マルコ10・17-27
バチカン、5月27日16時23分(バチカンラジオ)
イエスに従うためには安定した生活やその場限りのことへの傾倒の文化を脱ぎ去らなければならない。パパ・フランシスコはこの月曜日の聖マルタの家での朝ミサでこう確言した。パパは今日この頃イエスに近づくのを妨げる、「富」についての良心の糾明をしなければならないと強調した。ミサには、リヨンのフランス人大司教、フィリップ・バルバリン枢機卿が共同司式に上がり、バチカンの従業員達も参列した。
イエスは一人の青年に、持っている富を全て貧しい人々に与えて自分に従うようにと頼むが、この青年は悲しみながら離れていきます。パパ・フランシスコはその説教を、今日の福音にある有名なエピソードの語りに端を発してこれを発展させた。教父は「富は神の国への歩みを容易にしてくれない障害です」と強調した。説明するには、「いつもわたしたちがイエスに近づくのを妨げる種の富というのが存在するのです」と説明した。フランシスコは二つの「文化的な富」について語った。何よりも、「安定した生活の文化です。これはわたしたちが勇気を出そうとするのを抑え、わたしたちを怠け者にし、自己中心主義にもします」。「安定した生活は、わたしたちを眠らせます。これは麻酔薬なのです」とローマ司教は注意を促した。
「いえ、いえ、ひとり以上の子どもはいりません。休暇に行けなくなるし、○○というところにも行けなくなるし、家も買えなくなるから」。主に従うのはいいけれど、ある程度のところまで。これが安定した生活がなすことです。皆、安定した生活というのはどういうものかよく知っているのです。けれどこれがわたしたちを破壊します。わたしたちからあの価値をはぎ取り、イエスに近づいていくあの勇気をはぎ取っていくのです。これがわたしたちの文化の今日における最初の文化です。安定した生活という文化」。
「さらに、わたしたちの文化にはもう一つの富があります」と付け加えた。それは「わたしたちがイエスに近づくのを妨げるもう一つの富ですが、その場限りのことへの傾倒というものです」。「わたしたちは、その場限りのことに惚れ込んでいます」とパパは見解を述べた。イエスがわたしたちになしてくる「決定的な提案というのは、わたしたちは好きではないのです」。一方、過ぎゆくものが好きなのです。なぜなら永遠(決定的)である「神の時間というものを恐れているからです」と教皇は指摘した。
「神は時間の主なのです。わたしたちは一時的な時の主人なのです。何故でしょう?なぜならその一瞬、わたしたちこそが命じる人になっているからです。ここまでは主に従います。その後のことは、まぁ様子を見ましょう。一度、誰かが司祭になりたいけれど、10年だけやってみたい、でも10年だけ、そう言っている人を知りました。どれほどのカップルが、口には出さないけれどどれほどのカップルが、心の中で『愛が続く間は。その後のことは様子を見て…』と考えて結婚することでしょう。その場限りのことへの傾倒。これは一つの富です。わたしたちは時の主人にならなければなりません。わたしたちは時間を瞬時という時に狭めて短くしているのです。この二つの富がこの瞬間にわたしたちが前に向かっていくのを妨げるものなのです。わたしは全生涯をかけて宣教師として出かけていくために自分の住み慣れた時を離れた多くの多くの男女のことを考えます。あれこそ決定的なことです!」
「けれどもまた、生涯をかけて結婚生活を全うしていこうとして自分の家を離れた多くの男女のことも考えます」と教皇は確言した。「そのことは『イエスにそのそばで従う』ということなのです。これも決定的なことです!」「その場限りのことというのは、イエスに従わないことなのです。それはわたしたちのテリトリーに限っていることなのです」とパパ・フランシスコは繰り返した。
イエスの招きを前に、この二つの文化的な富を見据えて、弟子達のことを考えましょう。彼らは当惑していました。わたしたちもこのイエスの言葉で当惑するかも知れません。弟子たちはいくつか説明を受けてもっと当惑していました。主に、前に進んでいく勇気をくださるようにと願いましょう。この安定した生活の富を脱ぎ去って、すぐに役に立たなくなる、瞬間の小さな希望ではなく、彼がわたしたちを待っていて下さる、道の終着点まで続く、この時の中での希望を持って前進する勇気を願いましょう。なれかし(アーメン)。
(RC-RV)
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