ヨハネ16・23b-28 http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31942049.html
バチカン、5月11日(ポルトガル語版、バチカンラジオ)
本当の祈りは、わたしたちを、わたしたち自身から出て行くようにし、父とより助けを必要としている兄弟たちに開くようにする。これは、バチカンの聖マルタの家で捧げられた土曜の朝ミサ中に教皇フランシスコが語ったことである。バチカン国境警備隊の指導者たちとアルゼンチン人ジャーナリストたちとその家族が列席していた。
教父の説教は当日の福音に集中していた。そこでイエスは「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ16章23b節)と言った。教皇は次のように説明した。「そこには、何か新しいものがあります。何か変わるものがあります。これは、祈りにおける新しいこと、ニュースです。父はわたしたちにすべてのものを下さいますが、いつもイエスの名において下さるのです」。主は父のもとへと昇り、「天の聖所に」入る。そこで門を開き、その門を開いたままにする。なぜなら、「イエスご自身が門であり、世の終わりまで」祭司として「わたしたちのためにとりなしてくださる」からである。
「イエスが父の前でわたしたちのためにとりなしてくださる。このことは、いつもわたしにとってありがたく響いたものです。イエスは、その復活において、最高に美しい体を得ました。本当は鞭打ちの傷も、茨の冠の後も消えたのです、すべて消えたのです。鞭の跡も消えたのです。けれどイエスはいつもこの傷が残るようにと望みました。そしてその傷というのは、まさにイエスの父への取り次ぎの祈りそのものだったのです。「しかし…ごらんなさい…。そのことをわたしの名において願いなさい。ごらんなさい!」と。それはイエスがわたしたちにおっしゃるニュースなのです。わたしたちにこのニュースを告げたのです。その受難に信頼すること、その死に勝る勝利に信頼すること、その傷に信頼することを。イエスは司祭であり、これが、この傷がそのいけにえ、犠牲なのです。そしてそのことはわたしたちに信頼を与えます。ほら!わたしたちに祈る勇気を下さるのですよ」。
教皇は所見を述べた。しばしばわたしたちは、育ちゆく祈りにおいて理解してきた。祈りはこのことやあのことを願うことではなく、むしろ「イエスの取り次ぎなのです。父の前でその傷口を見せているその行為にあります」。
「イエスの名における父への祈りは、わたしたちを自分自身という世界から外に出ていくように促します。わたしたちに向けられた祈りはいつもわたしたち自身のうちにあります。ちょうど押しては引く考えのようなものです。けれど本当の祈りとは、わたしたち自身から出て行き、イエスの名において父へと向かう道をたどることです。それは、わたしたち自身からの出エジプトなのです」。
しかしどのように「天におられるイエスの傷を改めて知ることができるのでしょうか?」と教父は自問した。「どこにイエスの傷、その司祭としての傷、取り次ぎの傷を知ることを学ぶ学校があるのでしょうか?ここにもう一つの出エジプトがあります。それは、わたしたち自身から出て、わたしたちの兄弟たちの傷に向かっていくこと、欠乏にあるわたしたちの兄弟姉妹たちに向かって出て行く、という出エジプトです」。
「もし、わたしたち自身から出て行き、欠乏にある兄弟、病気の人、無知な人、貧者、搾取されている人に向かって行くことができないならば、もしあの傷に向かって私たち自身から出て行くことができないならば、イエスの傷に向かう、わたしたち自身からのもう一つの出口へとわたしたちを導く自由について学ぶことは決してないでしょう。わたしたち自身から出て行くための出口は二つ存在します。ひとつはイエスの傷口に向かっていくもの、もう一つはわたしたちの兄弟姉妹の傷口に向かっていくものです。そしてそれが、わたしたちの祈りにおいてイエスが望んである歩みに他ならないのです。
「これは、祈りの新しい仕方です」とパパ・フランシスコは結んだ。「信頼をもって、イエスが父の前で自らの傷口を見せているということを知ることがわたしたちにもたらす勇気をもって行われる祈りです。けれど同時に、皆さんがこれから知り合いになり、出会って行く、その欠乏にある兄弟、イエスが勝利したようにはまだ勝利しておらず十字架を担い続けている兄弟たちにおけるイエスの傷を知り、これと出会うその人々に対して謙虚に行われなければなりません」。
(RL)
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