2013年9月24日火曜日

9月20日、カトリック医師協会国際連盟へのことば


教皇フランシスコのカトリック医師協会国際連盟の推進集会参加者への演説

クレメンティーナ・ホール、2013年9月20日(金)

 遅れてすみません。今日は・・・今朝は一般の方々にはとても面倒をおかけしました。ごめんなさい。

1.皆さんと分かち合いたいと思っている最初のポイントはこれです。わたしたちはこんにち、パラドックスの状況に居合わせています。医療の専門職のことを言っています。一方では、神に感謝したいことですが、情熱をもって、おしみなく、新しい治療法を求めるために献身している科学者たちの尽力のおかげで、医療の発展がみられます。他方、しかしながら、医師が「命への奉仕者」であるというアイデンティティを失うかもしれないという危険性にも直面しています。文化的な方向性の欠如は、不落であろうと思われる分野、すなわち、医療にも影響を及びしていきました。たとえその本性は命への奉仕でも、健康に関する専門家は、しばしば命そのものを相手にするのを怠るようにと導かれています。一方で、回勅『カリタス・エト・ヴェリターテ(真理における愛)』が気づかせてくれているのは、「いのちへの開き(理解)は、ほんものの発展の中心である」と言うことです。このいのちへの開きがなければ本物の発展はない、ということです。「もし新しいいのちを受け入れるための個人的また社会的なセンスが失われるならば、社会のための他の役に立ちそうな重要の形式も枯れ落ちるのです。いのちの受容が道徳的エネルギーを鍛え、相互扶助ができるようにするのです」(28)。パラドックスが見られるのは、一方で、しばしば引き合いに出される権利を含めた新しい人権を示しておきながら、必ずしもいつも第一の価値やすべての人日tの基本的権利としていのちが守られていない、ということです。医師の最終目標はいのちの保護と促進にあります。

2.二つ目のポイントです。この文脈において、聞いてもらえること、教会は良心に、健康に関する専門家とボランティアすべての良心に訴えます。特に婦人科医は、新しい人のいのちの創造に協力するようにと呼ばれている人たちですので、特別です。皆さんの場合、それは召命であり、使命です。良心と、たったひとつの人間性に関する研究が不可欠です。かつて、「代母」と呼ばれた助産に携わっていた女性たちは、本当の母親と共に、もう一人のお母さんのようでした。あなたも「代母」、「代父」なのですよ。

 利潤によって一般化されたメンタリティ 、今多くの人の心と頭を虜にしている「使い捨ての文化」は、高い代価を払っています。そこでは人々、特に身体的、また社会的により弱っている人たちを削除するよう要求してくるからです。わたしたちのこのメンタリティへの答えはいのちへの決定的で揺らぐことのない「肯定(『はい』、という答え)」です。「ひとりの人間の最初の権利は、その命そのものです。いのちはこれに続く他の素晴らしいことにつながっており、そのいくつかはよりかけがえのないものです。しかし、いのちそのものがその他の権利のための実に基本的な条件です」(教理省、1974年11月18日発布の自発的堕胎についての宣言、第11項)。ものには値段があって売られますが、人には尊厳があり、他のものごとよりも価値があり、お金では換えられないのです。しばしば、いのちが他の何よりも安っぽく扱われているような状況に出会うことがあります。その色調において、人のいのちへの援助は最近の数年、教会の教導職にとって本当に優先事項となって来ました。特に、より守られていない人々、つまりいのちがより守られていない、障碍を抱える人々、病者、出産前の子どもたち、子どもたち、老人たちのいのちです。

 人間のもろさにおいて、一人ひとりが主のみ顔を認識するように招かれています。主はその人間としての肉体のうちに、発展の途上にある国々においても、富裕な社会においても、しましば貧しい人たちに死に追いやっている無関心や孤独を体験しました。出産前の、しかし不正に堕胎という死刑宣告を受けた子どもたちの一人ひとりが、生まれる前、そして生まれたばかりの時に世において拒絶を経験されたイエス・キリストの顔、主のみ顔をもっています。そして年輩の方々一人ひとりに、-今子どもについて話しました。もう一つの対極、お年寄りのことに移りましょう。あらゆるお年寄り、病人、その最後の日々をも含み、一人ひとりがキリストの顔をいただいています。切り捨てられるわけにはいきません、「浪費文化」が提示しているように切り捨てられるわけにはいかないのです!

3.三つ目の局面は次の掟です。「いのちの文化」の証し人、代弁者となることです。みなさんがカトリックであるということは、より大きな責任を意味します。何よりも、自分自身に対して、そのキリスト者としての召命との共鳴においてある努力のために。そして現代の文化に対して、人間の受胎の最初の瞬間から、神の創造のわざの足跡である、人のいのちの超越的次元を認識させる一助となるために。これは新しい福音化の献身の問題です。それは人格において努力しながら、しばしば流れに逆らうことが求められています。主は「いのちの福音」を広めることにおいて皆さんを当てにしているのです。

 この視点において、婦人科の病院奉仕は証しと福音化に関する特別な祝福を得た場所です。なぜなら教会が「神の現存の乗り物」であるところならばどこでも、生きることが同時に「人と世界が真が人間らしくなっていくことのための道具」となっているからです(教理省、福音化のいくつかの局面に関する教理的手引き、第9項)。病院の援助の焦点が弱い立場にある人であるという意識が育ってきています。健康を打ち立てることが、「援助の関係が仕事ではないところ-仕事というのは、関わりを保とうとしません-ではなく、使命であるところになり、よきサマリア人の愛徳が最初の教団であり、また犠牲者の顔、つまりキリストの顔であるところ」になるのです(ベネディクト16世、ローマのサグラード・コラソン・カトリック大学での演説、2012年5月3日)。

 愛する友である医師の皆さん、あなたたちは人間のその最初の段階において人のいのちを守るように呼ばれています。皆さんに思い出していただきたいと思いますが、行いにおいても言葉においても、いつでも、人のあらゆる段階において、またあらゆる年齢において、人は聖なるものであり、質の高いものである、ということが扱われるべきです。そしてこれは信仰の問題として議論されるものではありません。違います、違います。そうではなく、当然のことながら、科学に関する議論の対象ですよ!いのちそのものより大事な人のいのちなどないのです。他の人より重要だと質的に人のいのちが測られることがありますが。健康の援助のシステムの信ぴょう性は、高率においてのみならず、人への対応と愛によっても測られるのです。そのいのちはいつも聖なるものであり、不可侵のものだからです。

 主とおとめマリアに祈ることを決して怠ってはなりません。皆さんがよい仕事をし、勇気をもって証しをするために、力をいただいてきたはずです。頑張ってください!最近は、勇気が必要です。みなさんは「いのちの福音」を告げるための勇気ある証し人なのです!ありがとうございました。
 

9月23日、禁域修道院内のシスターたちへの言葉:主はあなたたちを祈りをもって教会を支えるために呼ばれました



 カリアリ大聖堂で行われた貧困層の人々と囚人との会合の終わりに、教皇はこの古い司教座聖堂の中廊に囲まれた中庭で待っていた隠遁修道女たちに短い挨拶をした。

 「隠遁のシスターたちに、特別に挨拶します。なぜなら、皆さんは教会の支え、教会の霊的支えだからです。この確信をもって引き続きがんばってください。主が皆さんを呼ばれたのは、祈りをもって、その大いなる祈りをもって教会を支えるためだったのです。皆さん全員を祝福します。父と子と聖霊の御名によって。わたしのために祈ってください。どうもありがとうございます。 
 (MFB – RV).

9月23日(月)、サルジニア島の青年たちに向けて:ただ平和の道のみ、より良い世界を作るためには!



 パパは81人の命が失われたパキスタンの教会へのテロ行為の後で、主日に、平和のために祈るように呼びかけた。事実、ラrゴ・カルロ・フェリチェでのサルジニア島の青年たちとの集いを終えるにあたり、こう語った。

 「愛する青年の皆さん、祝福をする前に、ひとつ言いたいことがあります。わたしがみなさんに、イエスと共に前進しなければならない、と言った時に言おうとしたことは、それは建設するため、よい物事を行うため、いのちを促進させるため、他者を手伝い助けるため、よりよく平和のある世界を建設するためだ、ということでした。

 けれど誤った選択、誤った決断があります。というのは、破壊を選択することもあるからです。今日、パキスタンで、一つの誤った選択のために、つまり憎しみの選択、戦争の選択ですが、テロ行為があり、70人もの人々がなくなりました。この道はだめです、役に立たないのです。平和の道だけが、よりよい世界を建設するための道なのです!

 けれどもし皆さんがこれをしないなら、もしあなたがこれをしないなら、他の人はしませんよ!これは問題です。そしてこれこそが皆さんにわたしが残したい問いかけです。「わたしには、より良い世界を建設するための道を選ぶ心構えができているだろうか?」これだけです。では、パキスタンでの子のテロ行為でなくなられたすべての方々のために主の祈りを唱えましょう。天におられる…

 わたしたちがいつも、よりよい世界のために働き、建設の道、平和の道を選び、決して破壊の道や戦争の道を選ばないように、マリアさまが支えてくださるように祈りましょう。

 全能の神、父と子と聖霊が皆さんを祝福してくださいますように。

 お願いですから、わたしのために祈ってください。また会う日まで!

9月22日、文化世界との集い:人の自由に関する悲観概念が知性と意志の一種の中風に導く


 イエズス会士の司祭によって開かれた、カリアリの地域神学学会の本部での文化世界との会見で、パパ・フランシスコはいくつかの提案をした。わたしたちの社会に新しい地平を開く希望の道を見出すことについても扱われた。歴史を作り上げる様式として、対立や緊張におけるいのちのみなぎる環境としての連帯、さらにはいのちを生み出す調和に到達するように。そして大学は連帯への養成の場であり、信仰が、決して理性の余地を削減することなく、自らの貢献をすることができるということにおける努力での信じる人たちと信じない人たちとの出会いのポイントになっている。

Texto completo del discurso del Papa al mundo de la cultura
Queridos amigos, buenas tardes, dirijo a todos mi saludo cordial. Agradezco al Padre Decano y a los Magníficos Rectores por sus palabras de acogida, y deseo todo bien para el trabajo de las tres Instituciones. Me agrada haber oído que trabajan untos, como amigos: ¡y esto es bueno! Agradezco y animo a la Pontificia Facultad Teológica, que nos hospeda, en particular a los Padres Jesuitas, que desarrollan con generosidad su precioso servicio, y al entero Cuerpo Académico. La preparación de los candidatos al sacerdocio permanece un objetivo primario, pero también la formación de los laicos es muy importante.

No quiero hacer una lección académica, si bien el contexto y ustedes que son un grupo cualificado quizá lo pedirían. Prefiero ofrecer algunas reflexiones en voz alta que parten de mi experiencia de hombre y de Pastor de la Iglesia. Y por esto me dejo guiar por un pasaje del Evangelio, haciendo una lectura “existencial”, el de los discípulos de Emaus: dos discípulos de Jesús que, después de su muerte, se van de Jerusalén y regresan a su pueblo. He elegido tres palabras clave: desilusión, resignación, esperanza.

Estos dos discípulos llevan en su corazón el sufrimiento y la desorientación por la muerte de Jesús, están decepcionados por como fueron a terminar las cosas. Un sentimiento análogo lo encontramos también en nuestra situación actual: la desilusión, la desilusión, a causa de una crisis económico-financiera, pero también ecológica, educativa, moral, humana. Es una crisis que se refiere al presente y al futuro histórico, existencial del hombre en nuestra civilización occidental, y que termina después por interesar al mundo entero. Y cuando digo crisis, no pienso en una tragedia. Los chinos, cuando quieren escribir la palabra crisis, la escriben con dos caracteres: el carácter del peligro y el carácter de la oportunidad. Cuando hablamos de crisis, hablamos de peligros, pero también de oportunidad. Éste es el sentido con el que yo utilizo la palabra. Ciertamente, cada época de la historia lleva en sí elementos críticos, pero, al menos en los últimos cuatro siglos, no se han visto tan sacudidas las certezas fundamentales que constituyen la vida de los seres humanos como en nuestra época. Pienso en el deterioro del ambiente; esto es peligrosos, pensemos un poco hacia delante, a la guerra del agua que viene; en los desequilibrios sociales, en el terrible poder de las armas – hemos hablado tanto de esto en estos días –; en el sistema económico-financiero, que no tiene en el centro al hombre, sino al dinero, el dios dinero; en el desarrollo y en el peso de los medios de información, con todo su carácter positivo, de comunicación, de transporte. Es un cambio que concierne el mismo modo en que la humanidad lleva adelante su existencia en el mundo.

Frente a esta realidad, ¿cuáles son las reacciones? Volvamos a los dos discípulos de Emaus: decepcionados ante la muerte de Jesús, se muestran resignados y tratan de escapar de la realidad, dejan Jerusalén. Las mismas actitudes las podemos leer también en este momento histórico. Frente a la crisis puede existir la resignación, el pesimismo hacia toda posibilidad de intervención eficaz. En cierto sentido es un “llamarse afuera” de la misma dinámica del actual viraje histórico, denunciando sus aspectos más negativos con una mentalidad semejante a aquel movimiento espiritual y teológico del II siglo después de Cristo que es llamado “apocalíptico”. Nosotros tenemos la tentación de pensar en clave apocalíptica. Esta concepción pesimista de la libertad humana y de los procesos históricos lleva a una especie de parálisis de la inteligencia y de la voluntad. La desilusión lleva también a una especie de fuga, a buscar “islas” o momentos de tregua. Es algo semejante a la actitud de Pilato, el “lavarse las manos”. Una actitud que parece “pragmática” pero que, de hecho, ignora el grito de justicia, de humanidad y de responsabilidad social y lleva al individualismo, a la hipocresía, e incluso a una especie de cinismo. Esta es la tentación que nosotros tenemos por delante, si vamos por este camino de la desilusión o de la decepción.

A este punto nos preguntamos: ¿hay una vía que recorrer en nuestra situación? ¿Debemos resignarnos? ¿Debemos dejarnos ofuscar la esperanza? ¿Debemos huir de la realidad? ¿Debemos “lavarnos las manos” y encerrarnos en nosotros mismos? Pienso no sólo que hay un camino que recorrer, sino que precisamente el momento histórico que vivimos nos impulse a buscar y a encontrar vías de esperanza, que abran horizontes nuevos a nuestra sociedad. Y aquí es precioso el papel de la Universidad. La Universidad como lugar de elaboración y transmisión del saber, de formación a la “sabiduría” en el sentido más profundo del término, de educación integral de la persona. En esta dirección, quisiera ofrecer algunos breves pensamientos sobre los cuales reflexionar.

La Universidad como lugar del discernimiento. Es importante leer la realidad, mirándola a la cara. Las lecturas ideológicas o parciales no sirven, alimentan sólo la ilusión y la desilusión. Leer la realidad, pero también vivir esta realidad, sin temores, sin fugas y sin catastrofismos. Toda crisis, también la actual, es un pasaje, el dolor de un parto que comporta fatiga, dificultad, sufrimiento, pero que lleva en sí el horizonte de la vida, de una renovación, lleva la fuerza de la esperanza. Y esta no es una crisis de “cambio”: es una crisis de “cambio de época”. Es una época, la que cambia. No son cambios extraordinarios superficiales. La crisis puede convertirse en un momento de purificación y de reflexión de nuestros modelos económico-sociales y de cierta concepción del progreso que ha alimentado ilusiones, para recuperar al ser humano en todas sus dimensiones. El discernimiento no es ciego, ni improvisado: se realiza sobre la base de criterios éticos y espirituales, implica interrogarse sobre lo que es bueno, la referencia a los valores propios de una visión del hombre y del mundo, una visión de la persona en todas sus dimensiones, sobre todo en la espiritual, trascendente; ¡jamás se puede considerar a la persona como “material humano”! Ésta es, quizá, la propuesta escondida del funcionalismo. La Universidad como lugar de “sabiduría” tiene una función muy importante en el formar al discernimiento para alimentar la esperanza. Cuando el viandante desconocido, que es Jesús Resucitado, se acerca a los dos discípulos de Emaus, tristes y desconsolados, no trata de esconder la realidad de la Crucifixión, de la aparente derrota que ha provocado su crisis, al contrario los invita a leer la realidad para guiarlos a la luz de su Resurrección: “Insensatos y tardos de corazón... ¿No era necesario que el Cristo padeciera eso y entrara así en su gloria?” (Lc 24, 25-26). Hacer discernimiento significa no huir, sino leer seriamente, sin prejuicios, la realidad.

Otro elemento: la Universidad como lugar en el que se elabora la cultura de la proximidad, cultura de la proximidad. Ésta es una propuesta: cultura de la cercanía. El aislamiento y la cerrazón en sí mismos o en los propios intereses jamás son la vía para volver a dar esperanza y efectuar una renovación, sino que es la cercanía, es la cultura del encuentro. El aislamiento, no; la cercanía, sí. Cultura del desencuentro, no; cultura del encuentro, sí. La Universidad es lugar privilegiado en el que se promueve, se enseña, se vive esta cultura del diálogo, que no nivela indiscriminadamente diferencias y pluralismos – uno de los riegos de la globalización es éste –, y ni siquiera los lleva al extremo volviéndolos motivo de desencuentro, pero abre a la confrontación constructiva. Esto significa comprender y valorizar las riquezas del otro, considerándolo no con indiferencia o con temor, sino como factor de crecimiento. Las dinámicas que regulan las relaciones entre las personas, entre los grupos, entre las naciones con frecuencia no son de cercanía, de encuentro, sino de desencuentro. Me refiero aún al pasaje evangélico. Cuando Jesús se acerca a los dos discípulos de Emaus, comparte su camino, escucha su lectura de la realidad, su desilusión, y dialoga con ellos; precisamente de este modo vuelve a encender en sus corazones la esperanza, abre nuevos horizontes que ya estaban presentes, pero que sólo el encuentro con el Resucitado permite reconocer. Jamás tengan miedo del encuentro, del diálogo, de la confrontación, incluso entre Universidades. A todos los niveles. Aquí estamos en la sede de la Facultad Teológica: permítanme decirles: no tengan temor de abrirse también a los horizontes de la trascendencia, al encuentro con Cristo o de profundizar la relación con Él. La fe jamás reduce el espacio de la razón, sino que lo abre a una visión integral del hombre y de la realidad, y defender del peligro de reducir al hombre a “material humano”.

Un último elemento: la Universidad como lugar de formación a la solidaridad. La palabra solidaridad no pertenece sólo al vocabulario cristiano, es una palabra fundamental del vocabulario humano. Como dije hoy, es una palabra que en esta crisis corre el riesgo de ser borrada del diccionario. El discernimiento de la realidad, asumiendo el momento de crisis, la promoción de una cultura del encuentro y del diálogo, orientan hacia la solidaridad, como elemento fundamental para una renovación de nuestras sociedades. El encuentro, el diálogo entre Jesús y los dos discípulos de Emaus, que vuelve a encender la esperanza y renueva el camino de su vida, lleva a la participación: lo reconocieron en el partir el pan. Es el signo de la Eucaristía, de Dios que se hace tan cercano en Cristo hasta el punto de ser presencia constante, de compartir su misma vida. Y esto dice a todos, incluso a quien no cree, que es precisamente en una solidaridad no dicha, sino vivida, donde las relaciones pasan de considerar al otro como “material humano” o como “número”, al considerarlo como persona. No hay futuro para ningún país, para ninguna sociedad, para nuestro mundo, si no sabremos ser todos más solidarios. Solidaridad, por tanto, como modo de hacer la historia, como ámbito vital en el que los conflictos, las tensiones, incluso los opuestos alcanzan una armonía que genera vida. En esto, pensando en esta realidad del encuentro en la crisis, he encontrado en los políticos jóvenes otra manera de pensar la política. No digo mejor o no mejor, sino otra manera. Hablan diversamente, están buscando… su música es diversa de nuestra música. ¡No tengamos miedo! Escuchémoslos, hablemos con ellos. Ellos tienen una intuición: abrámonos a su intuición. Es la intuición de la vida joven. Digo los políticos jóvenes porque es lo que he oído, pero los jóvenes en general buscan esta clave diversa. Para ayudarnos en el encuentro, nos ayudará la música de estos políticos, “científicos”, pensadores jóvenes.

Antes de concluir, permítanme subrayar que a nosotros los cristianos la misma fe nos da una esperanza sólida que impulsa a discernir la realidad, a vivir la cercanía y la solidaridad, porque Dios mismo ha entrado en nuestra historia, haciéndose hombre en Jesús, se ha sumergido en nuestra debilidad, haciéndose cercano a todos, mostrando solidaridad concreta, especialmente a los más pobres y necesitados, abriéndonos un horizonte infinito y seguro de esperanza.

Queridos amigos, gracias por este encuentro y por su atención; que la esperanza sea la luz que ilumine siempre su estudio y su empeño. ¡Y que el coraje sea el tiempo musical para ir hacia adelante! ¡Que el Señor los bendiga!


(María Fernanda Bernasconi – RV).

(未翻訳)9月22日、サルジニアの青年たちへのメッセージ

El camino es Jesús: ¡hacerlo subir a nuestra barca y remar mar adentro con Él!, el Papa a los jóvenes



Texto completo de las palabras del Papa a los jóvenes en Cerdeña


¡Queridos jóvenes de Cerdeña!

¿Parece que hay algunos jóvenes, no? ¿Algunos o muchos? ¡Hay tantos!
¡Gracias de haber venido tantos a este encuentro! Y gracias a sus ‘portavoces’. Verlos me hace pensar en la Jornada Mundial de la Juventud de Río de Janeiro: quizás algunos de ustedes estuvieron allá, pero muchos seguramente la han seguido a través de la televisión e Internet. Ha sido una experiencia muy bella, una fiesta de la fe y de la hermandad, que llena de alegría. La misma alegría que probamos hoy. Agradecemos al Señor y a la Virgen María, Nuestra Señora de Bonaria: es ella quien nos ha hecho encontrar aquí. ¡Récenle a menudo, es una buena mamá, se los aseguro!

Algunas de sus ‘pregunte’, de sus preguntas…pero, ¡también yo hablo un dialecto aquí! Algunas de sus preguntas son en la misma dirección. Yo pienso en el Evangelio sobre la ribera del lago de Galilea, donde vivían y trabajaban Simón - donde luego Jesús llamará Pedro - y su hermano Andrea, junto con Santiago y Juan, también ellos hermanos, todos pescadores. Jesús es rodeado por la multitud que quiere escuchar su palabra; ve a aquellos pescadores junto a las barcas mientras limpian las redes. Sube al barco de Simón y le pide alejarse un poco de la ribera, y así, estando sentado en la barca, habla a la gente. Jesús, sobre la barca, habla a la gente. Cuando acaba, dice a Simón de remar mar adentro y tirar las redes. Este pedido es una prueba para Simón - escuchen bien la palabra ‘una prueba’ - ; porque él y los demás habían apenas regresado de una mala noche de pesca. Simón es un hombre práctico y sincero, y enseguida dice a Jesús: «Maestro, hemos trabajado la noche entera y no hemos sacado nada».

Éste es el primer punto: la experiencia del fracaso. En sus preguntas, estaba esta experiencia: El sacramento de la confirmación, ¿cómo se llama este sacramento? ¿De la confirmación? ¡No, ha cambiado el nombre! Sacramento del “Adiós”. Hacen esto y se van de la Iglesia. ¿Es verdad o no? Ésa es una experiencia de fracaso, algo que va torcido, una desilusión… En la juventud se están proyectado hacia adelante pero a veces ocurre de vivir un fracaso, una frustración: ¡es una prueba, y es importante! Ahora yo quiero hacerles una pregunta, pero no respondan con la voz, sino en silencio, cada uno en su corazón, piense. Piensen en las experiencias de fracaso que ustedes han vivido. Es cierto: todos nosotros las tenemos, todos nosotros.
En la Iglesia hacemos tantas veces esta experiencia: los sacerdotes, los catequistas, los animadores se cansan mucho, gastan muchas energías, prueban con todo, y al final no ven resultados siempre correspondientes a sus esfuerzos. Lo dijeron también sus ‘portavoces’, en las primeras dos preguntas. Se referían a las comunidades en donde la fe aparece un poco descolorida, no muchos fieles participan activamente en la vida de la Iglesia, se ven cristianos a veces cansados y tristes, y muchos jóvenes, después de haber recibido la Confirmación, se van. El sacramento de la despedida, el sacramento del ‘adiós’. Es una experiencia de fracaso, una experiencia que nos deja vacíos, nos desanima. ¿Es verdad o no? [Sí, responden los jóvenes] ¿Es verdad o no? [Sí, responden los jóvenes de nuevo]

2. Frente a esta realidad, justamente ustedes se preguntan: ¿qué podemos hacer? Ciertamente una cosa que no hay que hacer, es dejarse vencer por el pesimismo y por la desconfianza. Cristianos pesimistas: es feo eso. Ustedes jóvenes no pueden y no deben estar sin esperanza, la esperanza es parte de su ser. ¡Un joven sin esperanza es preocupante! ¡No es un joven! ¡Ha envejecido! ¡Demasiado pronto!
La esperanza es parte de su juventud, si ustedes no tienen esperanza, piensen seriamente: un joven sin alegría y sin esperanza es preocupante: no es un joven. Y cuando un joven no tiene alegría, cuando siente la desconfianza de la vida, cuando un joven pierde la esperanza, ¿dónde va a encontrar un poco de tranquilidad, un poco de paz? ¿Sin fe, sin esperanza, sin alegría? ¡Ustedes saben, estos mercaderes de muerte, aquellos que venden muerte, les ofrecen un camino para cuando ustedes están tristes, sin esperanza, sin fe, sin coraje. Por favor ¡no vendas tu juventud a éstos que venden muerte! Ustedes entienden de qué cosa estoy hablando. ¡Todos ustedes lo entienden: No vendan!
Regresemos a la escena del Evangelio: Pedro, en aquel momento crítico, se juega a sí mismo. ¿Qué hubiera podido hacer? Hubiera podido ceder al cansancio y a la desconfianza, pensando que es inútil y que es mejor retirarse e ir a casa. ¿En cambio qué cosa hace? Con coraje, sale de sí mismo y elige confiar en Jesús. Dice: «sobre tu palabra, tiraré las redes». ¡Atención! No dice: ¡sobre mis fuerzas, sobre mis cálculos, sobre mi experiencia de experto pescador, sino “sobre” tu palabra, sobre la palabra de Jesús! Y el resultado es una pesca increíble, las redes se llenan, tanto que casi se rompen.
Éste es el segundo punto: confiar en Jesús. ¡Confiar en Jesús! Y cuando digo esto, quiero ser sincero y decirles: yo no vengo aquí a venderles una ilusión. Yo vengo aquí a decirles: hay una persona que puede llevarte adelante. ¡Confíate de Él! ¡Es Jesús! ¡No es una ilusión! Confiar en Jesús. El Señor siempre está con nosotros. Viene en la ribera del mar de nuestra vida, se hace cercano a nuestros fracasos, a nuestra fragilidad, a nuestros pecados, para transformarlos. ¡Nunca dejen de volver a ponerse en juego, como los buenos deportistas - algunos de ustedes lo saben bien por experiencia - que saben afrontar la fatiga del entrenamiento para alcanzar los resultados! Las dificultades no tienen que asustarles, sino empujarles a ir más allá. Sientan dirigidas a ustedes las palabras de Jesús: ¡Remen mar adentro y tiren las redes, jóvenes de Cerdeña! ¡Remen mar adentro! Sean cada vez más dóciles a la Palabra del Señor: es Él, es su Palabra, es el seguirlo lo que hace fructuoso su compromiso de testimonio. Cuando los esfuerzos para despertar la fe entre sus amigos parecen inútiles, como la fatiga nocturna de los pescadores, recuerden que con Jesús todo cambia. La Palabra del Señor ha llenado las redes, y la Palabra del Señor hace eficaz el trabajo misionero de los discípulos. ¡Seguir a Jesús es comprometedor, quiere decir no conformarse con las pequeñas metas, con el pequeño cabotaje, sino apuntar hacia arriba con coraje!

No es bueno detenerse en el «no hemos sacado nada», sino ir más allá, ir al «rema mar adentro, y echa las redes» de nuevo, ¡sin cansarnos! Jesús lo repite a cada uno de ustedes. ¡Y es Él que dará la fuerza! Está la amenaza del lamento, de la resignación. ¡Esto lo dejamos a los que siguen la ‘diosa lamento’! ¿Ustedes siguen la ‘diosa lamento’? ¿Se lamentan continuamente, como en una vigilia fúnebre? No, el joven no puede hacer esto. La ‘diosa lamento’ es un engaño, te hace tomar el camino equivocado. Cuando todo parece fijo y estancado, cuando los problemas personales nos inquietan, los malestares sociales no encuentran las debidas respuestas, no es bueno darnos por vencidos. El camino es Jesús: ¡hacerlo subir en nuestra ‘barca’ y remar mar adentro con Él! ¡Él es el Señor! Él cambia la perspectiva de la vida. La fe en Jesús conduce a una esperanza que va más allá, a una certeza fundada no sólo en nuestras cualidades y habilidades, sino sobre la Palabra de Dios, en la invitación que viene de Él. Sin hacer demasiados cálculos humanos y sin preocuparse de verificar si la realidad que los rodea coincide con sus seguridades. Remar mar adentro, salir de nosotros mismos, de nuestro pequeño mundo y abrirnos a Dios, para abrirnos cada vez más también a los hermanos. ¡Abrirnos a Dios nos abre a los otros! Hacer algún paso más allá de nosotros mismos, pequeños pasos, saliendo de ustedes mismos, hacia Dios y hacia los otros. Abriendo el corazón a la fraternidad, a la amistad, a la solidaridad.

3. «Navega mar adentro, y echen las redes». (v. 4.) Queridos jóvenes sardos, la tercera cosa que quiero decirles, y así respondo a las otras dos preguntas, es que también ustedes están llamados a convertirse en ‘pescadores de hombres’. No duden de emplear su vida para testimoniar con alegría el Evangelio, especialmente a sus coetáneos. Yo quiero contarles una experiencia personal: Ayer fue el 60 aniversario que sentí la voz de Jesús en mi corazón. Pero esto lo digo no para que hagan una torta aquí, no, no lo digo por eso. Pero, es un recuerdo, 60 años de aquel día, no lo olvido nunca. El Señor me hizo sentir fuertemente que debía ir por ese camino. Tenía 17 años. Pasaron algunos años, antes de que esta decisión, esta invitación, fuese concreta y definitiva. Luego pasaron tantos años de algunos éxitos, alegrías, pero también tantos años de fracasos, fragilidad, pecado. 60 años en el camino del Señor, detrás de Él, al lado de Él, siempre con Él. Sólo les digo esto: ¡No me he arrepentido! ¡No me he arrepentido! ¿Pero por qué? ¿Porque yo me siento ‘Tarzán’ y soy fuerte para ir hacia delante? ¡No! No me he arrepentido porque siempre también en los momentos más oscuros, en los momentos del pecado, en los momentos de la fragilidad, en los momentos de fracaso, he mirado a Jesús, y me he confiado en Él, y Él, ¡No me ha dejado sólo! ¡Confíen en Jesús! Él siempre va hacia delante, Él va con nosotros. Piensen. Éste es mi testimonio. Estoy feliz de estos 60 años con el Señor. ¡Vayan adelante! ¿He hablado mucho tiempo? Quedemos unidos en oración. Y vayamos en esta vida con Jesús. Lo hicieron los Santos. Los Santos son así: ¡no nacen ya perfectos, ya santos! Se convierten porque, como Simón Pedro, confían en la palabra de Dios y “reman mar adentro”. Su tierra ha dado muchos testimonios, también recientes: las Beatas Antonia Mesina, Gabriela Sagheddu, Giuseppina Nicoli; los Siervos de Dios Edvige Carbonos, Simonetta Tronci y Don Antonio Loi. ¡Son personas comunes que en lugar de lamentarse han tirado las redes para la pesca. Imiten su ejemplo, confíense a su intercesión, y sean siempre hombres y mujeres de esperanza. ¡Nada de lamentos! ¡Nada de desánimo! ¡Nada de tirarse abajo! ¡Nada de ir a comprar consolación de muerte! Ir adelante con Jesús, Él, ¡no fracasa jamás!, Él no desilusiona, Él, es leal. Recen por mi y que la Virgen los acompañe.



Encontrar a Jesús, su amor y misericordia es la aventura más grande y más bella, dijo Francisco a los jóvenes en Cerdeña

(RV).- (Con audio) RealAudioMP3 “Tengan el coraje de ir contra corriente, no se dejen llevar por la corriente” invitó el Obispo de Roma a los jóvenes, porque “encontrar a Jesús, hacer experiencia de su amor y de su misericordia es la aventura más grande y más bella que le puede suceder a una persona”.

El Sucesor de Pedro, después de afirmar frente a los jóvenes sardos, que verlos lo hizo pensar en la Jornada Mundial de la Juventud en Río de Janeiro, se inspiró en la actitud de Pedro, cuando en el evangelio, después de haber trabajado toda la noche sin haber pescado nada, confiado en Jesús vuelve a remar mar adentro y echa las redes, para afirmar que las experiencias de fracaso en la juventud no los debe llevar a dejarse vencer por el pesimismo y la desconfianza. “¡Un joven sin alegría y sin esperanza es preocupante!, ¡No es un joven!”, expresó el Papa Francisco.

Pedro con coraje, sale de sí mismo y elige confiar en Jesús y tira nuevamente las redes. Frente a la amenaza del lamento y la resignación el camino es Jesús –expresó el Papa-, hacer subir a Jesús a nuestra barca y remar mar adentro con él. ¡El es el Señor!, el cambia la perspectiva de vida. La fe en Jesús conduce a una esperanza que va más allá, a una certeza fundada no solamente en nuestras cualidades y habilidades, sino sobre la palabra de Dios, sobre la invitación que viene de él.

Remar mar adentro, salir de sí mismo, de nuestro pequeño mundo y abrirse a Dios para abrirse siempre más también a los hermanos, ha sido la fuerte invitación del Papa Francisco a los jóvenes, recordándoles que también ellos están llamados a ser “pescadores de hombres”. Les pidió que no duden en gastar la vida para dar testimonio con alegría del Evangelio, porque su contribución es indispensable para la misión de la Iglesia que es la evangelización.

(Jesuita Guillermo Ortiz – RV).

(未翻訳)9月22日、セルデニャ大聖堂にて、カリタスの援助を受けている貧者や囚人との集い:主と善意の多くの人々から愛されていることを感じてください

  
(RV).- (Con audio) RealAudioMP3 “En sus rostros veo fatiga, pero veo también esperanza. Siéntanse amados por el Señor, y también por tantas personas buenas, que con sus oraciones y con sus obras, ayudan a aliviar los sufrimientos del prójimo. Yo me siento en casa aquí entre ustedes”, expresó el Obispo de Roma en el encuentro en la Catedral de Cerdeña, con los pobres y carcelados asistidos por Cáritas, en su peregrinación del 22 de setiembre a la Virgen del Buen Aire.

Dijo inmediatamente que somos todos hermanos, que no hay uno mejor que otro y que él único Padre es nuestro Padre celeste, y el único Maestro es Jesucristo. ¡Mirémoslo a Él!, invitó. Esto nos da tanta fuerza, tanto consuelo en nuestras fragilidades, en nuestras miserias y en nuestras dificultades”.

“Mirando a Jesús nosotros vemos que Él ha elegido el camino de la humildad y del servicio. Es más, Él mismo en persona es este camino: “Yo soy el camino” - dijo a los discípulos. Jesús no fue indeciso, no fue indiferente: hizo una elección y la llevó adelante hasta el final. Eligió hacerse hombre, y como hombre de hacerse siervo, hasta la muerte en la cruz. Éste es el camino de la caridad. Por ello vemos que la caridad no es asistencialismo: es una elección de vida, es un modo de ser, de vivir; es el camino de la humildad y de la solidaridad. La humildad de Cristo no es un moralismo, un sentimiento. La humildad de Cristo es real, es la elección de ser pequeño, de estar con los pequeños, con los excluidos, de estar entre nosotros, pecadores. Pero atención, ¡no es una ideología! Es un modo de ser y de vivir que parte del amor, que parte del corazón de Dios Padre”.

Seguidamente Papa Francisco dijo hablando de Jesús, que no basta mirar, ¡hay que seguir! Jesús es el camino, y un camino sirve para transitar, para recorrer. Entonces, ante todo yo quiero agradecer al Señor –dijo, por su empeño en el seguirlo, también en la fatiga, en el sufrimiento, entre las paredes de una cárcel. ¡Sigamos teniendo fe en Él, donará a su corazón esperanza y alegría!

El Sucesor de Pedro afirmó que no podemos seguir a Jesús en el camino de la caridad si no nos queremos primero que todo entre nosotros, si no nos esforzamos en colaborar, en comprendernos recíprocamente y en perdonarnos, reconociendo cada uno los propios límites y los propios errores. “¡Debemos hacer las obras de misericordia con misericordia! ¡Las obras de caridad con caridad, con ternura, y siempre con humildad! ¿Saben? ¡A veces también se encuentra la arrogancia en el servicio a los pobres! Algunos se hacen lindos, se llenan la boca con los pobres; algunos instrumentalizan a los pobres por intereses personales o del propio grupo. ¡Lo sé, esto es humano, pero no va bien! Y digo más: ¡esto es pecado! ¡Un pecado grave! ¡Sería mejor que estas personas se quedaran en casa!”

El Vicario de Cristo dijo que siguiendo a Cristo en el camino de la caridad sembramos esperanza. Como Iglesia todos tenemos una responsabilidad fuerte que es aquella de sembrar la esperanza con obras de solidaridad, buscando siempre de colaborar en el mejor modo con las instituciones públicas, en el respeto de las respectivas competencias. “La Caritas es expresión de la comunidad, y la fuerza de la comunidad cristiana es hacer crecer la sociedad desde el interno, como la levadura. Pienso en sus iniciativas con los detenidos en las cárceles, pienso al voluntariado de muchas asociaciones, a la solidaridad con las familias que sufren de más a causa de la falta de trabajo. En esto les digo: ¡Coraje! ¡No se dejen robar la esperanza y vayan hacia adelante! ¡Gracias, queridos amigos! Los bendigo a todos, junto con sus familias”.

(Jesuita Guillermo Ortiz – RV).


Texto completo del discurso del Papa Francisco

Queridos hermanos y hermanas,

Gracias a todos por estar aquí, hoy. En sus rostros veo fatiga, pero también veo esperanza. Siéntanse amados por el Señor, y también por tantas personas buenas, que con sus oraciones y con sus obras, ayudan a aliviar los sufrimientos del prójimo. Yo me siento en casa aquí. Y espero que también ustedes se sientan en casa en esta Catedral: como se dice en América Latina, “esta casa es su casa”. Es su casa.

Aquí sentimos en modo fuerte y concreto que somos todos hermanos. Aquí el único Padre es nuestro Padre celeste, y el único Maestro es Jesucristo. Entonces la primera cosa que querría compartir con ustedes es justamente esta alegría de tener a Jesús como Maestro, como modelo de vida. ¡Mirémoslo a Él! Esto nos da tanta fuerza, tanto consuelo en nuestras fragilidades, en nuestras miserias y en nuestras dificultades. Todos nosotros tenemos dificultades, todos. Todos los que estamos aquí tenemos dificultades. Todos los que estamos aquí, todos, tenemos miserias. Y todos tenemos fragilidad. Ninguno aquí es mejor que el otro, todos somos iguales ante el Padre. Todos.

Y mirando a Jesús nosotros vemos que Él ha elegido el camino de la humildad y del servicio. Es más, Él mismo en persona es este camino. Jesús no fue indeciso, no fue indiferente: hizo una elección y la llevó adelante hasta el final. Eligió hacerse hombre, y como hombre hacerse siervo, hasta la muerte en la cruz. Éste es el camino del amor, no hay otro. Por ello vemos que la caridad no es un simple asistencialismo, y menos aún, un asistencialismo para tranquilizar conciencias, no, eso no es amor, ¡eso es negocio! El amor es gratuito. La caridad, el amor, es una elección de vida, es un modo de ser, de vivir; es el camino de la humildad y de la solidaridad. No hay otro camino para este amor: ser humildes y solidarios. Esta palabra “solidaridad”, en esta cultura del descarte – lo que no sirve, se tira – para quedar sólo quienes se sienten justos, que se sienten puros, que se sienten limpios, pobrecillos. Esta palabra “solidaridad” corre el riesgo de ser cancelada del diccionario. Porque es una palabra que da fastidio, porque te obliga a mirar al otro y a darte al otro con amor. Es mejor cancelarla del diccionario. Y nosotros ¡no!, nosotros decimos: ¡éste es el camino! La humildad y la solidaridad ¿por qué? ¿La inventamos nosotros los sacerdotes? ¡No! ¡Es de Jesús, Él la dijo! Y queremos ir por este camino. La humildad de Cristo no es un moralismo, un sentimiento.

La humildad de Cristo es real, es la elección de ser pequeño, de estar con los pequeños, con los excluidos, de estar entre nosotros, pecadores. Pero atención, ¡no es una ideología! Es un modo de ser y de vivir que parte del amor, que parte del corazón de Dios Padre.

Ésta es la primera cosa, y me gusta tanto hablar de ella con ustedes. Miremos a Jesús: Él es nuestra alegría, pero también nuestra fuerza, nuestra certeza, porque es el camino seguro: humildad, solidaridad, servicio. No hay otro camino. En la estatua de Nuestra Señora de Bonaria Cristo aparece entre los brazos de María. Ella, como buena madre, nos lo indica, nos dice de tener confianza en Él.

Pero no basta mirar, ¡hay que seguir! Y éste es el segundo aspecto. Jesús no ha venido al mundo a hacer un desfile, para hacerse ver. No, no ha venido para esto. Jesús es el camino, y un camino sirve para transitar, para recorrer. Entonces, ante todo yo quiero agradecer al Señor por su empeño en el seguirlo, también en la fatiga, en el sufrimiento, entre las paredes de una cárcel. ¡Sigamos teniendo fe en Él, donará a su corazón esperanza y alegría! Quiero agradecerle por todos ustedes que se dedican generosamente, aquí en Cagliari y en toda la Cerdeña, a las obras de misericordia. Deseo animarles a continuar en este camino, a avanzar juntos, tratando de conservar ante todo la caridad entre ustedes. Esto es muy importante. No podemos seguir a Jesús en el camino de la caridad si no nos queremos, primero que todo, entre nosotros, si no nos esforzamos en colaborar, en comprendernos recíprocamente y en perdonarnos, reconociendo cada uno los propios límites y los propios errores. ¡Debemos hacer las obras de misericordia pero con misericordia! Con el corazón. ¡Las obras de caridad con caridad, con ternura, y siempre con humildad! ¿Saben? ¡A veces también se encuentra la arrogancia en el servicio a los pobres! Estoy seguro de que ustedes la han visto. La arrogancia en el servicio a quienes necesitan de nuestro servicio. Algunos se hacen “lindos”, se llenan la boca con los pobres; algunos instrumentalizan a los pobres por intereses personales o del propio grupo. ¡Lo sé, esto es humano, pero no va bien! No es de Jesús esto. Y digo más: ¡esto es pecado! Es un pecado grave, porque es “usar” a los necesitados, a los que necesitan, que son la carne de Jesús, para “mi vanidad”. ¡Esto es pecado grave! ¡Sería mejor que estas personas se quedaran en casa!

Pues: seguir a Jesús en el camino de la caridad, ir con Él a las periferias existenciales. “¡La caridad de Jesús es una urgencia!”, escribía San Pablo (Cfr. 2 Co 5, 14) Para el buen Pastor lo que está lejano, periférico, lo que está apartado y despreciado es objeto de un cuidado mayor, y la Iglesia no puede que hacer suya esta predilección y esta atención. En la Iglesia los primeros, son aquellos que tienen más necesidad: humana, espiritual, material. Más necesidad.

Siguiendo a Cristo en el camino de la caridad, nosotros sembramos esperanza. Sembrar esperanza. Ésta es la tercera convicción que me gusta compartir con ustedes. La sociedad italiana tiene hoy mucha necesidad de esperanza y Cerdeña de modo particular. Quien tiene responsabilidades políticas y civiles tiene la propia tarea, que como ciudadanos hace falta sostener de modo activo. Algunos miembros de la comunidad cristiana son llamados a empeñarse en este campo de la política, que es una forma alta de caridad, como decía Pablo VI. Pero como Iglesia todos tenemos una responsabilidad fuerte que es aquella de sembrar la esperanza con obras de solidaridad, buscando siempre de colaborar en el mejor modo con las instituciones públicas, en el respeto de las respectivas competencias. La Caritas es expresión de la comunidad, y la fuerza de la comunidad cristiana es hacer crecer la sociedad desde el interno, como la levadura. Pienso en sus iniciativas con los detenidos en las cárceles, pienso al voluntariado de muchas asociaciones, a la solidaridad con las familias que sufren de más a causa de la falta de trabajo. En este les digo: ¡Coraje! ¡No se dejen robar la esperanza y vayan hacia adelante! Que no se la roben, al contrario, ¡sembrar esperanza! ¡Gracias, queridos amigos! Los bendigo a todos, junto con sus familias.

(未翻訳)9月22日(日)、ボナリアのマリア聖地でのミサ:温もりに満ちたマリアの眼差しを誰もわたしたちから奪わないように

“Que no nos roben la mirada de María, que está llena de ternura”, dice el Papa en su homilía en el Santuario de Nuestra Señora de Bonaria



(RV).- (Con audio) El Papa Francisco celebró esta mañana la Santa Misa en el Santuario de Nuestra Señora de Bonaria, vinculado de modo especial a su ciudad natal de Buenos Aires al que debe su nombre. Fuera de la basílica el Pontífice mantuvo un encuentro con las autoridades civiles, y otro con los enfermos.

Durante la Misa, al término de la Comunión el Papa se dirigió ante la imagen de la Virgen de Bonaria para realizar un acto de consagración a María, ofreciendo un homenaje floral e incensando la estatua mientras se cantaba el himno Madre Santa.

(MFB – RV).

En su homilía, el Sucesor de Pedro dijo: RealAudioMP3

Texto completo de la homilía del Santo Padre:
Sa paghe ‘e Nostru Segnore siat sempre chin bois Que la Paz de Nuestro Señor esté siempre con ustedes

Hoy se realiza aquel deseo que había anunciado en la Plaza de San Pedro, antes del verano, de poder visitar el Santuario de Nuestra Señora del Bonaria.

Vine para compartir con ustedes, gozo y esperanza, fatigas y compromisos, ideales y aspiraciones de su isla, y para confirmarlos en la fe. También aquí en Cágliari, como en toda Cerdeña, no faltan dificultades, problemas y preocupaciones, y son tantos: pienso, en particular, en la falta de trabajo y en la precariedad del mismo, y por lo tanto en la incertidumbre del futuro. Cerdeña, su bella región, sufre desde hace mucho tiempo, muchas situaciones de pobreza, acentuadas también por su condición insular. Es necesaria la colaboración leal de parte de todos, con el compromiso de los responsables de las instituciones, también de la Iglesia, para asegurar a las personas y familias los derechos fundamentales y hacer crecer una sociedad más fraterna y solidaria. Asegurar el derecho al trabajo, el derecho a llevar el pan a la casa. Pan ganado con el trabajo. Les estoy muy cercano, los recuerdo en la oración y los aliento a perseverar en el testimonio de los valores, humanos y cristianos, tan profundamente arraigados en la fe y en la historia de este territorio y de su población. “Mantengan siempre encendida la luz de la esperanza”.

He venido en medio de ustedes para ponerme con ustedes a los pies de la Virgen que nos da a su Hijo. Se bien que María, Nuestra Madre, está en sus corazones, como testimonia este Santuario, donde muchas generaciones de sardos han subido – ¡y continuarán subiendo! – para invocar la protección de la Virgen de “Bonaria”, Patrona Máxima de la isla. Aquí ustedes traen las alegrías y sufrimientos de esta tierra, de sus familias, y también de aquellos hijos que viven lejos, que muchas veces partieron con gran dolor y nostalgia para buscar un trabajo y un futuro para ellos y para sus seres queridos. Hoy, todos nosotros aquí reunidos, queremos agradecer a María, porque nos está siempre cercana, queremos renovarle a ella nuestra confianza y nuestro amor.

La Primera Lectura que hemos escuchado nos muestra a María en oración en el Cenáculo, junto a los Apóstoles, en espera de la efusión del Espíritu Santo (Cfr. Hc 1, 12-14). María reza, reza junto a la Comunidad de los Discípulos y nos enseña a tener plena confianza en Dios, en su misericordia. ¡La potencia de la Oración! No nos cansemos de llamar a la puerta de Dios. ¡Llevemos al corazón de Dios a través de María, toda nuestra vida, cada día!

En cambio, en el Evangelio, acogemos sobre todo la última mirada de Jesús hacia su Madre. Desde la cruz, Jesús mira a su Madre y a ella le confía el Apóstol Juan, diciendo: “Éste es tu Hijo”. En Juan estamos todos, también nosotros, y la mirada de Amor de Jesús nos confía a la custodia materna de la Madre. María habrá recordado otra mirada de Amor, cuando era una jovencita: la mirada de Dios Padre, que había mirado su humildad, su pequeñez. María nos enseña que Dios no nos abandona, puede hacer grandes cosas también con nuestra debilidad. ¡Tengamos confianza en Él! Llamemos a la puerta de su corazón.

Y el tercer pensamiento: hoy he venido en medio de ustedes, es más, hemos venido todos juntos para encontrar la mirada de María, porque allí está el reflejo de la mirada del Padre que la hace Madre de Dios, y la mirada del Hijo desde la cruz, que la hace Madre nuestra. Y con aquella mirada hoy María nos mira. Tenemos necesidad de su mirada de ternura, de su mirada materna que nos conoce mejor que cualquier otro, de su mirada llena de compasión y de cuidado. María, hoy queremos decirte: ¡Madre, danos tu mirada! Tu mirada nos lleva a Dios, tu mirada es un don del Padre bueno, que nos espera en cada encrucijada de nuestro camino. Es un don de Jesucristo en la cruz, que carga sobre sí nuestros sufrimientos, nuestras fatigas, nuestros pecados. Y para encontrar este Padre, lleno de amor, hoy le decimos: ¡Madre, danos tu mirada! Lo decimos todos juntos: ¡Madre, danos tu mirada!

En el camino, muchas veces difícil, no estamos solos, somos tantos, somos un pueblo, y la mirada de la Virgen, nos ayuda a mirarnos entre nosotros de modo fraterno. ¡Mirémonos de un modo más fraterno! María nos enseña a tener esa mirada que busca acoger, acompañar, proteger. ¡Aprendamos a mirarnos, los unos a los otros, bajo la mirada materna de María! Hay personas que instintivamente no tenemos en cuenta, y que sin embargo tienen más necesidad: Los más abandonados, los enfermos, aquellos que no tienen de qué vivir, aquellos que no conocen a Jesús, los jóvenes que están en dificultad, que no tienen trabajo. No tengamos miedo de salir y mirar a nuestros hermanos y hermanas con la mirada de la Virgen. Ella nos invita a ser verdaderos hermanos. Y no permitamos que alguna cosa o alguno se interponga entre nosotros y la mirada de la Virgen. ¡Madre, danos tu mirada! ¡Que ninguno nos esconda tu mirada! Nuestro corazón de hijos sepa defenderla de tantas palabras que prometen ilusiones; de aquellos que tienen una mirada ávida de vida fácil, de promesas que no se pueden cumplir. Que no nos roben la mirada de María, que está llena de ternura. Que nos da fuerza, que nos hace solidarios entre nosotros. Digamos todos: ¡Madre, danos tu mirada!

Nostra Segnora ‘e Bonaria bos acumpanzet sempre in sa vida. ¡Madre, danos tu mirada! Que Nuestra Señora de Bonaria los acompañe siempre en sus vidas.

(未翻訳)9月21日(土)、朝ミサ説教:誰もが主の眼差しを感じてきました。一回だけではなく、何度もです!

9月21日(土)聖マタイ使徒福音記者(祝)
          エフェソ4・1-7、11-13
          マタイ9・9-13


(RV).- (Audio y video) RealAudioMP3 Dejémonos mirar por Jesús, su mirada cambia la vida: lo dijo el Papa Francisco la mañana del sábado, durante la Misa en la Casa de Santa Marta, comentando el Evangelio que narra la conversión de San Mateo. Jesús mira a los ojos a Mateo, un recaudador de impuestos, un pecador. El dinero es su vida, su ídolo. Pero ahora – afirmó Francisco – siente “en su corazón la mirada de Jesús que lo observaba”:

Y aquella mirada lo envolvió totalmente, le cambió la vida. Nosotros decimos: lo ha convertido. Le ha cambiado la vida. “Apenas sintió en su corazón aquella mirada, se levantó y lo siguió”. Y esto es verdad: la mirada de Jesús nos levanta siempre. Una mirada que nos eleva, que jamás te deja ahí , ¿eh?, jamás. Jamás te abaja, jamás te humilla. Te invita a levantarte. Una mirada que te hace crecer, ir adelante, que te da valor, porque te quiere. Te hace sentir que Él te quiere. Y esto da aquel valor para seguirlo: “Y él se levantó y lo siguió”.
La mirada de Jesús – subrayó el Papa – no es algo “mágico: Jesús no era un especialista en hipnosis”. “Jesús miraba a cada uno, y cada uno se sentía mirado por Él, como si Jesús dijese su nombre … Y esta mirada cambiaba la vida, a todos”. De esta manera cambió a Pedro, que después de haberlo renegado encuentra su mirada y llora amargamente. Luego está la última “mirada de Jesús sobre la Cruz: mira a la mamá, miró al discípulo y nos dijo, con aquella mirada, nos dijo que su mamá era la nuestra y que la Iglesia es madre. Con una mirada”. Luego miró al Buen Ladrón y una vez más a Pedro, “asustado, luego de la Resurrección, con aquellas tres preguntas: ‘¿Me amas?’. Una mirada que lo hacía avergonzarse. Nos hará bien pensar, rezar sobre esta mirada de Jesús – subrayó el Papa – y también dejarse mirar por Él”. Jesús, ahora, va a la casa de Mateo y mientras se sienta a la mesa llegan muchos pecadores: “se había corrido la voz. Y toda la sociedad – pero no la sociedad limpia – se sintió invitada a aquel convite”, como ocurre en la parábola del rey que ordena a los criados ir a buscar a los cruces de los caminos para invitar al banquete nupcial del hijo a todos los que encuentren, buenos y malos:

Y los pecadores, publicanos y pecadores, sentían … pero, Jesús los había mirado y aquella mirada de Jesús sobre ellos creo fue como un soplo sobre las brasas, y ellos sintieron que había fuego dentro, aun, y que Jesús los hacia subir, les devolvía la dignidad. La mirada de Jesús siempre nos hace dignos, nos da dignidad. Es una mirada generosa. “Pero mira qué Maestro: ¡come con la podredumbre de la ciudad!”: pero bajo esa podredumbre estaban las brasas del deseo de Dios, las brasas de la imagen de Dios que querían que alguno las ayudase a convertirse en fuego. Y esto lo hacía la mirada de Jesús.
“Todos nosotros, en la vida – concluyó el Papa - hemos sentido esta mirada, y no una vez: ¡tantas veces! Quizás en la persona de un sacerdote que nos enseñaba la doctrina o nos perdonaba los pecados … quizás en la ayuda de personas amigas”:

Pero, todos nosotros nos encontraremos delante de aquella mirada, aquella mirada maravillosa. Y vamos adelante en la vida, con la certidumbre que Él nos mira. Pero también Él nos espera para mirarnos definitivamente. Y aquella última mirada de Jesús sobre nuestra vida será para siempre, será eterna. Lo pido a todos los Santos que han sido mirados por Jesús, que nos preparen a dejarnos mirar en la vida, y que nos preparen también a aquella última – ¡y primera! – mirada de Jesús. (RC-RV)

(未翻訳)9月20日(金)、朝ミサ説教:お金では誰も救われない



 9月21日(土)聖マタイ使徒福音記者(祝)
          エフェソ4・1-7、11-13
          マタイ9・9-13

(RV).- (Audio y video) RealAudioMP3 El dinero enferma el pensamiento y la fe y nos hace ir por otro camino. Lo dijo el Papa Francisco en la Misa de esta mañana en la Casa de Santa Marta. El Papa subrayó que, de la idolatría del dinero, nacen males como la vanidad y el orgullo que nos vuelven “maníacos de cuestiones ociosas”.

“No se puede servir a Dios y al dinero”. El Pontífice desarrolló su homilía partiendo de las palabras de San Pablo sobre la relación “entre el camino de Jesucristo y el dinero”. Hay algo “en la actitud de amor hacia el dinero – observó – que nos aleja de Dios”. Hay “tantas enfermedades, tantos pecados, pero Jesús – continuó el Santo Padre – sobre esto subraya tanto”: “la avidez del dinero, de hecho, es la raíz de todos los males”. Posesionados por “este deseo”, constató el Papa, “algunos se han desviado de la fe y se han procurado muchos tormentos”. Y con amargura el Obispo de Roma aseguró: “Es tan grande el poder del dinero, que te hace también desviar de la fe”, es más “te quita la fe: la debilita y tú la pierdes!”:

“El dinero también enferma el pensamiento, también enferma la fe y la hace ir por otro camino. Estas palabras ociosas, discusiones inútiles… Y va más adelante… De eso nacen las envidias, los litigios, las maledicencias, las sospechas, los conflictos de hombres corruptos en la mente y privados de la verdad, que consideran a la religión como una fuente de lucro. ‘Yo soy católico, yo voy a la Misa, porque aquello me da un cierto estatus. Soy bien considerado… Pero por debajo me ocupo de mis intereses, ¿no? Soy un cultor del dinero. Y a este punto dice una palabra, que encontramos tan, tan frecuentemente en los periódicos: ‘Hombres corruptos en la mente’. ¡El dinero corrompe! No hay escapatoria”.

Si eliges “el camino del dinero”, advirtió el Papa, “al final serás un corrupto”. El dinero, continuó, “tiene esta seducción de hacerte resbalar lentamente en tu propia perdición”. Francisco hizo notar que “Jesús es muy enérgico” sobre este argumento:

“‘No puedes servir a Dios y al dinero’. No se puede: ¡o uno o el otro! ¡Esto no es comunismo, eh! ¡Esto es Evangelio puro! ¡Estas son las palabras de Jesús! ¿Qué cosa sucede con el dinero? Al inicio el dinero te ofrece un cierto bienestar. Está bien, luego te sientes un poco importante y viene la vanidad. Lo hemos leído en el Salmo cuando aparece esta vanidad. Esta vanidad que no sirve, pero tú te sientes una persona importante: esa es la vanidad. Y de la vanidad a la soberbia, al orgullo. Hay tres escalones: la riqueza, la vanidad y el orgullo”.
“¡Ninguno – recordó el Papa – puede salvarse con el dinero!”. Sin embargo, observó, “el diablo toma siempre este camino de tentaciones: la riqueza, para sentirte autosuficiente; la vanidad, para sentirte importante; y, al final, el orgullo, la soberbia: es precisamente su lenguaje la soberbia”:

“‘Pero, Padre, yo leo los Diez Mandamientos y ninguno habla mal del dinero. Contra cuál Mandamiento se peca cuando uno comete una acción por el dinero’”. ¡Contra el primero! ¡Pecas de idolatría! He aquí el por qué: ¡porque el dinero se convierte en ídolo y tú le rindes culto! Y por esto Jesús nos dice que no puedes servir al ídolo dinero y al Dios Viviente: o a uno o al otro. Los primeros Padres de la Iglesia - hablo del siglo III, más o menos el año 200, el año 300 - decían una palabra fuerte: ‘El dinero es el estiércol del diablo’. Y es así, porque nos hace idólatras y enferma nuestra mente con el orgullo y nos hace maníacos de cuestiones ociosas y nos aleja de la fe, corrompe’”.

San Pablo, agregó el Papa, nos dice evitar estas cosas, y tender “a la justicia, a la piedad, a la fe, a la caridad”. Y también a la paciencia, “contra la vanidad y el orgullo” y “a la docilidad”. Este, afirmó el Papa Francisco, es “el camino de Dios, no aquel del poder idólatra que puede darte el dinero”. La humildad es “el camino para servir a Dios”. “Que el Señor – concluyó el Obispo de Roma – nos ayude a todos a no caer en la trampa de la idolatría del dinero”. (RC-RV)

2013年9月19日木曜日

9月18日(水)、一般謁見:「わたしは教会の『ママ(お母さん、母ちゃん)』としてのイメージが大好きです!」


 教会は教え、守り、子どもたちのために祈り、特に助けを必要としている子たちのために祈るお母さん(ママ)のようです。と今朝、ローマ司教は一般謁見のためにサン・ピエトロ広場に集まった何千もの巡礼者たちを前に思い返した。教皇の要理を教会の母性的な面持ちを見ることにそのテーマを戻しながら、お母さんがすることに着想を得て三つの局面を取り上げた。お母さんはわたしたちに人生を歩むことを教え、この歩みの間わたしたちをかばい、わたしたちのために神に祈る。教会は、温もりと慎み深さをもってわたしたちの生き方を導く。ここで十戒を引き合いに出しながら、これを読み、そのポジティブな仕方でこれを理解するように招いた。というのも十戒というものは、お母さんが子どもたちによかれとして与える訓戒のように、神の温もりの実りだからである。

 教会を助ける愛の力は、子どもたちが間違える時にも理解しながら、手を貸しながら近くで一緒に歩み、子どもたちの歩みを慎重に支えるお母さん(ママ)のようである。教会は、その息子たち一人一人のため、特に中でも一番助けを必要としている子どもたちに一切努力を出し惜しみしないように、特に祈りをもって、あらゆる扉を叩いて回り、主の心に祈る。息子聖アウグスティヌスのためにささげた聖女モニカの祈りにおける継続力を思い出しながら、パパ・フランシスコはお母さんたちに向かって、主の広い心に信頼しながら自分たちの子どもたちのために神に祈るようにと励ました。

2013年9月18日水曜日

9月17日(火)、朝ミサ説教:教会が泣かない時には、なにかがうまくいっていない。

 9月17日(火)聖ロベルト・ベラルミノ司教教会博士
          一テモ3・1-13
          ルカ7・11-17

 教会はその夫と引き合わせに息子たちを連れていくにあたり彼らを守る女性の持つ勇気を持っています。パパ・フランシスコは聖マルタの家の火曜日の朝ミサ中に強調した。教皇はイエスとナインの寡婦との出会いについて回想した。そこで歴史の中で歩み主との出会いを探し求める局面を持つ教会の「寡婦性」の局面について語りながら回想した。

 イエスは「わたしたちと共に苦しみ、苦しむわたしたちの近くにおられ、それを自分のものとする能力が」あります。ローマ司教はその説教を、今日の福音が語っている、イエスとナインの寡婦との出会いに端を発して繰り広げた。強調して言った。イエスは、今や息子をも失ったこの寡婦を「深く憐れまれた」。続けて言った。イエスは、「当時女性が寡婦となることが何を意味しているか」知っていた。そして「寡婦の皆さんのために主は特別な愛を抱いており、面倒を見ていました」。この福音の一節を読みながら、と付加しながら言った。わたしは「この寡婦が」、「少し教会のイコンだった。なぜなら教会もある意味では寡婦のようなものだから」

 「その夫はどこかへ行ってしまい、彼女は歴史の内で歩き、これに出会うことを待ち、主と共にまみえることを待ち望んでいた。そして彼女は決定的に妻となるだろう。けれどその間、彼女、すなわち教会は、一人ぼっちです!主にはできません。そこには寡婦性のある種の次元があります。・・・「そしてわたしは教会の寡婦状態について考えさせられます。この勇気ある教会は、子どもたちを保護して、保護したうえで、ついに勝利するのです。母である教会、わたしたちの母は勇敢です!教会には、その息子たちが自分の子らであることを知り、彼らを守り、その子らを夫と引き合わせる勇気があるのです。」 

 パパは聖書に見られる何人かの寡婦の代表者たちの姿を見つめ、特に神を否認しなかったために殉教した七人の子どもたちを持つマカバイ人の勇気ある寡婦のことを特記した。聖書は、この女性について「その方言で、最初に覚えた言葉で」子どもたちに語りかけたことを告げている、と教皇は強調した。そして、わたしたちの母である教会も、方言でわたしたちに語りかけている、つまり「わたしたちすべてが理解する本当の正当な言葉づかい、カトリックのあの言語」で、「まさに悪に対する戦いにおいて前進するための力を下さる」

 「この教会が持つ寡婦の局面は、出会いを求め、その夫を見つけることを待っています・・・。わたしたちの母なる教会は、このようなものです!つまり忠実であるならば、泣くことを知っている教会です。教会が泣かない時、何かがうまくいっていません。その息子たちのために泣き、そして祈りなさい!前進し、その息子たちを育む教会は、最終的に『教会も出会うであろうその夫の手の中で手放していくための最後の別れまで』、彼らは力を与え、ともに寄り添うようにします。これこそがわたしたちの母なる教会です!わたしはこの、泣いている寡婦のことが分かって来ました。ここで教会に対して主は何を言っているでしょう?わたしには、泣いている、この寡婦において何かを見ます。そこで主は教会に対してどんなことを語っているのでしょう?『泣かないで。わたしはあなたと共にいて、あなたを待ち、あちら、婚礼において、最後の婚礼において待っています』。立ち止まりなさい!このあなたの息子は死んでいたが、今は生きている!』」

 このことは、「主と教会との対話です」。「教会はその子らを守る、けれど子どもたちが死んでいるのを見ると、泣き、そこで主は教会に向かって言います。「わたしはあなたと共にいるよ。あなたの息子はわたしと一緒にいるよ」と。ナインの青年に死の住まいから立ち上がるようにといったように、何度もイエスはわたしたちにも「罪のために死んでしまっている時に」立ち上がるようにと言い、「そこでわたしたちは赦しを願うのです」。では「わたしたちを赦し、いのちを取り戻してくれる時に」イエスがすることは何でしょうか?母の手に返してくれるのです。

 「わたしたちの主との和解は、『わたしとあなた、そしてわたしにゆるしを下さった神父』だけの対話に終わりません。わたしたちが母の手に返された時に終るのです。そこで和解が完結します。なぜなら母なる教会をおいて他にはいのちの道、赦し、和解はないからです。そうして、この寡婦を見ていると、こうしたことがすべてわたしの脳裏に浮かんできます。すこし雑多です・・・。けれどこの寡婦に夫(であるキリスト)に出会うための途上にある教会の寡婦性のイコン(代表的モデル)が見えます。いつもわたしたちをかばい、わたしたちに教え、育て、その方言で語りかけてくれるこの「ママ」である教会にいつも信頼を置く恵みを主に願いたいと思います」。 
(RC-RV)

9月16日(月)、朝ミサ説教:政治をする人はその民を愛さなければならない。


 9月16日(月)聖コルネリオ教皇(記)
          聖チプリアノ司教殉教者(記)
          一テモ2・1-8
          ルカ7・1-10

 政治を司る人にとって、謙遜と愛は欠かせない特徴です。一方市民は、特にもしそれがキリスト者であるならば、政治に向かんしであってはなりません。これはパパ・フランシスコが月曜日の聖マルタの家の朝ミサの説教中に語ったことであり、そこで権力者たちのために祈るようにとも招いた。

 謙遜と信頼を持ってその僕の癒しを求める百人隊長に関する福音と、政治を司る人々のために祈るようにと招くティモテへの聖パウロの手紙が「権威者の奉仕について回想する」ために教皇に議論を突き付けることになった。フランシスコによれば、政治を司る人は「その民を愛さなければなりません」。なぜなら「愛することを知らない政治家は治世を果たすことができないからです。一番よくて教示することはできるでしょう、少し秩序を与えるというか、けれど治世にはなりません」。教皇はダビデについて引用した。「どれほど彼は民を愛していたことか」。罪の後でも、主に願ったのは民を罰するのではなく、自分を罰することでした。「政治家に必要な二つの徳」は民を愛することと、謙遜です。

 「愛なくして、また謙虚さなくして政治を司ることはできません。そして公的奉仕の地位に立たなければならないそれぞれの男性、女性は、この二つの問いをしなければならないのです。「わたしはより善く奉仕するためにわたしの民を愛しているだろうか?わたしは謙虚だろうか?そして他の人たちが言っていること、より良い道を選ぶために異なる種々の意見に耳を傾けているだろうか?」もしこの二つの問いをしないなら、皆さんの政府は善い政府にはなりません。その民を愛する政治家の男性、あるいは女性というのは、謙遜な男性、謙遜な女性です」。

 一方、聖パウロは政治家たちに「落ち着いて穏やかな人生を締めくくることができるために、権力にある人々すべてのために」祈りを神の高みまでささげるようにと勧めます。「市民は、政治に無関心であってはならないのです」とパパは強調した。

 「わたしたちの誰ひとりとして、『わたしはこのこととは無関係です。そうしたことは政治を司る人たちの問題です。いや、いや、わたしはその政治における責任ある個人で、それをより善いものにして、政治家たちが善い政治を行うようにし、できる限りの仕方で政治に関わることでこれをよりよくしていかなければならないのです』。教会の社会教説はこう言っています。政治は愛徳の最も高尚な形態のひとつです。なぜなら共通善に仕えるからです。わたしは手を洗って責任逃れをすることはできません。でしょ?わたしたちは全員何かを差し出さなければならないのです!」

 また教皇は見解を述べてこう言った。ただ政府の悪口を言うだけに留まる習慣があります。そしてそこで批判するのは「うまくいっていないこと」についての日なんです。「テレビのニュースを見て叩いて叩いて、雑誌を読んで同じように叩いて・・・。いつも悪いことばかりで、いつも反対意見です!おそらく、「政府は、そうです、罪深いものです。ダビデがそうでした。けれどわたしは自分なりの意見で、自分なりの言葉で、また自分自身の公正を含め協力しなければなりません」。なぜなら誰もが「共通善に参与しなければならない」からです!。もし「『善いカトリック信者は政治に混じらない』ということを何度も聞いてきたのなら、それは真理ではありません。それは善い道ではないのです」と教皇は強調した。

 「『善いカトリック信者は政治に干渉するものではない』というのは本当のことではありません。それは善い道ではありません。善いカトリック信者は政治の内部に入り込み、自分なりの最良のものをそこで提供して、政府が政治を行うことができるようにします。そして「政治家たちに提供できる最良のものとは何でしょうか?祈りです!これはパウロが言っていることです。『すべての人々のため、王のため、権力を行使する立場にある人々のための祈り』です。『でも、神父さん、あの人はひどい人です。地獄に行くべきです』と思う人がいれば、『その人のために祈りなさい。あの女の人のために祈りなさい。そうして政治をよく司ることができるように、そうしてその民を愛するように、そうしてその民に仕えるように、そうして謙遜になるように』。政治家たちのために祈らないキリスト者は、善いキリスト者とは言えません。『でも神父さん、相性の合わない人のためにどうすればわたし
は祈ることができるでしょう?』・・・『回心するように祈りなさい』。祈ること。そしてこれはわたしが言っているのではなく、聖パウロが言っていることです。神の言葉です』。

 ですから、「わたしたちにできる限りのことを差し出しましょう。アイデア、提案、よりよいもの、けれど何よりも最良のものは祈りです。政治家たちのために祈りましょう。わたしたちを聖字で司ってくださるように。彼らがわたしたちの国、愛する国、また世界を前進させ、平和と共通善が存在するように」
 (RC-RV)

2013年9月16日月曜日

9月15日、お告げの祈り:もし「目には目を、歯には歯を」の法に従って生きるならば、決して悪のらせんから逃れられません


 サン・ピエトロ広場に集まった何千もの信者や巡礼者とともにささげるお告げの祈りを唱える前に、 パパ・フランシスコはこの主日の典礼で、あわれみに関する三つの譬え話の出てくる聖ルカ福音書の第15章を取り上げた。そこにはいなくなった羊、なくなったお金、そして「放蕩」息子の話が出てきている。そしてこの三つの例えばは死は神の喜び、つまり赦すことについて語っていると説明した。赦しにすべての福音とキリスト教があると語った。ローマ司教は雨の降る朝、これはいい気分になることではなく、憐れみについて語ろうとしていることを強調した。

 この意味で、パパはもう一度イエスはそのすべてがあわれみで、憐れみは罪や倫理の崩れ、精神的な悪といった「癌」 から人や世界をすくことのできる本当の力であるということを思い返した。愛だけがむなしさや心や歴史に悪が開くネガティブな淵を埋めることができるのである。

 教皇はまた自分を「正しい」とみなして他者と、果ては神までをも裁く危険性について警鐘を鳴らした。なぜならそうした考えで、わたしたちは神が罪人を、赦す代わりに罰したり死に定めたりしなければならないと考えてしまうからである。「だから、父の家の外にい続けてしまう危険性に陥るのですよ!」とパパは叫んだ。そして「もし『目には目を、歯には歯を』の法律に従って生きるならば、悪のらせんから抜け出せないのです」と強調した。

 そのあいさつのなかで、スペイン語で語りながら、パパ・ベルゴリオは昨日アルゼンチンで行われたブロチェロ神父の列福についても触れた。

 「わたしはこの模範的な牧者の列福においてアルゼンチンの教会の喜びと心を一つにしたいと思います。ブロチェロ神父はロバの背中に乗って疲れを知ることなく自分の小教区の荒れた道をめぐり、家々を回って、神に導くべき者として委ねられた人々を探し続けました。キリストに、新しい福者の取り次ぎによって、ブロチェロ神父に見習って、十字架の前で跪きつつ、またあらゆるところで神の愛とあわれみの証しをしながら福音化の奉仕にその命を捧げる司祭を増やしてくださるように願い求めましょう」。

9月14日(土)、朝ミサ説教:聖母マリアが十字架の神秘がどれほど偉大で謙虚であるかをわたしたちに感じさせる

 9月14日(土)十字架称賛(祝)
          民数記21・4b-9、または
          フィリピ2・6-11
          ヨハネ3・13-17  

 まさに教会が聖なる十字架称賛の祭りを祝う日に、ローマ司教は朝ミサを捧げるにあたり、十字架の神秘は祈りと涙によってのみ近づくことのできる人間のための大いなる神秘であると語りました。なぜなら、パパがその説教の中で語ったように、十字架の神秘のうちに人間の歴史と神の歴史に出会うからです。それは楽園の善悪の知識の木と十字架の木との比較において教会の教父たちが集約させていることなのです。

「あの木はずいぶん悪いことを残し、この木は、わたしたちを救いに、健康に導きます。その悪を赦して下さい。これは人間の歴史の道のりです。愛によってその命を捧げるあがない主、イエス・キリストと出会うための道です。実際、神は世にその息子をおくりましたが、それは世を裁くためではなく、彼によって世が救われるためでした。わたしたちを、わたしたち全員を、自己満足と傲慢、知識を求めるおごり、すべてのことがわしたちのメンタリティに基づいて、わたしたちの判断基準に基づき、また世の裁き手として他のものを必要としないと思いこむような憶測に基づいて考えていくような、あちらの木がもたらした結果から、わたしたちを救うこの十字架の木です。これは人の歴史の歩みです。一つの木からもう一つの木へと移りゆく歴史です」。

 十字架にはまた、「神の歴史」もあります。「なぜなら神には一つの歴史があるということができるからです」。事実、「彼はわたしたちとともなるわたしたちの歴史と歩みを身に受けることを望まれました」。そのために人となり、僕の状況を身に受け、十字架の死まで従順になりました。

「神はこの愛の道のりを歩まれるのです!他の説明はありません。愛だけがこうしたことをするのです。今日、人間の歴史と神の歴史である十字架を見上げます。わたしたちはそのアロエの三つを、苦味のある蜜を、イエスの犠牲の苦みのある甘美さを味わうことのできるこの十字架を仰ぎ見ます。けれどこの神秘は本当に偉大で、わたしたちはただ自分だけではこの神秘をよく見ることはできません。理解するというよりも、そうです、理解するというよりも、この神秘の持つ救いを深く感じるために限りがあるのです。何よりもまず、十字架の神秘です。跪いて、祈りのうちに、ほんの少しだけ理解することができるものです。けれど、これは涙を通しても味わえるものです。涙こそが、この神秘にわたしたちを近づけるものなのです」。

「泣くことなくして、心の中で涙を流すことなくして、この神秘を理解することは決してできません」。それは悔い改める者の嘆きです。あまりに多い人間の悲惨さを見る兄弟姉妹の嘆きです。「そしてそれをイエスのうちに見るのですが、跪いて、泣きながら、決して一人にならずに見るのです。決して一人ではありません!」



「迷路ではないけれど少しそれに似たようなこの神秘に入るためには、いつも母を必要とします。お母さんの手を必要としているのです。お母さんが、マリアさまがわたしたちにこの神秘がどれほど偉大でどれほど謙虚なものであるか、どれほど満つように甘く、どれほどアロエのように苦いものであるかを感じさせてくださいますように。マリアさまが自分以外の誰にもできないこの歩みを共に歩んでくださいますように。一人ひとりが自分の歩みをしなければならないのです!お母さんであるマリアさまと共に、跪き、涙しながら」 
(María Fernanda Bernasconi – RV).

9月13日(金)、朝ミサ説教:舌を用いるのは、神を抹殺するためですか?

 9月13日(金)聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士(記)
          一テモ1・1-2、12-14
          ルカ6・39-42

 「隣人の悪口を言う人は自分の欠点を見る勇気のない偽善者です。聖マルタの家での金曜日の朝ミサでパパ・フランシスコはこう語った。教皇は陰口には「犯罪性の局面」が有ることを強調した。なぜならますます自分の兄弟達のことを悪く言うようになり、カインの他殺の行為をまねするからである。

 「なぜ兄弟の目にあるおがくずは目に留めるのに、自分の目にある丸太を見ないのか?」ローマ司教はいつの時代でも一人一人の良心を揺さぶるイエスによって立てられた問に端を発してその説教を発展させた。謙虚について語った後、イエスは正反対のことについて語る、という省察をした。「それは隣人を前にした憎むべき態度、兄弟の裁判官に成り代わるという態度です」。そこで、イエスは「強い表現をします。偽善者、と」と述べた。

「隣人を裁きながら、隣人の悪口を言いながら生きている人々は、偽善者です。なぜなら自分自身の欠点を見る力も勇気もないからです。このことについて主はいろいろな言葉を使ってわたしたちに語ります。その後で、更に先のところで、兄弟に対して心の中に少し憎しみを抱く人は殺人者であるとも言うことになります。・・・さらに使徒ヨハネは、その最初の手紙に於いて、はっきりと述べています。兄弟を憎む人は、暗闇の内に歩く、兄弟を裁く人は、暗闇の内に歩いている」と。

 わたしたちが「心の中で兄弟達を裁くとき、もっと悪い。他の人とこのことを言い合うとき、わたしたちは殺人者集団になります」。

「殺人キリスト者・・・わたしが言っていることではないですよ、主が仰るのです。そしてこの点に於いて、ヒントなどないのです。もしあなたが兄弟について悪く語るなら、あなたはその兄弟を殺しているのです。そしてわたしたちは、これをするたびに、人類の歴史で最初の殺人者、カインの行為をまねするのです」。

 教皇の見解によれば、戦争について語られ、平和がこれほどまでに求められている今の時代に於いて、「わたしたちの回心の行為が必要です」。「つぶやきは、いつもこの犯罪性の局面の上にあります。無垢な陰口など有りません」。使徒ヤコブの言葉を借りて、「舌は、神をたたえるためにあります。けれどわたしたちの舌を兄弟や姉妹のことを悪く言うために使うとき、神を殺すために使っていることになるのです」。「兄弟の内にある神の像を殺しているのです」。ある人は、陰口に値する人も居ると言うでしょう。けれど、そうあってはならないのです。

 「だったら、その人のために祈りなさいよ!その女性のために償いをしなさいよ!その後で、もし必要ならば、問題に対して対処できる人に話しに行きなさい。でも誰にでも話すものではありませんって!パウロはひどい罪人でした。そして自分自身について語っています。『以前は冒涜者、迫害者、暴力をふるう者でした。けれど憐れみを持って扱ってもらいました』。おそらく、わたしたちの誰も冒涜者ではないでしょう、おそらく。けれどもしわたしたちの内の誰かが小言を言うなら、その人が迫害者であり、暴力をふるう人であることは間違い有りません。わたしたちと、全教会のために願いましょう。陰口の犯罪性から愛、謙遜、おとなしさ、素直さ、隣人への寛大な愛へと回心する恵みを願いましょう。
(RC-RV)

9月12日(木)、朝ミサ説教:イエスの謙遜を学びましょう

 9月12日(木)マリアのみ名
          コロサイ3・12-15
          ルカ6・27-38

 イエスの「苦しみを伴う謙遜」とマリアの「やさしさ」は、福音が求めていることを生きられるようにするためにキリスト者が見つめなければならない二つの「極」である。とパパ・フランシスコはこの木曜日、聖マリアの家の小聖堂で捧げられた朝ミサの説教の中で語った。

 福音が求めていることは大変です。キリスト者に「エネルギーのあること」を求めています。赦す余裕、寛大さ、敵への愛・・・。これを実践できるようにするための形というのはたった1つです。「受難、イエスの謙遜を観想すること」、そしてその母の態度をまねすることです。そしてまさに教会が今日その聖母の「聖なる名前」を記念するにあたって、パパは説教の最初の部分の考察のためにささげた。そのことについて、この祭りは「マリアの甘美なる名前」として知られていた、と述べた。その後で、定義が変わった。「けれど祈りに於いて、その名の甘美さは残りました」。

「今日、イエスがわたしたちに求めているこうした物事を理解するために、乙女の甘美さが必要です。でしょう?なぜならこれは実際に生きるのは簡単ではないことばかりだからです。敵を愛しなさい、善を行いなさい、何も期待せずに貸しなさい・・・。片方のほほをたたかれたら、もう一方をも差し出しなさい、下着を取っていく人には、上着をも拒んではならない…。けれど、それは、大変エネルギーのいることでしょう?けれどこれは全て、独自の仕方で、乙女マリアが体験したことです。素直さの恵み、おとなしさの恵みです。

 聖パウロも、この日の典礼で読まれたコロサイ人への手紙の中で、キリスト者に「ぬくもり、善意、謙遜、おとなしさ、忍耐、互いのゆるしの感情」を身にまとうようにと招いている。ここに、「わたしたちの問いがすぐに生まれます。でも、どうすればこれが出来るのですか?と。どうすればこう出来るように自分を準備することが出来るのですか?これをするために何を勉強しなければならないのでしょうか?と」。答えは「はっきりしています」。「わたしたちは、自分の努力では、これは達成できません。わたしたちにはこれは出来ないのです。恵みにしかわたしたちの内でこれを出来るように出来ないのです」。そしてこの恵みは、具体的な道を通ってくる。

 「イエスだけのことを考えることです。もしわたしたちの心が、もしわたしたちの思いが勝利者であり、死や罪、悪魔、あらゆる事に打ち勝ったイエスと共にあるならば、イエス自身や使徒パウロがわたしたちに求めているこのことをすることが出来るのです。つまり、おとなしさ、へりくだり、善意、やさしさ、素直さ、寛大さです。もしイエスを見ないなら、もしイエスと供にいないなら、これはできません。それは恵みなのです。それはイエスを観想することから来る恵みなのです」。

 具体的に、キリスト者の観想が向かわなければならないイエスの生涯の具体的な局面がある。それはイエスの「受難」である。その「苦しむ人間性」である。「イエスの観想、神の中でイエスと共に隠れているわたしたちの人生の観想とは、そういうものです。そうしてわたしたちは、主がわたしたちに求めているこのような態度、このような徳を実践していくことが出来るのです。他に道はありません」。

 「そのおとなしい沈黙について考える。これがあなたの努力になります。彼が残りをしてくださいます。イエスが足りないところを全てしてくださいます。けれどあなたはこのことをしなければなりません。あなたの命をキリストと共に神の内に隠すことです。他に道はありません。ほかは存在しないのです。これは唯一です。善いキリスト者であるためには、イエスの謙遜、苦しみの伴う謙遜を観想しなければならないのです。証しをするために、この証しを立てるためには、これなのです。赦すには、苦しむイエスを観想しなさい。隣人を憎まないためには、苦しむイエスを観想しなさい。隣人の悪口を言わないためには、苦しむイエスを観想しなさい。これは唯一です。あなたの命を神の内にキリストと共に隠しなさい。これが使徒がわたしたちに与えている助言です。これこそが、謙虚に、おとなしく、善く、寛大に、優しくなるための助言なのです」。

9月11日(水)、一般謁見:教会を母として愛しながら、その「中で」またそれと「共に」、キリストの光を世にもたらすこと


 
 今日もまた、世界じゅうの様々なところからサン・ピエトロ広場を訪れて教皇の言葉を聞きその祝福を受けようと集まった何千もの人々をみることができた。今日もまた、一般謁見の前に、パパ・フランシスコは巡礼者たちの近くを通り、微笑みや愛情、近さを示すしぐさを交わした。この信仰年の教会に関する要理を再開しながら、教皇は第二バチカン公会議が強調する教会の「母」としての側面を強調した。おとめマリアのように、聖霊の働きによって、しんこうにおいて教会はわたしたちを生み出す、とローマ司教は強調し、「共に聖霊に呼びかけましょう。そうして教会に実りをもたらす性質を与えてくださいますように。教会が自分の殻に閉じこもることなく、地の果てまでキリストの光を運ぶために出ていくように」と勧めた。

 教会は信仰におけるわたしたちの母であるという枠組みを与えた。その子らを生み出し、共に歩む母である。その子らと喜びや痛み、失敗や成功、つまずきや勝利を分かち合う母である。教会は注意し、赦し、理解することができる母である。教皇は洗礼の恵みによってわたしたちは神の子らとして生まれたことを思い返した。そしてわたしたちすべてが教会の「中で」教会「と共に」協力するように招かれている。それはちょうど母を愛するようにである。その欠点を知りながらも、主に従うことにおいてますます美しく、本物になっていくのを助けながら。教会の一部として、ただの形式的な関係ではなく活き活きとした関係において教会生活に参加することの重要性を忘れることなく。

 

9月10日(火)、朝ミサ説教:あなたは復活のないキリスト者ですか?

 9月10日(火)日本205福音殉教者(記)
          コロサイ2・6-15
          ルカ6・12-19

 キリスト者は恐れも恥も勝利主義もなくイエスを告げ知らせるように呼ばれている。とパパ・フランシスコは今朝、火曜日の聖マルタの家でのミサの中で語った。パパは復活を知らないキリスト者になる危険性を強調し、キリストこそがいつでもわたしたちの生活の中心であり希望であることを強調した。

 イエスは勝利者である。死と罪に打ち勝ったあの方である。パパ・フランシスコはその説教を聖パウロのコロサイ人への手紙におけるイエスについての言葉について考えを巡らしながら発展させた。わたしたち全員に対して、聖パウロはイエスと共に歩むように助言する。「なぜならイエスは勝ったからです。イエスに根を下ろし、イエスの上に建てられ、この勝利の上に、信仰を固めるのです」。これはキーポイントであるとパパは強調した。「イエスは復活された!」。しかし、これを理解するのはいつも簡単だというわけではない。パパは例えば、聖パウロがアテネでギリシャ人たちに向かった時に復活について語るまでは興味深く聞いてもらえたことを思い出させた。「これはわたしたちを驚かせることだ、そこまでにしたほうがいい」と。これはわたしたちにも問いかけてくるエピソードである。

 「実に多くのキリスト者が復活を無視して生きています。復活したキリストのないキリスト者たちです。彼らは墓までイエスについて行って、泣き、彼のことをとても好きです。けれど、そこまでです。復活したキリストを持たないキリスト者のこの態度を考えると、三つのことに出会います。おびえている人たち、おびえているキリスト者たちです。恥ずかしがり屋、恥を感じている人たち、そして勝利主義者たちです。この三者は復活したキリストに出会ったことがありません!おびえている人たちは、復活の朝の人たち、エマオに向かう人たちです。去っていきます。恐れています」。

 使徒たちは、恐れのために部屋に閉じこもります。「おびえている人たちはこのようです。復活について考えるのを恐れているのです」。それはまるで、「楽譜の最初の部分に」とどまっているかのようです。「復活者を恐れているのです」。また恥ずかしがり屋のキリスト者たちがいます。「科学がこれほどまで発達したこの世で復活されたキリストについて告白するのが少し恥ずかしい」のです。こうしたキリスト者たちに向けて、教皇は、誰も哲学や人間的伝統から直観を得た虚しい罠に騙されないために注意をするようにと求める。こうした人たちは「キリストが、その肉を持って、その傷を持って復活された」と語ることに「恥を感じています」。最後に「深い所で復活者を信じておらず、あの」ほんものの「復活よりももっと派手な復活を造り出したがる」キリスト者のグループが存在する。彼らは「勝利主義者」のキリスト者である。

 「『勝利』という言葉を知らず、ただ『勝利主義』と言っています。なぜなら劣等感(inferior complex)のようなものを持っていて、色々なことをしたがります・・・。その人生において、その語りにおいて、その司牧において、その典礼において、そうしたいろいろなことにおいて勝利者の態度をたくさん持つこうしたキリスト者たちを眺めると、それはふかいところでは復活者を深く信じていないからだと見えます。けれどキリストが勝利者、復活者なのです。勝利したのです。このため、畏れなく、怯えることなく、勝利主義もなく、ただ復活した主を、その美を見つめながら、そしてまたその指を傷跡に入れ、その手を脇腹に入れるのです」。

 「これは、今日パウロがわたしたちにくれるメッセージです」。キリストが「すべてなのです」。キリストはその全体であり、希望です。「なぜならキリストは夫であり、勝利者だからです」。今日の福音は、イエスを聞きにいく大勢の群衆を示します。そしてまた、多くの病者はイエスに触れようとします。なぜなら彼から「すべての人を癒す力が出ていたからです」。

 「わたしたちの信仰、復活者の信仰、あの世に勝つ方の信仰です!イエスに向かって行きましょう。そしてこうした病者たちのように、イエスに触れられるように、その力に触れられるようにしましょう。なぜならイエスには肉も骨もあり、通り過ぎる霊的な概念ではないからです・・・。イエスは生きているのです。イエスは復活したのです。そうして、イエスは世に勝ったのです。主がこうしたことを理解し体験できる恵みをくださいますように」 
(RC-RV)

9月9日(月)、朝ミサ説教:今していることのしるし

 9月 9日(月)コロサイ1・24~2・3
          ルカ6・6-11

 希望の徳は、恐らくあの信仰や愛の特に比べればほとんど知られていないものですが、決してわたしたちのユーモアにかかっている態度である人間的な楽観主義と勘違いされてはならないものです。キリスト者にとって、希望は人としてのイエスであり、そのそれぞれのいのちを解放し再生させる力なのです。パパ・フランシスコは聖マルタの家で捧げられたミサの説教の間に今朝こう語った。

 希望とはイエスの「賜物」である。希望はイエス自身であり、その「名」を持つ。希望は普通「半分入ったコップ」を見る人のものではありません。あれはただの「楽観主義」です。そして「楽観主義は色々な物事に依拠する人間的な態度です」。これはそうした相違をはっきりすとしながらなされたパパ・フランシスコの朝の説教の基盤となったものである。その瞑想の動機はパウロがコロサイ人たちに書いている手紙の、次のような個所から来ている。「皆さんの間におられるキリストは、栄光の希望です」。しかしながら、「希望は『二級の』徳です。もっとよりよく知られている信仰や愛と言った徳に比べれば「目立たない徳」です。このために希望が落ち着いたよいユーモアと勘違いされてもおかしくないかもしれません。

 「けれど希望とは別のことです。楽観主義ではありません。希望は賜物です。聖霊のプレゼントです。そしてそのために、パウロは言うでしょう。「けっして落胆しない」と。希望は決して落胆しません。なぜでしょうか?なぜならそれは聖霊がわたしたちに下さった賜物だからです。けれどパウロは希望には名前があるとわたしたちに言います。希望はイエスです。もしあなたが『イエスに、生きたペルソナ、エウカリスティアにおいて来られ、そのみ言葉において現存しておられるイエス・キリストに希望がある』と言わない限り、『人生には希望がある。神に希望がある』ということはできません。これ以外は、希望ではありません。それはいいユーモア、楽観主義に過ぎないのです・・・」。

 パパ・フランシスコは当日の福音から別のテーマを回想のために取り上げた。イエスが手の萎えた人を安息日に癒し、律法学者やファリサイ派の人たちの咎めを引き起こすところです。その奇跡で、イエスは病気の手を解放し、「厳しい人たち」に彼らのうちの「自由の道ではない」人に示すのです。「自由と希望は共にいきます。希望のない所には自由はありえません」と教皇は言った。

 「イエスは希望であり、あらゆることをやり直します。それはたゆまぬ奇跡です。癒しの奇跡を行っただけではありません。多くのことをしました。それらはただのサイン、しるしでした。それは教会において、今行われていることなのです。あらゆることをやり直す奇跡。わたしの人生において、あなたの人生において、わたしたちの人生において行われることです。やり直すこと。そして彼がやり直すことが、まさにわたしたちの希望の動機なのです。キリストこそが、被造物のあらゆる物事を、素晴らしい仕方でやり直してくださる方です。キリストこそがわたしたちの希望の動機なのです。そしてこの希望はわたしたちを落胆させません。なぜならキリストは忠実だからです。自分自身を偽ることはできません。これこそが希望の徳なのです」。

 この点で、ローマ司教は司祭たちに特別の眼差しを向けた。「希望のない司祭に出会うのは少し悲しいです」。一方、「楽観主義ではなく希望を持って」人生の終わりにいたる人に出会うのは素晴らしいことです。「この司祭はイエス・キリストと一致し、神の民はわたしたち司祭たちを必要としています。この希望のしるしを与え、あらゆることをやり直すイエスへのこの希望を体験しましょう」。

 「栄光の希望であり、中心であり、全体である主がこの歩み、つまり希望を与えること、希望への熱意を持つことにおいてわたしたちを助けてくださいますように。そして、言ったように、いつも楽観主義ではありません。おとめマリアはその心の中で、もっとも大いなる闇を持ったのです。あの金曜日の夕方から日曜日の明け方まで。あの希望です。マリアはその希望を持っていたのです。そしてあの希望がすべてのことをやり直したのです。主がわたしたちにこの恵みを下さいますように」
(RC-RV)

9月8日(日)、お告げの祈り:善を選び、悪や憎しみ、あらゆる形の暴力を拒む勇気を持つこと

9月7日

El Papa en la semana

(RV).- (Con audio) RealAudioMP3 Sólo aquello que lleva a Jesús es válido, aseguró el Papa en la misa de la mañana del pasado 7 de septiembre. Pero si tú no logras adorar a Jesús, algo te falta. Una regla, una señal. La regla es: soy un buen cristiano, estoy en el camino del buen cristiano si hago aquello que viene de Jesús y hago aquello que me lleva a Jesús, porque Él es el centro. La señal es: soy capaz de adorar; la adoración. Esta oración de adoración ante Jesús. Que el Señor nos haga entender que solo Él es el Señor, es el único Señor. Y que también nos de la gracia de amarlo tanto, de seguirlo, de ir por el camino que Él nos ha enseñado. Así sea

Más de cien mil personas, jóvenes, ancianos y familias con sus niños, en una cálida tarde romana, en silencio y en oración con el Papa ante al Santísimo Sacramento, se dieron cita en la Plaza de San Pedro para invocar de Dios el don de la paz, para Siria, Oriente Medio y el mundo entero.

Fue el momento más intenso de la larga vigilia de oración guiada por el Papa Francisco la tarde del sábado 7 de septiembre y que convocó también a fieles de otras confesiones cristianas, de otras religiones, así como no creyentes.

En su meditación el Papa subrayó que “el mundo que queremos es “un mundo de armonía y de paz”, como Dios lo ha creado, y añadió que “cuando el hombre piensa sólo a sí mismo, en sus propios intereses” y se deja “fascinar por los ídolos del dominio y del poder, entonces arruina todas las relaciones, arruina todo; y abre la puerta a la violencia, a la indiferencia y al conflicto”.

En cada guerra hacemos renacer a Caín, continuó diciendo Francisco, “también hoy – añadió – levantamos la mano contra quien es nuestro hermano”. Hemos perfeccionado nuestras armas, y seguimos sembrando destrucción y muerte. Quisiera que cada uno de nosotros, desde el más pequeño hasta el más grande, incluidos los que están llamados a gobernar las naciones, dijera: ¡Sí, queremos! Mira el dolor de tu hermano ¡pienso en los niños: solamente ellos!... Mira el dolor de tu hermano y no añadas más dolor, detén tu mano, reconstruye la armonía que se ha perdido; y esto no con la confrontación, sino con el encuentro. ¡Que se acabe el rumor de las armas! La guerra significa siempre el fracaso de la paz, es siempre una derrota para la humanidad… Que resuenen una vez más las palabras de Pablo VI: “Nunca más unos contra otros, nunca más… ¡Nunca más la guerra! ¡Nunca más la guerra!”.

“¡En este momento en que estamos firmemente orando por la paz, hay una guerra más profunda que todos debemos combatir, todos! Es la decisión firme y valiente de renunciar al mal y sus seducciones y elegir el bien, dispuestos a pagar personalmente. He aquí el seguimiento de Cristo, he aquí el tomar la propia cruz!”, dijo el Papa Francisco antes de rezar el ángelus dominical del pasado 8 de septiembre, ante unos cien mil fieles reunidos en la Plaza de San Pedro.

Seguir a Cristo – dijo el Obispo de Roma – “es decir no al odio fratricida y a las mentiras de las que se sirve, a la violencia en todas sus formas, a la proliferación de las armas y a su comercio ilegal”. Porque hay dudas sobre si estas guerras se combaten realmente por “problemas” o más bien son “guerras comerciales para vender estas armas en el comercio ilegal”.

Con el Evangelio de ese domingo, el Santo Padre recordó que “¡seguir a Jesús no significa participar en un cortejo triunfal! Sino que significa compartir su amor misericordioso, en su gran obra de misericordia hacia cada hombre y todos los hombres. Y este perdón universal pasa por la cruz”. Francisco destacó asimismo que el discípulo de Jesús “renuncia a todos los bienes, puesto que en Él encuentra el bien más grande”, y añadió que “el cristiano se desprende de todo y reencuentra todo en la lógica del Evangelio, la lógica del amor y del servicio”.

La actitud materna de la Iglesia fue el tema que trató el Papa durante en su catequesis de la audiencia general del miércoles 11 de septiembre. Francisco partió de la afirmación hecha por el Concilio Vaticano II sobre la Iglesia como madre en la fe y en la vida sobrenatural. Y se refirió a la realidad humana de la maternidad para desarrollar su exposición sobre el papel de la Iglesia. Nuestro formar parte de la Iglesia, dijo, no es un hecho exterior y formal, sino interior y vital; no se pertenece a la Iglesia como se pertenece a una sociedad, a un partido o a cualquier otra organización. El lazo es vital, como el que se tiene con la propia madre. La Iglesia como buena madre acompaña nuestro crecimiento transmitiendo la Palabra de Dios, que es una luz que nos indica el camino de la vida cristiana; administrando los Sacramentos. Nos alimenta con la Eucaristía, nos trae el perdón de Dios a través del Sacramento de la Penitencia, nos sostiene en el momento de la enfermedad con la Unción de los enfermos. La Iglesia nos acompaña en toda nuestra vida de fe, en toda nuestra vida cristiana. Y, en fin, todos estamos llamados a colaborar en el nacimiento de la fe de nuevos cristianos, todos estamos llamados a ser educadores en la fe, a anunciar el Evangelio. Cuando repito que amo a una Iglesia no encerrada en su recinto, exclamó el Papa, sino capaz de salir, de moverse, incluso con algún riesgo, para llevar a Cristo a todos, ¡pienso en todos, en mí, en ti, en cada cristiano! Todos participamos en la maternidad de la Iglesia, a fin de que la luz de Cristo llegue a los extremos confines de la tierra.


Producción de María Fernanda Bernasconi. (hispano@vatiradio.va)

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14 de septiembre