ヨハネ15・1-8
バチカンニュース、5月1日
今の社会では、労働の尊厳よりも、会社の利害関係の比較検討や収益のほうが重視されている。これが教皇フランシスコが今日5月1日の朝、聖マルタの家の小聖堂でささげたミサの間に巡らした考えである。教会が労働者聖ヨゼフを祝っていたこの日、教皇はキリストの扶養者である義父という側面の思い出が、「はたらく神」と聖ヨゼフの工房で働いただけでなく十字架までも「はたらくイエス」というイメージを思い浮かばせる。
この祭儀には、連帯センター「イル・ポンテ(橋)」に寝泊まりしている、成人前の幼い母親たちも参列していた。 このセンターは1979年に、組織の会長であるエジディオ・スマッキア神父に伴われて、チヴィタヴェッキアというイタリアの町に生まれた施設である。
教皇はその日の典礼において、福音がイエスを「大工の息子」として述べていることを思い出しながらこの説教を始めた。ヨセフは労働者であり、イエスはヨセフと共に働くことを覚えた。事実、第1朗読で、世界を作るために神が働く所が読まれる。そしてこの「はたらく神の姿(イコン)」 こそ、仕事というのはパン(糧)を得るためということよりも何かもっと大きな次元のものであると私たちに告げている、とローマの司教(教皇)は確言した。
「仕事はわたしたちに尊厳を与えるのですよ!はたらく人は尊厳のある人です。特別な尊厳があります。人間の尊厳です。はたらく人は、男性も女性も尊厳のある人です。はたらかない人には、この尊厳はありません。けれど、多くの人は、働きたいと思っているのにできずにいます。これはわたしたちの意識に重くのしかかってきます。なぜなら、社会がこのように造られている時、必ずしも全ての人がはたらく可能性、労働の尊厳によって一つになる可能性をもっているとは言えないからです。そういう社会というのは善い方向に向かっていません。正しくないのです!同じ神は逆なのです。神はわたしたちの尊厳がここから始まるようにと望まれたのです」。
教皇は続けて言った。「尊厳というのは、権力や金、文化がもたらすものではありません。違うのですよ!尊厳は、仕事によってわたしたちに与えられるのですよ!」。そしてそれも尊厳ある仕事でなければならない。なぜなら今日、「実に多くの社会、政治、経済制度が人を搾取するという意味での選択をしてきたからです」。
フランシスコの脳裏に、すぐに、ある工場の倒壊で400人以上もの人がいのちを失った、先週のバングラデシュでの悲劇が浮かんだ。そこで働いていた男女は、1か月の給料38ユーロ(5千円弱)で働いていたのである。
「損得の比較検討ばかりを見て、しかも会社の損得で、そこからどれだけ純利益を得ることができるかばかりを見ているために、ふさわしく賃金を払わないこと、仕事を与えないことがあります。これは神と対立しています!《L'Osservatore Romano》誌に、ある記事があったのですが、何度これを読んだことでしょう。実に何度も読み返しました。バングラデシュでの悲劇の日にすごくわたしの興味を引いたタイトルがあったのです。「一か月38ユーロ(五千円未満)で生活する」というタイトルです。これが亡くなられた方々の給料だったのです……。そうです。これを『奴隷の仕事』と呼ぶのですよ!そして今日、世の中には、神が人間に与えた最も美しいこと、つまり創造の能力、働く力、自分自身の尊厳を立てる能力を、この奴隷状態にすることに用いているところがあるのです。どれほどの兄弟たち、姉妹たちが、世の中で経済的、社会的、政治的、また様々な分野でのこうした態度のせいでこのような状況に置かれていることでしょう!
同様にその説教において、教皇は中世のラビ(ユダヤ教の教師)の言葉を引用した。それはバベルの塔の盛衰について自分のユダヤ人共同体に語った時のものである。その頃、レンガというのは最高に高価なものであった。
「あやまってレンガが落ちてしまうようなことがあったら、それは怖ろしい事件、スキャンダルでした。『おい、なんてことをしやがった!』と。けれどもし棟を建設している人の誰かが落ちても、『安らかに憩わんことを!』と望むだけで、静かに時が流れていました。人よりも、レンガの方が大切だったのです。この話は中世のラビが語っていたことですが、ごらんなさい、今そのことが起こっているのです!人が、政治的、社会的、経済的権力をもっている人の収益を生み出すモノよりも大切に扱われずにいます。人類はどんなところに来てしまったのでしょうか? この人間の尊厳、この労働の尊厳に気づかないところです。けれど、今日、はたらく聖ヨゼフの姿、はたらくイエスの姿、はたらく神の姿を見ると、これこそわ たしたちの模範なのですが、わたしたちに尊厳に向かって行く道を教えてくれます」。
教皇は観察して来ていることを述べた。「今日、聖パウロが言っていたように、『はたらきたくない者は、食べるな』などとはもはや言えません。むしろ、『はたらかない人は、尊厳を失っている!』と言わなければならないでしょう。なぜなら、『はたらく可能性が見いだせない』からです。いやむしろ、『社会がこの人からその尊厳をはぎ取ってしまった!』というべきかもしれません」。そして教皇は加えた。「今日、カインに向けられた神の声を改めて聞くのはわたしたちの益になります。『カイン、お前の弟はどこにいるのか?』。一方、今日、わたしたちはこのような声を聞きます。『あなたの、仕事のない兄弟はどこにいるのか?奴隷の仕事を強いられているあなたの兄弟はどこにいるのか?』という声を」。教皇は招きの言葉をもって結んだ。「祈りましょう。こうした状況にある、このような兄弟姉妹たちのために祈りましょう。なれかし(アーメン)」。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – バチカンラジオ).
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