2013年5月23日木曜日

5月22日、朝ミサ説教:よいことを行うことはイデオロギーや宗教を越えて、人々を一つに結ぶもの

朗読個所:    シラ2・1-11
          マルコ9・30-37

バチカン、5月22日18時7分(バチカンラジオ)
 「よいことを行うこと」は様々なイデオロギーや宗教を越えて、全人類を一つに結ぶ基準であり、平和の基礎となるその出会いの文化を作る。このようにパパ・フランシスコは5月22日水曜日、聖マルタの家の小聖堂で捧げられた朝ミサの説教で語った。そのミサには政治部の従業員数名が参列した。さらにパパと共に、アンティオキアのマロン派総主教のベチャラ・ボウトゥロス・ライ枢機卿が共同司式をした。

 この時に読まれた福音では、グループの外でいいことをしているであろう一人の人の活動を妨げようとするイエスの弟子たちが紹介されている。「彼らは『もしわたしたちのグループにいないならば、いいことはできない。もし自分たちの党にいないなら、いいことはできない』と言いながら嘆いています」。そしてイエスは「妨げてはならない。よいことをしたいがままにさせなさい」と言いながら彼らの考えを正します、とフランシスコはその説教の中で説明した。「弟子たちは、少し不寛容でした」と教父は続けた。真理を持つということに対して狭い理解しかなく、彼らは「真理を持たないあの人たちは皆よいことができない」と確信していた。そして「これはどこか間違っていたのです」。そこでイエスは「視野(地平)を広げます」。このことについてパパの観察によれば、「わたしたちのだれもが持っている、このよいことを行う可能性というものは、創造のわざに根拠があります」。

 「主はわたしたちをその似姿、似たようなものに作りました。それでわたしたちは主の似姿であり、主がすべての人によいことをするので、わたしたちはこの「よいことを行い、悪いことはするな」という掟を心に抱いているのです。全員がそれを抱いているのです。『でも、神父さま、この人はカトリックじゃないですよ。よいことを行えるはずがない!』と言う人がいるかもしれません。できます。よいことを行うことができます。出来なければおかしいのですよ。できるか、ではなくて、行わなければならないのです!なぜなら心の内側にこの掟があるからです。一方、誰もがよいことを行えるわけではないと考えるこの閉ざされた態度は、わたしたちを戦争へと導く壁であり、歴史の中でもこのように考えた人がいたのです。神の名において人殺しをする、と言う人が。神の名において人を殺すなどあってはなりません。そしてそれは、そのまま冒涜なのです。神の名において人を殺してもいいと口にすることは、冒涜なのです」 。

 パパ・フランシスコは、一方「主はわたしたちをその似姿と似たようなものに作り、「よいことを行い、悪いことはするな」というわたしたちの心の内側にあるこの掟をわたしたちに据えたのです。

 「主は、すべての人々を、わたしたちすべてを、カトリックだけではない全員をキリストの血をもって贖われたのです。全員をですよ!『神父さま、無神論者は?』勿論彼らもです。全員をです!そしてこの血がわたしたちを第一級の神の子にするのです!わたしたちは神に似た者としての性質をもって造られました。そしてこの全ての人によいことを行うという掟は平和への美しい歩みです。もしわたしたちが、ゆっくりと、たっぷりと、少しずつ行うならば実に激しい欠乏も備えたわたしたちの出会いの文化を作るのです。いいことをしながら出会ってください。『けれど神父さま、わたしは信じませんよ。わたしは無神論者ではないのです』と言ってきても、あなたはよいことを行うでしょう。そこでわたしたちは出会うのですよ!

 「よいことを行う」と言うのは、信仰の問題ではない、「これはわたしたちの義務、わたしたちの御父がすべての人に与えた身分証明書なのです。なぜならわたしたちをその似姿と似たようなものに造られたからです」とパパは説明した。「そして主は、いつもよいことを行っておられます。

 フランシスコは次のような祈りで説教を結んだ。

 「今日は、不可能なことの守護者である聖リタの祝日です。けれどこのことは不可能に思えます。彼女にこの恵みを求めましょう。すべての男女がよいことを行いこのわざ、父の創造に似たものとなる、創造のわざをしながら出会うことができるようにと願いましょう。これは家族の仕事です。なぜなら誰もが皆神の子らだからです。全員です、みんなです!そして神はわたしを愛しておられる、全員を愛しておられるのです!聖リタの取り次ぎでわたしたちにこのほぼ不可能と思われるこの恵みを下さいますように。かくあれかし(アーメン)」 
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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