結婚の準備と家族への同伴の準備を助けます。家庭の召し出しは愛における共生の生まれつきの場所であり、社会の起源的な細胞であり、信仰が据えられ体験されるいのちと家庭教会の伝達者なのです。福音化された家族は福音化の価値ある代表者です。特に神がその中で働かれた素晴らしいことを輝かせながら。しかも、その寛大さの環境という本質によって、司祭職あるいは奉献生活における主への追従の召し出しの誕生を推進することでしょう。

 昨年、皆さんは『21世紀のための司祭召命』という文書を交付し、そのように召命司牧における皆さんの地方教会の関心を指摘しました。これは司教がまさに優先事項としてその心に抱き、祈りにこれを導入し、候補者の選択において強調し、よい指導者たちとふさわしい教授たちのチームを準備しなければならない局面です。

 最後に、貧しい人たちへの愛と奉仕が、イエスが持ってきた神の国のしるしであることを強調したいと思います(使徒的勧告『福音の喜び』48項)。この近年、まさに皆さんのカリタスは、もちろん他の教会の有益な活動もそうですが、信者からも信者でない人からもよく認められてきました。とても喜ばしいことです。そしてわたしは主に、これが愛徳の源である、「よいことを行い、抑圧されたあらゆる人々を癒して過ごした」キリストに、そしてまた母であり自分の最も不運な子どもたちのことも決して忘れることのできない教会に近づく動機となるようにと求めます。そこで、《よきサマリア人のプログラム、イエスのプログラム》(ベネディクト十六世回勅『神は愛』31b)の奉仕にその才能と手の業を差し出す人々に敬意を示し、近さを示すようにと皆さんを招きます。

 愛する兄弟のみなさん、ローマ司教との一致の絆を示すためにVisita ad limina(「敷居での訪問」、司教たちに義務付けられている教皇との会見)で皆さんは集まっているわけですが、神の忠実で聖なる民への皆さんの奉仕に心から感謝したいと思います。希望をもって前進し続けてください。信者やそうでない人々、忘れ去られている人々にも、兄弟としてまた牧者として、皆さんの地方教会の霊的宣教的刷新の先頭に立ってください。そのために、実践のよりふさわしい方法の探求における相互の相談に乗る援助として司教協議会のふところでの気さくで兄弟愛に満ちた協力は大きな助けとなるでしょう。

 パパの特別なあいさつを、スペインの愛する子らに運んでくださるように、お願いですがら頼みます。教皇は皆さんを至聖なるおとめマリアの母としての日後に委ね、彼のために祈ってくれるように願い、皆さんに祝福を差し上げます。
  
バチカン、2014年3月3日

3月4日(火)、朝ミサ説教:キリスト者の生活は、単にイエスに従うことです!



 「十字架というのはいつもキリスト者の歩みのうちにあります」。パパ・フランシスコは火曜日の聖マルタの家での朝ミサで語った。パパはキリスト者の迫害にその説教の中心を置き、現代、教会の初期よりも多くの殉教者がいることに注意を促した。そういうわけで、キリスト者の生活は「商業的な利」ではなく、「単にイエスに従うこと」であるとはっきりとさせた。

 イエスが富の危険について語ったばかりのところで、ペトロがイエスに従うためにすべてを捨ててきた弟子たちは何をもらえるのか尋ねる。教皇は今日の福音で語られているこの対話から、イエスは「寛大である」ことを強調しながらその説教を発展させた。実際、主は、「家族を残し、家を残し、農地を残してきた人は、今日から、この世で、100倍のものを受けるだろう、とあなたたちに約束するよ」と答えます。おそらく、ペトロは「イエスの後ろをついて行くこと」は「いい取引」だと考えていたかもしれません。なぜなら100倍のものを得させてくださるというのですから。けれどイエスはこうして得ることと共に迫害もあるだろうと付け加えます。

「これはまるで『もし、あなたたちがすべてを捨ててきたなら、ここで、地上で、たくさんのものを受けるでしょう、でも迫害と一緒に!』と言っているかのようです。ちょうど迫害という油で混ぜられたサラダのようです。いつもです!これがキリスト者の得るもので、これがイエスの後ろをついていこうとする人の歩む道なのです。なぜならそれがイエス自身の歩んだ道だからです。イエスは迫害されました!これはへりくだりの道です。パウロがフィリピン人に語っているその道です。『彼はへりくだった。人となった。死にいたるまでへりくだった。十字架の死にいたるまで』。これこそがまさにキリスト者の色合いなのです」。
 
 「真福八端でも、イエスは『わたしのせいで悪口を投げかけられ迫害される人は幸いである』と言っています。迫害は真福の一部なのです」。弟子たちは、「聖霊の到来後すぐに」、宣言をし始め、そして迫害がはじまりました。「ペトロは牢屋に投げ込まれました」。ステファノは殺され、その後、「今日にいたるまで実に多くの弟子たちが殺されています」。「十字架は、いつもキリスト者の歩みにつきものなのです!」 「わたしたちは、教会の中で、キリスト者の共同体の中で多くの兄弟、多くの姉妹、多くの母、多くの父を持つことになります」が、「迫害も体験するのです」。

「なぜなら世はキリストの神性に耐えられたないからです。福音の宣言に耐えられないのです。真福八端に耐えられないのです。そうして、迫害が生まれます。ことばによって、中傷によって、最初の数世紀にキリスト者について言われていたようなことによって、名誉棄損によって、刑務所によって…。わたしたちは簡単に忘れてしまいます。60年前のナチスの収容所でのキリスト者たちのこと、共産圏でのことを考えましょう。多いです!キリスト者であるというために!今日も…『でも今日は、文化が発展していて、こうしたことはないですよ』というかもしれません。あります!そして皆さんに言っておきますが、現代の方が、教会の初期よりも多くの殉教者を産みだしているのです」。

 本当に多くの兄弟姉妹が「イエスの証しをしています。イエスの証しを差し出して迫害されているのです」。苦しそうにしながら教皇は言った。聖書を持つことすらできないキリスト者たちがいるのです。

「彼らは聖書をもっているということで罰せられています。十字のしるしを切ることができません。これがイエスの道です。けれどそれは喜びの道です。なぜなら主はわたしたちが耐えられない試みにはわたしたちを決して置かないからです。キリスト者の生活は商売の利得のようなものではありません。競争をすることではありません。それは単にイエスに従うこと、これに尽きるのです!イエスに従う時、このことが起こります。わたしたちのうちにイエスの証しをする勇気を持つ望みがあるか考えてみましょう。また、今日、教です!迫害されているので一緒に祈ることのできない多くの兄弟姉妹のことを考えましょう。このことはわたしたちのためになります。迫害されているために福音書も聖書も持つことのできない兄弟姉妹のことを」。
(RC-RV)

3月3日(月)、朝ミサ説教:召し出しはあるのです。これが育つように祈らなければならないのです。


 ただ主のみに向かう心を持ち、虚栄や権力、金銭という偶像から自由な司祭や修道女たちを生み出すように召し出しを送ってくださるようにと神に祈ること。これは聖マルタの家でのミサで月曜日の朝にパパ・フランシスコから投げかけられた勧告であった。

 永遠のいのちを相続するために何をしなければならないかを尋ねるためにイエスの前にひざまずく金持ちの男性についての福音が、パパの説教の中心であった。この人は「イエスのみことばを聞く気に満ちていました」。「この人はいい人」だったのです。「なぜなら若いころから十戒を守ってきたのですから。善い人」であるがために「そのせいで、彼にとっては、それだけでは十分ではありませんでした。もっと求めたのです。聖霊が彼を押していたのです」。イエスは愛を込めて彼をm地埋め、提案をします。「すべてのものを売り、わたしと一緒に来て福音を告げ知らせなさい」と。けれど彼は、こうしたことばを聞くと、「悲しくなって、残念がりました。なぜなら財産をたくさんもっていたからです」。

「そのムズムズした心は、まさにイエスに近づき従うようにと聖霊が押していたからなのです。心がいっぱいいっぱいで、彼はこれを空っぽにする勇気がなかったのです。そして選択をしました。金銭を選んだのです。その心は金銭で一杯でした…。けれど泥棒や囚人ではありませんでした。いいえ、いいえ、違います。いい人だったのです。一度も盗みを働いたことはありませんでした。一度も!詐欺をしたことも一度もありませんでした。誠実なお金だったのです。けれどその心はそこに捉われていたのです。金銭に直結していて、選択の自由がなかったのです。金銭が彼を選んだのです」。

 「実に多くの青年たちが、その心にこのイエスに近づく『呼びかけ』を感じています。そして熱心なのです」。主の前に「ひざまずきイエス・キリストへの自分の信仰を公に言い表すのを恥ずかしがりません」。そして「イエスに従いたいと望んでいます。けれど、心が他のことで一杯になり、これを空にする勇気がない時、後戻りし、あの喜びが悲しみに代わってしまうのです」。今日もたくさんの青年たちが召し出しをもっているのですが、しばしば「彼らをとどめる」何かがあるのです。

「わたしたちは、こうした青年たちが心を空にすることができるように祈らなければなりません。他の関心、他の愛の形から空にして、心がもういちど自由になるように、と。これが召し出しのための祈りです。
主よ、わたしたちに送ってください。
わたしたちに修道女たちを送ってください。
わたしたちに司祭たちを送ってください。
彼らを偶像から守ってください。
虚栄の偶像から、傲慢の偶像から、
権力の偶像から、金銭の偶像から彼らを守ってください』。
そうしてわたしたちの祈りは、彼らがイエスの近くでついて行けるようにその心を準備するためのものとなるのです」。

 この福音の男性は、「実にいい人で、そのあと、本当に不幸になりました」。最近の多くの青年たちも似ています。だから神に密度の濃い祈りを差し上げなければならないのです。

「祈願。 
『主よ、この青年たちを助けてください。
彼らが自由でありますように。
何の奴隷にもなりませんように。
あなただけに向けられた心を持ちますように』、
そしてこのようにして
主の呼びかけが実りをもたらしますように。 
これが召し出しのための祈りです。たくさん祈らなければなりません。祈ること。けれど、いつも注意を払っていることです。召し出しは一つならず存在します。これが育つように支えなければなりません。主が彼らの心に入り、イエスにその近くで従うすべての人が持っている、えも言われぬ栄光に満ちたこの喜びを彼らに与えてくださるように助けなければならないのです」。
(RC-RV)