2013年5月5日日曜日

5月4日、公開ロザリオ後の説教:わたしたちが育ち、人生に立ち向かい、自由であるのを助ける母、マリア

ローマ、5月4日(バチカンラジオ)

 「マリアはお母さんです。しかも何よりもその子供たちの健康を気にかけ、いつでも偉大でやさしさに満ちた愛をもって見守ることができるお母さんなのです。おとめはわたしたちの健康を庇護する。これは何を言おうとしているのでしょうか?わたしは三つの局面について特に考えます。わたしたちが育つのを助け、人生に立ち向かうのを助け、自由であるのを助ける、ということです」2013年の5月4日にローマにて、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で公式に行われたロザリオの祈りの後で、ローマ司教はこのように表現した。

教皇の説教全文

 おとめに向かって祈るため、母に向かって、『サルス・ポプリ・ロマーニ(=ローマの民の健康/救い)』に向かって祈るために今日来られた皆さん、感謝します。この昼下がり、わたしたちはここに、マリアの前にいます。わたしたちは先ほどその母としての導きのもと祈りました。わたしたちをマリアが導き、その子イエスとより一致していられるように、と。わたしたちの喜びや苦しみ、希望や困難を彼女のもとに持って参りました。この美しい呼び名、『サルス・ポプリ・ロマーニ』に呼びかけ、わたしたちすべてのため、ローマのため、そして世界のために祈り、わたしたちに健康をもたらして下さるように願いました。そうです。なぜならマリアはわたしたちに健康を与えてくださるからです。彼女はわたしたちの健康そのものなのです。

 イエス・キリストは、その受難、死、復活をもって、 わたしたちに救いをもたらします。わたしたちに神の子である恵みと喜び、本当に神に「お父さん」という呼び名で呼びかけられる恵みと喜びを与えてくださいます。マリアはお母さんです。しかも何よりもその子供たちの健康を気にかけ、いつでも偉大でやさしさに満ちた愛をもって見守ることができるお母さんなのです。おとめはわたしたちの健康を庇護する。これは何を言おうとしているのでしょうか?わたしは三つの局面について特に考えます。わたしたちが育つのを助け、人生に立ち向かうのを助け、自由であるのを助ける、ということです。

1.お母さんというのは、子供たちが育つのを助け、よく育ってほしいと望みます。そのために怠け者にならないようにと子供たちを教育します。もちろんある程度の生活の保障もそこでなされますが、何か物を持つことだけで喜んでしまわないように、快適な暮らしで満足しないようにと教育するものです。お母さんは子供たちの面倒をみます。もっともっと成長し、力強く育ち、責任を負うことができるようにし、人生でなすべきことに捧げられるようにし、大きな理想に向かって羽を広げて行くことができるようにと面倒をみるのです。ルカによる福音書は、ナザレの家族でのイエスについて「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(ルカ2章40節)と語っています。おとめはまさにこのことをわたしたちにしてくださるのです。わたしたちが人間らしく育ち、また信仰において育つのを助けます。強くなり、表面的な人間や表面的なキリスト者となる誘惑に流されず、むしろ責任をもって生き、ますます高みに向かって羽を広げていけるようにと手助けをしてくださるのです。

2.さらにお母さんというものは、その子供たちの健康を考え、人生の困難に立ち向かうためにも教育します。まるで人生には高速道路も障害物もないかのように問題を避けて教育をすることも面倒をみることもありません。お母さんというのは、子供たちが現実味をもって人生の問題を見つめ、そこで自分を見失うことなく勇気をもってこれに直面し、弱くならないようにし、これを乗り越えられるようにと助けるものです。これを健康的な平衡感覚をもって行います。つまり母親が直感で安全領域と危険区間との間でここだと「感じる」ところで行うのです。そしてこのことを、お母さんというのはどうすればいいかを知っているのです。いつでも子供に安全な道の上だけを歩かせることはありません。これでは成長できないからです。だからといって危険にさらすだけというわけでもありません。本当に危ないからです。お母さんというのはこうしたことにバランスを与えることを知っているのです。挑戦のない人生はありません。そして危険に身をさらしながらこれに立ち向かうことのできない男の子、女の子には背骨がないようなものなのです! 善きサマリア人の譬え話を思い出しましょう。イエスは司祭の振る舞いとレビ人の振る舞いを提示します。二人は強盗の手に落ちた人を救うことから目をそらします。けれどサマリア人はその人の状況を見て、具体的な仕方でこれに立ち向かいます。マリアはその人生で、簡単にはいかない時をたくさん過ごしました。それはイエスの誕生の時、「彼らには泊るところがなかった」(ルカ2章7節)時にすでに始まり、カルワリオまで続きました(ヨハネ19章25節参照)。そしてよいお母さんとして、わたしたちのそばにいて、人生の逆境を前に、自分の弱さを前に、自分の罪を前に、決して勇気を失わないようにし、わたしたちに力を与え、わたしたちにその御子の道を示して下さるのです。イエスは十字架上でマリアに、ヨハネを指しながら言います。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。そしてヨハネには「見なさい、あなたの母です」と言いました(ヨハネ19章26-27節参照)。この弟子において、わたしたちすべてが代表されています。主はわたしたちを母の愛と優しさに満ちた手に託します。わたしたちが人として、またキリスト者としての歩みにおける困難に立ち向かいこれに打ち勝つ時に、支えられていることを感じることができるためです。困難を恐れないため、母の助けをもってこれに立ち向かうことができるためです。

3.最後のポイントです。よいお母さんというのは、ただ子供の成長に問題や人生の挑戦を避けることなく立ち会うだけではありません。よいお母さんというのは、子供が自由に決定的な決断をするのも助けるものです。これは簡単なことではありません。けれどお母さんというのは、「とりあえず」の哲学が支配しているこの時代において、このことができるのです。けれど、自由とはどういうものでしょうか?当然、やりたい放題することでも、強い感情や情欲に支配されることでも、よく考えもせずにいろいろな経験をかいつまんでいくことでも、その時の流行に従うことでもありません。自由というのは、言ってみれば、好きではないことを何でも窓から放り出す、ということではないのです。自由が与えられるのは、人生において善いことを選ぶことができるためなのですよ!マリアはよいお母さんとして、自分のように、わたしたちが決定的な決断をする能力のある人になれるようにとわたしたちを教育します。それも、自分の人生のために神が描かれた計画に対して「はい」と答えたあのまったき自由をもって(ルカ1章38節参照)、わたしたちを教育するのです。

 愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしたちのこの時代にあって、決定的な決断をするというのは、何と難しいことでしょう! とりあえずという考え方がわたしたちを誘惑します。わたしたちは、はかないものへとわたしたちを後押しする傾向の犠牲者なのです。一生思春期の青年であり続けられたらどんなにいいことか!と思うかもしれません。決定的な献身、全生涯を巻き込み、全生涯に関わる献身に恐れをなさないようにしましょう!このようにしてこそ、わたしたちの人生は実りをもたらすものになるのです!そして、これこそが自由なのです!壮大さをもって決断を下していく勇気をもつことです。

 マリアの全存在は、いのちへの讃美歌、生命への愛の賛歌でした。体を持ったイエスを生み、またカルワリオと晩餐が行われた部屋で教会が生まれる時に立ち会いました。『サルス・ポプリ・ロマーニ』であるマリアは、成長の過程でわたしたちに健康を与え、問題に立ち向かってそれを乗り越えられるようにし、決定的な選択のために自由な決断ができるようにしてくださいます。マリアはわたしたちが実り豊かな人となるように、いのちに対して開かれた人となるように、善と喜びと希望においてますます実り豊かな人となるように、決して希望を失わないように、他者に自分のいのちを肉体的にも霊的にも差し出すようにとわたしたちに教育します。

 ローマの民の救い(『サルス・ポプリ・ロマーニ』)であるマリアさま、この昼下がりにわたしたちが自分のためにあなたに願うのはこのことです。わたしたちがいつでもいのちのしるし、いのちの道具となることができるように、あなただけがわたしたちに与えることのできる健康をお与えください。

スペイン語翻訳:セシリア・デ・マラック(バチカンラジオ)


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