2013年5月30日木曜日

5月30日、キリストの聖体と御血の荘厳祝日説教:連帯=世の精神からはよく見られていないことば

朗読個所  : キリストの聖なる御体と御血の大祝日
        (伝統的な典礼歴に則り、三位一体の祝日後すぐの木曜日)
         創世記14章18―20節
         Iコリント11章23-26節
         ルカ9章11b-17節


 聖なるキリストの御体と御血の荘厳祝日に当たり、教父フランシスコはラテランの聖ヨハネ大聖堂の広間でミサをささげ、メルラナ通りを巡り、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の近くで頂点に達する聖体行列を執り行った。

 その説教を、ローマ司教はそこにいた数多くの信者に向けて語り、聞いたばかりの聖ルカによる福音に、いつも気になるイエスの表現「あなたたちが食べさせなさい」(ルカ9章13節)という表現があることを引き合いに出すことから始めた。

 このフレーズに端を発し、教皇は次の三つの言葉に従って語った。追従、一致、分かち合いである。

 パパ・フランシスコはこの夜、本当にエウカリスティアにおられるキリストを礼拝しながら次のように自分自身に問いかけるように招いた。「自分はイエスに変えられるのをゆるすだろうか?」「主がご自身をわたしに差し出すのを受け入れ、自分の小さな囲いからますます出て行って主と他の人々に与え、分かち合い、愛することを恐れないようにと導かれることを認めるだろうか?」

 追従、一致、参加。こう言いながらその説教を結んだ。「エウカリスティア(感謝の聖体祭儀)への参加がわたしたちにいつも次のことを呼び覚ますように祈りましょう。毎日主に従い、(聖体的)一致の道具となり、わたしたちなりのことを主とわたしたちの隣人と分かち合っていくこと。そうして、わたしたちの存在は本当に実りをもたらすものとなるのです」。
                               (MFB - RV).

――― 説教全文 ―――



愛する兄弟姉妹の皆さん、


 今聞いた福音には、わたしをいつもどきっとさせるイエスの表現があります。それは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(ルカ913節)という表現です。このフレーズから、わたしは三つの言葉に導かれたいと思います。追従、一致、分かち合いです。

1.なによりも、食べさせなければならないその相手は誰でしょうか?答えは福音個所の初めに見出されます。群集、多くの人々です。イエスは人々の間にいて彼らを受けとめ、彼らに語り、彼らを癒し、彼らに神のあわれみを示します。その中で自分とともに留まり、世の具体的な状況に浸りこんでいくために12人を選びます。そして人々は彼に従い、彼に耳を傾けます。イエスが新しい仕方で、本物で一貫性のある人の権威をもって語り行動するからです。真理をもって語り行動し、神から来る希望を与え、愛である神の顔の啓示として語り行動するからです。そして人々は、喜びをもって、主をたたえるのです。

 この夕刻には、わたしたちが福音の群衆です。わたしたちも何とかしてイエスに従い、耳を傾け、エウカリスティアにおいてイエスとの一致に入り、イエスと共に歩み、イエスがわたしたちと共に歩めるようにと試みています。自分自身に問いかけましょう。自分はどのようにイエスに従っているだろうか、と。イエスはエウカリスティアの神秘にある沈黙のうちに語り、ますます、イエスに従うということはわたしたち自身から出て行き、わたしたちの人生を自分の持ちものではなく、主と他の人々への捧げものとすることにあるのだということを思い返させます。

2.もう一歩先に進みましょう。イエスが弟子たちにしている、彼ら自身が群衆の飢えを満たすようにとの招きが生まれるのでしょう?二つの要素から生まれています。何よりも、イエスに従いながら、夕方になって寂しい所、人里離れたところにいることが確認され、その後弟子たちが心配して人々が町や家に言って泊るところと食べ物をさがしに去らせるようにとイエスに頼んだその群衆(ルカ912節参照)にあります。群衆の必要を前に、使徒たちの解決策はこれだったのです。一人一人自分で何とか考えるように。人々を去らせるとは!わたしたちキリスト者もこの誘惑に何度駆られることか!他の人々の欠乏の責任を負わず、「神があなたを助けてくださいますように!」という敬虔な言葉で去らせてしまうことがあるのです。けれども、イエスの解決策は他の方向に向かいます。弟子たちをドキッとさせる方向です。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。けれど、群衆に食べ物を与えるなど、わたしたちにどうすればできるというのでしょうか?「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。けれどイエスは諦めません。弟子たちに頼んで人々を五十人ずつくらいの共同体にして座らせ、その眼差しを上げて天に向け、祝福の言葉を口にし、パンを割き、人々に配るために弟子たちに与えます。それは深い一致の時です。主の言葉によって養われた群衆は、今やいのちのパンで栄養を摂ります。そして全員が満たされた、と福音記者は記しています。

 この夕刻に、わたしたちも主の食卓のまわりにいます。エウカリスティアのいけにえの食卓です。今一度イエスがそこでわたしたちに自分の体を与え、十字架の唯一のいけにえを現存させる食卓を囲んでいるのです。それはそのみ言葉への傾聴において、その体とその血で栄養を摂ることにおいて、主がわたしたちを群衆から共同体へと移行させ、無名の状態から(聖体的)一致へと移行させる場なのです。エウカリスティアは一致の秘跡です。それは個人主義からイエスへの追従と信仰を共に生きるためにわたしたちを引っ張り出します。そこでわたしたちは主の前で自問しなければならないでしょう。わたしはどのようにエウカリスティアを生きているだろうか?無名の一人としてだろうか、それとも主との本当の一致、しかし同時にこの同じ食卓を分かち合うこれだけ多くの兄弟姉妹との一致の瞬間として生きているのだろうか?わたしたちのエウカリスティアの祭儀はどうなっているのだろう?と。

3.最後の要素です。どこからパンの増殖が生まれるのでしょう?答えはイエスの弟子たちへの招きに見出されます。「あなたたちが彼らに与えなさい」、「与える」、分かち合う。弟子たちは何を分かち合うのでしょう?持っているほんの少しのもの、五つのパンと二匹の魚です。けれどちょうどそのパンとその魚が主の手の内にあり、すべての人の飢えを満たすのです。そしてちょうどその弟子たち、自分の可能性の無力を前に、差し出せるものの困窮を前に当惑しているその弟子たちこそが、大群衆を座らせて、イエスの言葉に信頼して、群衆の飢えを満たすパンと魚を配るのです。そしてこのことはわたしたちに、教会において、しかし社会においても、恐れてはならないキーワード、つまり「連帯」という言葉が存在することを指摘します。連帯とはつまり、「持っているもの、わたしたちのつつましやかな能力を神のために使う心構えをすること」を言います。なぜなら分かち合うことにおいてのみ、自分を差し出すことにおいてのみ、わたしたちのいのちは肥沃になる、実りをもたらすのです。連帯。世の精神からはあまりよい風に見られない言葉です。

 この夕刻に、今一度、主はわたしたちのためにパンを配ります。それは自分の体です。自らがプレゼントになるのです。そしてわたしたちも、飢えとの「神の連帯」、決して尽きることのない連帯、わたしたちを驚かせてやまない連帯を経験するのです。神がわたしたちの側におられる方となり、十字架のいけにえにおいてわたしたちにいのちを差し出すために死の暗闇に入りながらへりくだり、悪や自己中心主義、死に打ち勝つのです。この夕刻にもイエスはエウカリスティアにおいてご自身を捧げ、わたしたち自身の歩みを分かち合い、さらに自分自身を糧とします。自ら、道が困難になり、障害がわたしたちの歩みにブレーキをかけるときにわたしたちの人生を支える本物の糧となるのです。エウカリスティアにおいて、主はわたしたちがご自身の歩みを踏襲するようにします。その歩みとは、あの奉仕の道、分かち合いの道、自己贈与の道、持っているものが少なくとも、わたしたちの人数が少なくても、もし分かち合われるならば豊かさとなる道です。なぜなら神の力は、わたしたちをに変化をもたらすためにわたしたちの貧しさのもとに降って来られる愛の力だからです。

 この夕刻にですから、エウカリスティアにおいて本当においでになるキリストを礼拝しながら自問しましょう。わたしは主のもたらす変化を受け入れるだろうか?わたしは主がわたしにご自身を与えられるというのを認め、わたしの小さな空間からますます出て行って主と他の人々に与え、分かち合い、愛することを恐れないようにと導くその手に委ねるだろうか?、と。

 追従、一致、分かち合い。エウカリスティア(感謝の聖体祭儀)への参加がわたしたちにいつも次のことを呼び覚ますように祈りましょう。毎日主に従い、(聖体的)一致の道具となり、わたしたちなりのことを主とわたしたちの隣人と分かち合っていくこと。そうして、わたしたちの存在は本当に実りをもたらすものとなるのです。アーメン。


5月29日、朝ミサ説教:勝利主義は十字架のないキリスト教主義の誘惑

朗読個所  : シラ36・1-2、5-6、13-22
          マルコ10・32-45


バチカン、5月29日16時10分(バチカンラジオ)

  この日の福音は、エルサレムに向かう道のイエスが弟子たちにその受難、死、復活を知らせるところを語っている。これは信仰の道である。パパはこの火曜日、聖マルタの家での説教の中でこう説明した。「弟子たちは他のプロジェクトのことを考えていました。道の半分まで行くことでした。彼らにはそこで止まった方がよかったのです」。そして「彼らは互いにどのように教会を調整しようか、どのように救いを解決しようかと議論するのです」。そうして、ヨハネとヤコブが、主の栄光において、一人を右に、一人を左に座らせてくれるようにとイエスに頼み、これが他の仲間たちの間で教会においてだれが一番重要なのかという議論を引き起こすのである。

 「弟子たちの誘惑は、イエスが砂漠で、悪魔が他の道を提案する時に受けたのと同じ誘惑です」。「すべて早く済ませてしまえ、奇跡を起こせ、全世界が見ることのできることをしてみろ。神殿を見て、仕掛けもパラシュートもない飛び降りを遂げてみろ。そうすれば全世界が奇跡を見て、そうやって贖いが実現するだろう」。これはペトロが最初の時にイエスの受難を受け入れられなかった時と同じ誘惑である。「これは十字架のないキリスト教の誘惑です。道の途中にあるキリスト教です」。「十字架のないキリスト教の誘惑」、「道の途中にあるキリスト教」は、父が望むところに到着したがらない。「これは勝利主義の誘惑なのです。わたしたちは今日の勝利を求めます。十字架に向かわない、世俗的な勝利、理にかなった勝利を求めるのです」。

 「教会における勝利主義は、教会を滞らせます。キリスト者における勝利主義は、キリスト者を立ち止まらせます。勝利主義に満ちた教会は、道の途中にある教会です。そういう形で幸せな教会は、身の回りの品もよく準備され、よく整備されています!事務所がたくさんあって、すべてがうまく行きます。いいでしょう?効率的で。けれど、殉教者となるのを拒む教会は、十字架の道のために殉教者が教会に必要であることを知りません。勝利、成功だけを考える教会はイエスのあの規律を知りません。失敗、人間的失敗、十字架の失敗を通しての勝利を。そしてこれがわたしたち皆が持っている誘惑なのです」。

 パパは、その後で、自分の人生の具体的な時期を思い出した。

 「かつて、自分の霊的生活において闇の時を通っていたことがあります。そして主に恵みを求めていました。数名のシスターたちに霊操の指導をしに行きました。そして最後の日にゆるしの秘跡がありました。そこに、80歳を超えた年寄りのシスターが告解のために来ました。年寄りですが、目はきらきらと、とても輝いていました。神の人でした。告解の終わりに、この人が本当に神の人だと思ったので、彼女に言いました。『聞いて下さい、償いとして、わたしのために祈ってください。恵みを必要としているからです。いいですか?もしあなたが主に頼むなら、必ず主はわたしにそれを下さるでしょう』。しばらく静かになりました。祈っているかのようでした。そしてわたしに言いました。『もちろん主はあなたにその恵みを下さるでしょう。けれどだまされないでください。主はその恵みを、ご自分の神らしい方法で下さいますから』。主はいつもわたしたちが求めるものを下さるけれど、ご自分の神らしい方法で下さると感じる、このことはわたしに役立ちました。そして神らしい方法というのは終わりの時までこれにあります。神らしい形というのは、十字架にあるのです。マゾヒズムのためではありませんよ、違います。違いますよ!愛のためです。極みまでの愛のためです」。

 そしてこれが、教父がその説教を結んだ祈りである。

 「主に、道の途中の教会、勝利主義の教会、大きな成功の教会ではなく、謙虚な、イエスのように決意をもって歩む教会となれる恵みを求めましょう。前に、前に、前進して。イエスのように父のみ旨に開かれた心で。この恵みを求めましょう」。 
ER - RV

5月29日、一般謁見:神の家族としての教会。その憐れみと愛をもって

カトリック中央協議会のHP、全文 

バチカン、5月29日15時12分(バチカンラジオ)
 教父フランシスコは、今日の一般謁見の初めに、雨にもかかわらず勇気をもって早いうちからサン・ピエトロ広場にその言葉を聞くため、また祝福をもらうために押し寄せた10万人近い巡礼者をほめた。

 そして、雨の後に、太陽が出た。今回の『神の家族としての教会』と題された要理から、教皇自身が告げたように、教会の神秘についての回想が繰り広げられる予定である。その神秘は「全員がそれを生きており、その部分となっているもの」である。第二バチカン公会議をもって、また敬愛する前任者のベネディクト十六世のことを思い出しつつ、神のプロジェクトのことに釘を刺した。全人類が神のその子らからなる一つの家族となるようにすることである。この信仰年に、ローマ司教は、人間的であるがためにある人は罪を犯してしまうかもしれないが、その罪をはるかに超えて、神のあわれみと祝福を一人一人が気づく、一つの家族にますますなっていく切なる願いをもって、教会を愛することができるようにわたしたちを助けるために主に祈るようにと招いた。誰も完ぺきではなく、パパすらもそうである、と教父フランシスコはこう強調しながら言った。「すばらしいのは自分たちが罪びとだということに気づくことです。そうすると神のあわれみに出会うからです。神はいつもゆるしてくださるのです」。

 そのイタリア語での中心的な要理で、パパは様々な機会に、使徒座の始まりの時から、放蕩息子、あるいはむしろ『憐み深い父』の譬え話に触れてきたことを思い返しながら話し始めた。この譬え話は、他の福音書にある譬え話のように、神の人類に対する計画をうまく示している。

 「この神のプロジェクトとは何でしょうか?それはわたしたちすべてをご自身の子供の集まったたったひとつの家族にするということです。そこで一人一人が互いの近さを感じ、神から愛されていることを感じる、福音の譬え話にあるように神の家族であるということの温もりを感じるのです。この大きな計画は教会のその起源に見出されます。教会は何人かの同意によって創設された組織ではなく、何度も教皇ベネディクト十六世が思い返していたように、神のわざなのです。教会はまさにこの、歴史の中で徐々に発展している愛の計画から生まれるのです」。

 ローマ司教は、神がすべての人を自分との聖体的一致に招こうという望みから生まれることを強調し、「教会」という単語はギリシャ語では「エックレーシア」つまり「招集」という意味であることを思い返させた。神はわたしたちを招集し、わたしたちがその家族の一部となるように呼ばれる、とフランシスコは具体的に指摘した。

 「救いの歴史のすべては人を探し、その愛を差し出し、人を受け入れる神の歴史です。アブラハムを呼んで、多くの人々の父祖としました。イスラエルの民を選び、すべての民を抱く一つの契約を立てました。そして時が満ちると、ご自分の息子を送り、全人類との新しい永遠の契約のうちにその愛と救いの計画が実現するようにしました。どの福音書を読む時も、イエスがご自分の周りにその言葉を受け入れ、自分に従い、自分の歩みを分かち合い、自分の家族となっていく小さな共同体を集めているのが見受けられます。そしてこの共同体をもってイエスは自分の教会を準備し、建てるのです。

 では、教会はどこから生まれるのでしょうかとパパは問いかけた。「十字架という愛の最高の行為から生まれます。聖体の秘跡と洗礼の秘跡のシンボルである、血と水が流れ出るイエスの開かれた脇腹から生まれるのです」。

 「神の家族における、つまり教会におけるその活力源は、神と他の人々、分け隔ても控えることもなくすべての人々を愛することによって実現される神の愛にあります。教会は愛し合い、愛され合う一つの家族なのです。いつ教会は外に現れるのでしょう?二週間前の日曜日にお祝いしました。聖霊の賜物が、使徒たちの心を満たして彼らの後押しをして外に出し、福音を告げるため、神の愛を広めるための歩みを始めさせる時に外に現われるのです」。

 「もちろん、人間的な面もあります。教会の部分を成している人々には、牧者も信者も、欠陥、不完全さ、罪があります。パパにもありますよ、そして実にたくさんあるのです!(拍手)けれどすばらしいのは、わたしたちが罪びとだということに気づく時です…。素晴らしいのはこれです。わたしたちが罪びとだと気づく時に、わたしたちは神はいつもゆるしてくださる、という神のあわれみに出会うのです。このことを忘れないようにしましょう。神はいつもゆるしてくださる、ということを!そして神はそのゆるしとあわれみの愛においてわたしたちを受け入れてくださるのです。次のように言う人もいます。『これはすばらしいです。罪は神への侮辱です。けれど同時に一つの機会でもあります。これは他にもっと素晴らしいもの、神のあわれみがあるということに気づくための恥ずかしい想いなのです』と。このことを考えましょう」。

 自分はどれほど教会を愛しているだろうか?教会とその兄弟たちのために、自分はどんなことをしているだろうか?と教父は尋ね、この信仰年に特別に主に祈るようにと励ました。

 「信仰というのは、わたしたちに個人的に影響してくる賜物と働きです。けれど神はわたしたちが共に、わたしたちの信仰を、一つの家族として、教会として生きるようにと呼びかけます。この信仰年に特別な仕方で、わたしたちの共同体が、全教会が、ますます神の温もりを生き、もってくる本当の家族となれるように祈りましょう」。

 謁見の最後に、 パパは愛情たっぷりに青年たち、病人たち、最近結婚した人たちに挨拶をした。彼らすべてに、この五月の最後の謁見で、自動的にその想いがわたしたちキリスト者の歩みの輝かしい星である聖母マリアに向かうと述べた。パパは、彼らがたゆまずマリアと関わり、その取り次ぎと模範において、信仰の毎日の巡礼の道におけるよいアイデアと確かな導きに出会うように招いた。

 パパ・フランシスコは、ローマ司教として初めて、至聖なるキリストの御体と御血の荘厳祝日の伝統的祭儀を執り行う。実際、この木曜日、5月29日に、ミサの後、ローマのカテドラル、ラテランの聖ヨハネ使徒座大聖堂の広間で、教父は聖体行列を執り行い、古メルラナ通りを通り、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に到着する予定である。教父はローマの信者と巡礼者たちをこの「教会と人類にとってのもっとも高貴な宝である聖体への深い信仰の行」に招いた。

 「明日、主の聖体の祭日に、毎年祝っているように、わたしたちは19時にラテランの聖ヨハネ大聖堂でミサを祝います。その終わりに、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で閉じられる荘厳行列へと続きます。ローマの信者たちと巡礼者たちが、教会と人類にとってもっとも高貴な宝である聖体への深い信仰のこの行事において一つとなるように招きます」。 
(CdM - RV)

2013年5月28日火曜日

5月28日、朝ミサ説教:イエスの道から十字架を取り除くことはできない

朗読個所  :  シラ35・1-12
          マルコ10・28-31


バチカン、5月28日14時58分(バチカンラジオ)
 
 イエスの宣言は、絵画などの表面にある緑青やニスではなく、人の心まで入り込み、わたしたちに変化をもたらすもの。このようにパパ・フランシスコは聖マルタの家における朝ミサの中でこの火曜日に確言した。パパは繰り返し、イエスに従うということはより大きな権力を持つことを言うのではない、なぜならその道は十字架の道だからである、と述べた。このミサの共同司式者は新福音化推進評議会の議長のリノ・フィスィチェッラ卿と秘書のホセ・オクタヴィオ・ルイス卿であった。また、同じ省の司祭が数人、熱電気中枢の従業員と、バチカンの大工工房の従業員が参列した。 

 「あなたに従ってまいりましたがその報いとしていただけるものは何でしょうか?」パパ・フランシスコはその説教を、このペトロの問いではあるが深い所では、全キリスト者の人生と関わりのあるこの問いかけから始めた。パパの観点では、「イエスは、自分についてくる人たちはたくさんの美しいものを得るだろうけれど、迫害が伴う」ものである。続けて言った。「主の道は、『屈辱』の道です。十字架のうちに終わる道なのです」。付け加えて言った。「ここに、なぜいつも困難や迫害があるのかの所以があります。いつもそれはあり続けるでしょう。なぜなら主がこの道を、わたしたちよりも前に取ったからです」。「キリスト者がその生活において困難がないというとき、すべてのことがうまく行き、すべてのことが美しい、という時、何かがうまく機能していないのです」ということに気づくようにと教父は促した。「それは世の霊(精神)、世俗性とすごく友達であるのではないかと考えられます。そしてこれがキリスト教と独特の誘惑なのです」と確認した。

 「イエスに従いはしますよ、でもある程度のところまで、と言う人、文化的な形でイエスに従うこと、つまり、わたしはキリスト者ですよ、キリスト教の文化がありますからと言う人がいます……。けれど、そこにはイエスへの本物の追従や、その道を踏襲する強要力はありません。もし文化の提案としてイエスに従うようなら、この道が、回を重ねるごとにさらに昇格すること、より大きな権力を持つことに用いられるということです。教会の歴史にはこういうことが満載です。皇帝数人を挙げることから始め、実に多くの政府がそうですし、他の多くの人々もそうでしょう?違いますか?そしてある人たちは―多くの人々とは言いたくありません。ある人たちなのです―、司祭であったり、他は司教たちだったりするわけですよね?ある人たちはそういう人はたくさんいると言います。イエスに従うというのは、キャリアを積むことだと思っている人もいます。

 パパは思い出して言った。「二世紀前の文学を見ると、しばしば子供のころから教会のキャリアを積んで昇って行くことを夢描いていた、と言う言い回しが普通になっていた時期がありました」。そして「実に多くのキリスト者たちが、世の精神によって誘惑され、イエスに従うのがいいのはキャリアを積んで昇格できるからだと考えています」と指摘した。しかし「これは精神ではなく、むしろペトロの態度です。キャリアのことについて語り、イエスが彼に応えます。「そうです、あなたにすべてをあげましょう。迫害も一緒に」。というようなものである。「イエスの道から十字架を取り除くことはできません。いつもそこにあるのです」。けれどパパはまたこれはキリスト者が互いに害を及ぼし合わなければならないということを言いたいわけではない、と厳密に語った。キリスト者は「愛によってイエスに従う人です。そして愛のためにイエスに従う時、悪魔の妬みが実に多くのことをするものです」。「世の霊(精神)は、これに耐えられません。証しに耐えられないのです」と観察した。

 「マザーテレサのことを考えてください。マザーテレサについて 世の精神がどんなことを言っているでしょうか?『あぁ、福者テレサはいい人です。他の人たちのためによいことをたくさんしました』。世の精神は、決して福者テレサは毎日、何時間も聖体礼拝のためにじっと座っていたことを言いません。絶対に、です!キリスト者の活動を社会の慈善を行うことに狭めるのです。まるでキリスト者の存在がキリスト教主義の表面にあるニスや緑青であるかのように。イエスの宣言は緑青ではありません。イエスの宣言は骨に届き、心に届き、内側まで届き、わたしたちを変えるのです。そしてこのことに世の精神は耐えられないのです。これに耐えられないので、迫害が生じるのです」。

 イエスに従うために自分の家、自分の家族を離れる時、「すでにこの今という時に」100倍受ける、とローマ司教は指摘した。迫害と共に100倍、です。そしてこれは忘れられてはなりません。

 「イエスへの追従とはまさにこのことです。愛のために主と共に、主の後ろにつく。同じ道を行くことです。そして世の精神はこれに耐えられず、わたしたちを苦しめるけれど、かつてのイエスと同じような一つの苦しみなのです。この恵みを求めましょう。イエスがわたしたちに見せ、教えてくれた道を通ってイエスに従うことです。これは素敵なことです。なぜなら決してわたしたちを一人きりにしないからです。決して、です!主はいつもわたしたちと共にいてくださるのです。
 (RC-RV)

教皇フランシスコといっしょに世界で同じ時間に聖体礼拝をしよう!

バチカン、5月28日12時32分(バチカンラジオ)

 「唯一の主、唯一の信仰」というテーマで、ローマ司教と心一つにして、世界が祈りと聖体礼拝のうちに一つになる。信仰年の枠組みで、今朝、教皇が司式するイベントが紹介された。

6月2日:『荘厳聖体礼拝』ペトロの後継者と五大陸が一つになる。
6月15日、16日:『いのちの福音デー』。

 来る日曜日の、サン・ピエトロ大聖堂から教皇が司式する聖体礼拝の一時間は、世界の全教区の全カテドラルと小教区が特別な聖体礼拝のうちに生放送で一つになる。教父フランシスコ自らこの嘆願の重要な時間のための祈りの意向を提示した、と新福音化推進評議会の議長であるリノ・フィスィチェッラ卿は告げた。

 パパの招きに従って、世界じゅうに拡がる教会のために祈りがささげられるが、主がこの教会をますますそのみ言葉への傾聴に従順になるようにし、この救いをもたらすみ言葉があわれみ、慰め、喜び、落ち着きの分かち合いをこだまさせることができるように、と祈るものである。教父は、世界じゅうの様々な場所で新しいタイプの奴隷状態に苦しむ人々のために祈るようにとも頼んでいる。彼らは戦争や人身売買、麻薬取引、奴隷のような仕事であり、あらゆるタイプの暴力に苦しむ子供たちや女性たちもいる。不安定な経済状況に生きている人々、職のない人、老人、移民、ホームレス、刑務所に入っている人々、疎外されている人々のためにも祈るようにと招いている。

 予定されている時間は、ローマ時間の午後5時である。ラロトンガ島、クック諸島で明け方の5時に、合衆国のニューオーリンズでは午前10時、ベトナムのハノイでは夜の11時、ニュージーランドのクライストチャーチでは6月3日の明け方3時になる。

 一方、ローマは今度の木曜日にその司教(=教皇)と共にキリストの聖体の祝日を祝うために準備を進めている。実際、パパ・フランシスコはローマ司教として初めて、『キリストの御体と御血の荘厳祭日』の伝統的な祭儀を執り行う。明後日の5月29日の午前中に、聖なるミサの後、ローマのカテドラルでラテランの聖ヨハネ使徒座大聖堂の回廊で、教皇は聖体行列を執り行い、古メルラーナ通りを巡って、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に到着する予定である。
(CdM – RV)

5月27日、朝ミサ説教:わたしたちの富にはどのようなものがあるでしょう?

朗読箇所  : シラ17・24-29
          マルコ10・17-27

バチカン、5月27日16時23分(バチカンラジオ)

 イエスに従うためには安定した生活やその場限りのことへの傾倒の文化を脱ぎ去らなければならない。パパ・フランシスコはこの月曜日の聖マルタの家での朝ミサでこう確言した。パパは今日この頃イエスに近づくのを妨げる、「富」についての良心の糾明をしなければならないと強調した。ミサには、リヨンのフランス人大司教、フィリップ・バルバリン枢機卿が共同司式に上がり、バチカンの従業員達も参列した。

 イエスは一人の青年に、持っている富を全て貧しい人々に与えて自分に従うようにと頼むが、この青年は悲しみながら離れていきます。パパ・フランシスコはその説教を、今日の福音にある有名なエピソードの語りに端を発してこれを発展させた。教父は「富は神の国への歩みを容易にしてくれない障害です」と強調した。説明するには、「いつもわたしたちがイエスに近づくのを妨げる種の富というのが存在するのです」と説明した。フランシスコは二つの「文化的な富」について語った。何よりも、「安定した生活の文化です。これはわたしたちが勇気を出そうとするのを抑え、わたしたちを怠け者にし、自己中心主義にもします」。「安定した生活は、わたしたちを眠らせます。これは麻酔薬なのです」とローマ司教は注意を促した。

 「いえ、いえ、ひとり以上の子どもはいりません。休暇に行けなくなるし、○○というところにも行けなくなるし、家も買えなくなるから」。主に従うのはいいけれど、ある程度のところまで。これが安定した生活がなすことです。皆、安定した生活というのはどういうものかよく知っているのです。けれどこれがわたしたちを破壊します。わたしたちからあの価値をはぎ取り、イエスに近づいていくあの勇気をはぎ取っていくのです。これがわたしたちの文化の今日における最初の文化です。安定した生活という文化」。

 「さらに、わたしたちの文化にはもう一つの富があります」と付け加えた。それは「わたしたちがイエスに近づくのを妨げるもう一つの富ですが、その場限りのことへの傾倒というものです」。「わたしたちは、その場限りのことに惚れ込んでいます」とパパは見解を述べた。イエスがわたしたちになしてくる「決定的な提案というのは、わたしたちは好きではないのです」。一方、過ぎゆくものが好きなのです。なぜなら永遠(決定的)である「神の時間というものを恐れているからです」と教皇は指摘した。

 「神は時間の主なのです。わたしたちは一時的な時の主人なのです。何故でしょう?なぜならその一瞬、わたしたちこそが命じる人になっているからです。ここまでは主に従います。その後のことは、まぁ様子を見ましょう。一度、誰かが司祭になりたいけれど、10年だけやってみたい、でも10年だけ、そう言っている人を知りました。どれほどのカップルが、口には出さないけれどどれほどのカップルが、心の中で『愛が続く間は。その後のことは様子を見て…』と考えて結婚することでしょう。その場限りのことへの傾倒。これは一つの富です。わたしたちは時の主人にならなければなりません。わたしたちは時間を瞬時という時に狭めて短くしているのです。この二つの富がこの瞬間にわたしたちが前に向かっていくのを妨げるものなのです。わたしは全生涯をかけて宣教師として出かけていくために自分の住み慣れた時を離れた多くの多くの男女のことを考えます。あれこそ決定的なことです!」

 「けれどもまた、生涯をかけて結婚生活を全うしていこうとして自分の家を離れた多くの男女のことも考えます」と教皇は確言した。「そのことは『イエスにそのそばで従う』ということなのです。これも決定的なことです!」「その場限りのことというのは、イエスに従わないことなのです。それはわたしたちのテリトリーに限っていることなのです」とパパ・フランシスコは繰り返した。

 イエスの招きを前に、この二つの文化的な富を見据えて、弟子達のことを考えましょう。彼らは当惑していました。わたしたちもこのイエスの言葉で当惑するかも知れません。弟子たちはいくつか説明を受けてもっと当惑していました。主に、前に進んでいく勇気をくださるようにと願いましょう。この安定した生活の富を脱ぎ去って、すぐに役に立たなくなる、瞬間の小さな希望ではなく、彼がわたしたちを待っていて下さる、道の終着点まで続く、この時の中での希望を持って前進する勇気を願いましょう。なれかし(アーメン)
 (RC-RV)




2013年5月26日日曜日

5月26日、お告げの祈り:神は何かあやふやなものでも抽象的なものでもない。神は愛

バチカン、5月26日12時23分(バチカンラジオ)

 
 神は何かあやふやなものでも抽象的なものでもありません。名前があるのです。『神は愛』なのです。と、サン・ピエトロ広場を埋め尽くした巡礼者の大群衆に、ローマ司教は主日のお告げの祈りの前の回想のことばを述べた。

 それは感情的、感傷的な愛ではない。三位一体は人の理屈から造られたものではなく、人類と共に歩みながら、特にナザレのイエスにおいて神自身が開示した顔である。「イエスはあわれみ深い父をわたしたちに知らせてくださり、聖霊の『火』を地上にもたらした方です」。

 フランシスコは神ご自身によって、その計り知れない栄光によって、神をたたえ、神が愛であること、永遠の命であるその聖体的一致の抱擁に入るようにとわたしたちを呼んでくださることに感謝しながら祈りの前の話を結んだ。
(イエズス会士:ギリェルモ・オルティス)

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5月26日、初聖体の子どもたちのための説教:イエスさまはわたしたちが歩けるように力を下さる

朗読個所  :  三位一体の主日
          箴言8・22-31
          ローマ5・1-5
          ヨハネ16・12-15

ローマ、5月26日12時01分(バチカンラジオ)

 
 「イエスさまはわたしたちと共に歩み、わたしたちを助け、わたしたちを導いてくれるのですよ」とローマ司教は初聖体の子供たちとの対話で説明した。そしてまた、「イエスさまはわたしたちに歩くための力をくれるんです、大変なときにわたしたちを支えてくださるんです」と言った。

 「聖体的一致をもってわたしたちに力を下さるのです。主がわたしたちのもとに来てくださるのです。でもたったひとかけらのパンがわたしにそんなにも力をくれるんですか?」フランシスコは尋ねた。「違いま~す!」と子供たちは応えた。「(力をくれるのはキリストの体なんです」とパパは言い定めた。「パンに見えるけれど、イエスさまの身体なのです。イエスさまがわたしたちの心に来てくださるのです」。

 この5月26日の日曜日、三位一体の主日に、パパ・フランシスコは朝9時半に、ローマにある小教区聖エリザベトとザカリア教会へ司牧訪問を実現し、ミサをささげ、16人の子供たちに初聖体を授け、また他の28人にも聖体を配った。

 ローマ司教と共同司式に上がったのは、アゴスティーノ・ヴァッリーニ代理枢機卿、ローマ教区北部の補佐司教であるゲリーノ・ディ・トラ司教、主任司祭のベノーニ・アンバルス神父、そして助任司祭のジョヴァンニ・フランコ神父であった。

 ミサは屋外で捧げられた。7千人を抱える「プリマ・ポルタ」という町の小教区の前にある広場であった。教皇フランシスコはこの1年の間に洗礼を受けた子供たちとその家族、またそこにいた病者たちと顔を合わせた。 


ローマ司教の初聖体の子供たちとの対話。聖エリザベトとザカリア教会にて。
(スペイン語翻訳:バチカンラジオのクラウディア・アルベルトとイエズス会士ギリェルモ・オルティス)

教皇:「主任神父さんのことばを聞いてマリアさまのことでとても素敵な話を思い出しました。マリアさまはイエスさまのお母さんになるだろうということ、それから従姉(いとこ)のエリザベトさんに子供ができたということを知らされた時、これを聞いてすぐ、って福音書に書いてあるんですけれど、急いで、待たずに、『わたし、今お腹に子供がいるから、わたし、自分の健康管理しないといけないから、きっと従妹にはお友達がいて、きっと助けてくれるから』とは言わずに飛んで行きました。マリアさまは何かを感じて、そして急いで行ったのです。わたしたちのお母さんであるマリアさまのこのことを考えるのは素敵なことです。急いで行く姿。というのはこのことが心の中で響くからです。助けるんだ。自分がほめられるために助けるのではないんです。助けてあげて「ほら、聞いて、今度はわたしの言うことを聞きなさい、だってわたしって神さまのお母様だもの」と言うためではないんです。違いますよ。そういうことはしませんでした。マリアさまは助けに行ったのです。マリアさまはいつもそういう風です。マリアさまは、わたしたちが何か必要なことがあったらいつもすっ飛んで来てくれるわたしたちのお母さんなのです。きっと、連願に、「急いで来てくださるマリア、わたしたちのためにお祈りください」というのが加わったら素晴らしいでしょうね。なぜならマリアさまはいつも急いで行ってくれて、その子どもたちのことを忘れないからです。子どもたちが大変な時には、何か必要としていることがある時には、マリアさまに呼びかけると、急いで来てくれます。そしてこれがわたしたちといつも一緒に、すぐ真横にお母さんにいてもらえる安心感を与えてくれるのです。そう、お母さんが近くにいてくれる時、人生をよりよく歩んでいけるのです。わたしたちを待たせることなく近くにいてくださるマリアさまのこの恵みについて考えましょう。マリアさまはいつもわたしたちを助けるためにいてくださいます。このことに信頼しましょう。

 それから、マリアさまは神さま、イエスさまのことをよく分るように助けてくれます。イエスさまの生活について、神さまのいのちについてよく分るように、主ってなんなのか、主は、どのような方なのか、神さまって誰なのか、よくわかるように助けてくれるのです。

 子どもたち、みなさんに尋ねます。神さまってだれか分る人、手を挙げて」。

一人の子供:「地球を作ってくれた人です。」

 「当たりですね~」と答えてからパパは尋ねた。「じゃぁ、神さま、何人ですか?一人?父と、子と、聖霊と言うけれど、神さまは三人いるんでしょうか?どうやってこれ、説明したらいいんでしょうね?一人ですか、三人ですか?」

子供たち:「一人で~す!」。

「じゃぁ、父と、子と、聖霊が一人になるには、どう説明すればいいのかな?ん?もっと、もっと大きな声で!」

子供たち:(まちまちに「一」や「三つが一つの中にある」などと応える)
 
教皇:「三が一つに、三つのペルソナが一つになっているんですね。では父は、何をしますか?父は最初の最初に、すべてのものを造って、それからわたしたちを造ってくださった方です」。

「子は何をするんですか?イエスさまは何をするんでしょう?イエスさまが何をするか言える人いますか?」

子ども:「わたしたちを愛してくれる」

教皇:「わたしたちを愛して下さいますね。え?それから?」

子ども:「イエスさまは神の言葉をわたしたちにもたらします。

教皇:「そう、神さまのことばをわたしたちに持ってきます。イエスさまはやってきて神さまの言葉について教えてくれるのです。とてもいい答えです。それから?どんなことをイエスさまはこの地上でしたんですか?」

子ども:「わたしたちを救ってくれた」

教皇:「わたしたちを救ってくれました。イエスさまはわたしたちのためにいのちを捧げるために来られたんです。父は世界を造り、イエスはわたしたちを救う、じゃぁ聖霊は何をするんでしょうか?

子ども:「わたしたちを愛します」

教皇:「わたしたちを愛する、わたしたちに愛をくれるのです、さぁ、みんな、みんなで繰り返して。父は、はい全員で、世界を造ります。イエスは、わたしたちを救います。聖霊は?」

子どもたち:(元気よく)「わたしたちを愛します」。

教皇:「わたしたちを愛します。これがキリスト信者の生活です。父と話し、子と話し、聖霊と話す。イエスさまはわたしたちを救い、しかも生きている間、わたしたちと一緒に歩んでくれます。本当でしょうか?」

子ども:「はい!」

教皇:「じゃぁどうやってイエスさまは歩くんでしょう?生きている間わたしたちと一緒に歩く時に、イエスさまは何をするんでしょう?この質問は難しいですよ」。フランシスコは言いきった。「これに応えられる人は、デルビー(一番大事なサッカーチームの対抗試合)で勝てます」。全員の笑いと拍手。「わたしたちと一緒に歩いている時、イエスさまはどんなことをするんでしょうか?」

子どもたち: 「わたしたちを助けてくれます」

教皇:「大きい声で!」

子どもたち:「わたしたちを助けてくれます!」

教皇:「一つ目、わたしたちを助けてくれます」

子どもたち:「わたしたちを導いてくれます」。

教皇:「わたしたちを導いてくれる!大当たりですよ。イエスさまはわたしたちと一緒に歩いて、わたしたちを助け、わたしたちを導いてくれます。それから、わたしたちに前に進んでいくことを教えてくれます。しかもイエスさまは歩くための力をくれます。そして?」

子ども:「支えてくれる」

教皇:「わたしたちを支えてくれます!大変な時に。学校の宿題が大変な時にもね、でしょ?」。全員爆笑。「わたしたちを支えてくれます。わたしたちを助け、わたしたちを導き、わたしたちを支えてくれる。」

子どもたち:「わたしたちと一緒に歩んでくれる!」

教皇:「その通り、イエスさまはいつもわたしたちと一緒に歩んでくれます。そして、わたしたちに力をくれます。イエスさまはどのようにわたしたちに力を下さるんでしょうか?このことはみんな知っていることですよ、どうやってわたしたちに力を?」。

子どもたち:「ご聖体で」

教皇:「大きい声で、聞こえませんよ」

子どもたち:「ご聖体で」

教皇:「そう、ご聖体(聖体的一致)においてわたしたちに力を下さるんです。イエスさまはわたしたちのところに来てくれます。でも、ご聖体をあげるとき、たったひとかけらのパンがあるだけでしょ?それがわたしにそんなにも力をくれるんでしょうか?」

子どもたち:「違います。それはキリストの体です」

教皇:「でも、パンじゃないの?」 

子ども:「イエスです!」

教皇:「パンでしょ?祭壇の上に置かれるものは、パンですか?パンじゃありませんか?パンに見えるけれど、正確にはパンじゃないんですね。何ですか?」

子どもたち:「イエスさまの体です」

教皇:「イエスさまの体です。イエスさまがわたしたちの心に来てくださるんです。みなさん、このことを考えましょう。父はわたしたちにいのちをくださいました。イエスさまはわたしたちに救いをくださって、わたしたちと共に歩み、わたしたちを導き、わたしたちを支え、わたしたちに教えてくださいます。聖霊は何でしたっけ?」

子どもたち:「わたしたちを愛する!」
 
教皇:「わたしたちを愛し、わたしたちに愛をくださいます。神さまのことをこういう風に考えましょう。そしてマリアさま、わたしたちのお母さんであるマリアさまに、いつでもわたしたちのところに急いでやってきて、神さまがどのような方かよくわかるように教えてくれるようにお願いしましょう、父はどんな方か、子はどんな方か、聖霊はどんな方かを。そうありますように(アーメン)」。

人権よりも権力や金銭が大切にされることが決してないように


バチカン、5月25日13時05分(バチカンラジオ)
 
 人を中心にすることよりも権力や金銭の偶像の後を追い、地球全体における貧困を推し進めている倫理的な危機を前に、今日、教会の社会教理の現代性を広め、取り上げることは今までになく緊急のことである。社会教理の「根本的な価値は連帯に」あり、「それは福音、つまりキリストに根ざしている」、と、福者ヨハネパウロ二世とベネディクト十六世を引き合いに出しながら、教皇フランシスコは取り上げた。喜びをもって聖庁支持『チェンテスィムス・アンヌス(『百年紀=新しい課題-教会と社会の百年をふりかえって』)』財団(20年前に福者ヨハネ・パウロ二世によって作られ、『レールム・ノヴァールム(『労働者の境遇』)』が出てから百年を記念してこの教皇がサインをした文書を『チェンテスィムス・アンヌス』である)の国際大会参加者500名前後を迎えるにあたり、教皇フランシスコは「雇用のための連帯の再考:21世紀の挑戦」というこの大会のテーマを取り上げた。

 「皆さんの内省と働きの環境はつまり、教会の社会教理に関するものであり、前世紀の様々な教皇たちが様々な仕方で貢献してきたものです。そしてまたベネディクト十六世も、特にその回勅『真理における愛徳』や記念すべき講演などにおいても貢献してきました」と取り上げた後で、ローマ司教はこの財団が研修や出版物を通して、経済や労働の社会や世界に生活している信徒の側から、社会の教導職に重要ですばらしい奉仕をこうして分かち合いながら、社会教理についての知識を深め、また広めることにおいて実現している努力に感謝を示そうと望んだ。

 また『新しい課題-教会と社会の百年をふりかえって』の十年前に1981年に福者ヨハネパウロ二世が人の労働に捧げた『ラボーレム・エクセルチェンス(働くことについて)』を書いたことについて思い返すにあたり、パパ・フランシスコは「連帯を再考する」とは何を意味するのかについて回想し、事実、「ますます対策や実際を示している」最近の教導職を議論の題材にすることが問題なのではないと指摘した。

 「それよりも、『再考する』というのは二つのことを言おうとしているように思われます。何よりも、継続的で急速であるためにますます新しい局面を提示してくる社会経済的改革に、教導職を調整させること、そして二つ目に、『再考する』とは、その後、深い所で福音、つまりイエスキリストに根をおろしていて、そのために尽きぬ潜在力をもっている一つの価値 ― この場合連帯ですが ― の多産性すべてを現すために、これを深め、回想することを言わんとしています」。

 この文脈で、教父は連帯の価値を推進する切迫した現状を強調した。

 「今の経済社会危機は、この『再考する』ということをさらに緊急なものとし、『働くことについて』に読まれるように、社会教導職の認める真理と現実をさらに強調します。『人類家族全体に目を向けると、大規模な当惑させるような出来事を前に圧倒されたままでいる以外できなくなります。つまり、著名な自然資源を用いないでい続けている一方、他方、無職の人や必要以上に忙しい人のグループ全体と、大量の空腹な人々の行きつくところのなさがあります。それはまがいもなく何かがうまくいっていないことを証明する事実です』(18項)」。

 もう一度、パパ・フランシスコは世界に広がっている職についていないことや貧困の現象に対する憂慮を示し、全システムにグローバルな仕方で及ぶ「連帯を再考する」義務を強調した。

 「職についていない、ということは仕事の不足や喪失の現象です。それは西洋の広範に拡がってきており、貧困の限界の憂慮すべき形で広まっているのです。わたしは次のことを強調したいのですが、パンを得ることをさせず、仕事の尊厳を妨げることほどひどい物質的貧困はありません。この『何かがうまくいっていない』ということは南米だけの関心事ではなく、地球全体の関心なのです。 そこから、『連帯を再考する』という義務が来ます。もはやそれはただの貧者への世話ではなく、全人類の基本的人権にふさわしい方法で全システムを再構築し改善する方法を探すような、全システムのグローバルな再計画なのです。この『連帯』ということばは財界からはあまりよく見られていません。それはまるで言ってはならない悪いことばであるかのようです。この言葉にふさわしい市民権を返さなければなりません」。

 ローマ司教はこの土曜日にも、ペルソナのある人間を中心にすることを守るようにとの切迫した呼びかけを繰り返し、人類が生きている倫理的また文化人類学的な危機が人権よりも上に利潤を据えたことを指摘した。

 「現在の危機は単なる経済的、財政的なものではなく、その根本に倫理的、また文化人類学的な危機があるのです。ペルソナのある人間の価値よりも権力、利潤、金銭の偶像に従うことが、機能の基本法則となり、組織の決定的な判断基準となったのです。商売や市場のパラメーターや論理の上に人がいて、人が人であるということに根差すその深い尊厳の徳、つまり尊厳をもって生き、共通善に活動的に参与する可能性を提供するということが忘れられてしまった、また忘れられ続けています。ベネディクト十六世は、まさにそれが人間的だからということで、経済を含めた、あらゆる人の活動は倫理的な仕方で機能し、組織として組まれなければならないことを思い返させました(回勅『真理における愛徳』36項)。ですから、人を中心にすることに戻らなければなりません。何かを失うことを恐れず、人間関係や活動のより倫理的なビジョンに立ち返らなければならないのです」。
(CdM - RV)

2013年5月25日土曜日

5月25日、朝ミサ説教:税関のような司牧にならないように気をつけよう

朗読個所  :  シラ17・1-15
          マルコ10・13-16  

バチカン、5月26日17時31分(バチカンラジオ)

 教皇フランシスコは、この土曜日(昨日)、教会は「開かれた扉」を持ち、まるで「税関」のようにふるまわないようにと呼びかけた。このことを聖マルタの家での朝ミサの間に教父は述べた。パパは人々が祝福のためにと主のもとに子供をつれてくるのをなんとかして外に出そうとする弟子たちに対してイエスが叱るという、この日の福音について考えをめぐらした。「イエスは子どもたちをだきしめ、彼らにキスをし、そうしてやってくる人すべてに触れます。けれど、イエスが疲れているのを見て、弟子たちは「人々がイエスに近づくのを妨げてあげようとするのですが、イエスは気分を害します。『わたしのもとに来させなさい。妨げてはならない。彼らのようなもののために、神の国はあるのだ』と言いながら」。

 「神の民の信仰は、単純な信仰です。おそらくあまり神学に富んでいないでしょう。けれど、たがうことのない神学(=神の論理)をそのうちに含んでいます。なぜならその中に聖霊がおられるからです」とパパは言った。パパ・フランシスコは第一バチカン公会議と第二バチカン公会議を思い返した。そこでは「神の聖なる民は・・・・・・信仰において間違えることはない」(ルーメン・ジェンチウム)と言われている。そしてこの神学的な定式文を説明するために付け加えた。「もしあなたが、誰がマリアであるかを知りたいならば進学者のところに行きなさい。マリアが誰であるか、しっかり説明してくれるでしょう。けれどもしあなたがどのようにマリアを愛すれば言いかを知りたいならば、神の民のところに行きなさい。より上手にそのことを教えてくれるでしょう」。そしてパパは続けた。「神の民はいつもイエスにもう少し何かを願うために近づいていきます。しばしばすこししつこいものですが、そのしつこさは信じる者のしぶとさです」。

 「前に、守護聖人の祭りをしていたサルタの町から出てきたときに、ひとりの貧しい女性がいて、司祭の祝福を求めていました。司祭は言いました。『いいですけど、おばさん、あなたはミサにいたでしょう!』そして、彼女にミサにおける祝福のありとあらゆる神学的説明をしていました。司祭は正しいことをしました・・・・・・。『あぁ、神父さま、ありがとうございます。そうですね、神父さま』と女性は言っていました。その司祭がいなくなると、その女性は他の司祭に向かっていきました。『祝福をください!』。結局あのあらゆる説明の言葉は何の役にも立ちませんでした。というのも、彼女には別の必要性があったからです。主に触れてもらう必要性です。それこそいつも私たちが出会う信仰です。そしてこの信仰は、聖霊が注ぎ込んでくれる信仰なのです。わたしたちは、よりたやすくこの信仰がはたらき、育つようにし、育つのを助けなければなりません」。

 教皇はまた、エリコの盲人のエピソードを引用してきた。主に「イエス様、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」と叫んでいたために弟子たちからしかられた盲人である。

 「福音書は、弟子たちはこの人が叫ばないでほしかった、もう叫ばないようにと望んでいたと言っています。けれどこの人はもっと声を張り上げて叫びました。なぜでしょうか?それは彼がイエスに対する信仰を持っていたからです!聖霊はその心に信仰を据えました。そして弟子たちは『いや、あなたにはできない。種には叫ばないものだ。礼儀作法がなっていない』と言っていました。『彼は三位一体の第二位格にあらせられるお方ぞ。何てことをしているんだ、お前は』と言っているようなものです。そうでしょう?

 その説教の中で、パパはまたシングル・マザーの人の息子に洗礼を授けることを拒む司祭の例をも持ち出した。「この女性は妊婦として子供が産まれるまで耐え抜く勇気を持った女性です。・・・・・・そして彼女が出会ったものは何でしょうか?閉ざされた扉です」とフランシスコは言った。「このような道をとるとき、わたしたちは神の民を助けていることにはなりません」と教皇(=橋の建設者)は言った。そして加えて言った。「イエスは七つの秘跡を作りました。そしてこういうタイプの態度でわたしたちは八つ目の秘跡を作ってしまいます。司牧的税関の秘跡です!」

 「今日、イエスのことを考えましょう。いつもすべての人が自分に近づこうとしておられる方です。神の聖なる民のことを考えましょう。イエスに近づきたいと望むシンプルな民です。そして間違いを犯し、扉を開く代わりに閉ざしてしまうよい心を持った多くのキリスト者のことを考えましょう。そして主に、教会を訪れる人々すべてが開かれた扉に、このイエスの愛に出会うために開かれた扉に出会うことができるように願い求めましょう。この恵みを求めましょう」。

ER - RV

5月24日、朝ミサ説教:忍耐をもって困難に耐え抜き、愛をもって抑圧を乗り越えること

朗読個所  : シラ6・5-17
          マルコ10・1-12

バチカン、5月24日18時52分(バチカンラジオ)


 
 「忍耐をもって耐え、内外からの抑圧に愛をもって乗り越える」。これは絶えざる御助けの聖マリアの記念の典礼を聖マルタの家の小聖堂でささげたミサの間に今朝、パパ・フランシスコがささげた祈りであった。

  その説教において、フランシスコは二つの恵みを求めた。つまり、「忍耐をもって困難を耐え抜き、愛をもって乗り越える」ことである。それは「キリスト者に 特有の恵み」についてのことであると言った。そして「忍耐をもって耐え抜くことはやさしいことではありません」。「外から困難が押し寄せてくる時や、心や 魂に問題が届いたり、内側の問題になったりした時に、簡単ではないのです」と言った。そして耐え抜くということは「困難を抱え込むということではありませ ん」と説明した。

  「耐え抜くということは、困難を手にし、力を出して持ちあげ、困難がわたしたちをつぶさないようにすることです。力を出して持ち上げること、これはキリス ト者の徳です。聖パウロはこのことを何度も語っています。耐え抜く。これは困難に打ちのめされてしまわないという意味です。これはキリスト者には腕を下げ ず、保つ力があるということです。困難を持っていく、けれどそれを持ち上げながら、耐え抜くことです。そしてそれは簡単ではありません。なぜならやる気が なくなったり、腕をもう下ろして『でも前に行こう。出来るだけのことをとりあえずやろう、でもそこまで』少しそのような感じで言いたくなったりするからです。けれど違います。耐え抜くというのは恵みなのです。困難において忍耐を願いましょう。

 教父が求めたもう一つの恵みは「愛をもって乗り越えること」である。

  「様々な方法で乗り越えることができますが、今日求める恵みは、愛をもって、愛を手段にした勝利の恵みです。そしてこれは一筋縄にはいきません。わたした ちをひどく苦しめる、敵とも言えるような存在が外側にあると、愛をもって乗り越える、というのは、容易なことではないのです。復讐心、その相手に何か仕返 しをしたい気持ちがわき起こります……。愛。イエスがわたしたちに教えたそのおとなしい態度。そしてそれこそが勝利なのです!使徒ヨハネはその最初の手紙 の中でわたしたちに言います。『勝利、それはわたしたちの信仰です』(5章4節)。わたしたちの信仰というのはまさに、わたしたちに愛を教え、わたしたち のすべての人を愛することを教えたイエスを信じることにあります。そしてわたしたちが愛のうちにあることの証拠は、わたしたちの敵のために祈る時に見られ るのです」。

  敵のため、わたしたちを苦しめる人々のために祈ることは、「簡単ではありません」とローマ司教は続けて語った。しかし、もし敵をゆるさず、彼らのために祈 らないなら、わたしたちは「うちのめされたキリスト者」になる。そして叫んだ。「なんとも多くの悲しむキリスト者、落ち込んだキリスト者に出会うこと か!」なぜなら「忍耐をもって耐え抜き愛をもって乗り越えるこの恵みをいただいたことがないからです」。

  「だからおとめマリアに、この忍耐をもって耐え抜き愛をもって乗り越える恵みを神が下さるように、取り次いでいただきましょう。どれほど多くの人々が、実 に多くの老人男女は特に、この歩みを通ったことでしょう!そしてそれを見るのはとても素敵なことです。その美しいまなざし、その落ち着いた幸福感をもって いる彼らを見ることは。多くを語りません。けれど忍耐強く愛に満ちた心を持っています。何が敵を赦すことで、何が敵のために祈ることかを知っています。実 に多くのキリスト者がそうやっています」。

  このミサには広報評議会の従業員がその議長のクラウディオ・マリア・チェッリ卿とともに列席していた。そしてまさにこの日、中国の教会のために祈る日を 祝っていたので、福音宣教省の秘書であるサヴィオ・ホン・タイ・ファイ卿と、中国出身の司祭、シスター、神学生、信徒たちも列席した。

 共同祈願の終わりに、パパ・フランシスコはこのような言葉で祈った。「尊い中国の民のために祈りましょう。主が彼らを祝福し、おとめマリアが守ってくださいますように」。 ミサは、中国語の聖母賛歌をもって閉じられた。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

2013年5月24日金曜日

イタリアの司教団総会において:競争心やお金に惑わされず、群れと共に歩むこと

バチカン、5月23日16時27分(バチカンラジオ)


 悪魔は当惑や挫折、不信感につけ込み、苦々しさ(ひどい悲しみ)のうちに孤立するようにといざなう。イエスは一方、人を辱めることなく、慰め、勇気を取り戻させてくれる。牧者となる、とは、「群れのただ中、また後ろを歩く」心構えを言い、お金や競争の意識で誘惑されない心構えを指す。これは、イタリア司教協議会の第65回総会での、「信仰宣言」の際にサン・ピエトロ大聖堂で今日の午後、教皇フランシスコがした説教のいくつかのポイントである。

 このように、午後6時に、ローマ教皇はイタリア司教協議会の「荘厳信仰宣言の儀」を執り行った。そこではイタリアの司教団との最初の集いが、まさにペトロの墓であるだけではなく、その信仰の証し、真理への奉仕、福音と教会のために殉教までささげた献身を庇護するまさにこの場所で行われたことを、意義深いこと、そして特に喜ばしいものとして強調した。

 パパは言った。「この午後、信仰宣言の祭壇は、このような形でわたしたちのティベリアス湖畔になります。そこではイエスとペトロのたまらない対話を改めて聞きます。イエスは使徒に向かって尋ねるのですが、それはわたしたちの心にもこだましなければなりません。『お前は、わたしを愛するか?』『お前は、わたしの友か?』(ヨハネ21章15節以降参照)と」。

 イタリア司教協議会議長のアンジェロ・バグナスコ枢機卿のあいさつとみ言葉の祭儀の後、パパフランシスコは、信仰宣言、共同祈願、使徒的祝福に続いて、閉会の歌「サルヴェ・レジナ」を歌っている間に聖なるおとめマリアの像の前に花束の捧げものをした。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ– RV).

5月23日、朝ミサ説教:博物館に並べられたキリスト者にならないために、信仰、希望、愛徳の塩を広める

朗読個所  :  シラ5・1-6
          マルコ9・41-50

 キリスト者は信仰と希望と愛徳の塩気を広めるように。これはパパ・フランシスコが今朝聖マルタの家の小聖堂で祝ったミサの説教の中で行った勧告である。

 教父はキリスト者のオリジナリティは「一つの形(ユニフォーム)になることではありません」と強調し、味気のない「博物館に収められたキリスト者」になってしまう危険に対して警戒するよう促した。

 この機会にアンジェロ・ソダノ枢機卿とレオナルド・サンドゥリ枢機卿が、ラ・パスの大司教であるエドムンド・アバストフロール・モンテロ大司教と共にローマ司教との共同司式に上がった。また東方教会省の司祭団と信徒協力者たちのグループが列席した。

 キリスト者の生活において、何が「塩」なのだろうか?またイエスはどのような塩をわたしたちに下さったのだろうか?パパはその説教の中で、キリスト者が自分のいのちを人に与え、それも他者に対して与えるようにと呼ばれていることにある味わいについて熟慮するために留まった。そして主がわたしたちに下さる塩と言うのは、信仰、希望、愛徳の塩であると語った。同時にこの塩が、イエスがわたしたちを救うために死んで復活されたという確信によって与えられるこの塩が、「無味乾燥なものとならないように、その力を失わないように」と忠告した。なぜならこの塩は、「保管しておくためのものではないからです。なぜならもし塩をビンに入れて保管して何もしないなら、何の役にも立たないからです」とフランシスコは続けた。

 「塩というものが意味をなすのは、食べ物に味をつけるために使われた時です。それからもう一つ思いつくのは、きっと塩をビンに入れて取っておくと、湿気て、効力をなくして、使えなくなるのではないか、と言うことです。わたしたちが受けた塩というのは、使うため、味付けをするため、差し出すためです。そうでなければ、味気がなくなり、役に立たなくなります。主に、わたしたちが味気のない塩をもったキリスト者、塩をビンにおさめたキリスト者にならないようにと願わなければなりません。けれど塩にはもう一つの特徴があります。これをうまく使う時、塩の味を感じさせません。塩の味・・・感じないのです。それぞれの料理の味になるのです。塩というのは、その料理がより良い味になるように助けます。もっと長持ちするように、もっと美味しくなるようにするのです。これこそキリスト者のオリジナリティなのですよ!」

 そして「この塩をもって信仰を告げ知らせる時」、「宣言を受ける」人々は、「料理の時と同じように、自分の独自性に沿ってこれを受けるのです」。そしてそのように「自分の独自性をもって塩を受けると、一人一人はより良い者となるのです」。

 「キリスト者のオリジナリティというのは、みんなが同じようになること(ユニフォーム性)にはありませんよ! 一人一人を、そのパーソナリティや特徴、文化のまま、あるがままであることを受け入れ、それを、そのすべてを残すのです。なぜならそれは豊かさだからです。けれどそこには何かさらなる者が与えられるのです。味付けがなされるのです!キリスト者のこのオリジナリティは、とても素敵なものです。なぜならわたしたちが全員右に倣えとするならば、つまり全員が同じ仕方でしょっぱくなるならば、料理のおばさんが塩を入れ過ぎてしまって、塩の味しかしなくなって、その料理が、せっかく塩を入れたのに美味しくなくなってしまう、そのようになるのです。キリスト者のオリジナリティは、まさにこれにあるのです。一人一人があるがまま、主が与えてくださった賜物をもっている、というところです」。

 パパは続けて言った。「これがわたしたちが使わなければならない塩です」。「保管するためではなく、使うため」の塩である。そしてこれは「すこし超越的な部分も意味します」。「メッセージをもって出ること、塩についてわたしたちが持っているこの豊かさをもって出て行き、他者にこれを差し出すことです」。一方で、この塩がダメにならないようにするための二つの「出方」があると強調した。一つ目は、塩を「料理のために使う、他者のために使う、人のために使う」ために差し出すことである。二つ目は「塩を作った方、つまり創造者にむかって超越」することである。塩気は、「説教において使われる時にのみ保たれるのではなく」、「別の超越性、祈り、礼拝の必要もあるのです」とローマ司教は確認をした。

 「そしてこのようにして塩は保たれ、その味わいを失わないのです。主への礼拝をもってわたしは自分自身から超越し、福音の宣言をもってわたしは自分の殻から出てメッセージを与えます。しかしもしわたしたちがこれを行わないならば、つまりこうした二つのこと、この二つの塩を使うための超越をしないなら、塩はビンの中にずっとあり、わたしたちは博物館に並べられたキリスト者に姿を変えるでしょう。わたしたちは(与えられた)塩を見せることができます。ここにわたしの塩があります。なんて素敵なのだろう!これは洗礼の時にもらった塩です。これは堅信の時にもらった塩です。これは要理(カテケージス)の時にもらった塩です。……しかしごらんなさい。博物館のキリスト者とは! 味のない塩、何にも使われない塩とは!
(スペイン語翻訳:マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

2013年5月23日木曜日

5月22日、一般謁見:誰もが自分の生き方を通して福音宣教をする、だからわたしたちの生き方に変革をもたらす聖霊の働きに恐れなく心を開かなければならない


バチカン、5月22日11時7分(バチカンラジオ)




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5月22日教皇一般謁見:「聖霊は真の福音宣教推進者」(『バチカン放送局』より)









第9回 聖霊を信じます - 教会の宣教使命 (これをクリックすると中央協議会のホームページに飛びます)

教皇によってスペイン語でなされた今日の要理の要約
愛する兄弟姉妹の皆さん、


 信仰宣言において、聖霊への信仰告白のところで、「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」とわたしたちは言います。聖霊と教会の両者が一緒に並んでいきます。つまり聖霊こそが教会にいのちを与えるもので、その歩みを導くものなのです。聖霊がなければ、教会はすべての国々へ行ってそこで弟子にするという使命を果たすことはできないでしょう。この使命は誰か数人に限られたものではなく、わたしの使命であり、君の、あなたの使命、わたしたちの使命なのです。誰もが福音宣教者にならなければなりません。特に自分の生き方を通してです。そのために畏れることなく聖霊の働きに開かれる必要性があります。聖霊降臨の時に、聖霊は使徒たちが自分の殻から出て行くようにしました。そして彼らを神の偉大さを告げ知らせる者へと変え、聞く人はそれぞれ自分の国の言葉でこれを理解しました。このように、バベルのような言語による混乱は乗り越えられました。というのは今や神と他者への開きが支配するからです。そして神の言葉の宣言を、誰もが理解できる表現で運びます。それは聖霊が人の心に注ぐ愛の言語表現です。聖霊はさらに、大胆に(パレシーア)、声をあげて、いつでもどこでも福音の新しさを告げる勇気を注ぎこみます。そしてこれは、祈りによってしっかりと支えられます。祈りがなければあらゆる活動はむなしくなり、告げ知らせることには魂が抜けます。つまり、聖霊によって魂を与えられていない状態になるのです。
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愛情をこめてスペイン語圏の巡礼者たちに挨拶します。特にスペイン、アルゼンチン、チリ、エクアドル、グアテマラ、メキシコ、ペルー、そして他のラテンアメリカ諸国からの皆さんに。わたしたちすべてが聖霊によって導かれるがままに任せ、教会における本物の弟子、また宣教者になれますように。 どうもありがとう。

5月22日、朝ミサ説教:よいことを行うことはイデオロギーや宗教を越えて、人々を一つに結ぶもの

朗読個所:    シラ2・1-11
          マルコ9・30-37

バチカン、5月22日18時7分(バチカンラジオ)
 「よいことを行うこと」は様々なイデオロギーや宗教を越えて、全人類を一つに結ぶ基準であり、平和の基礎となるその出会いの文化を作る。このようにパパ・フランシスコは5月22日水曜日、聖マルタの家の小聖堂で捧げられた朝ミサの説教で語った。そのミサには政治部の従業員数名が参列した。さらにパパと共に、アンティオキアのマロン派総主教のベチャラ・ボウトゥロス・ライ枢機卿が共同司式をした。

 この時に読まれた福音では、グループの外でいいことをしているであろう一人の人の活動を妨げようとするイエスの弟子たちが紹介されている。「彼らは『もしわたしたちのグループにいないならば、いいことはできない。もし自分たちの党にいないなら、いいことはできない』と言いながら嘆いています」。そしてイエスは「妨げてはならない。よいことをしたいがままにさせなさい」と言いながら彼らの考えを正します、とフランシスコはその説教の中で説明した。「弟子たちは、少し不寛容でした」と教父は続けた。真理を持つということに対して狭い理解しかなく、彼らは「真理を持たないあの人たちは皆よいことができない」と確信していた。そして「これはどこか間違っていたのです」。そこでイエスは「視野(地平)を広げます」。このことについてパパの観察によれば、「わたしたちのだれもが持っている、このよいことを行う可能性というものは、創造のわざに根拠があります」。

 「主はわたしたちをその似姿、似たようなものに作りました。それでわたしたちは主の似姿であり、主がすべての人によいことをするので、わたしたちはこの「よいことを行い、悪いことはするな」という掟を心に抱いているのです。全員がそれを抱いているのです。『でも、神父さま、この人はカトリックじゃないですよ。よいことを行えるはずがない!』と言う人がいるかもしれません。できます。よいことを行うことができます。出来なければおかしいのですよ。できるか、ではなくて、行わなければならないのです!なぜなら心の内側にこの掟があるからです。一方、誰もがよいことを行えるわけではないと考えるこの閉ざされた態度は、わたしたちを戦争へと導く壁であり、歴史の中でもこのように考えた人がいたのです。神の名において人殺しをする、と言う人が。神の名において人を殺すなどあってはなりません。そしてそれは、そのまま冒涜なのです。神の名において人を殺してもいいと口にすることは、冒涜なのです」 。

 パパ・フランシスコは、一方「主はわたしたちをその似姿と似たようなものに作り、「よいことを行い、悪いことはするな」というわたしたちの心の内側にあるこの掟をわたしたちに据えたのです。

 「主は、すべての人々を、わたしたちすべてを、カトリックだけではない全員をキリストの血をもって贖われたのです。全員をですよ!『神父さま、無神論者は?』勿論彼らもです。全員をです!そしてこの血がわたしたちを第一級の神の子にするのです!わたしたちは神に似た者としての性質をもって造られました。そしてこの全ての人によいことを行うという掟は平和への美しい歩みです。もしわたしたちが、ゆっくりと、たっぷりと、少しずつ行うならば実に激しい欠乏も備えたわたしたちの出会いの文化を作るのです。いいことをしながら出会ってください。『けれど神父さま、わたしは信じませんよ。わたしは無神論者ではないのです』と言ってきても、あなたはよいことを行うでしょう。そこでわたしたちは出会うのですよ!

 「よいことを行う」と言うのは、信仰の問題ではない、「これはわたしたちの義務、わたしたちの御父がすべての人に与えた身分証明書なのです。なぜならわたしたちをその似姿と似たようなものに造られたからです」とパパは説明した。「そして主は、いつもよいことを行っておられます。

 フランシスコは次のような祈りで説教を結んだ。

 「今日は、不可能なことの守護者である聖リタの祝日です。けれどこのことは不可能に思えます。彼女にこの恵みを求めましょう。すべての男女がよいことを行いこのわざ、父の創造に似たものとなる、創造のわざをしながら出会うことができるようにと願いましょう。これは家族の仕事です。なぜなら誰もが皆神の子らだからです。全員です、みんなです!そして神はわたしを愛しておられる、全員を愛しておられるのです!聖リタの取り次ぎでわたしたちにこのほぼ不可能と思われるこの恵みを下さいますように。かくあれかし(アーメン)」 
(María Fernanda Bernasconi – RV).

二人の福者の間でのこと、聖なる生き方への招き

バチカン、5月22日13時56分(バチカンラジオ)

  パパ・フランシスコはこの火曜日の午後に『マリアの恵みの家』を訪れた際に、感謝をこめて神の愛の宣教者会のシスターたちとその協力者たちに見られる、教会の貧しい人たちへの愛を拾い上げた。その際、存在を通して神の尽きぬ賜物そのものとなったおとめマリアのような愛による、愛徳の学校であるこの家を励ました。「毎日の奉仕をもって」皆さんは「生きとし生けるものの飢えを満たす神の手」となっている。このような言葉でローマ教皇は、バチカンにある『マリアの恵みの家』を訪れた際に、カルカッタの福者マザーテレサによって創立された神の愛の宣教者会のシスターたちに声をかけた。自らがになっている仕組みで、このシスターたちは25人くらいの女性に宿を貸し、毎日60人くらいの人に配膳している。ローマ聖庁の報道事務局長であるフェデリコ・ロンバルディ神父が伝えたように、パパは100人ほどの、宿泊者や協力者、友人たちや修道者たちと一堂に会し、一人一人に挨拶をした。

 この幸いな機会は、福者ヨハネパウロ二世がカルカッタの福者マザーテレサにこの家を委ねた日の25周年記念であった。「二人の福者の間のこと」であり、聖性が広まるようにとのはたらきがある、とパパ・フランシスコは挨拶の中で言った。そしてそこで国籍や宗教にとらわれないこの仕組みが提供する歓迎とホスピタリティの重要性をも強調した。教父は感謝と連帯に邁進するようにと励まし、野蛮な資本主義は、今わたしたちが生きている危機に見られるように、手段を選ばずに利益を求める論理構造を教えたことを指摘した。

 善いサマリア人のように、この25年の間欠乏にある人々に対して身をかがめ続けてきた『マリアの恵みの家』ではたらいている人々すべてに心から感謝を述べた。また数多の傷を負う人々、特に霊的な傷に苦しむ人々が手当てをしてもらえたことについても触れた。 集いには歌が伴い、祭りの雰囲気で心に刻まれた。シスターたちはパパ・フランシスコの首のまわりを、インドの習慣に則って、美しい花飾りで飾った。
(CdM - RV)

2013年5月22日水曜日

5月21日、朝ミサ説教:教会にある本当の権威は奉仕にあり、キリスト者にとって発展はへりくだりにある

朗読個所 :   シラ2・1-11
          マルコ9・30-37
バチカン、5月21日11時5分(ACI/EWTNニュース)
No debe existir lucha de poder en la Iglesia, dice el Papa Francisco

 聖マルタの家で今朝捧げられたミサの、すでに習慣となっている説教の中で、パパ・フランシスコは教会での権力争いはあるまじきものであると述べ、まことの権威というのは仕えられるためではなく仕えるために来たキリストにならった奉仕にある、と思い返させた。

 教父は今日の福音について回想を巡らした。そこはイエスが弟子たちに自分の受難について語る場面である。弟子たちと言えば、自分たちの間で誰が一番であるかについて議論していた。「教会の中での権力争いというのは、今日に始まったものではなく、すでにイエスの時代に始まっていたのです」。「福音の要点では、教会の中での権力争いはあるまじきものなのです」とパパは説明した。

 フランシスコは「まことの権威は奉仕にあります。キリストがしたようにです。彼は仕えられるためではなく、仕えるために来ました。そしてその奉仕は十字架の奉仕となったのです。イエスはへりくだり、死に至るまで、しかも十字架における死に至るまでへりくだりました。わたしたちのため、わたしたちに仕えるため、わたしたちを救うためです。そして教会には前進していくためにはこれ以外の道はないのです。キリスト者にとって、前に進む、発展する、とは低くなることにあるのです。わたしたちは、このキリスト的な法則を学ばないならば、決して、絶対に、権力に関するイエスのまことのメッセージを理解することはできないのですと強調した。

 パパはその説教のなかで、ロヨラの聖イグナシオが霊操において十字架の主に「辱めの恵み」をよく願ったことを思い返させた。パパは繰り返した。「これこそ、教会の奉仕の本当の力なのです」。

 教父は「主の道はその奉仕にあります。イエスが自分の奉仕を果たしたように、わたしたちは彼の後について行き、奉仕の道を歩まなければなりません。これこそ教会の本当の力なのです」。

 「今日、主がわたしたちに教会における本当の権威とは奉仕にあることを理解する恵みを下さるよう、わたしたちすべてのために祈りたいと思います。また、キリスト者にとって、発展する、前進するとはへりくだること、より小さいものであることであると、自らの模範によってわたしたちに教えてくださったイエスの黄金律を理解することができるようにも願いましょう。この恵みを求めましょう」と結んだ。

2013年5月21日火曜日

教皇が祓魔を行った?

バチカン、5月20日15時20分(ACI)

5月19日の日曜日、聖霊降臨の荘厳祭日に、教会は聖母マリアと弟子たちの上に降った聖霊の注ぎの記念を祝う。パパ・フランシスコはサン・ピエトロ広場で跋魔の儀を行ったようである。

 20万人以上の人が参列した聖霊降臨のミサであるが、そのほとんどは教会の新しい諸運動に属する人々であった。そのミサをささげた最後のところで、教父はミサに列席した病者たちに挨拶をして回った。しかし一人の司祭に伴われていた一人の男性の前で立ち止まった。

 パパが青年に挨拶すると、司祭は彼が跋魔を必要としていると伝えた。教父は顔の表情を変え、まじめな顔になり、両手を彼の頭において祈った。

 イタリア報道局は、この映像を見た跋魔師によると、パパは悪霊からの解放の祈り、あるいは実際に跋魔を行っただろうと指摘している。パパ・フランシスコの祈りのビデオは5月24日に、イタリア司教協議会のTV2000チャンネルの、Vade Retroという番組で5月24日金曜日に報道され、コメントが加えられるとのことである。
しかしながら!(↓こちらがもっと大事)

バチカン、5月21日10時9分(ACI)
 
 バチカンのスポークスマンであるフェデリコ・ロンバルディ神父は、5月19日の聖霊降臨祭にサン・ピエトロ広場でパパ・フランシスコが跋魔を行ったことを否定している。

 ACI新聞社の宣言で、ローマ聖庁の報道事務局長は「教皇は跋魔を行おうという意図は全くありませんでした。ですからこれを行ったという情報は全く持って偽りです。単純に、病人のために祈っただけです」。

 パパ・フランシスコが跋魔を行った、という考えはイタリア司教協議会のTV2000チャンネルによってインターネットに載せられた、「Vade Retro」というプログラムの宣伝のビデオに起因している(上記の記事)。Vade Retroというのは、跋魔の儀式に用いられるラテン語形式で、「引き下がれ」「後ろに下がれ」という意味である。そのビデオではキリスト軍修道会司祭フアン・リヴァスがパパに一人の青年を紹介している。司祭がパパに何を語ったかは分らない。しかし教父はこれをまじめにとらえ、真剣なまなざしになり、車いすの青年のために祈り、その後、青年に按手をした。

 パパが祈っている間、青年が口を開き、そこから唸るような声が漏れているのが聞こえ、車いすの中で少し埋もれていくのがみられる。

 ガードマンが何が起こったかに気付き、教父が次の人に挨拶をしに進む前に、リヴァス神父が持っていた手紙を受け取りに急いだ。

 「普通に、パパに病気の人や困難にある人がたくさん連れて来られます。そしてパパは単にその人たちのためにお祈りをするだけです」 とフェデリコ・ロンバルディ神父はACI新聞に語った。