2013年5月6日月曜日

5月5日、ミサ説教:福音的にほんものであること、教会的であること、宣教の熱意

朗読個所 : 使徒言行録15・1-2、22-29
           黙示録21・10-14、22-23
            ヨハネ14・23-29

バチカン、5月5日(バチカンラジオ)

 この復活節第6主日に信仰年の兄弟姉妹会の巡礼の頂点となるミサを大いなる喜びを持って主式しながら、ローマ司教は彼らの重要な証しとサン・ピエトロ広場における、全世界に広まっている人々の代表として来ていた参列者の量を見て、感謝した。そしてこれは、その時に降ってきた雨にもかかわらず、旗や像を持って、教皇ミサのために、朝早くから行列をして到着し始めていたこの何千もの信心会員の信心と喜びを水浸しにすることはなかった。そこにはカトリック教会の民間信心の色彩としるしとが実に様々に示されていた。

 ベネディクト16世の言葉を引用しながら、教皇フランシスコは兄弟愛における「福音としてのあり方」とラテンアメリカの司教たちがそれを一種の霊性、神秘性、イエス・キリストとの出会いのスペースとして定義している民間信心の表明の豊かさの重要性を強調した。

 教皇は、教会を愛し、教会によって導かれるようにしなさいと鼓舞した。そして加えて、ほんもののの福音宣教者となるようにと勧告した。愛の宣教者、神の優しさの宣教者となりなさい!と。この鼓舞と希望の言葉をもって、教皇はその説教を結んだ。

  「福音的にほんものであること、教会的であること、宣教の熱意。主に願いましょう。わたしたちの考えとわたしたちの心をいつも主に向かうように導いて下さるようにと。教会の生きた石としてわたしたちが、あらゆる活動、わたしたちのキリスト者としての全生活をそのあわれみと愛の輝かしい証しとすることができるように。このようにして、この世におけるわたしたちの巡礼の目的地、天のエルサレムに向かって私達は歩いてゆくことでしょう。そこでは、神殿はありません。神自身と神の子羊がその神殿なのです。そして太陽と月の光はいと高き方の栄光にその場を譲るのです。なれかし(アーメン)」。
(CdM -RV)

説教全文

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 この雨の中、皆さんはよくもやってきてくださいました。勇気がありますね。主が皆さんに報いてくださいますように。
 信仰年の歩みにおいて、信心会のために特別に捧げられたこの聖体祭儀を祝うことができてうれしく思います。信心会は、この近年ある種の刷新と再発見を生きている教会における伝統的な現実の姿です。皆さん全員に、特に世界の様々なところからやって来た信心会の皆さんに、愛情をもってあいさつします。ここにいてくださり、ありがとう。また皆さんの証しに、ありがとう。
1.わたしたちは福音においてイエスの別れの説教の場面を聞きました。福音記者ヨハネはそれを最後の晩餐の文脈でわたしたちに残してくれました。イエスは使徒たちを置き去りにする前に、霊的な遺言としてその最後の勧めを託します。 今日のテキストは、キリスト者の信仰はすべて父、子、聖霊との関わりにその中心を据えることを強調しています。主イエスを愛する人は、自らのうちにイエスを迎え、父を迎えます。そして聖霊のおかげで福音をその心とその自らの人生に迎え入れるのです。ここに、すべてをはじめ、すべてを終えるべき中心は何であるかが指摘されています。それは、神を愛すること、福音を生きながらキリストの弟子となることです。
 皆さんに向けて語りながら、ベネディクト16世はこのような言葉、「福音状態」という言葉を用いました。愛する信心会の皆さん、民間信心は、皆さんが重要な表明をして下さっているのですが、教会の持つ宝であり、南米の司教団が意味深い仕方で定義したものです。それによれば、信心会はある種の霊性であり、ある種の神秘主義であり、ある種の「イエス・キリストとの出会いの場」 なのです。いつもキリストのもとにはせ参じてください。キリストは枯れることのない泉なのです。皆さん、霊的な養成、個人の祈りと共同の祈り、典礼を大切にしながら、その信仰を強めなさい。何世紀もの間、信心会は主との緊密な関係を質素に生きた多くの人々の、聖性の炉のようなものでした。決心して正性に向かって歩みなさい。月並みな(ぼんくらな)キリスト者の生活で満足せず、自分たちがその信心会に属していることが、何よりも自分たちにとって、イエス・キリストをより愛するための刺激となるように求めなさい。
2.また、先ほど聞いた使徒言行録の聖書個所は、本質(大切なもの)とは何かについて語っています。生まれたばかりの教会において、キリスト者であるため、キリストに従うために本質的なものとそうでないものをすぐにでも識別しなければなりませんでした。使徒たちと長老たちはエルサレムで重要な集会をしました。このテーマについての第一回「公会議」です。ユダヤ教徒ではない、異邦人に福音が宣べ伝えられた後で浮き彫りにされた問題が原因でこの公会議は開かれました。それは何が本質的であるかをよりよく理解するための摂理的な機会でした。つまりわたしたちの罪のために死んで復活されたイエス・キリストを信じることと、イエスがわたしたちを愛したように互いに愛し合うことを本質として見据えたのです。けれど気づいてほしいのは、困難を教会外部で乗り越えられず、いかにこれを内部で乗り越えなければならなかったか、ということです。
 そしてここに、皆さんに知っておいてもらいたい二つ目の要素があります。教皇16世の造語ですが、『教会状態』です。民間信心というものは、もし教会において、みなさんの牧者たちとの深い聖体的一致のうちに生きられるなら本質的なことへと導く一つの小道なのです。愛する兄弟姉妹の皆さん、教会は皆さんのことが好きです。生きた細胞として、生きた石として、共同体における活動的な存在となりなさい。ラテンアメリカの司教たちは、皆さんがその表現された形である民間信心は、「信仰を生きる合法的なあり方、教会の部分として感じられる一つの様態(モード)である」(『アパレシーダ文書』、264項)と言いました。いやはやこれは美しい!信仰を生きる合法的なあり方、教会の部分として感じられる一つの様態であるとは!教会を愛しなさい。教会によって導かれるに任せなさい。小教区において、教区において、信仰とキリスト者の生活の本当の肺、そこに吹き込まれる爽やかな風のようなものになりなさい。この広場に、傘を前にし、また今や色彩としるしが豊かで、表現の大いなる豊かさと多様性が見受けられます。教会とはそのようなものです。教会とは、すべてを一致と、一致に向かう多様な富、改めて導きながら成り立つ様々な、大いなる富なのです。そして一致とは、キリストと出会うことなのです。

3.三つ目の言葉を加えたいと思います。それは皆さんに一つの特徴を与えます。『宣教師の状態』です。皆さんには具体的で重要な使命(ミッション)があります。それは信仰と皆さんが属する民の文化との関係を活き活きと保つ、ということです。それを民間信仰を通して行うのです。たとえば、十字架を深い崇敬と主への大いなる愛をもって行列して運ぶ時、皆さんはただの外に見える仕草としてのみ行っているわけではありません。皆さんは、わたしたちをあがなってくださった主の過越の神秘、その受難、死、復活という過越の神秘が中心にあるということを示します。そして、まずは自分たち自身に対し、そして共同体に対し、わたしたちを変えてもらえるようにと人生の具体的な歩みにおいてキリストに従うことが必要であることを示すのです。同様に、聖母マリアへの深い信心を表明する時に、皆さんはキリスト教の存在で最も高いレベルで達成された形、その信仰と神のみ旨への従順によって、そしてみ言葉の黙想とイエスの働きによって主の完璧な弟子となった(Lumen Gentium53)あの方を示すのです。この信仰は、神のみ言葉への傾聴から生まれますが、皆さんは感覚や感情、様々な文化のシンボルをも含んだ形でこれを表明しています。そしてそのようにしながら、人々に対して、特にイエスが福音で「小さい者たち」と呼んでいる質素な人々にマリアのことを伝える一助となっているのです。実際、「一緒に聖地へと歩いて行き、子供たちを連れて、あるいは他の人々を招きつつ、民間信仰の別の表現をしているところに参加することも、それ自体福音化の行為なのです」(『アパレシーダ文書』264)。聖地に行くとき、家族を、皆さんの子供たちを連れて行くとき、ほんとうに福音化の働きをしているのです。この歩みを続ける必要があります。皆さんも、本物の福音伝達者となりなさい。皆さんのイニシアティブが「橋」、キリストと共に歩むため、キリストへと導く通り道となるように。そして、この精神で、愛徳に対する意識をいつも保ちなさい。どのキリスト者も、どの共同体も、福音をどれほど運んでおり、またそれを生きているかによって宣教者である度合いが図られるのです。そしてすべての人のための神の愛の証しを、特に困難に直面している人に対して行ってください。神の愛とぬくもりの宣教者となりなさい。いつもわたしたちを赦し、いつもわたしたちを待ち、わたしたちをとても愛しておられる神のあわれみの宣教者となりなさい。

 福音的に本物であること、教会的であること、宣教の熱意。三つのことばを、忘れないでください。福音的にほんものであること、教会的であること、宣教の熱意。主に願いましょう。わたしたちの考えとわたしたちの心をいつも主に向かうように導いて下さる ようにと。教会の生きた石としてわたしたちが、あらゆる活動、わたしたちのキリスト者としての全生活をそのあわれみと愛の輝かしい証しとすることができる ように。このようにして、この世におけるわたしたちの巡礼の目的地、天のエルサレムに向かって私達は歩いてゆくことでしょう。そこでは、神殿はありませ ん。神自身と神の子羊がその神殿なのです。そして太陽と月の光はいと高き方の栄光にその場を譲るのです。なれかし(アーメン)

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