2013年5月12日日曜日

5月10日、朝ミサ説教:メランコリーなキリスト者の酸敗した顔つきを変えるために喜びを生きること

朗読個所 :   使徒言行録18・9-18
           ヨハネ16・20-23a 

バチカン、5月10日10時48分(ACI/EWTNニュース)
聖マルタの家で祝われる平日のミサの説教で、パパ・フランシスコは今日、喜びはキリスト者の賜物であり、内側からキリスト者を満たし、滞らせるのではなく前進させねばならないものであり、そうして他者にイエスのことを告げ知らせ、宣言することができるのである、と述べた。

 ミサには、ベネズエラはメリダの大司教、バルタザール・ポルラス卿とベネディクト会大修道院長のノットゥケル・ヴォルフ師が共同司式に上がり、総顧問であるフェデリコ・ロンバルディに率いられたバチカンラジオの従業員の第一グループが参列した。

 説教において、パパは昇天から五旬祭までの間の期間に見られる弟子たちの喜びに満ちた態度を強調した。「キリスト者というのは、喜びの男性、喜びの女性なのです。このことをわたしたちに教えるのはイエスです。特にこの季節にこのことを教えるのは、教会です。この喜びとは一体何なのでしょうか?楽しさでしょうか?いいえ、うれしさと同じではありません。楽しさって、いいものでしょう?楽しむことはいいことです。けれど喜びとは、何かもっと大きなものです。別物なのです。喜びは好機を理由にやって来るものでも、一時的な動機で訪れるものでもありません。それはもっと深いことです。喜びは賜物なのです」。

 楽しさは、始終これを生きたいと望むと、最終的には軽いもの、表面的なものに姿を変えます。そしてキリスト者の知恵を欠いたあの状態にわたしたちをいざないもします。わたしたちをちょっと抜けた人のようにします。浮かれた状態というか、そうでしょう?どれもみんな楽しい、と。違います。喜びはこれとは別物です。喜びは主からの賜物です。わたしたちを内側から満たすものです。それはちょうど聖霊による油注ぎのようなものです。そしてこの喜びはイエスがわたしたちと共に、また御父と共におられるという安心感のうちに見出されるものなのです」。

 教皇はさらに続けた。喜びに満ちた人は安定感のある人である、と。「イエスがわたしたちと共にいること、イエスが御父と共にいること」の確信がある。けれどこの喜びは、「いつもわたしたちのもとにあるようにと、少し瓶詰めしたりすることのできるものなのでしょうか?」と教皇は自問した。

 「いいえ、できません。なぜならもしわたしたちのためだけにこの喜びをもっていようと望むなら、最後には病的になり、わたしたちの心は少し気力を失い、わたしたちの顔はあのたまらない喜びを伝えることなく、不健康なあのノスタルジーやメランコリーを伝えてしまうのです」。

 「しばしば、 こうしたメランコリーなキリスト者は美しい人生を送っている人が持つような喜びに満ちた顔をする代わりに、酸味の出たようないらついた顔をします。喜びは滞らせていてはなりません。前進させなければならないのです。喜びは巡礼の旅路を進んでいる徳なのです。喜びは歩く賜物です。人生の旅路を歩む賜物、イエスと共に歩む賜物です。つまり、イエスについて告げ知らせ、宣べ伝えることです。喜びは、歩みを長くし、その道幅を広げるものなのです」。

 パパは説明した。喜びは「偉大な人々に特有の徳です。欠乏の上にいる偉大な人々の徳です。人間のこうした小ささの上にいる偉大な人々の徳です。 共同体の、また教会の内側にあるああした小さなことに巻き込まれることのない偉大な人々の徳です。いつも地平線を見据えています」。

 喜びは「巡礼の旅路を行くもの」であると、教父は強調した。「キリスト者は喜びをもって歌い、歩み、この喜びを運んで行く存在です」。

 その後でパパは言った。喜びは「寛容の徳へとわたしたちを導く賜物です。キリスト者は心の広い人です。小心ではありえません。寛大なのです。そしてまさに寛容は安らぎの徳なのです。寛容はいつも前進していく徳ですが、聖霊に満たされたあの精神で前進していく徳なのです。喜びは主に頼まなければならない恵みなのです」。

 「このところ、特別な仕方でこれをします。なぜなら教会が自らを招くからです。 教会はわたしたちに、喜びと望みを求めるようにとわたしたちを招いています。キリスト者の人生を前に向かって導いて行くそのものは、望みなのです。望みが大きければ大きいほど、あなたの喜びは大きくなることでしょう。キリスト者とは、望みの男性、望みの女性です。人生の歩みにおいてますます望むことです。主にこの恵み、個の聖霊の賜物を求めましょう。悲しみから遠く離れ、ただの楽しさから遠く離れて・・・別物なのです。これこそ願わなければならない恵みです」。

 今日、パパ・フランシスコは結びに当たり、アレクサンドリアの総主教であるタワルドロス二世のローマ滞在のおかげで喜びの美しい動機があると述べた。強調して言った、これは喜びの動機である。「なぜなら」共に「歩みの道のりを」共にするために「話をしようとローマの教会と顔を合わせるために来てくれた兄弟だからです」。

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