2013年5月13日月曜日

5月12日、復活節第七主日、聖性の祭典:オトラントの殉教者たち、コロンビア初の聖女、メキシコの聖女の列聖式

朗読個所 :   復活節第七主日(ローマでは昇天祭は木曜日に行われたそうで)
          使徒言行録7, 55-60
          黙示録 22, 12-14. 16-17. 20
          ヨハネ17, 20-26

バチカン、5月12日(バチカンラジオ)

 オトラントの813殉教者、『幸いなる聖母マリアとシエナの聖カタリナの宣教修道女会』の創立者であるおとめ、シエナの聖カタリナのラウラ・モントージャ・イ・ウペグイと、『聖マルグリタ・マリアと貧者奉侍修道会』の協力創立者であるマリア・グアダルーペ・ガルシア・サヴァラの列聖式のためにサン・ピエトロ広場で、教皇フランシスコの司式でささげられたミサは、諸聖人の連願の歌で始まった。

 列聖省長官であるアンジェロ・アマート枢機卿は列聖申請者たちと共に、教皇にこの福者たちの列聖を願う三つの「petitio=(嘆願)」を運んだ。そして教皇フランシスコは、ラテン語で読まれた列聖の形式をもって、彼らを聖人として宣言した。

 説教全文

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 この復活節第七主日に、わたしたちは喜びをもって聖性の祭典を祝うために集まりました。オトラントの殉教者たちと、マードレ・ラウラ・モントージャとマードレ・マリア・グアダルーペガルシア・サヴァラにおいて、その栄光、愛の栄光を輝かせた神に感謝します。この祭りに、イタリア、コロンビア、メキシコ、他の諸国から来られた皆さんすべてに挨拶します。そして、皆さんに感謝します。宣言されたばかりの神の言葉に照らして新しい聖人たちのことを眺めてみましょう。殉教までも含めたキリストへの忠誠へとわたしたちを招く言葉です。これがわたしたちを、すべての人にキリストとその福音を運ぶことの緊急性と美しさへと招きます。そして愛徳の証しについてわたしたちに語られました。その証しがなければ、殉教や宣教までも、キリスト者らしい味わいを失ってしまうのです。

1.使徒言行録は、殉教者の原型であるステファノ助祭について語る際に、彼は「聖霊に満ちた」男であった(6章5節、7章55節)と訴えます。何を意味しているのでしょうか?それは、神の愛に満ちていたことを意味します。その人格すべて、生き方すべてが復活されたキリストの霊に励まされていたことを意味します。 それはステファノが自らを捧げるまでして、完全な忠誠をもってイエスに従うようにと突き動かしていたものです。

 今日、教会は、1480年に福音の最高の証しをするために共に呼ばれた数多くの殉教者にわたしたちの尊崇を向けるようにと提案しています。800人ほどの人が、オトラントの包囲と侵略の生き残りでしたが、町の外で首をはねられたのです。その信仰を否定するのを望まず、復活されたキリストへの信仰を口にしながら死んでいったのです。忠実であり続けるための力にどこで出会ったのでしょうか?ちょうど信仰においてであったのです。信仰は、わたしたちが、わたしたちの人間的な眼差しの限界を越え、地上の生活を越えて物事を見るようにし、聖ステファノが言っているように、『開かれた点』と父の右に立つ生きたキリストをしみじみと眺めるようにするのです。

 愛する友の皆さん、本当の宝である信仰、受けた信仰を大切に保ちましょう。そしてわたしたちの主への忠誠を改めましょう。障害や無理解のただ中でも、神は力も落ち着きも足りなくならないようにしてくださるのです。オトラントの殉教者たちに尊敬のまなざしを向けながら、まさに今というこの時に、世界各地で、まだ暴力に苦しむ多くのキリスト者を支え、彼らに忠実であるための勇気と、善をもって悪に応える勇気を与えてくださるように神に願い求めましょう。

2.二つ目のアイデアは、先ほど聞いた福音にあるイエスの言葉から導き出すことができます。「 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハネ17章20―21a節)。聖ラウラ・モントージャは福音化の道具でした。最初は教師として、そしてのちに、原住の人々の霊的な母としてこれを行いました。彼らに希望を注ぎ、神から学んだその愛をもって原住の人々を受けとめ、彼らの文化と対立することなく、その文化を尊重する効果的な教授法をもって原住の人々を神に導いたのです。その福音化の働きにおいて、マードレ・ラウラは聖パウロの言い回し通りに、本当に、すべての人に対してすべてとなりました(Iコリント9章22節参照)。今日も、その霊的な娘たちが生きており、最も人目につかないところ、欠乏にあるところに、いわゆる教会の前衛のように福音を運んでいます。

 美しいコロンビアの地に生まれたこの最初の聖女は、神と共に寛大であるようにとわたしたちに教えます。まるで信仰を他者から孤立して生きられるかのように、信仰を独りで生きるのではなく、これを伝えながら、わたしたちが出会うその場所で言葉と生きる証しをもって、福音の喜びをギラギラと輝かせるようにと教えているのです。どこにいても、福音のそのいのちをギラギラと輝かせること。わたしたちに、他者のうちに反映しているイエスの顔を見ること、キリスト者の共同体をむしばみわたしたち自身の心をむしばんでいる、無関心と個人主義に打ち勝つことを教えます。わたしたちに、先入観や差別、抵抗もなく、本物の愛をもって、わたしたちの持っている最高のものをさし上げながら、そして何よりも、彼らとわたしたちが持っているもっとも価値のあるもの、つまりキリストとその福音を分かち合いながらすべての人を受け入れることを教えているのです。

3.最後に、三つ目のアイデアです。今日の福音において、イエスは次のような言葉で父に祈ります。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(ヨハネ17章26節)。殉教者たちの死ぬときまでの忠誠、すべての人に根をおろしている福音の宣言は、聖霊によってわたしたちの心に注がれた神の愛に(ローマ5章5節参照)、そしてわたしたちの生活においてこの愛を与えることになっている証しに根ざしています。聖グアダルーペ・ガルシア・サヴァラはそのことをよく知っていました。快適な生活を放棄し、―あぁ、わたしたちの体を中風(体の様々な部分が動かなくなっていく病気)のように変えてしまう、快適な生活、豊かさ、心のブルジョア化のもたらす害の何と多いことか!―、そして彼女はイエスの呼びかけに従うために快適な生活を放棄しながら、貧しさを愛するとを教えました。そうして、貧しさを愛すること、そうして貧しい人たちや病気の人たちをより多く愛することができるようにと教えたのです。マードレ・ルピッタは病人たちや見捨てられた人々の前で、共感と優しさをもって仕えるために病院の床に跪きました。そしてこれはキリストの肉体に触れる、と呼ばれることなのです。貧しい人々、見捨てられた人々、病む人々、疎外された人々こそキリストの肉体なのです。そしてマードレ・ルピッタはキリストの肉体に触れ、キリストの肉体に触れることに対して恥ずかしがらず、恐れず、嫌気を覚えないこの振る舞い方をわたしたちに教えたのです。マードレ・ルピッタは、「キリストの肉体に触れる」というこのことが何を意味するのかを理解していたのです。

 今日もその霊的な娘たちは、愛徳の事業のうちに、犠牲を惜しまず、落ち着きを保って向き合いながら、使徒的継続力(ヒポモネーhypomonē)をもって、あらゆる障害を勇気をもって耐え忍びながら神の愛を反映しようと模索しています。

 このメキシコの新しい聖女は、イエスがわたしたちを愛したように愛することへとわたしたちを招きます。そしてこれには自分自身、自分の問題、自分のアイデア、自分の関心事、わたしたちに大変な害を及ぼす自分の小さな世界に閉じこもらず、傾聴、理解、助けを必要としている人々と出会うために抜け出し、赴くことが付いて回ります。そうしてデリカシー、誠実な愛情、そして愛の具体的な行動を通して、神の愛の温かい近さへと導くのです。

 イエスとその福音への忠誠は、言葉と生き方をもって告げ知らされるため、わたしたちの愛とすべての人に対するわたしたちの愛徳をもって神の愛の証しをしていきます。こうしたことは、今日聖人として宣言した人々がわたしたちに提示する教えの輝かしい模範です。けrどわたしたちキリスト者の生活に問いかけてもきます。自分の主への忠誠はどうだろうか?と。この問いと共に参りましょう。この日曜日を過ごすのに、考えてみまましょう。「自分はキリストに忠実だろうか?自分は敬意をもって、しかし同時に勇気をもって自分の信仰を『見えるようにする』ことができているだろうか?自分は他の人に気を配っているだろうか?自分は誰が欠乏に苦しんでいるかを感じ取っているだろうか?他者を、自分が愛さなければならない兄弟姉妹として見ているだろうか?

 幸いなるおとめマリアと新しい聖人たちの取り次ぎを求めましょう。そうして主がわたしたちの生活をその愛の喜びで包んで下さいますように。なれかし(アーメン)。


(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ)



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