2013年5月21日火曜日

5月20日、朝ミサ説教:心から祈らなければならない

 朗読個所 :  シラ1・1-10
          マルコ9・14-29

バチカン、5月20日15時43分(バチカンラジオ)


 勇気のある、謙虚で強い祈りが奇跡を起こす。パパ・フランシスコは今朝聖マルタの家でささげたミサの中で確言した。この月曜日にはバチカンラジオの別のグループの従業員が、総部長であるフェデリコ・ロンバルディ神父と共に参列した。

 この日の典礼では弟子たちが男の子を癒せなかったことを語る福音の個所が示されている。イエス自身が介入せざるを得ず、そこにいた人々の不信を嘆いた。そして助けを求める、子供の父親には「信じる者には何でもできる」という言葉で応える。教父が述べた所見によると、イエスを愛しているという人ですらしばしば、自分の信仰を危機にそれほどさらさず、完全には彼に委ねないような人が見受けられる。


 「けれど、なぜ、このような不信が?それはちょうど開かない心、閉ざされた心、すべてのことを管理下に置きたがる心なのでしょう!」
それは「開かれない」心であり、「イエスに物事のコントロールをさせない」心なのである、とパパは説明した。そして弟子たちがどうして自分たちは若者を治すことができなかったのかを尋ねた時に、主はその「手の悪霊は祈りをもってしなければ消し去ることができないのだ」と応える。「わたしたちは皆、心の中に、少し不信を抱いています」。強い祈りが「必要なのです」。そしてこのへりくだり、強い祈りがイエスに奇跡を行えるようにする。ローマ司教は続けて言った。奇跡を願う祈り、尋常ではない働きを願うための祈りは、合唱のような祈りでなければなりません。全員を巻き込まなければならないのです」。この提案において、教皇はアルゼンチンで起きたエピソードを話した。7歳の女の子が病気になった。そして医者たちはあと数時間のいのちだと宣告した。父親は、電気技師であったが、「信仰の人」であった。教皇が語るには、その時「気違いかと思われることをしました。そしてあの気の違った状態で」バスに乗り、70キロも離れたルハンにあるマリア聖地に向かったのである。

 「そこに夜9時過ぎに到着しました。それはすべての扉が閉ざされた後でした。そして両手を鉄格子に絡みつかせるようにして、聖母に祈り始めました。そして祈って祈って、泣いて、祈りました。夜を徹してそうしていました。けれどこの人は戦っていました。神と共に戦っていたのです。娘の癒しのために神と共に戦っていたのです。そのあと、朝6時を過ぎて、バスターミナルに行き、バスに乗って家につきました。病院には9時前後に到着しました。そこで泣いている妻に出会いました。最悪の事態を想像しました。『どうしたんだ?分らないじゃないか、分らないだろ!何があったんだ?』『お医者さんたちが来て、わたしに、熱が引いたというの。呼吸もしっかりしていて、何も問題はないんだって。あと二日安静させると言っているけれど、もういいんだって。でもみんな何が起こったのか、全然わからないって!』。こういうことは、まだ起こるんですよ。いいですか?奇跡というのは存在するのです!」

 しかし心から祈る必要がある、とフランシスコは結んだ。

 「勇気のある祈り、あの奇跡に至るようにと戦うたくましい祈りが必要です。その場しのぎの『あぁ、あなたのためにお祈りしますよ』という祈りではないのです。主の祈りを唱えますよ、アヴェ・マリアの祈りを唱えてあげますね、と約束しながらあとで忘れてしまう、そういうのではないのです。勇敢な祈りです。町を救うために主と言い争ったアブラハムのあの祈りのようなものです。モーセが両手を高く上げて、主に祈りながら疲れきってしまったあの祈りのようなものです。多くの人々の、信仰を持った多くの人々の祈りのように、信仰をもって祈り、また祈る、そういう祈りです。祈りは奇跡を起こします。けれど信じなければなりません!恐らく、素敵な祈りをささげることができると思います。…そして今日、一日中、『主よ、信じます。信仰の薄いわたしを助けてください』と言うことができるでしょう。…そして戦争で苦しむ多くの人々のため、難民のため、現実のあらゆる惨劇にある人々のために祈るように頼まれる時には、主に祈りましょう、けれど心から。祈りなさい。それができなければ、主に言いなさい。『主よ、信じます。信仰の薄いわたしを助けてください』と。これはわたしも祈っていることです。これを、今日、しましょう」。
(RC-RV)

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