2013年5月18日土曜日

国際カリタスの実行委員との対話:今という時代は人、キリストの肉体である人のペルソナが危機にさらされている

バチカン、5月16日20時08分(バチカンラジオ)
 
 今朝、聖マルタの家の小聖堂でのミサを祝った後で、パパ・フランシスコは、次にプロモーションとして打ち出される対飢餓キャンペーンの提出をしに来た、委員長でありホンジュラスのテグスィガルパ教区大司教であるサレジオ会のオスカル・アンドレス・ロドリゲス・マラディアガス枢機卿を筆頭にした国際カリタスの実行委員との会見を受けた。

 教父は彼らが実践している仕事に感謝し、前を見ながら希望を保つようにと頼んだ。「なぜなら後ろを見る時、いつも苦悩や問題、つまり、そうした人生において起こる出来事やわたしたちを苦しめる困難に囚われてしまうからです」と言った。

バチカンラジオのスペイン語プログラムのための、
イエズス会士ギリェルモ・オルティスの筆写。

 この仕事のために皆さんがしていることに、感謝です。どうもありがとう!
 わたしは皆さんが集まっていて、前を見て希望をもっているのでうれしいです。なぜなら後ろを見る時には、いつも苦悩や問題、つまり、そうした人生において起こる出来事やわたしたちを苦しめる困難に囚われてしまうからです。そんなわけで、皆さんのように前を見なければなりませんね。

 組織として、カリタスは教会の本質的な部分になっています。愛徳(カリタス)なしには教会は存在しえません。そしてカリタスは教会の愛の組織なのです。教会は愛徳(カリタス)のうちに組織として成り立ちます。だから、カリタスにはその二重の局面があるのです。一つは運動の局面です。括弧つきの「社会運動」です。 その言葉の持つより広い意味での「社会活動」です。そしてもう一つは神秘的局面です。つまり、教会の心臓部に入り込んでいる、ということです。カリタスは教会のその民に向けた撫でるようなやさしい愛です。母である教会のその息子たちの頭をなでてあげる、そのような手です。温もりです。そばにいる感じです。

 真理の探究や、普遍的(カトリックな)真理の研究は、神学者がしている教会のもう一つの重要な局面です。それが要理(カテケージス)に姿を変え、人々の手元に届きます。カリタスは直接的です。そばに近寄り、撫で、愛でる母なる教会の愛です。この意味で、皆さんは教会の愛の第一線の組織だった証しだとわたしが言っても構わないでしょう。そしてこれを行い続けることができるようにと皆さんに望みます。そしてなぜ皆さんのこの歩みを固めようとするこの責任を感じているのかというのは、皆さんを迎えようと望んだことと同じですが、ローマ司教との対話なしにローマを去らないでほしいと思ったからです。つまり、皆さんの信仰を固めるためです。

 よし、それでは、だれか質問をしたい人がいたらどうぞ。少しだけ時間があります。

・ マラディアガ枢機卿は感謝を表明し、5大陸の委員長に短い対話ができるように何か言うように招いた。オセアニア、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、北米、ラテンアメリカ、そして中東地域から語られる。

 パパフランシスコは応える:

 最初に、皆さんに感謝します。

 パンと魚に関しては、一つの微妙なニュアンスを加えたいと思います。増えはしなかったのです。違います、本当のことではありません。単純にパンは尽きなかったのです。やもめの小麦粉と油が尽きなかったようにです。尽きなかった。増えるというと、混乱して、魔法でも行うと思うのですが、違います。違うのです。単純にこれは神とその愛がこれほどまでに偉大で、わたしたちの心に、もし望むならば、持っているものが尽きないようになる、そういうことなのです。これには大変な信頼が要ります。

 四つのことがわたしにしっかりと刻みつけられています。一つ目が危機、二つ目が愛に満ちて撫でること、三つ目が発展、四つ目が霊性です。付録として付け加えるならば、避難民です。

 危機。わたしたちはひどく深刻な、実に深刻な危機の時代に生きています。それは単に経済的な危機に限りません。それはその一つの側面です。文化的な危機だけでもありません、それはまた別の側面です。信仰の危機にも限りません。この危機というのは、その不安定さの結果を苦しむのが人であるということにおける危機です。こんにちでは、人、人間というペルソナが危険にさらされているのです。 キリストの肉体が危険状態にあるのです。気をつけなさいよ、わたしたちにとってすべての人は、もし疎外されていたり病気であったりしたら余計に、皆キリストの肉体なのです。つまり、カリタスの仕事というのは、何よりもこのことに気づくことにあるです。

 とても美しいミドラシュがあります。中世の、大体1200年ころのラビによるものです。バベルの塔の建設について物語っているものです。当然ですが、彼らに取ってレンガづくりは大変な仕事でした。泥を探し出して、これをこね、わらを入れ、形を作り、これを焼くのです。そうしてレンガを塔に持って上がって行き、もっと高くなるようにしたのでした。一つでもレンガが落ちようものなら、大変な悲劇です。落とした人を罰し、他の人を罰しました。まさに国全体の問題のように扱われたのです。それはそれは大変だったので、レンガは宝物とみなされました。けれどもし労働者が一人落ちても、何もなされませんでした。

(訳者注:コトバンクによる解説:ミドラシュ【midrash】= ヘブライ語darash(〈探し求める〉の意)の派生語で〈聖書解釈〉を意味するラビのユダヤ教用語。旧約聖書の重要部分編纂されたペルシアヘレニズム時代以降,ユダヤ教徒は,聖書解釈が神意を知る最も重要な手段であると考えた。こうして,律法学者,あるいはラビと呼ばれる人々が,多くのミドラシュ(複数ミドラシーム)を書き残した。ミドラシュは内容によって,口伝律法を扱った〈ハラハーHalakhah〉(法規)的なものと,それ以外の〈ハガダーHaggadah〉(説話)的なものに分類される。)

 このミドラシュは今起きていることを反映しています。財政投資がバランスを崩すと、大変悲劇で、大きな国際会議が開かれ、皆が動員されます。けれど、人が飢餓で死んだり、病気で死ぬと、「仕方ない、神さまが何とかしてくれるでしょう」という反応です。

 わたしにとって、このミドラシュに一番よく反映されていると思います。わたしたちの市民化は混乱し、人がより幸せになりよりよい神の似姿になる(これはわたしたちが受けている掟です)ために創造を育む代わりに、きつい言い方をしますが、きっと一番ぴったりした表現だと思いますよ、屑ものの文化の創造と創始を育んでいます。役に立たないものは捨てる、ごみにされるのです。使われているその隠された安楽死を強いられる子供たちや老人たちや、その他の疎外されている人々。それがわたしたちが生きている危機です。皆さんのうちのお一人が危機についてコメントされましたが、これこそ最も深刻な危機だと思います。

 二つ目は、愛をもって撫でることです。イメージはこれまで見てきた多くの絵画、戦争の負傷者を助けている女性たちの絵画から脳裏に浮かんできます。戦場、負傷者、治癒、治癒、治癒。これほどまでになってしまって、単にとりあえず悪を穏やかにすることだけしかできないような状況を迎える時というのがあります。飢餓があれば、食べさせる。その後でどうこの人を推進するかを見ます。けれど、その瞬間の緊急性があって、傷ついている、だから治療するのです。これは文化的戦争で、道のわきに多くの負傷者を残しています。母なる教会の愛撫は、治癒することにあります。けれども、「この哀れな人は推進させられない」とわたしたちは言います。まずは治癒して、それからどうこの人を推進するかを見るのです。つまり、より根本的な欠乏の緊急度を識別することができる、ということです。明らかにプロモーションの必要性が最も根本的であるのは確かです。けれどもここに、死にそうになっている人がいるのです。応急処置をしてあげなければならないのです。母なる教会が愛をもって撫でなければならないのです。

 そしてプロモーションにおける愛撫です。カリタスは応急処置のためだけにあるわけではありません。それは必要なことです。戦争や危機の時代には負傷者の手当てをしなければなりません。病人を治療しなければなりません。あまりの財産の結果引き起こされたことを癒さなければならないのです。けれども、同時に推進しなければなりません。出来る限り、推進させるのです、けれど、まずは目先のことを調整するのです。当然のことながら、しなければならないものを順序立ててみていくものです。「あぁ、このことで大金に羽が生えていってしまう!」という声も上がろう。全部使ってしまえばいい、そして諸聖堂をつぶしてでも貧しい人々に食べさせなければなりません。

 聖ヨハネ・クリゾストモははっきりと述べていました。「聖堂を飾りに来ると言いながら、キリストの体、腹をすかせている人を着飾らなくてどうするのか」。つまり、愛撫です。わたしにとって、欠乏を前にした最も美しい愛撫の表現は、よきサマリア人の愛撫です。この人を立たせ、宿屋に連れていき、払い、行ってしまったとは書いてありません。違いますよ!傷口を洗い、傷口を治療し、それから彼を抱え上げ、連れていき、足りない分を払う約束をしたのです。その時、瞬間に傷口を洗ったのです。

 推進(プロモーション)。どのようにすればわたしたちの町の、推進のある発展を達成できるでしょう?実際の方法を皆さんにどう言えば良いか知りませんが、これを置き去りにはできないのです。成長を手伝っていくこの人の中で神の似姿(イメージ)を育まなければならないのです。

 ドン・ボスコのことを考えます。ドン・ボスコは自分の小教区、自分の土地で、危機の時、多くの危機、多くの貧困の時に見受けられました。すごく大勢の子供たちが当然飢餓のせいで道をうろついており、(たばこや酒といった)中毒にさせるものを覚え、結局犯罪者となってしまい、大きくなって、おそらく、絞首台行きになったことでしょう。彼はそれを見て、これではだめだ!といったのです。そして芸術や生業などの学校からのそういったアイデアをもって始めました。

 推進の狙いは生計を立てられるための道具を与えることにあります。こうした聖人たちには洞察力がありました。推進のメディアを使うという洞察力です。しばしばわたしたちはこう考えます。「より疎外された人たちのために大学を作ろう」と。けれども働けるように職を与えるところから始めましょう。その後で、他のことに移りましょう。わたしたちは推進における発展のその知恵をもたなければなりません。わたしにとって、それがキーです。

 ドン・ボスコの現在性について話すついでですが、わたしたちはブエノス・アイレスに緊急の貧民集落をたくさん持っています。多くの集落です。そしてそうした集落で22人の若い司祭たちが働いています。それは小教区です。それぞれの集落が一つの小教区なのです。そして青年層に何ができるかを考えた後、郊外の集落における現代のために一番の方法はドン・ボスコの方法にある、という答えを出したのです。つまり、ドン・ボスコのものが推進の可能性を見出すことのできるビジョンだということです。

 四つ目は、カリタスの霊性です。カリタスの霊性の基礎は、自分自身を差し出すこと、自分自身の殻から出ていくこと、存在の中心から離れたところの状況に生きる人々の奉仕にたゆまず続けていることです。マタイ25章においてその着想を得られるであろう霊性です。イエスは、わたしたちがあちらに着いた時、「おめでとう!来なさい、人生のことを良く学んだし、神学のことをよく知っているし、このことやあのことを知っているからお入りなさい」とは言いません。違います!それはそれでとてもよいことです。けれどもわたしたちに言うでしょう。おいで、なぜならわたしがお腹がすいていた時に食べさせ、刑務所にいた時にわたしを訪問してくれ、病気だった時に開放するために来てくれ、一人ぼっちの時にわたしの相手をしてくれたから。カリタスの霊性はぬくもりの霊性です。わたしたちは教会において温もりのカテゴリーを締め出してきました。しばしば、司牧を前に、わたしたちの括弧つきの「まじめさ」が、教会の母性であるこのカテゴリーを失うにいたらせてしまったのです。

 教会は母です。基礎的に母であり、この温もりのカテゴリーが、わたしにとっては、カリタスの霊性について語るべき軸なのです。教会のために温もりを取り戻すこと。そういうわけで皆さんの機能は双極的です。 一方で存在の中心から離れたところに行って助けること、癒すこと、推進すること、そして今言ったようなことすべてをします。そして他方、教会に連れていくこと、つまり皆さんの共同体を教会に、教区に、この温もりの感情をもってくることです。教会はあまりにまじめすぎるようになった時、つまり、愛撫やぬくもりを忘れた時に、いつも逸脱に陥ったり、セクトに入ったり、異端に走ったりしてきました。わたしにとって、カリタスの霊性というのは、こういった側面を行きます。

 最後に、避難民。避難民たちは悲劇そのもので、共に彼らに寄り添うべきです。シリアにおいて、この今の時に、シリアからレバノンに向かって、百万人以上が移動していきました。イランから来た人々は、シリアに入り、レバノンへと移行したのです。すべてのものを置いてきた人々です!そして今、道端にいる人たちです。そうですね、そのことについても触れましょう。なぜなら基礎的な模範だからです。しかし、わたしたちの与っている全諸国に避難民がいます。密売で入ってきて、書類のない人々がいます。もしくは奴隷のような仕事のために悪用されている人々もいます。彼らからはパスポートが奪われ、奴隷のように働かされるのです。そこでその場所こそ、教会の温もりの大いなる存在となってくるのです。

 さて、10時までと言いましたが、もう10時です。とりあえず皆さんのしていることに、感謝します、まじめに。わたしたち皆に教えてください。聖なる母である教会の温もりの証し人となってください。ありがとう!

 それから今、一人一人に挨拶をする前に、わたしは主が皆さんを祝福してくださるように願い求めます。終生おとめなる聖母マリア、栄光に満ちた父祖聖ヨゼフ、幼きイエスの聖テレジア、カルカッタの福者テレサの取り次ぎによって、全能の神である父と子と聖霊が皆さんを祝福して下さいますように。

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