ヨハネ15・9-11
バチカン、5月2日(バチカンニュースより)
教会は「はい」という答えの共同体である、なぜならキリストの愛から生まれるから。今朝、自分の住んでいる聖マルタの家の小聖堂でのいつものミサのなかで、教皇フランシスコは確言した。
教皇と共に、アルベルト・マルコルム・ランジット・パタベンディゲ枢機卿が共同司式に立ち、バチカン美術館の従業員がミサに参列していた。
教皇は聖霊降臨の後、福音を告げ知らせるために「信仰の中心から外れたところ」に出向いて行った教会の最初の歩みを考察するために立ち止まった。そして聖霊が最初に「後押しをし」、そして「ある主の問題も作り出し」、その後「教会の調和をうちたてる」ことを観察した。そうして、教皇はエルサレムにおいて、最初の弟子たちの間で教会に異邦人を受け入れることについて、「様々な意見があった」ことを思い出させた。そこには、同意に対して「否」と唱える人と、開かれた人とがいたのである。
「あれは、『いや、それはできない、それはしてはいけない、こうしなければならない』という教会でした。そして『はい』と答える教会というのはこうです。いやしかし、このことについて考えてみましょう、開きましょう。聖霊がいらっしゃって、扉をわたしたちに開いて下さいます、という態度を取る」。教皇は加えて言った:「聖霊は、二つ目の仕事をしなければなりませんでした。こうしたいくつかの姿勢に調和をうちたてること、教会の調和をうちたてること、エルサレムにおいて自分たちの間で、自分たちと異邦人たちとの間で調和をうちたてることです。これは、聖霊が歴史においていつも行う大変な仕事です。そして聖霊に働かせないようにするとき、あなたは教会に分裂やセクトなどと言ったこうしたあらゆる分派を作り始めるのですよ。なぜなら、聖霊の真理に対して閉ざしてしまっているからです」。
では、教会の黎明期のこの口論のカギは何だったのだろうか?教皇フランシスコはエルサレムの司教である、ヤコブのインスピレーションに満ちた言葉を思い起こさせた。それは自分の父祖たちですら担ぐことのできなかったくびきを弟子たちの首に押し付けるものではないということを強調した。
「主の奉仕があまりに重いくびきに姿を変えるとき、キリスト教の共同体の扉は閉ざされており、誰も主のもとを訪れようとしません。わたしたちは、一方、主イエスの恵みによって救われていると信じています。まず恵みを宣べ伝えるというこのカリスマ(賜物)の喜びがあって、それから何をわたしたちがするかを見るのです。この「くびき」という言葉が、わたしの心に、またわたしの考えに訴えかけます」。
教皇はまた、今日、教会において、くびきを担いゆくということの意味を考えるために留まった。そしてわたしたちすべてに、その愛に留まるようにとイエスはわたしたちに頼んでいる、と言った。そしてまさにこの愛からその掟を守るということが生まれる。教皇は再確認して言った。「これが、キリストの愛に留まる『はい』と答えるキリスト教共同体なのです」。それがあってはじめていくつかの「いいえ」を言う。「なぜならその『はい』があるからです」。フランシスコは加えて言った。「この愛がわたしたちを主への忠誠へと導くのです」……「なぜならわたしは主を愛するから、これをしないし、あれもしないのです」。
「これは『はい』と答える共同体です。そしてそうした『いいえ』は、この『はい』という答えの結果なのです。わたしたちの共同体がいつも愛の共同体になることができるように、あれほどまでに私たちを愛して下さったイエスの愛の共同体になることができるように、聖霊が共にいてくださるよう、主に願いましょう。この『はい』と答える共同体に。そしてこの『はい』という答えから、掟を守ることが生まれるため、扉の開いた共同体になれるために聖霊が共にいてくださるように。そして、いわゆるピューリタンになる誘惑、この言葉の語源学的な意味でのピューリタンですが、つまり、極端に福音の純粋さを求める、『否』と答える共同体になってしまうことから守ってくださるように。なぜならイエスは何よりも前に愛を願うからです。自分に対する愛を求め、その愛に留まることを望まれるからです。
そうして教皇は次のように結んだ。「キリスト者の共同体が愛のうちに生きるとき、その罪を告白し、主を拝み、負い目を許すものです。そして他者への愛を抱き、愛の表明がある時、主への忠実の義務感、主の掟の通り行う義務感が自ずと生まれるのです」。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – バチカンラジオ)
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