2013年5月18日土曜日

5月16日、朝ミサ説教:教会が必要としているのは使徒的熱意であって、のんびりした談話室のキリスト者ではない

 朗読個所  : 使徒言行録22・30、23・6-11
           ヨハネ17・20-26

バチカン、5月16日19時24分(バチカンラジオ)
 
 「教会にはイエスを告げながら前進するようにとわたしたちを押し出す使徒的熱意がたくさんなければならない」。パパ・フランシスコは聖マルタの家のミサの中で、今朝このことを強調した。さらにパパは、勇気のない「サロン(談話室)のキリスト者」にならないように、むしろ「あまりにのんびりとしたものごとにはうんざりする」ようにと警戒させた。ミサには、ピーター・トゥルクソン枢機卿と「正義と平和」の委員長であり秘書であるマリオ・トソ卿が共同司式で上がり、その委員会の従業員と我々の放送局、バチカンラジオの従業員が参列した。

 パウロの全人生は「荒野の決闘」であった。「実に多くの試練に満ちた人生」であった。パパ・フランシスコはその異邦人の使徒にその説教の焦点を当てたものとなった。「迫害の中での迫害」を越えるが落胆しないその人生を送る。パウロの運命は、「様々な十字架に満ちた運命でした。けれど彼は前進します。主を見つめて前に進むのです」と教父は強調した。

 「パウロは厄介事をもたらします。彼はその説教をもって、その仕事をもって、そのうんざりさせるような態度をもって厄介なことを持ってきます。なぜかというと、まさにイエス・キリストをのべ伝えているからです。わたしたちの楽な状態にイエス・キリストの宣言をします。しばしばわたしたちの楽な構造、キリスト教の世界でもですけれども、そうした楽な構造に、ですよね?うんざりさせます。主はいつもわたしたちが前に進むようにと望みます。もっと向こう、もっと向こう、もっと向こうへ…と。穏やかな生活や凝り固まった構造とかそういったものに逃げ込まないようにしましょうよ、ね?主は…そう、むしろパウロは、主をのべ伝えながら、人をうんざりさせたものです。けれど前に進みました。というのは、自分の中に、とてもキリスト教的な態度、つまり使徒的熱心があったからです。まさに使徒的熱意があったのです。公約づくめで何もしない人ではなかったのです。違います。真理です。前へ、と。イエス・キリストの宣言、だから前へ!」

 教皇は所見を述べた。当然、聖パウロは「血気盛んな男」でした。しかしここでは、彼の性格だけが扱われているわけではありません。「このことに干渉」するのは、この荒野の決闘に干渉してくるのは主なのです。フランシスコは続けて言った。さらに、まさに主こそが「前に進むように」と押し出して、ローマにおいても証しをするようにと後押しするのです。

 かぎ括弧つきで、わたしはこの教区のことを、あのときから気にかけておられるということが好きです。わたしたちは特別な寵愛を受けているのですよ!使徒的熱心は、何かを手にするような権利のためのやる気とは違います。それは内側から来るものです。まさに主がわたしたちに望んでおられることなのです。それは使徒的熱心のあるキリスト者になる、ということです。パウロはイエス・キリストに出会いました。イエス・キリストに出会ったのです。けれど、それは頭での知識や科学的な知識によるのではなかったのです。―このことは重要です。わたしたちにも役に立つからです。―そうではなく、その心の知識によるものでした。個人的、人格的な出会いをしたのです」。

 ここに、パウロを前へと推し進めるものがある。「いつもイエスをのべ伝え」ながら。そして付け加えた。「いつも問題の渦中にいます。けれど問題が問題だから問題なのではなく、イエスのために問題に巻き込まれるのです」。イエスを伝えていると、「こうしたことが結果としてついてきたのです」。ローマ司教は強調して言った。使徒的熱意は、「愛の雰囲気において」のみ理解されうるものである。使徒的熱心は、「ばかばかしい部分があります。けれど、それは霊的なばかばかしさ、健康的なばかばかしさです」。そしてパウロには「この健康的な愚かさがあったのです」と続けた。

 最後に、パパは全信徒に聖霊を呼び求め、わたしたちのうちに宣教師たちだけの所有物であってはならない使徒的熱心を育むように願うよう と招いた。一方で、教会には「生ぬるいキリスト者」がいて、「前に進まなければならないと感じない人」がいると忠告した。

 「サロン(談話室)のキリスト者っていうのもいるでしょう?そうしたいいしつけを受けた人というのは、とてもいいんです。けれど、自分の子供たちを使徒的宣言と熱意をもって教会に差し出すことを知りません。今日、わたしたち全員にこの使徒的熱意を下さるように聖霊に求めることができます。また、教会の中であまりに落ち着いてしまっていることにうんざりする感覚の恵みを願いましょう。存在の中心から外れたところに向かって前に進んでいく恵みを求めましょう。教会には、これがとてもとても必要なのです。遠い土地に行くことだけではありません。できたばかりの教会において、イエス・キリストをまだ知らない人々の間においてだけでもありません。そうではなく、ここで、町の中で、まさに町中に、イエス・キリストの宣言の必要性があるのです。そういうわけで、聖霊に、この恵み、使徒的熱心の恵み、使徒的熱心のあるキリスト者になる恵みを願いましょう。そしてもしうんざりさせることができるなら、主は賛美されよ、ということです。前進しましょう。主がパウロに言っておられるように、「勇気を出しなさい!」。 
(スペイン語版:マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ RV).

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