2014年1月31日金曜日

1月30日(木)、朝ミサ説教:教会の内部で、感じとり、考え、愛し求めること

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ
〔①〕サムエル下7章18-19、24-29節
〔福〕マルコ4章21-25節

 「教会抜きに 一キリスト者を理解することはできません」。パパ・フランシスコは今朝聖マルタの家で祝われたミサの中で注意を促した。教皇は教会的帰属の意義の三本柱を示した。謙遜、忠義、そして教会のための祈りである。

 今日の説教は、今日の第一朗読で紹介されている形でのダビデ王の姿から始まった。そこではダビデは父と語る子どものように主と語る人として描かれており、その願いに対して「だめ」という答えを受けたらこれを喜んで受け止める姿が見られる。ダビデは、「神の民への強い帰属意識がありました」。そしてこれはわたしたちに、自分の教会への帰属の意義はどうなっているか、自分の教会と共にある感情、教会の中にいる感情はどうなっているかを自問させます。

 「キリスト者というのは、洗礼で水を引っ掛けてその後自分の歩みたい道を歩むものではありません。洗礼の最初の実りは教会、つまり神の民に所属させてくれる、ということです。教会抜きに一キリスト者を理解することはできません。そしてこのため偉大なるパウロ六世は、教会抜きにキリストを愛すること、キリストには耳を傾けるけれど教会には耳を傾けない、教会の枠の外でキリストと共にいること、というのはひどい自己分裂だ、と言っていました。できないのです。それはひどい自己分裂なのです。わたしたちは教会の中で福音のメッセージを受けます。そして教会の中でわたしたちの聖性を磨き、教会の中でわたしたちのあゆみを築きます。それ以外はいわば幻想、あるいはパウロ六世が言っていたように、ひどい自己分裂なのです」。

 「センスス・エックレシエ(教会感覚)」とはまさに、教会の内部で、感じ取り、考え、愛し求めることなのです。この帰属、この教会の感覚には三つの柱があります。まず第一の者は謙遜、つまり大いなる恵みとしての一共同体の内側にいるのだ、という意識です。

 「謙遜ではない人は、教会と共に物事を感じ取ることはできません。その人が好きなことを感じ取るだけでしょう。そしてこの謙遜はダビデの内側に見出されるものです。「神である主よ、わたしはいったい何者でしょうか?我が家に一体何があるというのですか?」と。その、救いの歴史は自分から始まったのでも、自分が死ぬときに終わるものでもないという意識をもって。いいえ、すべてが救いの歴史なのです。やってきてあなたを、主が受け取り、前に進ませ、それからあなたを(あちらへ)呼び、歴史は続きます。教会の歴史はわたしたちよりも前に始まり、わたしたちの後にも続くでしょう。謙遜。わたしたちは主の道を行く、大いなる民の小さな部分なのです」。

 二つ目の柱は、「聞きわけ(従順)と共にゆく」忠義です。

 「教会への忠義、その教えへの忠義、信仰宣言への忠義、教義への忠義、この教義を保つことです。謙遜と忠義。パウロ六世も、わたしたちは福音のメッセージを賜物として受けたのだから、賜物として差し出さないと思い返させていたものです。これはわたしたちが差し出す、受けた賜物なのです。そしてこの伝達において忠義を尽くすのです。なぜならわたしたちは自分のものではなく、イエスのものである福音を受けたのだから与えなければならないからです。そして自分の好みに合わせて活用するような福音のオーナー、受けた教義のオーナーに姿を変えてはならないのです。

 第三の柱は独自の奉仕です。「教会のために祈ること」です。「わたしたちの教会のための祈りはいかがですか?教会のために祈りますか?毎日ミサの中で、でも自分の家ではしない、でしょうか?いつわたしたちは自分の祈りをするのでしょう?世界のあらゆるところにある、全教会のために祈ること。「主がわたしたちを助けてこの道をいけるようにし、わたしたちの教会への帰属意識とわたしたちの教会との感じを深めることができるといいね。 
(RC-RV)

2014年1月30日木曜日

1月29日(水)、一般謁見:堅信の秘跡


 この水曜日の一般謁見は、堅信の秘跡にささげられました。パパ・フランシスコはこの秘跡が洗礼の恵みを追認させ、わたしたちがキリストによりかたく一致させ、教会とわたしたちとの関係を確かにし、信仰を守りキリストの十字架を恥とせずキリストの名を告白するために聖霊の特別な力をわたしたちに下さいます。

 「堅信は、聖霊をわたしたちのうちに注ぎ込みつつ、わたしたちの人生が神の子のイメージを取りこみ、わたしたちが神のように愛することができるようにすることに気をもみます。この聖霊は、わたしたちの中で、あらゆる人の中で、一生の間その力をもって働いてやまない」とローマ司教は明言した。

1月28日(火)、朝ミサ説教:自分のサッカーチームがゴールを決めると大声で叫ぶことができるのに、主への賛美のためには歌えないのですか?

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ 
〔①〕サムエル下6章12b-15、17-19節
〔福〕マルコ3章31-35節
 
 賛美の祈りはわたしたちを実り豊かな者にします。聖マルタの家での今朝のミサ中にパパ・フランシスコはこう語った。パパは、第一朗読の語っている主のためのダビドの歓喜に満ちた賛美についてコメントをしながら、もし形式主義に閉じこもるならば、わたしたちの祈りは冷たく不毛になってしまう、と強調した。

 「ダビドは主の前で全力で踊りました』。教皇はその説教を、サムエル記第二巻で語られているこの喜ばしいイメージに端を発して発展させた。神の民全体はお祝いでした。なぜなら契約の箱が家に帰ってきたからです。ダビデの賛美の祈りは、「冷静さをすべて脇に置き、主の前で全力で踊るに至らせました」。これは、「まさに賛美の祈りだったのです!」 この個所を読むと、「わたしはすぐにイサクを産んだ後のサラのことを考えます」。「主は喜びのあまり踊るようににとなさったのです!」。この老女です。若いダビデのように、主の前で「喜び躍ったのです」。「わたしたちにとって、主にあることを願うための祈りは理解に安いではないことかもしれません。そして主に感謝することも。礼拝の祈りを理解するためにも、「それほど難しいことではありません」。けれど賛美の祈りは他事を横にやることで、適当にわたしたちに訪れるものではないのです!」。

「『でも、神父さん、これは聖霊刷新の人たちの問題で、キリスト者全員の物代ではないでしょう』とおっしゃるでしょう。いいえ、賛美の祈りはキリスト者の祈りです。わたしたち全員にとっての!。ミサの中で、毎日、感謝の賛歌を歌う時…これは賛美の祈りですよ。神をたたえます。その偉大さを。なぜなら偉大だからですよ!これが賛美の祈りです。そして美しいことを言います。なぜならこのままでいたいとは望まないので、美しい物事について語るのです。『でも、神父さん、わたしにはできません…。わたしがしなければならないのは…』とおっしゃるでしょう。けれど、あなたは自分の応援しているサッカーチームがゴールを決めると叫び声をあげるのに、主への賛美の歌を歌うことができないんですか?これを歌うために少し自分を抑えているところから出ないのですか?神への賛美というのは、完璧にただなのですよ!何かをお願いするのでもないし、何かに感謝するのでもなくて、賛美するのです!」

 「心を尽くして」祈らなければなりません。「それは正義の行為でもあります。なぜなら主は偉大だからです!」 ダビデは「実に幸せでした。なぜなら契約の箱が帰ってきた、つまり主が帰ってきたからです。あのダンスでその体でも祈っていたのです」。

 「今日することができる、よい問いがあります。『わたしの賛美の祈りはどうなっているでしょう? わたしは主をたたえることはどういうことか知っているでしょうか?主への賛美の仕方を知っているのか、それとも栄光の賛歌や感謝の賛歌を祈る時に、口だけで、心を尽くさずにしているのでしょうか? ダビデは踊りながらわたしに何を語っているのでしょうか? そしてサラは、喜びに踊りながら何を言っているでしょう?ダビデが町に入る時、もう一つ別のことが始まります。祭りです!

 「賛美の喜びは、祭りの喜びへとわたしたちを導きます。家族の祭りです」。ダビデが宮殿に入る時、サウル王の娘であるミカルは、ダビデをいさめ、王でありながら全員の前であのように踊ったことが恥ずかしくないのかと尋ねます。ミカルは「ダビデを軽蔑しました」。

 「わたしたちは心の中で、典礼的ではないとか形式に従わないということで、自然と、自分の中でわいてくるかのように主を賛美する善い人々を、何度軽蔑していることでしょうか?軽蔑!そして聖書はこのせいでミカルは一生、子どもが産めなくなったと語っています。ここで神のみ言葉は何を言おうとしているのでしょう?喜びが、賛美の祈りがわたしたちを実りをもたらしうる者とするのです!サラは子どもが産める体になったその偉大な瞬間に踊っていました。90歳でですよ!主に対する賛美をわたしたちに与え、主を賛美する無償性を与える、実りをもたらす能力です。主を賛美すし、主を賛美しながら祈り、栄光の賛歌を祈る時にこれを唱えることに喜びを感じ、聖なるかなを歌う時に歌うことに喜びを感じるあの男性、女性は、実りをもたらす能力を備えた人なのです」。
 (RC-RV)

2014年1月29日水曜日

1月27日(月)、朝ミサ説教:育ちゆく森より、倒れる木の方が大きい音を出す

ここをクリックして、教皇の声を聞きながらどうぞ
〔①〕サムエル下5章1-7,10節
〔福〕マルコ3章22‐30節

 教会はふつうの人間的な組織のように理解されるものではありません。違いは司教や司祭たちに与えられる油注ぎが与えるものです。つまり神の民に仕えるための聖霊の力です。聖マルタの家で今朝捧げられたミサでパパ・フランシスコが言ったことである。教皇はその日々の奉仕において無名でいのちをささげている数多くの聖なる司祭たちに感謝した。

 ダビデに王として油を注ぐイスラエルの諸部族について語る当日の第一朗読についてコメントをしながら、パパは油注ぎの霊的意味を説明した。「この油注ぎがなければ、ダビデは会社や政治社会のボスになっていたでしょう」。イスラエル王国もただの「政治機構」になっていたに違いありません。一方、「油注ぎの後で、主の霊」はダビデの上に降り彼とともに留まります。聖書がこう言っています。「ますますダビデが偉大になっていくにあたり、万軍の神が彼と共にいたのです」。「これこそが油注ぎの違いです」。油注がれた人は主によって選ばれた人なのです。教会でも司教たちや司祭たちにそのようなことが起こっているのです。

 「司教たちは、地方教会と呼ばれるひとつの組織を前進させるために選ばれただけではなく、油注がれた人たちなのです。油注ぎを受けているのです。そして主の霊が彼らと共にいるのです。けれどどの司教たちも、わたしたち全員、罪びとなのです。全員です! けれどわたしたちには油が注がれているのです。誰もが日々より聖なる者になりたい、この油注ぎに対してより忠実になりたいと望んでいるのです。そしてまさに教会のためにはたらいている人、教会に一致をもたらしている人が、イエス・キリストの名における司教の人となりなのです。なぜなら多数決で選ばれたからではなく、油注ぎを得ているからです。油注がれているからなのです。地方教会にはこの油注ぎの力があります。そして参与によって司祭たちも油注がれています」。

 油注ぎは、司教たちや司祭たちを主に近づけます。そして彼らに「その民を前進させるため、民を助けるため、民の奉仕を生きるため」の喜びと力を与えます。「わたしたち全員を見つめる主の持つあの愛をもって主によって選ばれ、主に見つめられていること」を感じる喜びを与えてくださいます。そのように、「司教たちや司祭たちのことを考える時、そのように、つまり油注がれた者として考えなければなりません」。 

 「そうでなければ、教会を理解できません。理解できないだけでなく、はたして教会が人間的力だけで前進するかどうかを説明することができません。この教区がうまくいくのは、聖なる民がいて、たくさんのことがあるからですが、加えてこれを導き、育てるのを助ける油注がれた人もいるから、前進するのです。この小教区がうまくいくのは、たくさんの組織があって、とてもたくさんのことがあるけれど、それに加えて司祭が、つまりこれを前進させる油注がれた人がいるからです。そしてわたしたちは歴史の中での最小部分を知っているだけですが、どれほどの聖なる司教たち、司祭たち、どれほどの聖なる司祭たちが教区や小教区の奉仕のためにその命をささげてきたことでしょう。どれほどの人々がこうした、わたしたちの知らない無名の主任司祭たちから信仰の力、愛の力、希望を受けてきたことでしょう。ほんとうにたくさんいるのです!」

 「その油注ぎをもって、民に力を与え、教義を伝え、秘跡を授け、つまり聖性を授けてきた農村の主任司祭、都心部の主任司祭」が実にたくさんいるのです。

 「『でも神父さん、新聞である司教がこんなことをしたとか、ある神父がこんなことをしたって読みました』とおっしゃるでしょう。わたしだって読みましたよ。でも、おっしゃってください。その民が前に進んでいけるようにと都心部や農村にある多くの小教区で多くの司祭たち、神父たちが行う多くのはたらき、行っている多くの愛徳の業がありますが、そういったことは新聞のニュースに載りますか?いいえ、載りませんよ!それではニュースにならないんです。ほら、いつも同じです。育ちゆく森よりも、倒れる木の方が大きい音を立てるものです。今日、ダビデのこの油注ぎのことを考えつつ、勇気があり、聖であり、善く、忠実なわたしたちの司教たちや司祭たちのことを考え、彼らのために祈ることは、わたしたちにとってよいことでしょう。彼らのおかげでわたしたちはここにいるのです!」
(RC-RV)

2014年1月28日火曜日

1月26日(日)、お告げの祈り:わたしについて来なさい

1月25日(土)、キリスト教一致祈祷週間閉会、晩課における説教

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ

 1月25日の夕方、パパ・フランシスコは異邦人の使徒パウロの回心の祝日にあたり、第2晩課を司式するために、城壁外聖パウロ大聖堂に移動し、こうして今年のキリスト者一致祈祷週間を締めくくった。

説教全文

 「キリストは分けられているのですか?」(Iコリ1章13節)。この夕のひとときに典礼の中で響く、コリント陣に書き送った最初の手紙の初めの部分にある、聖パウロが力に満ちて注意を呼び覚まそうとしている呼びかけが、今年の祈祷週間の間のわたしたちの黙想のためのテキストとしてカナダのキリストにおける兄弟達のグループによって選ばれたものです。

 使徒はコリントのキリスト者達が別々のグループに別れてしまっているというニュースを、大変悲しみながら受けました。「わたしはパウロに付く」という人も居れば、「わたしはアポロに属している」と公言する人も居ます。また「わたしはセファ(ペトロ)に」という人まで居て、最後に、「わたしはキリストに属します」と公言する人も居ます(12節参照)。けれどキリストにといっている人たちすら、パウロの賛辞には値しません。というのは共同体の中で他の兄弟達との間に距離をおくために唯一の救い主の名前を用いているからです。言い換えれば、一人ひとりの個別の経験や、共同体の重要な数人の考えが、他の人々の信仰を判断するための基準になってしまっているからです。

 この分裂の状況において、パウロはコリントのキリスト者達に、「私たちの主イエス・キリストの名において」すすけます。語るときに心を一つにし、互いに分裂がないようにし、同じ考えと、同じ感じ方で完全に一致しているように、と言うのです(10節)。けれど使徒が訴えている聖体的一致は、人間的な戦略の実りではあり得ません。実際、兄弟達の間での完全な一致は、キリストの考え方と感じ方に照らし合わされて始めて可能だからです(フィリ2章5節参照)。この勇のひとときに、わたしたちは祈りにおいてここに集まっていますが、分けられるわけにはいかないキリストが、私たちを自らに引き寄せ、自らの心にある感じ方に、父のみ手の中へのその完全なゆだねと信頼、人類への愛のための抜本的な断念へと引き寄せようとしています。キリストだけが私たちの一致の基本、原因、動力であり得るのです。

 わたしたちがその現存の中にいるとき、わたしたちは、教会における分裂を、人間関係の生まれる生活にならどんな形にでもある、ある意味自然で避けられない現象として考えるわけにはいかない、ということをより意識することになります。わたしたちの分裂はキリストの体を傷つけ、世においてわたしたちが示すようにと呼ばれている証しを害します。第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、これまで黙想してきた聖パウロのテキストについて触れ、意義深い仕方でこう確言しています。「主キリストによって建てられた教会は一つであり唯一でありながら、イエス・キリストの本物の遺産として人々に示されているキリスト者の聖体的一致はたくさんあります。誰もが主の弟子であると告白していながら、違う仕方でこれを感じ、まるでキリスト自身が分けられているかのように、異なる道を進んでいます」。ですから、「この分裂はキリストの意志に対してはっきりと、公に矛盾しています。世におけるスキャンダルであり、全被造物に福音を告げ知らせるという聖なる動因を危ぶめます(Unitatis redintegratio、1)。わたしたちの誰もが分裂によって害を受けたのです!わたしたちのうち誰もスキャンダルなどにはなりたくないのです!だからわたしたちはみな、共に、兄弟愛に満ち、一致に向かって、同時に歩みにおいて一致、つまり聖霊から来るその一致を作りながら、歩いて行くのです。そこで聖霊は特別なことへとわたしたちを導きます。それは聖霊のみにできることです。その和解を生きる多様性です。主はわたしたち全員を待っています。わたしたち全員と共に歩んでくださいます。主は、この一致の歩みにおいてわたしたち全員と共にいてくださっています。

 愛する兄弟の皆さん、キリストは分けられているわけには生きません。この確信が、キリストにおける信者全員の目に見える完全な一致を再構築することへ向かう歩みにおける謙虚さと信頼を続けるために、わたしたちを励まし、支えなければならないのです。この瞬間に偉大な教皇達、つまり福者ヨハネ二十三世と、福者ヨハネ・パウロ二世の事業を思い起こすのは感慨深いものです。どちらもその人生の間に一致のための緊急性の意識を熟させていき、ローマの司教に選ばれるや、カトリックの群れをエキュメニズムの歩みへと決定的に導いていったのです。教皇ヨハネは、それ以前ほぼ前人未踏であったいくつかの道を開きました。ヨハネ・パウロ二世は、各地方教会の生活での日常的で不可欠な次元としてエキュメニカル対話を提案しました。彼等と共に、教皇パウロ六世も、もう一人の対話に関する偉大な主人公ですが、まさにこの数日コンスタンチノープル総主教あてなごらす7とのエルサレムにおける歴史的抱擁からの50周年を記念するこのことについて言及しています。

 こうしたわたしの前任者達の事業は、エキュメニカル対話の局面がローマの司教の奉仕職における本質的次元となり、今日においてはキリストにおける信者全員との対話へのこの開きを含むことなくしてペトロの奉仕を完全に理解できないという点にまで至っているほどです。また、エキュメニズムの歩みはペトロの後継者の奉仕職の理解を深めることができるようにしたので、将来においてもこの意味で働き続けることへと委ねなければならない、と言うこともできます。主がわたしたちに行わせてくださった前進に対して感謝を示し、今現在エキュメニカル対話が通っている困難を隠すことなく、主が望む一致へと歩むことができるように、キリストの感じ方にわたしたち全員が浸されるようにと願いましょう。そして共に歩むということは、すでに一致をなしている、ということなのです!

 一致の賜物によるこの祈りの雰囲気の中で、エキュメニカル大主教座の代表であるメトロポリタ・ゲンナディオス卿、ローマにおけるカンターブリー大司教の代表であるダビッド・モクソン卿、そしてこの夕方ここにきておられる諸教会および教会共同体の代表者の皆さんすべてに心から兄弟愛を込めて挨拶したいと思います。全員を代表して、この二人と共にわたしたちはパウロの墓所で祈り、互いにこう言い合いました。「一致の道を作りながら行われるこの歩みにおいて、この一致と愛の歩みにおいて、パウロがわたしたちを助けてくれるように祈りましょう!」と。一致というのは最後に奇跡のように訪れるものではありません。一致は歩んでいるうちに訪れるのです。聖霊が歩みの中でこれをなすのです。もしわたしたちが共に歩まないなら、もしわたしたちが互いに祈り合わないなら、もしわたしたちが神の民のためにこの世界でわたしたちにできる本当に多くのことがある中で働かないならば、一致は訪れないのですよ!この歩みにおいて、一歩一歩の中でできてくるのです。そしてこれを成すのはわたしたちではありません。わたしたちの善意を見てくださる聖霊がしてくださるのです。

 愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしたちをその神秘体の生きた成員としてくださった主イエスに、ご自身とわたしたちを深く一致させ続け、わたしたちの対立や分裂、利己主義を乗り越えさせてくれるように祈りましょう。そしていつも一致は対立よりも上位にあるのだということを思い出しましょう! そしてたった一つの力、つまり聖霊がわたしたちの心に注いでくださる合いの力によって互いに一つであることを支えてくださいますように(ロマ5章5節参照)。アーメン。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

2014年1月24日金曜日

1月24日(金)、朝ミサ説教:他者のうちにいつも神の像を見ること

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ
〔①〕サムエル上24章3-21節
〔福〕マルコ3章13-19節

 「他の人と対話を作り上げるのは、特に恨みがわたしたちを引き離すなら、簡単なことではありません。けれどキリスト者はいつも傾聴と和解の道を、謙遜と素直さをもって求めるものです。なぜならそれがイエスがわたしたちに教えたことだからです」。これは聖マルタの家の朝ミサの説教中に繰り広げられたパパ・フランシスコの考えのまとめである。

 「崩されても、屈しない、というような言い回しがあります。キリスト教の知恵は崩れないために屈することを勧めています。人生を理解する二つの方法があります。一つ目は固さをもって。簡単に人々の間に無交流の壁を打ち立てるように運命づけられています。憎しみにまで堕落します。もう一つは口論や議論の後でも、理解の架け橋を拡げるための傾きです。けれど、「謙遜」を求め実践することが条件になります」。聖マルタの家での宣教は、昨日の説教の続きであった。典礼的朗読個所の中心と、パパの回想の中心には、改めてサウル王とダビデの対立があります。ダビデには、出だしでは、サウル王を殺す機会が回って来ますが、「もう一つの道」を選びます。「近づき合い、状況を明らかにし、説明をし合う道」です。「平和を成すための対話の道です」。「対話のためには声をあげぬ素直さが必要です。他の人も自分より良いものをもっていると考える必要があり、ダビデはそう考えたのです。「彼は主から油注がれた人だ。わたしより重要な人なのだ」と。謙遜、素直さ…。対話するためには、ミサの初めに祈りの中でわたしたちが今日願ったことをする必要があります。すべての人にすべて捧げることです。謙遜、素直さ、すべての人にすべて捧げること、そしてまた、聖書には書いていないのですが、これを行うためには実に多くのことをのみこまなければならないことも知っています。けれど、しなければならないのです。なぜなら平和と言うのはそうやって手に入るものだからです。謙遜、蔑まれること、いつも他者の中に神の像をさがしながら」。

 「対話するのは難しいことです」。けれど敵対者との端を打ち立てようとすることで最悪なのは、相手に対する恨みを心の中で育つのを野放しにすることです。このようにすると、わたしたちは「わたしたちの恨みの苦い出汁の中で孤立するのです」。一方、キリスト者は、ダビデを模範とし、「謙遜の行為」をもって憎しみに打ち勝ちます。

 「自らを貶めること、そしていつも橋を渡すこと、いつも。いつでも。そしてこれこそがキリスト者です。簡単ではありません。簡単なことではないのです。イエスはこれをなしました。自ら最後までへりくだり、わたしたちに道が見えるようにしてくれました。そしてそれほど時間はいりません。問題がある時に、できるだけ早く、できる時に、嵐が過ぎ去った後で、対話に近づくこと。なぜなら時間が、ちょうど麦の成長を妨げる毒麦が育つようにするのと同様、壁を高くさせるからです。そして壁が高くなったら、和解はとても難しいのです。それはとても難しいのです!」

 「家庭や共同体、近所の人との間で」「時々皿が飛ぶ」程度では問題ないのです。大切なのは何らかの言葉、何らかの仕草で「できるだけ早く平和を求めること」なのです。ベルリンを何年もの間分けていた壁が崩れた時のように、壁よりも前に橋を。なぜなら、「わたしたちの心の中でも、他者との壁でベルリンに代わる可能性があるからです」。

 「わたしはこうした壁を恐れています。日々育ち恨みを助長するこうした壁を。また憎しみもです。この若いダビデのことを考えましょう。完璧に復讐することができたはずです。王を突き飛ばすこともできたはずです。けれど対話の道を、謙虚さと大人しさ、甘美さをもって選びました。今日、甘美さの博士である聖フランシスコ・サレジオに、わたしたち全員に他者と橋を造り、決して壁を作らない恵みを下さるように祈ることができるでしょう」。 
(RC-RV)

1月19日(日)、ミサ説教(カストロ・プレトリオの「イエスの御心」教会への司牧訪問にて)


 この福音の個所は美しいです。ヨハネが洗礼を授けていました。そしてイエスは、前に洗礼を授けられていました。数日前のことです。そして近づいてきて、ヨハネの前を通り過ぎます。そしてヨハネは自分の内側で、聖霊の力を感じ、イエスについて証しをします。イエスを見ながら、自分の周りにいる人々に視線を投じ、言います。「この方こそ神の小羊、世の罪を取り除く方だ」。そしてイエスの証しをします。この人はイエスだ、この人はわたしたちを救いに来ると言われていたあの方だ、この人はわたしたちに希望の力を下さるあの方だ、と。

 イエスは「小羊」と呼ばれています。世の罪を取り除く子羊です。こう考える人もいるでしょう。でもどうして、小羊、あんなにも弱い、弱くてちっちゃな小羊が、それほど多くの罪や悪をとりのぞくことができるんだろう?と。答えは、愛をもって、そのおとなしさをもって、なのです。イエスは小羊であることをやめたことは決してありません。大人しく、善良で、愛に満ち、小さな人々に近く、貧しい人たちに近い人でした。そこにいました。人々の間にいて、すべての人の病をいやし、教え、祈っていました。まるで小羊のように、イエスはとても弱く。けれど自分の背にわたしたちの罪すべてを、全部を担ぐ力がありました。「でも神父さん、あなたはわたしの人生を知りません。わたしには人に言えない罪が…、トラックがあっても積みきれないほどの罪が…」(笑い)。しばしば、わたしたちの良心を見つめると、その中には大きな罪も見つかります。けれどイエスはそれらを担います。イエスはこのために来たのです。赦すため、世に平和をもたらすため、けれどその前に心に平和をもたらすためです。おそらくわたしたち一人ひとりの心の中には嵐があるかもしれません。おそらく心に闇があるかもしれません。おそらくある罪のせいで少し悲しいと感じているかもしれません。イエスはこのすべてを取り除くために来たのです。イエスはわたしたちに平和を下さります。イエスはすべてをゆるづのです。「この人は罪を取り除く神の小羊だ」。罪を、根こそぎ、すべて取り除く方なのです。これがその愛とそのおとなしさに伴われたイエスの救いです。そしてイエスを救い主として証しする洗礼者ヨハネが言っていることを聞きながら、私達はイエスへの信頼のうちに育たなければなりません。

 しばしばわたしたちは医者に信頼します。それでいいのです、なぜなら医者はわたしたちを治療するためにいてくださるからです。人に信頼します。わたしたちを助けてくれる兄弟姉妹に信頼します。善いことです。わたしたちの間で、人としての信頼を持つことですから。けれど主への信頼を忘れてしまいます。ここにわたしたちの人生における成功がかかっているのです。主への信頼です。主に信頼しましょう。「主よ、わたしの人生を見てください。わたしは闇の中にいます。わたしにはこんな困難があります。わたしにはこんな罪があります…」、わたしのあるがまますべてをです。「主よ来れを見てください。わたしはあなたに委ねます」。そしてこれこそわたしたちがしなければならない賭けなのです。主に委ねること、そうすれば彼は決してわたしたちをがっかりさせません。決して、決して!人生を今始めている若い男の子たち、女の子たち、よく聞きなさい。イエスは決してがっかりさせません。絶対に。これがヨハネの証しです。イエス、善良な人、大人しい方、小羊のように、死んで終わることになっているイエス。叫ぶことがありません。イエスはわたしたちを救うため、罪を取り除くために来ました。わたしの罪、あなたの罪、世の罪、すべて、すべてを。

 ではここで、わたしは皆さんを一つ招きます。目を閉じましょう。その情景を思い浮かべましょう。川岸で、ヨハネが洗礼を授けている間に、イエスが通り過ぎるところです。そしてヨハネの声を聞きましょう。「この人は世の罪を取り除く神の小羊だ」。沈黙のうちにイエスを見つめましょう。わたしたち一人ひとり、心からイエスに何か言いましょう。沈黙のうちに。(長い沈黙)大人しい方、善良な方、小羊である方、罪を取り除くために来られた主イエスが、わたしたちの人生の歩みを通してわたしたちと歩みを共にしてくださいますように。かくあれかし(アーメン)。

1月12日(日)、洗礼式の説教


イエスは洗礼を受ける必要がありませんでしたが、初期の神学者たちは、その体をもって、その神性をもって、自らの洗礼においてあらゆる水を祝福したと言っています。そうして水が洗礼を授ける力を持つように、と。そして、天に昇っていく前に、イエスはわたしたちに、世界じゅうに行って洗礼を授けるようにと頼みました。そしてあの日から今日という日まで、このことは途絶えたことのない連鎖となりました。子どもたちに洗礼を授け、子どもたちがその子どもたちに、そしてその子どもたちが…と。そして今日も、この連鎖が続けられます。

 この子どもたちは、鎖の輪です。あなたたち親は子どもを洗礼のために連れてきましたが、何年か後で、彼らがその子供、あるいは孫を洗礼のために連れてくるでしょう。これが信仰の連鎖です。このことは何を言わんとしているのでしょうか?皆さんにこのことだけ言いたいと思います。皆さんが信仰を伝えるのだ、皆さんが伝達者なのだ、ということです。皆さんにはこの子どもたちに信仰を伝達する義務があるのです。これは皆さんが彼らに残す財産のうち最も美しいものです。信仰です。これだけです。今日この考えを家に持ち帰りなさい。わたしたちは信仰の伝達者にならなければならないのです。このことを考えなさい。子どもたちにどうやって信仰を伝達しようかと、いつも考えなさい。

 今日、合唱団が歌います。けれど一番美しい合唱は、この子どもたちがしているこの、騒音を立てている子どもたちの声です。泣く子もいるでしょう。心地がよくないとか、お腹がすいているから、という理由で。お母さんたち、食べさせてあげなさい。落ち着いて。なぜなら彼らがここでは主役だからです。では、この信仰の伝達者であるという意識を持って、洗礼式を続けましょう。

1月23日(木)、朝ミサ説教:兄弟を憎む人は、殺人を犯している

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ
〔①〕18章6―9節、19章1―7節
〔福〕マルコ3章7―12節

 キリスト者が、自分たちの共同体を分裂させ破壊する妬み、羨み、陰口に対して扉を閉ざすように。これは今朝、キリスト教一致祈祷週間の六日目に聖マルタの家で捧げられたミサの中でパパ・フランシスコに投げかけられた勧告です。

 パパの回想はこの日の第一朗読、若いダビデの勇気のおかげでペリシテ人に勝利したイスラエル人のことを語る所から始まった。勝利の喜びは早速、ゴリアテを殺したダビデをたたえる女たちを前に、サウル王の悲しみとやきもちに代わります。 「あの大勝利が王の心の中で敗北の体験へと変化し始めるのです」。これは、「嫉妬と羨みの虫けら」であるカインに起こったのと似たようなものをほのめかしています。「このようにわたしたちの心の中で嫉妬というのは働きます。これは悪い心の揺れであり、誰か兄弟か姉妹が自分に持っていないものを手にしていることに耐えられないのです」。「サウロは、あのイスラエルの娘たちがしていたようにこの勝利を祝って神をたたえる代わりに、自分の殻に閉じこもり、苦々しい想いに留まることを好みます」。「自分の感情を苦々しさのだしで料理するのです」。

 「嫉妬は人殺しへと人を導きます。羨みは人殺しへと人を導くのです。まさにこの扉が、嫉妬の扉が、悪魔が通ってこの世に入ってきた扉なのです。聖書は言っています。『悪魔の嫉妬によって世に悪が入り込んだのです』と。嫉妬と羨みはこうした悪いことすべてに扉を開くのです。また共同体を分裂させもします。キリスト者の共同体は、そのメンバー数人が嫉妬や羨みで苦しむ時、互いに分裂して終わります。これは猛毒です。これは聖書の最初の方のページにカインと共に見出される毒なのです」。

 嫉妬と羨みで打たれた人の心の中には「二つの明らかなこと」が生じます。一つ目は苦々しさです。

 妬みがちな人、羨みがちな人は苦々しさを持った人です。歌うことを知らず、たたえることを知らず、どんなことが喜びなのかを知らず、いつも『わたしが持っていない何をあの人は持っているのだろう』という目で見ます。そしてこれが苦々しさへと招くのです。全共同体に広まる苦々しさです。こうした人たちが、苦々しさの種を蒔く人々なのです。そして嫉妬と羨みから来る二つ目の態度は、陰口です。あの人が何か持っていることに耐えられないので、解決策として、自分がもう少し高いところにいられるように他の人を貶めるのです。そしてそのための道具が陰口なのです。これをいつも調べてみてください、噂話の裏に嫉妬があること、羨みがあることがわかりでしょう。そして陰口は共同体を分裂させ、共同体を崩壊させます。こうしたものが悪魔の武器なのです」。

 「うまくいっていた素晴らしいキリスト者の共同体のどれほどが」、一度嫉妬や羨みの虫けらが一人のメンバーに入り込むと、それと共に悲しみや悔しさ、陰口が入ってきたことを体験してきたでしょうか。「嫉妬や羨みの影響下にある人は」、使徒ヨハネが言っているように「殺すのです」。「自分の兄弟を憎む人は、殺人を犯しているのです」。そして「嫉妬深い人、羨みがちな人は、兄弟を憎み始めます」。

 「今日、このミサの中で、わたしたちのキリスト者共同体のために祈りましょう。この嫉妬の種がわたしたちの間に蒔かれることなく、羨みがわたしたちの心、わたしたちの共同体の心に場所を見出しませんように。そうすれば主の賛美をもって、主を賛美しながら、喜びながら前進することができるでしょう。それは大きな恵みで、悲しみや悔しさ、嫉妬や羨みに陥らないようにしてくれる恵みなのです」。
(RC-RV)

1月22日(水)、一般謁見:キリスト教一致祈祷週間

1月21日(火)、朝ミサ説教:人は外見で判断するが、主は心を見る

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ
〔①〕サムエル上16章1―13節
〔福〕マルコ2章23-28節

 主の偉大さとの対話をするためにわたしたちの小ささを見守りましょう。聖マルタの家での朝ミサでフランシスコはこう語った。続けて、「主は、いつも小さい者、力がより少ない者を選びます。それはわたしたちの謙虚さを見るからです』と語った。

 主と小さな人々。教皇はその説教でこの二つの名詞を中心にし、「主とその民との関係は人格的な関係です」「いつも、ペルソナからペルソナへ」ということを強調した。「彼は主で、民には名前があります。これは権力者と大衆との間にある対話とは違います。これは人格的な対話なのです」。

 「そして民には、一人ひとりに自分の居場所があるものです。主は決してこうやって民衆、大衆に語ることはありません。いつも個人的に、名前を知りながら語りかけるのです。そして個人的に選びます。創造物語はこのことを見えるようにするモデルです。その手で芸術家のように男を作りますが、そこで名を与えます。『お前はアダムと呼ばれるようになる』と。そのように、あの神と人との間の関係が始まります。それから別のこともあります。それは神と渡した地小さなものとの関係です。神は偉大で、わたしたちは小さいのです。人を選ばなければならない時も、民を選ぶ時もです。神はいつも小さな人々を選ぶのです」。

 神があの民を選んだのはそれが「より小さく」、他のどの民よりも「力が少なかった」からです。まさに「神と人の小ささとの間の対話」があるのです。またおとめマリアはこう言うことになります。「主は卑しさを御覧になった」と。主は「小さな人々を選びました」。今日の第一朗読で、「はっきりとこの主の態度が見受けられます」。預言者サムエルはエッサイの子どもたちのうち一番背の高い者の前に来て、彼が「聖別された者」だろうと思います。「なぜなら背が高く大きい人だったから」です。けれど主は、サムエルにいます。「その表面に目を留めず、その背の高さにも目を留めるな。なぜならわたしは彼を外したから。なぜなら人が見るものには価値がないからだ」。実際、「人は外見を見ます。けれど主は心を見ます。主はご自分の判断基準で選ぶのです」。そして「弱い人たち、素直な人たち」を選び、「地の権力者たちを混乱させる」のです。最後に、そういうわけで、「主はダビデを、一番背の低かった子、その父から重要と思われなかった子を選びます」。「彼は家におらず」「羊たちの番をしていた」のです。まさにこのダビデが「選ばれた」のです。

 「わたしたちは全員、洗礼をもって主に選ばれました。わたしたちは全員選ばれているのです。一人ひとりを選んだのです。わたしたちに名前を下さり、わたしたちを見つめます。そこには対話があります。なぜなら主はそうやって愛するからです。ダビデも、あとで王になり、過ちを犯します。おそらくとても多くの過ちを犯したことでしょう。けれど聖書は強烈な二つの過ちについて言及します。あの大きな過ちです。ダビデは何をしたのでしょう?自らを貶めました。自分の小ささに立ち戻り、『わたしは罪びとです』と言い、赦しを願い、償いを果たしたのです」。

 そして二つ目の罪の後、ダビデは主に言います。「わたしを罰してください。民ではなく、わたしを。民には罪はありません。わたしのせいです」。ダビデは、「その小ささを保ちました。その痛悔をもって、祈りをもって、嘆きをもって」。「こうしたこと、主とわたしたちの小ささとの間の対話を考えると、キリスト者の忠誠はどこにあるんだろう、と自問したくなります」。

 「キリスト者の忠誠、つまりわたしたちの忠誠は、単純に、主と対話できるためにわたしたちの小ささを保つことにあるのです。わたしたちの小ささを保つこと。このために謙虚さ、素直さといったものがキリスト者の生活においてとても重要なのです。なぜならそれが主が見たいと望んでいる小ささを守ることだからです。そしていつもわたしたちの小ささと主の偉大さの間には対話が存続するでしょう。主がわたしたちに、ダビデの取り次ぎ、またその卑しさを神が見染めたので神に喜んで歌をささげたおとめマリアの取り次ぎによって、主の前でわたしたちの小ささを見守る恵みを下さいますように。
(RC-RV)

2014年1月21日火曜日

1月20日(月)、朝ミサ説教:自分は神のみ言葉に従順だろうか?

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ
〔①〕サムエル上15章16-23節
〔福〕マルコ2章18‐22節

 キリスト者の自由は、「神の言葉への従順」にある。パパ・フランシスコは、今朝聖マルタの家でのミサで語った。教皇は福音の「新しさ」と「神の驚き」を受け入れる心構えがいつでもなければならない、と強調した。

 「神の言葉は生きていて効力があり、心の思いと考えを見極める」。教皇はこの考えから始めてその説教を繰り広げた。そこで神のみ言葉を本当に受け入れるには「素直さ」の態度を持たなければならないと強調した。「神の言葉は生きているので、やってきて、自分が言ってくれたらと待っていることや言ってほしいと望んでいることではなく、神の言葉自身が言いたいことを言います」。「自由な」みことばなのです。そしてこれはまた「驚きです。なぜならわたしたちの神は驚きの神だからです」。み言葉は「ニュース」なのです。

 「福音はニュースです。啓示はニュースです。わたしたちの神はいつも物事を新しくする方で、わたしたちにその新しさに対する素直さを求めています。福音において、イエスはこのことではっきりしています。とてもはっきりしています。新しいぶどう酒は新しい皮袋に。ぶどう酒は神が持ってきますが、新しさに対する開きをもって受けられなければなりません。そしてこれを素直さと呼ぶのです。自問してみましょう。わたしは神の言葉に従順でしょうか?それとも自分が思いこんでいることが神の言葉であるようにといつも行っているでしょうか?あるいは神の言葉が金網を通るようにして、最後には神がしたいと望んでいることについて他のことをするのでしょうか?
  
 もしこれをするなら、「新しい布の切れ端を古い服に次当てるようなものになってしまいます。つぎはぎはもっとはしたないものです」。そして「神の言葉を受け入れることができるため これと都合を付けることができるのは」「禁欲的な態度そのもの」であると証しをした。

 「電源から電気を取ろうとするとき、もし電圧がふさわしいものでなければ、変電器を探します。いつでも合わせること、神の言葉のこの新しさにふさわしくなること、ニュースに開かれていることを求めなければなりません。サウロは、まさに神から選ばれた者、神から油注がれた者でしたが、神は驚きであり新しさであることを忘れてしまいました。忘れてしまい、自分の考え、自分の枠組みに閉じこもり、そのように人間的に理性を使ったのです」。

 パパは第一朗読について考えを巡らし、サウルの時代には、戦争に勝つと戦利品を得、その一部で犠牲を果たしたことを思い返した。「主への供え物にしようと(…)、最上の動物を、戦利品の中から取り分けたのです」。けれど、サウルは「自分の考え、自分の気持ち、自分の習慣をもとに理性を働かせました」一方、「わたしたちの神は、習慣の神ではなく、驚きの神なのです」。サウルは
「神の言葉に従いませんでした。神の言葉に対して素直ではなかったのです」。そしてサムエルはまさにこのことでサウルを叱ったのです。「従順ではなかった、しもべとして振舞わなかった、自分自身が主人になったことを感じさせました。彼は神の言葉を我が物顔で扱ったのです」。「反抗、神のことばに従わないことは、占いと同じような罪です」。「頑迷さ、神が望むことではなく自分がしたいことをする、素直さのなさは、偶像崇拝の罪と同じです」。そしてこれは、「何がキリスト者の自由で、何がキリスト者の従順であるか」について「わたしたちに考えさせます」。

 「キリスト者の自由とキリスト者の従順は、神の言葉への素直さであり、たゆまなくやってくるこの新しいぶどう酒のために、新しい皮袋に代わっていくあの勇気を持つことなのです。このいつも識別する勇気。識別する、というのは、相対化させる、ということではありません。自分の心の中で聖霊が何をするか、自分の心の中で聖霊が何を望んでいるか、自分の心の中で聖霊が自分をどこに導いているかをいつも識別することです。従い、識別し、従うこと。今日、心にある重いと考えを識別する神の言葉、生きていて実効力のあるこの言葉への素直さの恵みを願いましょう。
  (RC-RV)

1月19日(日)、お告げの祈り:世の罪を取り除く神の小羊

(未翻訳)1月17日(金)、朝ミサ説教:神のみ言葉を受け入れるために開かれた心を求めよう



(RV).- (Audio) RealAudioMP3 El don de ser hijos de Dios no se puede “vender” por un mal entendido sentido de “normalidad”, que induce a olvidar su Palabra y a vivir como si Dios no existiese. Fue la reflexión que el Papa Francisco propuso la mañana del viernes, durante la homilía de la Misa presidida en la Casa de Santa Marta.


La tentación de querer ser “normales”, cuando en cambio se es hijo de Dios. Que en esencia quiere decir ignorar la Palabra del Padre y seguir sólo la humana, la “palabra del propio deseo”, escogiendo en cierto modo “vender” el don de una predilección para sumergirse en una “uniformidad mundana”. Esta tentación el pueblo judío del Antiguo Testamento la experimentó más de una vez, recordó el Santo Padre, que se detuvo en el episodio propuesto por el pasaje de la liturgia tomado del primer Libro de Samuel. En él, los jefes del pueblo piden al mismo Samuel, ya viejo, establecer para ellos un nuevo rey, de hecho pretendiendo autogobernarse. En aquel momento, observó el Pontífice, “el pueblo rechaza a Dios: no sólo no escucha la Palabra de Dios, sino que la rechaza”. Y la frase reveladora de este desapego, subrayó el Papa, es aquella proferida por los ancianos de Israel: queremos un “rey juez”, porque así “también nosotros seremos como todos los pueblos”. O sea, observó Francisco, “rechazan al Señor del amor, rechazan la elección y buscan el camino de la mundanidad”, de forma parecida a tantos cristianos de hoy:

“La normalidad de la vida exige del cristiano fidelidad a su elección y no venderla para ir hacia una uniformidad mundana. Esta es la tentación del pueblo, y también la nuestra. Tantas veces, olvidamos la Palabra de Dios, aquello que nos dice el Señor, y tomamos la palabra que está de moda, ¿no?, también aquella de la telenovela está de moda, tomemos esa, ¡es más divertida! La apostasía es precisamente el pecado de la ruptura con el Señor, pero es clara: la apostasía se ve claramente. Esto es más peligroso, la mundanidad, porque es más sutil”.

“Es verdad que el cristiano debe ser normal, como son normales las personas”, reconoció el Obispo de Roma, “pero – insistió – existen valores que el cristiano no puede tomar para sí. El cristiano debe retener sobre él la Palabra de Dios que le dice: ‘tú eres mi hijo, tú eres elegido, yo estoy contigo, yo camino contigo’”. Por lo tanto resistiendo a la tentación – como en el episodio de la Biblia – de considerarse víctimas de “un cierto complejo de inferioridad”, de no sentirse un “pueblo normal”:

“La tentación viene y endurece el corazón y cuando el corazón es duro, cuando el corazón no está abierto, la Palabra de Dios no puede entrar. Jesús decía a los de Emaús: ‘¡Necios y lentos de corazón!’. Tenían el corazón duro, no podían entender la Palabra de Dios. Y la mundanidad ablanda el corazón, pero mal: un corazón blando ¡jamás es una cosa buena! El bueno es el corazón abierto a la Palabra de Dios, que la recibe. Como la Virgen, que meditaba todas estas cosas en su corazón, dice el Evangelio. Recibir la Palabra de Dios para no alejarse de la elección”.

Pidamos, entonces – concluyó el Papa Francisco – “la gracia de superar nuestros egoísmos: el egoísmo de querer hacer de las mías, como yo quiero”:

“Pidamos la gracia de superarlos y pidamos la gracia de la docilidad espiritual, o sea abrir el corazón a la Palabra de Dios y no hacer como han hecho estos nuestros hermanos, que cerraron el corazón porque se alejaron de Dios y desde hacía tiempo no sentían y no entendían la Palabra de Dios. Que el Señor nos de la gracia de un corazón abierto para recibir la Palabra de Dios y para meditarla siempre. Y de ahí tomar el verdadero camino”.

1月16日(木)、朝ミサ説教:教会のスキャンダルの中には神のみ言葉はない

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ
〔①〕サムエル上4章1―11節
〔福〕マルコ1章40-45節

 教会でのスキャンダルが起こるのは、その人に神との生きた関係、み言葉との生きた関わりがないからです。このように、腐敗した司祭たちは、いのちのパンを与える代わりに、神の聖なる民に毒に侵された食べ物を与えているのです。パパ・フランシスコは、聖マルタの家で捧げられたミサの朝の説教の中でこう語った。

 ペリシテ人の手厳しいはたらきによるイスラエル人の苦しい敗退を語る、この日の朗読と答唱詩篇についてコメントしながら、教皇はあの頃の神の民が主を見捨てたことを省察した。神の言葉はあの頃「珍しく」なっていたと言われていました。年老いた祭司エリは「生ぬるく」その子らは「腐敗していて、民をおびえさせ、痛い仕打ちをしていた」のです。イスラエル人たちはペリシテ人に対抗して戦うにあたり、契約の箱を持ち出しますが、それを「魔術」に用いるかのように、「外からの物」として用いました。そして壊滅するのです。箱は敵たちに持ち去られます。神への本当の信仰、生活における神の本当の現存がありません。


「この聖書個所は、わたしたちの神との関係、神のみ言葉との関係はどうなっているかを考えさせます。これは形式的な関係でしょうか? 遠ざかった関係でしょうか? 神の言葉はわたしたちの心に入り、わたしたちの心を変えますが、この力があるでしょうか、それともないでしょうか? それは形式的な関係だとして、まぁいいとしましょうか?けれど心があの言葉に対して閉ざされているのです! そしてこのことは教会の様々なこと、ただ単に主を感じないから、主を探さないから、主に探されるに任せないために(!)起こる神の民の崩壊の数々について考えさせます。そしてその悲劇の後で、こう祈ります。『でも主よ、何があったのですか? わたしたちを近所の人たちの嘲笑の的にするのですね。周りの人は皆バカにして笑います。わたしたちは国への懲罰のきっかけになり、国々は頭を振ってばかにしてきます』と」。

 パパは教会のスキャンダルについて考えをめぐらした。

 「でも、わたしたちは恥ずかしいと感じているでしょうか? 実に多くのスキャンダルがあって、一つ一つ挙げ連ねるのははばかられるけれど、みんな知っていることです…。どんなものかみんな知っています! スキャンダル、ある人には大変な苦労になりました。いいことですよ!そうでなければなりません… 教会の恥ですから! けれどわたしたちはあのスキャンダルで、あの司祭たちや司教たち、信徒たちの堕落で恥を感じているでしょうか?あのスキャンダルのただ中で、神の言葉は珍しい者でした。あの男性たち、女性たちの中で、神の言葉はめったに聞かれなかったのです! 神との絆がなかったのです!教会での役職、権力の役職、居心地の良さの役職はありました。けれど神の言葉がなかったのです!『でも、わたしはおメダイをもっていますが』『わたしは十字架を身につけているのですが』とおっしゃるでしょう…。そうでしょう、今日の聖書の人々が契約の箱を持って行ったようにですよね! 神との生きた関わり、神の言葉との生きた関係なしに! わたしの脳裏によぎるのは、スキャンダル(つまずき)が訪れる人々へのイエスのあの言葉です…。そしてここに、スキャンダルが訪れました。神の民の退廃のすべて、司祭たちの弱さや腐敗にいたるまでです。

 ローマ司教はその説教を、神の民にその考えを向けて結んだ。

 「なんてかわいそうな人々でしょう!哀れな人々です!わたしたちは命のパンを食べさせていないのです。そうしたケースにおいては、真理を食べさせていないのです!そして何度も何度も毒に侵された食べ物を食べサルにまで至っているのです! 『起きてください、主よ、なぜ寝ているのですか!」 これがわたしたちの祈りでありますように! わたしたちを永遠に見捨てることのないようにしてください! なぜみ顔を隠されるのですか? なぜわたしたちの悲惨や抑圧を忘れておられるのですか? と。 わたしたちが、生きている神の言葉を決して忘れることなく、その言葉がわたしたちの心に入り、力を与える糧をわたしたちに求めている神の忠実な聖なる民のことをわたしたちが決して忘れることのないように、主に願いましょう。

1月15日(水)、一般謁見:洗礼の秘跡(2)

(未翻訳)1月14日(火)、朝ミサ説教:キリスト者は法律主義者にならないように。信仰は人々への重石ではない


(RV).- (Con audio y video) RealAudioMP3 Cuatro modelos de creyentes, para reflexionar sobre el verdadero testimonio del cristiano. En la Misa matutina celebrada en la Capilla de la Casa de Santa Marta, el Papa Francisco se inspiró en las figuras presentes en las Lecturas del día para subrayar que la novedad que trajo Jesús es el amor de Dios por cada uno de nosotros. Y puso en guardia ante las actitudes hipócritas o legalistas que alejan a la gente de la fe.

Francisco se detuvo en su homilía en los cuatro modelos de creyentes: Jesús, los escribas, el sacerdote Elí y sus dos hijos, también ellos sacerdotes. Al respecto observó que el Evangelio nos dice cuál era “la actitud de Jesús en su catequesis”, a saber, que “enseñaba como uno que tiene autoridad y no como los escribas”. Y afirmó que estos últimos “enseñaban, predicaban, pero ligaban a la gente con tantas cosas pesadas sobre sus hombros, y la pobre gente no podía ir adelante”:

“Y Jesús mismo dice que ellos no movían estas cosas ni siquiera con un dedo, ¿no? Y después dirá a la gente: ‘¡Hagan lo que dicen pero no lo que hacen!’. Gente incoherente… Pero siempre estos escribas, estos fariseos, es como si bastonearan a la gente, ¿no? ‘Deben hacer esto, esto y esto’, a la pobre gente… Y Jesús dijo: ‘Pero, así ustedes cierran – ¡lo dice a ellos! – la puerta del Reino de los Cielos. ¡No dejan entrar, y ni siquiera ustedes entran!’. Es una manera, un modo de predicar, de enseñar, de dar testimonio de la propia fe… Y así, cuántos hay que piensan que la fe sea algo así…”.
En la Primera Lectura, tomada del Libro de Samuel – prosiguió el Papa – encontramos la figura de Elí, “un pobre sacerdote, débil, tibio” que “dejaba hacer tantas cosas feas a sus hijos”. Elí estaba sentado contra la jamba de la puerta del Templo del Señor y mira a Ana, una señora “que rezaba a su modo, pidiendo un hijo”. Esta mujer – afirmó el Santo Padre – “rezaba como reza la gente humilde: simplemente, pero desde el corazón, con angustia”. Ana “movía los labios”, como hacen “tantas mujeres buenas en nuestras iglesias, en nuestros santuarios”. Oraba así “y pedía un milagro”. Y el anciano Elí la miraba y decía: “Pero, ¡ésta está borracha!” y “la despreció”. Él – dijo Francisco – “era el representante de la fe, el dirigente de la fe, pero su corazón no sentía bien y despreció a esta señora”:

“Cuántas veces el pueblo de Dios no se siente querido por aquellos que deben dar testimonio: por los cristianos, por los laicos cristianos, por los sacerdotes, por los obispos… ‘Pero, pobre gente, no entiende nada... Debe hacer un curso de teología para entender bien. Pero, ¿por qué tengo cierta simpatía por este hombre? Porque en su corazón todavía tenía la unción, porque cuando la mujer le explica su situación, Elí le dice: ‘Ve en paz, y que el Dios de Israel te conceda lo que le has pedido. Salta a la vista la unción sacerdotal: pobre hombre, la había escondido dentro de su pereza… es un tibio. Y después termina mal, pobrecito”.
Sus hijos – prosiguió diciendo el Papa – no se ven en pasaje de la Primera Lectura, pero eran aquellos que administraban el Templo, “eran bandidos”. “Eran sacerdotes, pero bandidos”. “Iban detrás del poder, detrás del dinero – dijo Francisco – explotaban a la gente, se aprovechaban de las limosnas, de los dones” y “el Señor los castiga fuertemente”. Y observó que ésta “es la figura del cristiano corrupto”, “del laico corrupto, del sacerdote corrupto, del obispo corrupto, que se aprovecha de su situación, de su privilegio de la fe, de ser cristiano” y “su corazón termina corrupto”, como sucedió a Judas. De un corazón corrupto – añadió el Obispo de Roma – sale “la traición”. Judas “traiciona a Jesús”. Los hijos de Elí son, por tanto, el tercer modelo de creyente. Y, después, está el cuarto, Jesús. Y de Él la gente dice: “¡Este enseña como uno que tiene autoridad: esta es una enseñanza nueva!” Pero ¿dónde está la novedad?, se preguntó el Papa Francisco. Es “el poder de la santidad, la novedad de Jesús es que consigo trae la Palabra de Dios, el mensaje de Dios, es decir el amor de Dios por cada uno de nosotros”. Jesús – reafirmó el Pontífice – “acerca a la gente a Dios y para hacerlo se acerca Él: está cerca de los pecadores”. Jesús perdona a la adúltera, “habla de teología con la Samaritana, que no era un angelito”. Jesús “busca el corazón de las personas, Jesús se acerca al corazón de las personas. A Jesús sólo le interesa la persona, y Dios”. Jesús “quiere que la gente se acerque, que lo busque y se siente conmovido cuando la ve como ovejas sin pastor”. Y toda esta actitud “es aquella de la que la gente dice: ‘¡Pero, ésta es una enseñanza nueva!’”. No – observó el Papa –, “no es nueva la enseñanza: es el modo de hacerla, nueva. Es la transparencia evangélica”:

“Pidamos al Señor que estas dos Lecturas nos ayuden en nuestra vida de cristianos: a todos. Cada uno en su puesto. A no ser puros legalistas, hipócritas como los escribas y los fariseos. A no ser corruptos como los hijos de Elí. A no ser tibios como Elí, sino a ser como Jesús, con ese fervor de buscar a la gente, de curar a la gente, de amar a la gente y con este decirle: ‘¡Pero si yo hago esto tan pequeño, piensa cómo te amo yo, cómo es tu Padre!’. Ésta es la enseñanza nueva que Dios pide de nosotros. Pidamos esta gracia”.
(María Fernanda Bernasconi – RV).

(未翻訳)1月13日(月):神の愛はわたしたちの罪の歴史を調整する


(RV).- (Con audio y video) RealAudioMP3 El amor de Dios ajusta nuestras equivocaciones, nuestras historias de pecadores, porque no nos abandona jamás, incluso si nosotros no comprendemos este amor. Lo afirmó el Papa al celebrar esta mañana la Santa Misa en la capilla de la Casa de Santa Marta, en el primer lunes del Tiempo ordinario.

Jesús llama a Pedro, Andrés, Santiago y Juan: están pescando, pero dejan inmediatamente las redes y lo siguen. Al comentar el Evangelio del día, el Papa subrayó que el Señor quiere preparar a sus discípulos para su nueva misión. “Es precisamente de Dios, del amor de Dios” – dijo el Papa Francisco – “preparar los caminos… preparar nuestras vidas, para cada uno de nosotros. Él no nos hace cristianos por generación espontánea: ¡Él prepara! Prepara nuestro camino, prepara nuestra vida, con tiempo”:

“Parece que Simón, Andrés, Santiago y Juan hayan sido aquí elegidos definitivamente, ¡sí han sido elegidos! ¡Pero ellos, en este momento no han sido definitivamente fieles! Después de esta elección se han equivocado, han hecho propuestas no cristianas al Señor: ¡han renegado al Señor! Pedro de modo superlativo, los demás por temor: están asustados y se van. Han abandonado al Señor. El Señor prepara. Y después, tras la Resurrección, el Señor ha debido continuar este camino de preparación hasta el día de Pentecostés. Y después de Pentecostés también, algunos de éstos – Pedro, por ejemplo – se ha equivocado y Pablo ha tenido que corregirlo. Pero el Señor prepara”.
De este modo – prosiguió el Papa – el Señor “nos prepara desde tantas generaciones”:

“Y cuando las cosas no van bien, Él se implica en la historia y ajusta la situación y va adelante con nosotros. Pero pensemos en la genealogía de Jesucristo, en aquella lista: éste genera a éste, éste genera a éste, éste genera a éste… En aquella lista de historia hay pecadores y pecadoras. ¿Pero cómo ha hecho el Señor? Se ha implicado, ha corregido el camino, ha regulado las cosas. Pensemos en el gran David, un gran pecador y después un gran santo. ¡El Señor sabe! Cuando el Señor nos dice ‘Con amor eterno, Yo te he amado’ se refiere a esto. Desde tantas generaciones el Señor ha pensado en nosotros, ¡en cada uno de nosotros!”.
“Me agrada pensar – afirmó el Papa – que el Señor tenga los sentimientos de la pareja que está en espera de un hijo: lo espera. Nos espera siempre en esta historia y después nos acompaña durante la historia. ¡Éste es el amor eterno del Señor; eterno, pero concreto! También un amor artesanal, porque Él va haciendo la historia, va preparando el camino a cada uno de nosotros. ¡Y éste es el amor de Dios” que “nos ama desde siempre y jamás nos abandona! Oremos al Señor para conocer esta ternura de su corazón”. Y esto – observó Francisco es “un acto de fe” y no es fácil creer esto:

“Porque nuestro racionalismo dice: ‘¿Cómo el Señor, con tantas personas que tiene, piensa en mí? ¡Pero me ha preparado el camino a mí! Con nuestras mamás, nuestras abuelas, nuestros padres, nuestros abuelos y bisabuelos… El Señor hace así. Es éste su amor: concreto, eterno y también artesanal. Oremos, pidiendo esta gracia de comprender el amor de Dios. ¡Pero no se lo comprende jamás! Se siente, se llora, pero entenderlo desde acá, no se lo entiende. También esto nos dice cuán grande es este amor. El Señor que nos prepara desde hace tiempo, camina con nosotros, preparando a los demás. ¡Está siempre con nosotros! Pidamos la gracia de entender con el corazón este gran amor”.
(María Fernanda Bernasconi – RV).

1月12日(日)、お告げの祈り:主の洗礼


(未翻訳)1月11日(土)、朝ミサ説教:イエスとの関係は世俗性と「ナルシス神」の偶像崇拝から司祭を救う


(RV).- (Con audio y video) RealAudioMP3 El verdadero sacerdote, ungido de Dios para su pueblo, tiene una relación estrecha con Jesús: cuando esto falta, el sacerdote se vuelve “untuoso”, un idólatra, devoto del ‘dios Narciso’. Lo afirmó el Papa Bergoglio esta mañana en la homilía de la Misa matutina celebrada en la capilla de la Casa de Santa Marta. Con el Pontífice concelebraron el Cardenal Angelo Bagnasco, presidente de la Conferencia Episcopal italiana y un grupo de sacerdotes de la Arquidiócesis de Génova, de la que el Purpurado es su Arzobispo.

Francisco dedicó enteramente su homilía a los sacerdotes. Al comentar la primera Carta de San Juan, que dice que tenemos la vida eterna porque creemos en el nombre de Jesús, el Papa se preguntó cómo es la relación de los sacerdotes con Jesús, porque “la fuerza de un sacerdote – dijo – está en esta relación”. A la vez que “Jesús, cuando crecía en popularidad – observó – iba a lo del Padre”, se retiraba “en lugares desiertos a orar”. Y explicó que “ésta es un poco la piedra miliar de los sacerdotes”, incluyéndose a sí mismo. Porque como se preguntó el Pontífice, si vamos o no vamos a encontrar a Jesús, ¿cuál es el lugar de Jesucristo en mi vida sacerdotal? Se trata, prosiguió, de una relación viva, de discípulo a Maestro, de hermano a hermano, de pobre hombre a Dios, o es una relación un poco artificial… ¿Qué no viene del corazón?”

“Nosotros somos ungidos por el Espíritu y cuando un sacerdote se aleja de Jesucristo puede perder la unción. En su vida, no: esencialmente la tiene… pero la pierde. Y en lugar de ser ungido termina por ser untuoso. ¡Y cuánto mal hacen a la Iglesia los sacerdotes untuosos! Aquellos que ponen su fuerza en las cosas artificiales, en las vanidades, en una actitud… en un lenguaje remilgado… ¡Pero cuántas veces se oye decir con dolor: ‘Pero, este es un sacerdote-mariposa!’, porque está siempre en las vanidades… Éste no tiene relación con Jesucristo! Ha perdido la unción: es un untuoso”.
A continuación, el Papa Francisco añadió:

“Nosotros los sacerdotes tenemos tantos límites: somos pecadores, todos. Pero si vamos a lo de Jesucristo, si buscamos al Señor en la oración – la oración de intercesión, la oración de adoración – somos buenos sacerdotes, si bien somos pecadores. Pero si nos alejamos de Jesucristo, debemos compensar esto con otras actitudes… mundanas. Y así, todas estas figuras… también el sacerdote-especulador, el sacerdote-empresario… Pero el sacerdote que adora a Jesucristo, el sacerdote que habla con Jesucristo, el sacerdote que busca a Jesucristo y que se deja buscar por Jesucristo: éste es el centro de nuestra vida. Si no está esto, perdemos todo. ¿Y qué daremos a la gente?”.
Que “nuestra relación con Jesucristo, relación de ungidos para su pueblo – exhortó el Papa – aumente en nosotros” los sacerdotes “cada día más”:

“Pero es bello encontrar a sacerdotes que han dado su vida como sacerdotes, de verdad, de los que la gente dice: ‘Pero, sí, tiene mal carácter, tiene esto, tiene aquello… pero ¡es un sacerdote!’. ¡Y la gente tiene olfato! En cambio, cuando la gente ve a los sacerdotes – por decir una palabra – idólatras, que en lugar de tener a Jesús, tienen a pequeños ídolos…, pequeños…, algunos devotos del ‘dio Narciso’, también… Cuando la gente ve a éstos, la gente dice: ‘¡Pobrecito!’. Lo que nos salva de la mundanidad y de la idolatría que nos hace untuosos, lo que nos conserva en la unción, es la relación con Jesucristo. Y hoy, a ustedes que han tenido la gentileza de venir a concelebrar aquí, conmigo, les deseo esto: ¡pierdan todo en la vida, pero no pierdan esta relación con Jesucristo! ¡Ésta es su victoria! ¡Y adelante, con esto!”.

(María Fernanda Bernasconi – RV).

(未翻訳)1月10日(金)、朝ミサ説教:信仰があれば何でもできる、中途半端なキリスト者は負けている


(RV).- (Con audio y video) RealAudioMP3 “La Iglesia está llena de cristianos vencidos”, cristianos “convencidos a medias”. En cambio “la fe todo lo puede” y “vence al mundo”, pero se requiere el coraje de encomendarse a Dios. Así lo afirmó esta mañana el Papa Francisco en su homilía de la misa matutina celebrada en la capilla de la Casa de Santa Marta.

El Papa centró su homilía en el pasaje de la primera Carta de San Juan, en la que el Apóstol “insiste” sobre “aquella palabra que para él es como la expresión de la vida cristiana”: “Permanecer en el Señor”, para amar a Dios y al próximo. Y este “permanecer en el amor” de Dios es obra del Espíritu Santo y de nuestra fe y produce un efecto concreto:

“Quienquiera permanece en Dios, todos han sido generados por Dios, el que permanece en el amor vence al mundo y la victoria es nuestra fe. De nuestra parte, está la fe. De parte de Dios – por esto ‘permanece – el Espíritu Santo, que hace esta obra de gracia. De nuestra parte, está la fe. ¡Es fuerte! Y esta es la victoria que ha vencido al mundo: ¡nuestra fe! ¡Nuestra fe puede todo! ¡Es victoria! Y esto sería bello que lo repitiéramos, también a nosotros, porque tantas veces somos cristianos derrotados. Pero la Iglesia está llena de cristianos vencidos, que no creen en esto, que la fe es victoria; que no viven esta fe, porque si no se vive esta fe, está la derrota y vence el mundo, el príncipe del mundo”.
Jesús – recuerda el Papa – ha alabado mucho la fe de la hemorroísa, de la cananea o del ciego de nacimiento y decía que quien tiene fe como una semilla de mostaza puede mover montañas. “Esta fe – dijo Francisco – nos pide a nosotros dos actitudes: confesar y encomendarnos”. Pero, ante todo, “confesar”:

“La fe es confesar a Dios, pero al Dios que se ha revelado a nosotros, desde el tiempo de nuestros padres hasta ahora; al Dios de la historia. Y esto es lo que todos los días rezamos en el Credo. Y una cosa es rezar el Credo desde el corazón y otra como papagayos, ¿no? Creo, creo en Dios, creo en Jesucristo, creo… ¿Yo creo en lo que digo? Esta confesión de fe ¿es verdadera o yo la digo un poco de memoria, porque se debe decir? ¿O creo a medias? ¡Confesar la fe! ¡Toda, no una parte! ¡Toda! Y a esta fe custodiarla toda, tal como ha llegado a nosotros, por el camino de la tradición: ¡toda la fe! ¿Y cómo puedo saber si confieso bien la fe? Hay un signo: quien confiesa bien la fe, y toda la fe, tiene la capacidad de adorar, adorar a Dios”.
“Nosotros sabemos cómo pedir a Dios, cómo agradecer a Dios – prosiguió diciendo el Papa Bergoglio – pero adorar a Dios, ¡adorar a Dios es algo más! Sólo quien tiene esta fe fuerte es capaz de la adoración”. Y el Santo Padre añadió: “Yo oso decir que el termómetro de la vida de la Iglesia está un poco bajo en esto”: hay poca capacidad de adorar, “no tenemos tanta, algunos sí…”. Y esto “porque en la confesión de la fe nosotros no estamos convencidos o estamos convencidos a medias”. Por tanto – subrayó – la primera actitud es confesar la fe y custodiarla. La otra actitud es “encomendarse”:

“El hombre o la mujer que tiene fe se encomienda a Dios: ¡se encomienda! Pablo, en un momento oscuro de su vida, decía: ‘Yo sé bien a quién me he encomendado’. ¡A Dios! ¡Al Señor Jesús! Encomendarse: y esto nos lleva a la esperanza. Así como la confesión de la fe nos lleva a la adoración y a la alabanza de Dios, el encomendarse a Dios nos lleva a una actitud de esperanza. Hay tantos cristianos con una esperanza con demasiada agua, no fuerte: una esperanza débil. ¿Por qué? Porque no tienen la fuerza y el coraje de encomendarse al Señor. Pero si nosotros los cristianos creemos confesando la fe, y también custodiando la fe, y encomendándonos a Dios, al Señor, seremos cristianos vencedores. Y ésta es la victoria que ha vencido al mundo: ¡nuestra fe!”.
(María Fernanda Bernasconi – RV).

1月9日(木)、朝ミサ説教:キリスト者の愛はメロドラマのようなものではなく、具体的で寛大なもの


 キリスト者の愛にはいつも「具体的」であるという性質があります。ですから、それは「言葉よりも働きのうちに、受けるより与えることにある」愛なのです。聖マルタの家の小聖堂で祝われたミサの説教の中でパパ・フランシスコは今朝こう言った。

 センチメンタリズムは全くありません。そうではなく、腕まくりをし、貧しい人に目を向け、受けるよりも与えることを好む愛他主義的で思いやりのあるものか、キリストの愛とは全く関係のないものかどちらかです。パパ・フランシスコはこの問題についてはっきりしており、その回想を、何よりも第一ヨハネの手紙に含まれている言葉によって進めた。使徒は何度も強調して繰り返している。「もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちの間に留まっており、神の愛はわたしたちの間で完璧なものです」。同時に、信仰の経験は、まさにこの「二重の意味で留まること」にある。

「わたしたちが神のうちに、神がわたしたちのうちに。これがキリスト者のいのちです。世俗の精神のうちに留まることなく、表面的なことのうちに留まることなく、偶像崇拝のうちに留まることなく、虚栄のうちに留まることなく…。違います。違うのです。主のうちに留まることです。そして主はこのことに報いてくださいます。つまり、主がわたしたちのうちに留まってくださるのです。けれど、本当はまず、彼がわたしたちの間に留まっておられます。何度も何度も彼を追い出し、主のうちに留まることができなくなるようですが、聖霊こそがとどまるのです」。

 キリスト者の愛を動かす精神の躍動力を明示したところで、パパ・フランシスコは、肉についての考察へと進んだ。神の《愛のうちに留まるということは、心の恍惚状態のことを言おうとしているわけではありません。それはわたしたちが感じることのできる素敵なことです」。

「ごらんなさい。ヨハネが語っている愛は、メロドラマの愛とは違います!いいえ、別のことなのです。キリスト者の愛にはいつもある特質があります。それは、具体性です。キリスト者の愛は具体的です。イエス自身、愛について語る時、わたしたちに具体的なことを語ります。空腹な人に食べさせ、病人を訪問し、と、実に様々な具体例があります。愛は具体的です。キリスト者の具体性です。そして子の具体性が存在しない時、空想のキリスト教主義を生きることになりかねません。なぜならどこにイエスのメッセージの中心があるのかよく理解できていないからです。この愛は具体的になっていきません。それは空想の愛です。それはまるで弟子たちが、イエスを見ながら、幽霊だと思った時の弟子たちが持っていたような空想の世界のようなものです」。

「幽霊」は、まさに福音のエピソードによれば、弟子たちが、湖の上を歩いて自分たちに向かってくるのを驚き恐れつつぼんやりと見たものです。けれどかれらのおののきは心のかたさから生まれます。なぜなら、福音書自体が語っているように、少し前に起こったパンの増殖を「理解していなかった」からです。「堅くなった心では、愛することができず、あなたは愛とは物事の見せかけを整えるようなものだと考えます。違います、愛は具体的です」。そして子の具体性は、二つの判断基準に基づいています。

「最初の判断基準:言葉ではなく、実践をもって愛すること。言葉というのは風で飛ばされます!今日はわたしはいるけれど、明日はいない、そういうものです。二つ目の具体性の判断基準は、愛においては与える方が受けることよりも大切だ、ということです。愛する人は、与え、与え、与えます…。ものを与え、いのちを与え(ささげ)、自分自身を神に差し出し、他の人々に差し出します。一方、愛さない人、利己的な人は、いつももらおうとし、いつもものや利益を手にしようとします。閉ざされており、何も理解できずにいた弟子たちのようにではなく、開かれた心で留まること。神のうちに留まり、神がわたしたちのうちに留まること。愛のうちに留まること」。

1月8日(水)、一般謁見:洗礼の秘跡(1)

1月7日(火)、朝ミサ説教:イエスに耳を傾けるために心を試す


 キリスト者はその心を見張り、何が神から来て、何が偽りの預言者から来るかを見極めなければならない。降誕節の祝いの後で、聖マルタの家の小聖堂での朝ミサの祭儀を再開するにあたり、パパ・フランシスコが語ったことである。教皇はイエスの道は奉仕の道、謙虚の道である。全キリスト者が従うようにと呼ばれている道です。

 「主に留まりなさい」。パパ・フランシスコは、第一朗読に含まれているこの使徒ヨハネの勧告から端を発してその説教を繰り広げた。ヨハネが「ほぼ強迫的」な仕方で繰り返す「人生の助言」である。そして使徒は「主に留まり、自らの心に起こることは何かを知ることを望むキリスト者の態度のひとつ」を指摘しているということを説明した。このためにすべての精神性を信頼していいのではなく、様々な精神性をはかりにかけるべきである、と忠告した。教皇は、「霊の識別」ができること、あることが「主のうちに留まらせるか、主からわたしたちを引き離すか」を識別することが必要である、と明らかに語った。「わたしたちの心は、いつも望み、やる気、考えに満ちています」。けれど「こうした望みが主からのものであるか、それともこれらのいくつかが主からわたしたちを引き離すかどうか」と自問した。ここに、使徒ヨハネが、わたしたちが考え、望んでいることを「はかりにかける」ようにとわたしたちに勧告している。

 「これが主の路線にあるならば、うまくいくでしょう、もしそうでなければ、うまくいかないでしょう…。本当に神からくるのかを試すために諸霊をはかりにかけること。なぜなら偽預言者たちがたくさん世に来たからです。預言者か、預言か、提案か。「じぶんはこれをしたい!」。けれどそれはあなたを主には導きません。あなたを主から退けるのです。このため見張りが必要なのです。キリスト者は自分の心を見張ることのできる男女です。そしてあまりに多くのものごとがわたしたちの心に行ったり来たりします。まるで村の市場のようです。そこには、あらゆるものがあります。あらゆるものです。そしてそれではだめなのです!塩梅を見なければならないのです。これは主のもので、これはそうではない、と、そうして主に留まるのです」。

 では、あることがキリストから来ているか、それとも反キリストから来ているかの判断基準は何でしょう?ヨハネは、はっきりした、「単純な」アイデアを持っています。「受肉したイエス・キリストを認める霊はどれも神からのものです。イエスを認めない霊はどれも神からのものではありません。それは反キリストの霊です」。けれどでは、「受肉したみ言葉を認める」とはどういうことでしょう?つまり、「イエス・キリストの道を認めること」、彼は「神でありながら、自らを低くし、十字架の死に至るまで虚しくした」この方を認めることです。

 「それがイエス・キリストの道です。低くなること、謙遜、へりくだりでもあります。もし一つの考え、一つの望みがあなたを謙遜の道、へりくだりの道、他者への奉仕の道へと導くならば、それはイエスからのものです。けれどもしあなたを満足の道、虚栄の道、傲慢の道、抽象的な考えの道へと導くならば、それはイエスからのものではありません。イエスの砂漠での誘惑について考えましょう。悪魔がイエスにする三つの提案は、この道、奉仕の道、謙遜の道、へりくだりの道、愛徳の道から遠ざけようとする提案です。けれど、愛徳というのは、その生き方そのものになっているでしょう?違いませんか?三つの誘惑にイエスが、いいえ、と言いました。「違う、これはわたしの道ではないのだ!」と。

 最後に、教皇はまさにわたしたちの心の中で起こることについて考えるようにすべての人を招いた。考えること、感じること、望むこと、そして霊を見極めることを。「わたしは自分が考えること、望むこと、欲することをはかりにかけているだろうか?それともすべてを抱え込むだろうか?

 「実にしばしば、わたしたちの心は道のようなものです。あらゆるものがそこを通ります…。はかりにかけること。そしてわたしはいつも神から来る物事を選ぶでしょうか?何が神から来るものであるかを知っているでしょうか?自分の考え、望みを識別するためのまことの判断基準を知っているでしょうか?このことを考えましょう。そして判断基準はみ言葉の受肉であることを忘れないようにしましょう。みことばは受肉した。これがイエス・キリストなのです!イエス・キリストは人となりました。神が人となったのです。低くなり、愛のためにへりくだりました。わたしたちに仕えるため、わたしたちすべてに仕えるためです。使徒ヨハネがわたしたちの心のうちに起こることは何かを知り、神から来るものと神から来ないものとを識別する知恵を持つこの恵みを下さいますように。

ブラジルでの第13回基礎共同体の集いの参加者へのメッセージ


(Juazeiro do Norte, Diócesis de Crato, 7-11 de enero de 2014)

2014年1月7―11日、クラト教区、ジュアゼイロ・ド・ノルチ

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 「命の奉仕への正義と預言」というテーマで、セアラの、ジュアゼイロ・ド・ノルチ市で2014年1月7日から11日まで行われる、第13回基礎共同体の諸教会の集いの全参加者に、大きな喜びを持ってこのメッセージを向けます。

 何よりもまず、わたしたちの天の父により、ブラジル社会のただ中でイエスの福音の献身を新たな熱意を持って生きるのを助ける聖霊の光を伴って、この集いが祝福されるためのわたしの祈りを約束しようと思います。実際、この集いの「基礎教会共同体、農地で、都市で、神の国の巡礼を続けよ」 という副題は、教会の福音化の使命における最重要の役割をますます引き受けていくための呼びかけとして響かなければなりません。

 『アパレシーダ文書』が思い出しているように、教会基礎共同体は、民が「神のみ言葉についてのより多くの知識、福音の名における社会献身、信徒レベルの新たな奉仕職の誕生、大人の信仰教育へのきっかけを作る」(178項)のを可能とする道具なのです。

 最近、全教会に向けて語るにあたり、基礎共同体は「教会を刷新する福音化の新たな熱意と世との対話の能力に貢献します」が、そのため、「現地の小教区のそれほどまでに豊かなこの現実とのコンタクトを失わず、現場の教会の構造的司牧に快く参与する」必要があります(使徒的勧告『福音の喜び』29項)。

 愛する友の皆さん、福音化は教会全体、神の民全体の義務です。全員が、一人ひとりの男女に福音の喜びを運びながら農地や都市で、巡礼者でなければなりません。

 心の底から聖パウロの「福音を告げ知らせなければ、わたしは不幸なのです!」(Iコリ9章16節)という言葉が皆さん一人ひとりの心の中で響くようにと望んでいます。ですので、第13回教会基礎共同体の諸教会の集いのはたらきと参加者の皆さんをアパレシーダのマリアさまの加護に委ねつつ、皆さんがこれを信仰と宣教、イエスと共に歩む宣教者である弟子として、「新しいテント新しい地」の預言を貧しい人々に告げ知らせ、証ししながら生きるようにと招き、皆さんにわたしの使徒的祝福を与えます。

2014年1月7日火曜日

1月6日(月)、公現祭ミサ説教:光について行って、《光》をさがすこと

 ひどい雨が数日続いた後で、陽の光がローマの冷たく湿っぽい朝を和らげる頃、ローマ司教は、サン・ピエトロの聖地で、ミサの中で、博士たちは大文字の光を探し求めて一つの光について行ったことを思い返した。

教皇フランシスコの説教全文 

 «Lumen requirunt lumine(光への光)». この公現の日の典礼に用いられる賛歌に見られる示唆に富んだ表現は、博士たちの経験について語っています。一つの光について行きながら、彼らは《光》を探します。天に現われた星は彼らの考えと心に、大いなるキリストの光の探求へと彼らを動かす光を灯します。博士たちは忠実に、彼らの内側にインスピレーションを与えるその光について行き、主に出会います。

 この東方の博士たちの巡り歩きは一人ひとりの到達点を象徴しています。わたしたちの人生は歩くことです。道を照らす様々な光に照らされて、真理と愛の満たしに出会うためです。それをわたしたちキリスト者は、世の光であるイエスに認めます。誰もが、博士たちのように、巡礼において道を示すしるしを推測させる二つの大いなる「本」を手にしています。一つは被造物、もう一つは聖書です。大切なのは注意していること、目覚めていること、わたしたちに語る神、いつもわたしたちに語りかけている神に耳を傾けることです。主の掟について言及しながら詩篇が「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩篇119編105節)とうたっているようにです。特に福音を聞き、これを読み、これを瞑想し、これをわたしたちの霊的糧とすることで、わたしたちは生きたイエスに出会い、イエスとその愛を体験することができるようになります。

 第一朗読は預言者イザヤの口を通して、エルサレムでの神の呼びかけをこだまさせます。「起き上がれ、輝け!」(60章1節)。エルサレムは神の光を世の上に反映させ人々がその道を歩むのを助ける光の町となるように呼ばれています。これは世における神の民の召命であり使命です。 けれどエルサレムがこの主の呼びかけに応えないこともあります。福音書は、博士たちが、エルサレムについた時、しばらくその目から星が見えなくなってしまったことを語っています。特に、ヘロデ王の宮殿ではその光は不在です。あの住処は闇に覆われ、そこでは暗黒や不信、恐れ、妬みなどが支配しています。ヘロデは、事実、自分がライバルだと感じるそのいたいけな《赤ん坊》の誕生のせいで不信に満ち心配している様子をあらわにします。本当はイエスは、憐れな人形である彼を倒すために来たのではなく、この世の《王子》を倒すために来たのです!しかしながら、王とその側近たちはその権威の構造に危機を及ぼすと感じ、恐れ、ゲームのルールを逆転させ、正体を暴かれます。支配の上、成功の上、持つことの上、汚職の上に建てられた世はすべて、一人の《赤ん坊》のせいで危機にさらされるのです!そしてヘロデは赤ん坊たちを殺すことにまで至ります。教会のある神父が言っていました。「お前は肉において子供たちを殺す。なぜなら恐れが心においてお前を殺しているからだ」(聖クオドブルトデウス、シンボルにおける議論2:PL40、655)。そうなのです、恐れていて、この怖れのうちに気が触れたのです。

 博士たちはヘロデの前に拡がった暗黒の危険に満ちたその瞬間を乗り越えることができました。それは聖書を信じたからです。メシアの誕生の場所がベツレヘムであると示唆する預言者のことばを信じたからです。このようにして世の夜の痺れから逃げ、ベツレヘムへの歩みを再開し、そこで改めて星を見たのです。福音は彼らが「ものすごい喜び」を体験したと語っています(マタ2章10節)。その星はあの宮殿の世俗性においては見受けられなかったものです。わたしたちを信仰の歩みにおいて導く光のひとつの局面は、聖なる「狡猾さ」でもあります。この「聖なる狡猾」は、ある種の徳です。危険を避けるために、危険に気付かせるあの霊的聡明のことです。博士たちは、帰り道で、ヘロデの闇に満ちた宮殿を通らずに別の道を通っていくことを決めた時に、この「狡猾さ」の光を使うことができました。この東方から来た博士たちは、どうすれば闇の落とし穴に落ちず、どうすればわたしたちの人生を覆おうとする暗闇からわたしたちを守ることができるかをわたしたちに教えています。彼らは、この聖なる狡猾さをもって信仰を見守りました。わたしたちも、わたしたちの信仰を守らなければなりません。暗闇からその信仰を守ることですが、しばしば、その暗闇は光を装っています。なぜなら悪魔は、聖パウロが言っているように、光の天使を装うからです。ここで、わたしたちは、今日はあれこれをしなければならない、と警鐘の歌が語るように、わたしたちの信仰を守るための聖なる狡猾さを必要としているのです。けれど信仰はある種の賜物です。恵みです。その信仰をこの聖なる狡猾さ、祈り、愛、愛徳をもって守るのはわたしたちに任された務めです。神の光をわたしたちの心に迎え入れる必要があります。そして同時に、イエスが弟子たちに「ヘビのように慎重で、鳩のようにシンプルに」(マタ10章16節)と求めているように、単純さを狡猾さに活用することのできるその霊的狡猾さを培うことが必要です。

 公現の祝日に、つまりイエスが一人の《赤ん坊》の顔で人類に自らを示したことを思い返すこの日に、博士たちと、歩みの知恵ある同伴者として、わたしたちも心を一つにします。その模範はわたしたちが星にむかって目を挙げ、わたしたちの心にある大いなる望みに従って行くことを助けます。わたしたちに、中途半端な生き方、「小さな養殖場」に満足せず、よいこと、本当のこと、美しいこと、つまり神によっていつも惹きつけられるようにすることをわたしたちに教えています。こうした真善美はすべて、より大いなるものになっていきます。そしてわたしたちに、表面的なこと、世にとっては偉大で、知恵があり、権力があるようなものに騙されないことを教えています。そこで留まっていては成りません。表面的なこと、かっこつけに満足していてはならないのです。信仰を守る必要があります。今の時代では、これはとても重要なことです。闇のずっと向こう側、警鐘の音、世俗性、今日の近代文化のずっと向こう側に行く必要があります。ベトレヘムに行く必要があります。そこで町の中心から外れたある家のシンプルさに、愛と信仰に満ちた一人のお母さんと一人のお父さんの間に、宇宙の王、高みより生まれた《太陽》が輝いています。博士たちの模範に倣い、わたしたちの小さな光をもって、《光》を探し、信仰を守りましょう。

(Traducción: María Fernanda Bernasconi y jesuita Guillermo Ortiz – RV).

1月5日(日)、お告げの祈り:みことばの受肉

1月3日(金)、朝ミサ説教:教会の力は自らのうちに留まらず、神の深い水の中に隠れる



 


 聖パウロがわたしたちにこう言っています。皆さんは今聞きました。「イエスと同じ気持ちを持ちなさい。イエス自身神の身分にありながら、神としての特権を考慮に入れず、自らへりくだり、僕の身分を自ら引き受けたのです」(フィリ2章5―7節)。わたしたちイエズス会士は、イエスの名を運び、その十字架の旗本で兵士として行進したいと望んでいます。そしてこれがキリストと同じ気持ちを持つという意味なのです。キリストのように考え、キリストのように善を求め、キリストのように見、キリストのように歩むということを意味するのです。
 キリストがしたのと同じことを、同じ気持ちで、その心に同じ気持ちを持ってするという意味なのです。キリストの心、愛のために自らを空っぽにした神の心です。わたしたちイエズス会士一人ひとりは、イエスに従っていますが、自分自身を空にする心構えがなければなりません。この空にすることにわたしたちは呼ばれています。空にされること、自分自身を中心に据えて生きてはならない人であること、なぜなら会の中心はキリストであり、その教会だからです。
 そして神はいつも「Deus semper maior(常により偉大な神)」、驚きをもたらす神なのです。そしてもし驚きをもたらす神が中心にいないなら、イエズス会は道を見失います。だから、イエズス会士であるということは、不完全な考えの人であるということ、開かれた考えの人であるということです。なぜなら、神の栄光、いつもより偉大な、わたしたちを驚かせてやまない神の栄光という地平をいつも眺めながら考えるからです。これこそがわたしたちのやる気を出させる落ち着きのなさ、聖なる美しい落ち着きのなさなのです。
 罪びとであるので、わたしたちは、もしわたしたちの心が探究の落ち着きのなさを保っていたのなら、あるいはもしその反対に萎縮していたのなら、もしわたしたちの心がいつも緊張にあったなら、リラックスしない心であるなら、自分自身に閉じこもらず、しかし神の民すべてと共には立つべき歩みのリズムを刻めるようにと願うことができます。神に出会うためには神を探す必要があります。そして探すために出会うことが必要です。それもいつも。この落ち着きのなさだけがイエズス会士の心に平和を与えることができるのです。
 また使徒的落ち着きのなさが、ケリュグマの宣言や勇気をもって福音宣教することをやめさせるようなことは決してありえません。これは使徒的実りの能力の賜物を受けるためにわたしたちを準備する落ち着きのなさなのです。落ち着きのなさがなければわたしたちは不毛になります。大いなる望みの人、ピエトロ・ファブレの持っていたこの落ち着きのなさのうちに、もうひとりのダニエルがいたのです。
 ファブレは控えめで、感受性が強く、深い内面生活があり、あらゆるタイプの人と友情を作る賜物を与えられた人でした。 それはいつも落ち着きがなく、決断力に乏しく、決して満足しない精神でした。聖イグナシオの導きのもと、その落ち着きがないけれどやさしく絶妙な感受性を、決断能力と統一させることができました。彼は大いなる望みの人でした。その望みを身に帯び、これを認識しました。しかも、ピエトロ・ファブレは、難しいことを提案する時というのは、行動の人の本当の精神が示されたからです。深い信仰にはいつも世を変える深い望みが求められます。
 続くのは、わたしたちが自分にすべき問いです。わたしたちも、大いなる展望と勇気を持っているだろうか?わたしたちも大胆だろうか?わたしたちの夢は高く飛び、熱意がわたしたちを食いつくすだろうか?それともわたしたちは中途半端で、働き者の使徒職の計画に満足しているだろうか? このことをいつも思い出しましょう。教会の力は自分自身、組織だての能力のうちに生きず、神の深い水のうちに隠されています。この水の中でわたしたちの望みは武者ぶるいをし、望みが心を拡げます。それは聖アウグスティヌスが言っていたとおりです。祈ること、望むために。望むこと、心を拡げるために。
 まさにその望みのうちに、ファブレは神の声を識別することができました。望みがなければどこにも行きません。だからこそ、主に自分自身の望みを捧げなければならないのです。会憲に、わたしたちの週である神に捧げられた望みを持って隣人というのは助けられる、と言われています。ファブレは神のうちに拡げられる真の望みを持っていました。完全に神にその中心をおいていました。だからこそ従順の精神のうちに進むことができ、多くの場合は歩いてヨーロッパ全土を進み、あらゆる人とやさしさをもって対話することができたのです。彼は福音の槍でした。
 わたしは、おそらくわたしたちの誘惑となりそうなこと、つまり福音の宣言を尋問や断罪といったこん棒でうちつけることと関わらせる誘惑について考えざるをえません。それではだめです。福音はやさしさと兄弟愛、愛を持って告げられるものです。その神との家庭的交わりが彼を内なる体験と使徒的生活がいつも共に進むということを理解するに至らせたのです。その記憶に書いているのは、心の最初の動きは本質的で起源的なものを望むことでなければならない、つまり一番の席はわたしたちの週である神に出会うことへの完全な願いに譲られます。ファブレは心の中心でキリストが作業するに任せる望みを見出します。神に中心をおいていてのみ世の中言う神から外れたところに赴くことができるのです。そしてファブレは休みなく地理的国境へも旅し、「どうやらどんな所でも落ち着いていられないように生まれてきたようだな」と言われるほどでした。
 ファブレは主とコミュニケーションをとる激しい望みに食いつくされていました。もしわたしたちがそれと同じ望みを持たないならば、祈りに留まる必要性があり、沈黙に満ちた熱意をもって、わたしたちの兄弟であるピエトロの取り次ぎによって主に、ピエトロをそうした使徒的愚かさすべてにピエトロを運び、その抑制しきれない望みを運んでいた主の輝きをもってもう一度わたしたちを惹きつけてくださるように主に求める必要性があるということです。
 わたしたちは緊張のうちにある人間です。またわたしたちは矛盾や言行不一致のある人間でもあります。全員罪びとです。しかしイエスの眼差しのもとで歩みたいと望む人間です。わたしたちは小さく、罪びとですが、十字架の旗印の下、イエスの名をいただいた会のうちに兵士として行進したいと望んでいます。わたしたちは利己的ですが、その間大いなる望みによって身ぶるいさせられる生き方を生きたいと望んでいます。ですから宇宙の永遠の主へのわたしたちの祈りを行進しましょう。そうして栄光に満ちたその母の助けによって、自らを空にしたキリストの気持ちを求め、望み、生きることができますように。ピエトロ・ファブレが言っていたように、この人生の中で、イエスの名に留まらない名を探し求めないようにしましょう。おとめマリアに、その御子と共においていただけるように祈りましょう。

1月1日(水)、お告げの祈り:贖い主の母であるマリアの手に子としての信頼をもってわたしたちの希望を据えること




愛する兄弟姉妹の皆さん、おはようございます、そして明けましておめでとう!

 新年の初めに、平和とあらゆる善を求めながら皆さんに祝福のあいさつを向けます。わたしの願いは教会の願いです。それはキリスト者の願いなのです!今始まる年の循環は、すこし魔術的であったりすこし宿命論的であったりする意味とは関係がありません。わたしたちは、歴史にはその中心があると知っています。それはイエス・キリストです。受肉され、死に、復活し、わたしたちの間で生きておられる方です。目標地点があります。神の国、平和の国、正義の国、愛における自由の国です。そしてその目標地点に向けてこれを動かす力があります。それは聖霊の力です。

 わたしたちには皆、洗礼において受けた聖霊があります。聖霊はわたしたちが、キリスト者としての生活の歩みにおいて、歴史の歩みにおいて、神の国に向かって前進していくようにと内側から促します。この霊はおとめマリアの母体で培われた愛の力です。そして平和の建設者すべての計画と働きを励ます方そのものなのです。

 平和の建設者である男性、あるいは女性のいるところに、まさにその場所に彼らを助け、内側から促して平和を建設するようにとする聖霊がいるのです。

 今日、二つの道が重なっています。神の母聖マリアの祭日と、世界平和の日です。八日前に、天使のお告げが響き渡りました。「神に栄光、人に平和」と。今日改めて「これらのことをすべて心に収め、心の中で思いめぐらしていた」イエスの母からこれを迎え入れ(ルカ2章19節)、ここから開かれる年の道のりにおいてわたしたちの努力をしていきます。

 今回の世界平和の日の題名は「兄弟愛、平和のための根本と歩み」です。
 兄弟愛。パウロ六世に始まって、わたしの前任者たちの足跡をたどりながら、すでに皆さんの手元に渡っており今日理念的に皆さんにお渡しするメッセージの中でこのテーマを繰り広げました。その基礎には、わたしたちは皆、天のただ一人の父の子らであり、同じ人類家族の部分をなし、共通の運命を分かつのだ、という確信があります。ここから一人ひとりに対して、世界が互いに尊敬し合い、その多様性の中で受け入れ愛、互いに守り合う兄弟のひとつの共同体に代わるために働く責任が託されます。また、わたしたちは世界の実に多くの場所に現行する暴力と不正に気付き、これに無関心かつ不動でいられなくなるようにと呼ばれています。本当により正しく連帯に満ちた社会を作るために全員の努力が必要とされています。

 昨日、一人の男性から手紙をいただきました。おそらく皆さんの中にいらっしゃるのでしょう。彼は家庭における悲劇について語り、引き続き、今日の世界におけるあまりに多くの悲劇や戦争のリストを挙げていました。そこでわたしは自問していました。こんなにも多くのことをしている世界で、今日何が起こっているのだろう?そして、最後に言いました。今こそ立ち止まる時だ、と。わたしも、この暴力の道において立ち止まり、平和を探すのは良いことだと思います。

兄弟姉妹の皆さん、
 この方の言葉をわたしの言葉にします。人々の心の中に何が起こっているのでしょうか?人類の心に何が起こっているのでしょう?今こそ立ち止まる時です!

 世界の隅々から、今日信者たちは主に平和の恵みとこの平和をそれぞれの環境に持ち運ぶ能力の恵みを求めるために祈りをささげます。この信念の最初の日に、わたしたちが正義と平和の道をより確かな決断を持って歩んでいくことができるよう支えてくださいますように。自分の家から始めるんですよ、いいですか!家に正義と平和を。わたしたちの間でですよ、いいですか!家の中で始められ、その後前進していき、全人類へ、けれど家の中で始まらなければなりません。

 聖霊が心の中で働き、閉じた扉と心の硬さを解き、わたしたちに幼子イエスの弱さを前にやさしくなれる恵みを下さいますように。平和は、実際、大人しさという力、真理と愛の非暴力的な力を不可欠としているのです。

 贖い主の母でありマリアの手の中に、子どもとしての信頼を持ってわたしたちの希望を据えます。すべての日とにその母性を拡げてくださるマリアに、戦争と暴力によって抑圧されている国々の平和を求める叫びを委ねます。そうして対話と和解の勇気が復讐や権力誇示、汚職の誘惑をうちはらってくれますように。教会によって告げられ、証しされた兄弟愛の福音が一人ひとりの両親に語りかけ、敵対者が兄弟であることを認めるのを妨げる壁を打ち崩してくれるように、マリアに願いましょう。

1月1日(水)、説教:世界平和の日、教皇、全世界の必要性を神の母に委ねる

 教皇は今朝、元旦の聖体祭儀を、神の母聖マリアの祭日と第47回世界平和の日の祝いの中で、サン・ピエトロ大聖堂でささげた。ローマでは、世界平和の日をきっかけに、聖エジディオ共同体が平和のための伝統的な行進を企画した。イベントは午前10時にコンチリアツィオーネ通りで始まり、教皇と共にお告げの祈りに参列するためにサン・ピエトロ広場まで続いた。参加者たちは平和についての大きな8つのプラカードと旗を見せた。

教皇フランシスコ、説教全文

 先ほど耳にした第一朗読は、わたしたちに、アロンとその息子たちに教えるようにと神がモーセに勧めた神の祝福の古いことばを改めて提案します。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように」(民6章24-26節)。この祝福をいま一度、まさに新年の初めに聞くのはとても意味のあることです。この祝福が、今わたしたちを待ちうけている時の間、わたしたちの歩みに伴ってくださるでしょう。

 これは力と勇気、希望のことばです。人間的な壊れやすい約束を基いとした幻想的な希望ではなく、未来であるということだけでよりよい未来を想像する粗野な希望でもありません。この希望にはまさに神の祝福のうちにおいてその存在意義があります。その祝福にはあらゆる望みのうち最もよい望みが込められています。主の愛に満ちた守りと摂理的な助けにあふれた、わたしたち全員に対する教会の望みです。

 この祝福に込められた望みは一人の女性、マリアにおいて完全に実現されました。神の母となるように定められたからです。そしてそれは他のどの被造物にも先立って彼女において実現されたのです。

 神の母。これはおとめマリアの基本的で本質的な肩書きです。それは質であり、役割です。これをキリスト教の民の信仰は、わたしたちの天の母への、その穏やかで真正な信心において、いつも体験してきました。

 エフェソ公会議という、古代教会史のあの大いなる瞬間を思い起こしましょう。そこで権威をもっておとめの神に携わる母性が定められたのです。マリアの神に携わる母性についての真理は、ローマにおいてこだまし、その少し後に、ローマ及び全西欧の最初のマリア聖地である、サンタ・マリア・「マッジョーレ」大聖堂が建立されました。そこでは神の母、つまりテオトコスの像が、「ローマの民の救い」という肩書で崇拝されています。 言われていることによれば、公会議の間、エフェソの住民は司教たちが集まっていた大聖堂の扉の両側に集まり、「神の母!」と叫んだそうです。信者たちは、公的にこのマリアの肩書が定められることを願い、すでにその神に携わる母性を認めていることを表明したのです。それはその母を計り知れないやさしさをもって愛しているがゆえに、その母をよく見分ける息子たち、娘たちの自発的で誠実な態度です。

 しかし、これに留まりません。それは神の民の信仰の感覚(sensus fidei)なのです。それはこの一致において、決して誤ることがないものなのです。

 マリアは、ずっと前から、心の中に、信心の中に、そして何よりも、キリスト者の民の信仰の歩みの中に、いつもいます。「教会は、・・・時を歩み・・・ます。しかし、後述のように、・・・かつておとめマリアが信仰の旅路を進(んだ)・・・その道筋に沿って進んでいます」(ヨハネ・パウロ二世回勅『救い主の母』2)、そしてだからこそマリアを特別にわたしたちに近い方と感じるのです。信仰に関することでは、キリスト者の生活の支柱なのですが、神の母はわたしたちの人としての状況を分かち合い、わたしたちが巡り歩く同じ道を歩まねばならず、時にはそれは困難に満ち、暗く、「信仰の巡礼の旅路」を進まなければなりませんでした(第二バチカン公会議、エキュメニズムに関する教令LG58)。

 わたしたちの信仰の歩みは、イエスが十字架で息絶え絶えになりながら、「これがあなたの母です」と言ってマリアをわたしたちに母としてくださった(ヨハ19章27節)瞬間からマリアと分かち得ない仕方で一つになって進められます。こうした言葉には遺言と同じ価値があり、そこで世界に一人の母を与えるのです。その瞬間から、神の母はわたしたちの母にもなったのです。弟子たちの信仰があまりの困難と不確実なことのために傷ついてしまったあの時間に、イエスは信じるということの第一人者であり、その信仰は決して弱まることのないあの女性を弟子たちに委ねたのです。そしてその「婦人」は神の子を失うその瞬間にわたしたちの母となるのです。そしてその傷ついた心は広げられ、善人も、悪人も、すべての人を受け入れ、イエスが愛するように彼らを愛するのです。ガリラヤのカナの婚礼でその信仰をもって世における神の偉大さの表明に参与した婦人は、カルワリオでその子の復活への信仰の炎を付けたまま保ち、その炎を他の人々に母としての愛情をもって伝えます。マリアはこうして、希望とまことの喜びの泉となるのです。

 贖い主の母はわたしたちに先立ち、たゆむことなくわたしたちの信仰や召命、使命を固めます。その謙遜と神の意志に応える心構えの模範をもって、わたしたちの信仰を喜ばしく国境なく福音の宣言へと言い換えるのを助けます。このようにしてわたしたちの宣教使命は実りあるものとなるでしょう。なぜならマリアの母性にその範をとっているからです。マリアにわたしたちの信仰の道のり、わたしたちの心の望み、わたしたちと全世界、特に正義、平和、神への飢えと渇きのあるところの必要を委ねます。そして全員で、エフェソの兄弟たちを真似してマリアに呼びかけましょう。ご一緒に三回、言いましょう。神の母聖マリア!神の母聖マリア!神の母聖マリア!アーメン。

12月31日(火)、年末の祈り

 午後五時に、パパ・フランシスコはサン・ピエトロ大聖堂で聖体礼拝と聖体による祝福を伴った、神の母聖マリアの祭日の前晩の祈りを司式した。これは2013年の最後の祭儀であり、神に感謝し、2014年という市政上の一年を主の名において開始するために聖母マリアに呼びかけることを目的としている。
 祭儀の終わりに、ローマ司教はサン・ピエトロ広場に行ってしばらくの間馬小屋の前で祈り、そこに集まっていた数えきれないほどの信者や巡礼者に挨拶をした。

教皇フランシスコの説教全文

 使徒ヨハネは、今という時をぴったりの表現で定義しています。「終わりの時が来ました」(Iヨハ2章18節)と。この12月31日のミサで読まれる断言は、神が歴史に訪れることでわたしたちは既に「終わりの」時にいて、その後で、最後の一歩はキリストの二度目の決定的な到来であることを意味します。普通にここでは時の質について語られているのであって、時の長さについて語られているわけではありません。 イエスと共に時の「満たし」、意味の満たし、救いの満たしが訪れました。そしてイエスが既に示したことの満ち満ちた表明以外には、さらに新しい啓示はありません。この意味でわたしたちは「終わりの時」にいて、わたしたちの生活の一瞬一瞬は決定的であり、わたしたちの行動の一つ一つは永遠でいっぱいです。実際、今日イエスキリストにおいてわたしたちを愛している神に向ける応えは、わたしたちの未来に関わっているのです。

 時について、また歴史についての聖書的、またキリスト者的視座は、循環的ではなく、直線的です。それは一つの達成点へと向かって行く道なのです。ですから、過ぎ去った一年は、何か終っていく現実ではなく、果たされる現実へとわたしたちを導きます。それは、わたしたちの目の前にある目的に向かう、それに続く歩みなのです。希望の目標、幸福の目標です。なぜなら神、つまりわたしたちの希望の意義、わたしたちの喜びの泉である方にわたしたちは出会うからです。

 2013年が暮れ行くにあたり、籠に入れるように、この一年過ごしてきた日々、週、月日をもう一度手に取り、主にすべて捧げましょう。そして勇気をもって問いかけましょう。主がわたしたちに下さった時をどのように生きてきただろうか?この時を何よりも自分自身のため、自分の関心事のために使ってきただろうか、それともこれを他の人々のためにも費やすことができただろうか?どれだけの時間を祈りのうちに、沈黙のうちに、礼拝のうちに「神と共にいる」ためにキープしただろうか?

 またわえたしたち、ローマ市民について考え、このローマの町についても考えましょう。今年、何があっただろうか?何が今起きていて、どんなことが起きていくのだろうか?この町の生活の質はどうだっただろうか?わたしたち全員にかかっているのです!わたしたちの「市民としてのあり方」はどうだっただろうか?今年、わたしたちのできる限りで、この町が住みやすく、整えられ、人を受け入れる雰囲気をもつようにわたしたちは貢献しただろうか?実際、一つの町の顔つきはモザイクのようなもので、そこに住んでいる人々すべてがそのピースなのです。権威を行使する人に一番の責任があるのはその通りですが、善においても、悪においても、一人ひとりに共同責任があるのです。

 ローマは他に二つとない美しさをもつ街です。その霊的遺産と文化遺産は普通ではありません。しかしながら、ローマにも物質的、道徳的悲惨さによって刻まれた人々、貧しい人々、不幸な人々、苦しむ人々があまりに多く、公的責任のある人々のみならず、市民一人ひとりの意識に訴えかけています。ローマにおいておそらく、壮大で芸術的美に満ちたところと、生きるのがより大変な人々の社会的不備との対照がより強く感じられます。

 ローマは旅行者に満ちた町ですが、同時に難民でもいっぱいです。ローマは働く人に満ちていますが、同時に仕事が見つからない人、あるいは不当な給料、しばしば尊厳を損なう給料で働き続ける人もいます。一人ひとりが人間の尊厳をもって生きているのですから、同様の歓迎と平等の態度で扱われる権利がすべての人にあるのです。

 一年の最後の日。何をしましょうか?わたしたちの町をもう少し良くするために、来る年にどのようなふるまいをしましょう?もし人間味やホスピタリティ、歓迎においてもっと豊かになるならば、もしわたしたち全員が困難にある人に対してもっと意識を向け寛大であるならば、もしすべての人にとっての善のために、わたしたちが建設的で連帯の精神をもって協力することができるならば、新年の炉0間はもっと美しい顔つきになるでしょう。もしこの町を「遠くから」「はがきの中だけで」見る人がいなくなり、つまりその生き方をバルコニーから動かずに、人間の問題、男女の問題、つまり結局は、そして最初から、好むとも好まずとも、わたしたちの兄弟である人々の問題に巻き込まれることなく眺めるような人がいなくなるならば、新年のローマはよりよい町になるでしょう。この者の味方で、ローマの教会は町の生活と将来に自ら貢献することに献身していることを身にしみて感じていますが、それは教会の義務なのです!福音のパン種をもってこれを励まし、神のあわれみのしるし、道具となろうと献身していることを感じています。

 この夕暮れ時に、感謝をし、ゆるしを求めながら2013年という主の年を結びます。二つのことを一緒にします。感謝することとゆるしを願うことです。主がわたしたちに下さったすべての恵みに感謝します。特にその忍耐と忠実さです。それは時が進むに連れて示されていきますが、特に時が満ちた時に、「神が、一人の女性から生まれたその御子を送った」(ガラ4章4節参照)時に示されるのです。神の母が、明日から地上でのわたしたちの巡礼の新しい個所をその名において始めるわけですが、人となられた神をわたしたちが受け入れるようにと教え、毎年、毎月、毎日、その永遠の愛で満たされますように。なれかし(アーメン)。
(Traducción de Griselda Mutual y Mariana Puebla – RV).

12月29日(日)、お告げの祈り:聖家族