2013年5月24日金曜日

5月23日、朝ミサ説教:博物館に並べられたキリスト者にならないために、信仰、希望、愛徳の塩を広める

朗読個所  :  シラ5・1-6
          マルコ9・41-50

 キリスト者は信仰と希望と愛徳の塩気を広めるように。これはパパ・フランシスコが今朝聖マルタの家の小聖堂で祝ったミサの説教の中で行った勧告である。

 教父はキリスト者のオリジナリティは「一つの形(ユニフォーム)になることではありません」と強調し、味気のない「博物館に収められたキリスト者」になってしまう危険に対して警戒するよう促した。

 この機会にアンジェロ・ソダノ枢機卿とレオナルド・サンドゥリ枢機卿が、ラ・パスの大司教であるエドムンド・アバストフロール・モンテロ大司教と共にローマ司教との共同司式に上がった。また東方教会省の司祭団と信徒協力者たちのグループが列席した。

 キリスト者の生活において、何が「塩」なのだろうか?またイエスはどのような塩をわたしたちに下さったのだろうか?パパはその説教の中で、キリスト者が自分のいのちを人に与え、それも他者に対して与えるようにと呼ばれていることにある味わいについて熟慮するために留まった。そして主がわたしたちに下さる塩と言うのは、信仰、希望、愛徳の塩であると語った。同時にこの塩が、イエスがわたしたちを救うために死んで復活されたという確信によって与えられるこの塩が、「無味乾燥なものとならないように、その力を失わないように」と忠告した。なぜならこの塩は、「保管しておくためのものではないからです。なぜならもし塩をビンに入れて保管して何もしないなら、何の役にも立たないからです」とフランシスコは続けた。

 「塩というものが意味をなすのは、食べ物に味をつけるために使われた時です。それからもう一つ思いつくのは、きっと塩をビンに入れて取っておくと、湿気て、効力をなくして、使えなくなるのではないか、と言うことです。わたしたちが受けた塩というのは、使うため、味付けをするため、差し出すためです。そうでなければ、味気がなくなり、役に立たなくなります。主に、わたしたちが味気のない塩をもったキリスト者、塩をビンにおさめたキリスト者にならないようにと願わなければなりません。けれど塩にはもう一つの特徴があります。これをうまく使う時、塩の味を感じさせません。塩の味・・・感じないのです。それぞれの料理の味になるのです。塩というのは、その料理がより良い味になるように助けます。もっと長持ちするように、もっと美味しくなるようにするのです。これこそキリスト者のオリジナリティなのですよ!」

 そして「この塩をもって信仰を告げ知らせる時」、「宣言を受ける」人々は、「料理の時と同じように、自分の独自性に沿ってこれを受けるのです」。そしてそのように「自分の独自性をもって塩を受けると、一人一人はより良い者となるのです」。

 「キリスト者のオリジナリティというのは、みんなが同じようになること(ユニフォーム性)にはありませんよ! 一人一人を、そのパーソナリティや特徴、文化のまま、あるがままであることを受け入れ、それを、そのすべてを残すのです。なぜならそれは豊かさだからです。けれどそこには何かさらなる者が与えられるのです。味付けがなされるのです!キリスト者のこのオリジナリティは、とても素敵なものです。なぜならわたしたちが全員右に倣えとするならば、つまり全員が同じ仕方でしょっぱくなるならば、料理のおばさんが塩を入れ過ぎてしまって、塩の味しかしなくなって、その料理が、せっかく塩を入れたのに美味しくなくなってしまう、そのようになるのです。キリスト者のオリジナリティは、まさにこれにあるのです。一人一人があるがまま、主が与えてくださった賜物をもっている、というところです」。

 パパは続けて言った。「これがわたしたちが使わなければならない塩です」。「保管するためではなく、使うため」の塩である。そしてこれは「すこし超越的な部分も意味します」。「メッセージをもって出ること、塩についてわたしたちが持っているこの豊かさをもって出て行き、他者にこれを差し出すことです」。一方で、この塩がダメにならないようにするための二つの「出方」があると強調した。一つ目は、塩を「料理のために使う、他者のために使う、人のために使う」ために差し出すことである。二つ目は「塩を作った方、つまり創造者にむかって超越」することである。塩気は、「説教において使われる時にのみ保たれるのではなく」、「別の超越性、祈り、礼拝の必要もあるのです」とローマ司教は確認をした。

 「そしてこのようにして塩は保たれ、その味わいを失わないのです。主への礼拝をもってわたしは自分自身から超越し、福音の宣言をもってわたしは自分の殻から出てメッセージを与えます。しかしもしわたしたちがこれを行わないならば、つまりこうした二つのこと、この二つの塩を使うための超越をしないなら、塩はビンの中にずっとあり、わたしたちは博物館に並べられたキリスト者に姿を変えるでしょう。わたしたちは(与えられた)塩を見せることができます。ここにわたしの塩があります。なんて素敵なのだろう!これは洗礼の時にもらった塩です。これは堅信の時にもらった塩です。これは要理(カテケージス)の時にもらった塩です。……しかしごらんなさい。博物館のキリスト者とは! 味のない塩、何にも使われない塩とは!
(スペイン語翻訳:マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

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