2013年5月14日火曜日

5月14日、朝ミサ説教:愛することのできる開かれた心を聖霊に求めよう

朗読個所 :  聖マチア使徒(祝)
          使徒言行録1・15-17、20-26
          ヨハネ15・9-17

バチカン、5月14日(バチカンラジオ)

 愛する能力のある「開かれた心」が必要。これは聖マルタの家でこの火曜日の朝ミサのなかでパパ・フランシスコが指摘したことである。ユダが自分の両親に距離を置いた時に生じ、最終的にイエスを裏切ることになってしまったような、エゴイズムの態度に対して守りの姿勢を保ちながら開かれた心で愛することができるように。この機会に、メデジンの大司教であるリカルド・アントニオ・トボン・レストレポ卿が共同司式に立った。バチカン美術館の従業員グループが、ポルトガル使徒座専門学校の生徒たちとともに列席していた。

 もし本当にイエスに従いたいなら、「人生を賜物として生きる」べきである。そうしてそのいのちを「保管していなければならないような宝物としてではなく」他者に与えるのである。その説教において、パパはこのように釘を刺した。そして愛の道とエゴイズムの対比について考えをめぐらした。イエスがわたしたちに言う強い言葉を呼び覚まして、「自分の命を差し出すこと、これ以上に大きな愛はない」と言った。教父は今日の典礼がわたしたちにもう一人の人物を浮き彫りにすることをも指摘した。それはユダである。「ユダはちょうど正反対の態度を取ったのです」。そしてそれは、ユダが「賜物とは何なのか理解したことがなかった」からであると、パパ・フランシスコは説明した。

 「マグダラのマリアの時のことを考えてみましょう。イエスの足をあまりに高いナルドの香油で洗う時のことです。それは宗教的な瞬間です。無償の瞬間です。愛の瞬間です。そして彼は、つまりユダは、距離をとり、苦々しく批判します。「でも、これ(この金)は貧しい人たちのために使うことができたはずだ!」と。これがわたしが福音で清貧についてイデオロギーとして考えられているものとして見つけた最初のポイントです。イデオローグ(理論家)は愛とは何かを知りません。なぜなら自らを差し出すということを知らないからです」。

 ユダは「自らの孤独の中で孤立」していた。そしてこの自分の自己中心的な態度が育っていって、ついに「イエスを裏切ることになってしまった」とパパ・フランシスコは付け加えた。そしてその後、愛する者は「自らのいのちを賜物として差し出す」一方、自己中心的な人は「自分の生活を守り、裏切り者になってしまうまでこのエゴイズムの内で育ちますが、いつも一人ぼっちだ」ということに気付かせた。しかしながら、「愛のために自分のいのちを差し出す人は、決して一人ぼっちではありません。いつも共同体のなかにいて、家族のなかにいるのです」。さらに、「自分の良心をエゴイズムの中で孤立させる」人は、その「良心を失って」しまうのだ、と教父は繰り返した。それはちょうど「偶像崇拝者、金銭に執着した人であった」ユダが終ってしまったのと同様であることを強調した。

 「そしてヨハネは彼のことを『泥棒だった』と言い切ります。そしてこの偶像崇拝が他の人との共同体から自らを引き離したのです。これが孤立した良心の悲劇です。キリスト者が孤立し始める時、共同体意識、教会の意識、イエスがわたしたちに与えてくれるあの愛の意識のその良心をも孤立させてしまうのです。一方、イエスが言うように自らのいのちを差し出し、それを失う人は、それを、その充満のうちに見出します。そしてユダのように、これを自分のために保とうとする人は、最終的にはそれを失うのです。ヨハネはわたしたちに言います。『その瞬間に、サタンがユダの心に入った』と。そして、こう言わなければなりません。サタンは悪い支払人である、いつもわたしたちからだまし取る、しかしいつも!と」。

 一方イエスはいつも愛し、いつも自らを提供する。そしてこのイエスの愛の賜物が「実りをもたらすために」愛するようにとわたしたちを駆り立てるのである。「そしてその実りとは、いつまでも残る実りなのです」こうパパ・フランシスコは言った。そしてその聖霊に呼びかけるようにと勧めながらその説教を結んだ。

 「この聖霊の祭日を待つ日々に、『聖霊、来てください。来て、開かれた心をわたしにください。へりくだりとおとなしさをもって愛することができる心を下さい』と、聖霊にこの恵みを求めましょう。そして聖霊が、いつも終わりの悪い他の道から、エゴイズムの道からいつもわたしたちを解放しますように。この恵みを主に願いましょう!」

(CdM – RV)

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