2014年4月29日火曜日

4月29日(火)、朝ミサ説教:キリスト教の共同体というのは、平和のうちにあり、キリストの証しをし、貧しい人たちの間にいるもの


 全キリスト教共同体は、初代教会に息吹を与えていたように自らのいのちと照合し、「調和」のうちに生き、キリストの復活の証しをし、貧しい人たちのところにいる自らの能力を本物にしていかなければなりません。パパ・フランシスコは今朝聖マルタの家の小聖堂でささげられたミサの説教の中でこう語った。

 三本の「筆」で描かれた「イコン」。これが使徒たちの宣教に描写されて出てくる初期のキリスト教共同体を紹介するものです。パパは、このグループの三つの特徴にとどまった。それはその内側と外側に向けてキリストの証しをすることとの完全な同意ができ、自分のところのメンバーが悲惨な状況に苦しむのを妨げることのできる特徴である。「再生した民の三つの特色です」。

 フランシスコはその説教を、復活の週の間中教会が取り上げていたものから始めた。つまり「上のものから生まれること」、「まだキリスト教徒、という呼び名のなかった」ときすでに、「新たなキリスト者たち」の最初の核に命を与えた霊から生まれることです。


「『彼らの心はたった一つで、魂もたった一つになっていた(心も思いも一つにし)』平和です。平和のうちにある共同体です。これが意味するのは、あの共同体には噂話のためにも、妬みのためにも、誹謗中傷のためにも場所がなかった、ということです。平和。ゆるし。『愛がすべてを覆っていた』のです。これについて一キリスト教共同体の質を見極めるために、キリスト者の態度はどのようなものかを自問しなければなりません。柔和ですか? 謙遜ですか? その共同体のなかに、力をめぐって喧嘩がありませんか? ねたみで喧嘩していませんか? 噂がありませんか? それではイエス・キリストの道を行っていないのです。この特徴はとても重要です。とっても重要なんです。なぜなら悪魔はいつもわたしたちを何とかして分裂させようと望んでいるからです。悪魔は分裂の父です」。

 あの初期共同体に問題がなかったわけではありません。実際、「内部闘争、教義をめぐる闘争、権力争い」が、さらに後になって生じてきたのです。例えば、やもめたちがあまりよく使徒たちの面倒をみてもらえていないと嘆いたときに、「助祭を定めなければならなくなったのです」。

 それにしても、黎明期の「力に満ちたあのとき」は霊から生まれた共同体の本質をいつまでも見つめています。同意のある共同体、そして、信仰の証しである共同体です。そこでパパは今の全共同体に対峙するように招いた。

 「皆さんの共同体はイエス・キリストの復活の証しをする共同体ですか?この小教区は、この共同体は、この教区は、本当にイエス・キリストが復活したと信じていますか?あるいは、『そうですねぇ、復活しましたけど、この部分でね』と。なぜならここでだけ、この力から遠いところにある心だけで信じているからです。イエスが生きていて、わたしたちの間にいる、ということの証しをすること。そうして、どのように一つの共同体が本物として進んでいくかが測れるのです」。

 どのように一キリスト教共同体が本物として進んでいくのかを測る三つめの特徴は、「貧しい人たち」と関係しています。ここで、パパ・フランシスコは二つのポイントに本物であるかを見る尺度を分けた。

「一つ目。あなたの態度やこの共同体の態度は、貧しい人たちに対してはどうですか?二つ目。この共同体は貧しいですか?心貧しく、精神貧しくありますか?あるいはその信頼を富に置いていますか?権力にですか?調和、証、貧困、貧しい人たちの世話をすること。そしてこれこそイエスがニコデモに説明していたことなのです。この上のものから生まれることです。なぜならこのことをできるようにしてくれるのは聖霊だけだからです。これは聖霊の劇の働きなのです。教会に聖霊がこれを行うのです。聖霊が一致を成すのです。聖霊が証しにあなたを促すのです。聖霊があなたを貧しくするのです。なぜなら聖霊こそがと見であり、あなたが貧しい人々のことに捧げるようにとするからです」。

「聖霊が、聖霊の力によって再生した人々の子の道を歩むのを助けてくれますように」。
 (María Fernanda Bernasconi – RV).

4月27日(日)、列聖ミサ説教:聖ヨハネ二十三世と聖ヨハネ・パウロ二世はイエスの傷を見、傷ついた手と貫かれた脇腹に触れる勇気があった


 

2014年4月25日金曜日

4月24日(木)、朝ミサ説教:復活の喜びを恐れる「コウモリのようなキリスト者」になるのを避けよう

使徒言行録:3章11-26節、ルカ:24章35-48節
 イエスがわたしたちに下さろうと望んでいる復活の喜びを恐れるキリスト者がいて、その生活はまるで葬式のようです。けれど復活された主はいつもわたしたちとともにおられます。パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教の中でこう語った。

 この日の典礼に定められた福音は、復活されたキリストの弟子たちへの出現を語っている。主からの平和のあいさつを前に、弟子たちは、喜ぶ代わりに、「気が狂ったようになり恐れに満ちてしまいます」。「亡霊を見た」と思ったからです。イエスは一生懸命、見ているものは本物であることを理解させようとして、自分の体に触れるようにと招き、何か食べさせてくれるようにと頼むのです。かれらを「復活の喜びに、彼らの間にいる自分の現存の喜び」に導こうとしているのです。けれど弟子たちは、「信じることができませんでした。なぜなら喜びを恐れていたからです」。

「これはキリスト者たちに見られる病気です。わたしたちは喜びを恐れてしまうのです。こう考えた方がよいと思っています。『はい、はい。神様は存在していますよ、でもあっちに。イエスは復活されました、あそこにいます』とすこし距離を置いて。イエスの近さを恐れているのです。なぜならこのことはわたしたちに喜びをもたらすからです。そうすると、葬式に行っているような顔をしたキリスト者がたくさんいることの説明になるでしょう?ね?その生活はまるでたゆまぬ葬儀のようです。悲しみの方がよく、喜びではないのです。何も見えないので日の光にではなく、夜にだけ出ることのできるあぁいう動物たちのように、喜びの光の中よりも、影の中の方が、うまく動けるのです。ちょうどこうもりのように。ちょっとユーモアのセンスを入れれば、主の現存の光よりも影を好むコウモリキリスト者がいる、と言えるかもしれません」。

 けれど「イエスは、その復活をもって、わたしたちに喜びをもたらします。キリスト者であることの喜び、近くでイエスに従う喜び、真福八端の道を進む喜び、イエスとともにいる喜びを」。

「そしてわたしたちは、幾度となく、この喜びがわたしたちに届くとき、気が狂ったようになるか、恐れに満ちるか、亡霊を見ていると思うか、イエスと言うのは一つの行動様式であると考えるかしています。『けれどわたしたちはキリスト者で、こうしなければならないのです。でも、イエスはどこにいるのですか?』 『いいえ、イエスは天におられます』。あなたはイエスと話しますか?イエスにあなたは語り掛けますか?『わたしはあなたは生きていると思います。あなたは復活した、あなたはわたしの近くにいる、あなたはわたしのことを見捨てない』と?キリスト者の生活はこれでなければなりません。イエスとの対話です。なぜなら、これは本当のことですが、イエスはいつもわたしたちと一緒にいて、いつもわたしたちの問題、わたしたちの困難、わたしたちの善い行いと一緒にいてるからです」。

 幾度、わたしたちキリスト者は、「恐れのために喜ばずにいるでしょうか!」 十字架の中に「負けた」キリスト者たち。

「わたしの故郷にはこういう言い回しがあります。『沸騰した牛乳で火傷をすると、牛を見ると、泣く』。こうした人たちはキリストの十字架の出来事で火傷をし、『ここに留まらないようにしよう、キリストは天国にいるのだ、いいでしょう、復活した、でももう一度ここにこないように、なぜならもうきつくて耐えられないから』と言った人です。主が、わたしたち全員と、喜びを恐れていた弟子たちに何をしたかを語ってくださいますように。わたしたちの知性を開き、『聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて』言われたように。イエスがわたしたちの心の目を開き、イエスは生きた現実であり、体があり、わたしたちとともにいて、わたしたちと共に歩み、勝利した方であることを悟らせてくださいますように。主に、喜びを恐れない恵みを求めましょう」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

4月23日(水)、アレルヤの祈り:イエスの復活の神秘

2014年4月23日水曜日

4月21日(月)、天使の月曜日、天の元后の祈り:復活がわたしたちの心と生活を透明にしてくれますように。

使徒言行録:2章14、22-32節、マタイ:28章8-15節

 愛する兄弟姉妹の皆さん、おはよう!
復活祭おめでとう!
クリストス・アネスティ!アレートス・アネスティ!キリストは復活された!本当に復活された!わたしたちの間に、ここに、この広場の中におられます!この一週間の間、まるでたった一日のように、復活の祝辞を交し合い続けることができます。これは主が作ってくださった大いなる日なのですから。

 復活に関する福音的物語に輝いている支配的な感情は、驚きに満ちた喜びです。けれど大きな驚きです。しかし心のうちから湧き上がってくる喜びです。そして典礼において、わたしたちは「イエスは復活されました!わたしたちはイエスを見たのです」という 女性たちのもたらしたニュースによる弟子たちの心持を再体験します。

 この福音に刻まれた体験が、わたしたちの心にも刻まれ、わたしたちの生活の中で見られるようにしましょう。過ぎ越しの主日の歓喜に満ちた喜びが、わたしたちの考え、わたしたちのまなざし、態度、仕草、言葉の中に輝きますように。このように、わたしたちも輝けたらどれほど良いことか!けれどこれは化粧ではありません!内側から来るのです、主を失ったために泣き、復活された方を見ながら信じなかったマグダラのマリアのように、この喜びの泉に浸された心からくるのです。

 この体験をした人は、復活の証し人になります。なぜならある意味で、自分自身が復活したことになるからです。そこでこそ、さまざまな状況に復活の光の「光線」を運ぶことができるのです。幸せな人たちには、彼らをますます美しくし、利己主義から守りながら、痛みのうちにある人々には、落ち着きと希望をもたらしながら。

 今秋、福音書を手に取り、イエスの復活について語っている章を読むことはわたしたちに益となるでしょう。本を手に劣り、その章を捜し、その個所を読むことはわたしたちに実に益になるのです。

 また、この一週間わたしたちにとって益となるのは、イエスの母である、マリアの喜びについて考えることです。その魂を貫いたように、マリアの痛みはとても自分の内奥にあるものでした。同様に、その喜びも内奥にあり、深いものでした。そこから、弟子たちは得ることができたのです。すべてが過ぎてから、御子の死と復活の体験を通して、信仰において、我が子の復活が過ぎてから、神の愛の最高の表現として見、マリアの心は平和、慰め、希望、憐みの泉と化したのです。

 我らの聖母の主導権はすべてここから来ています。イエスの過ぎ越しへの参与から来ているのです。明日金曜日から明日、主日までである。彼女は希望を失いませんでした。彼女は希望を失いませんでした。マリアのことをわたしたちは痛みの母と呼んで観想してきました。彼女は、善弟子たちの母、教会の母、希望の光なのである、と。

 沈黙に満ちた証し(教会)には、イエスの死と復活がありましょう。どうぞ、わたしたちを喜びのうちにある復活をわたしたちに導きいれた覚えなどないからです。復活に、「お告げの祈り」の代わりに唱えられる「天の元后」の祈りをいたしましょう。


4月17日(水)、一般謁見:聖週間

2014年4月20日日曜日

4月20日(日)、復活祭メッセージ《ローマと全世界へ》:わたしたちの平和、わたしたちの希望であるキリストは復活された!幸せで聖なる復活祭おめでとう!



 パパ・フランシスコは世界で最も苦しんでいる国々のために祈りながら、2014年の復活の過越祭の《Urbi et Orbi(ローマと全世界へ)》を、その祝福と共に締めくくった。オランダからの花々や植物で花園のように飾られた、サン・ピエトロ広場でささげられた大群衆と共なる聖なるミサの後で、教皇は広場中をパパモビルで巡回し、そこにいた15万人以上の人々にあいさつをし、祝福をした。このほかにも、まだ隣接した通りという通りには、何千もの人々が集まっていた。

教皇のメッセージ全文

«Christus surrexit, venite et videte!(キリストは復活された、来て、見なさい!)»


愛する兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとう! 

 天使たちの女性たちへのあいさつは全世界に散らばっている教会にこだましています。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。・・・復活なさったのだ。さぁ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(マタイ28章5-6節)。恐れることはない!主は復活なさったのだ!これは福音の頂点です。これは最高に良い知らせです。イエスが、あの十字架にかけられた方が、復活なさったのです。この出来事はわたしたちの信仰とわたしたちの希望の土台です。もしキリストが復活しなかったならば、キリスト教の意味はなくなるでしょう。教会のあらゆる宣教使命には活力がなくなるでしょう。つまりここから始まり、ここからいつも新しく再出発するのです。キリスト者たちが世界に運んでいるメッセージはこれです。イエスは、受肉された愛そのものですが、わたしたちの罪のために十字架上で死んだけれど、父である神がイエスを復活させ、いのちと死の主人として立てられたのだ、と。イエスにおいて《愛》は憎しみに勝ち、憐みは罪に勝ち、善が悪に勝ち、真理が偽りに勝ち、いのちが死に打ち勝ったのです。 

 このためわたしたちはすべての人々にこう言うのです。「来て、見なさい」。脆さ、罪、死によって刻まれたあらゆる人間の状況において、良い知らせは単なる言葉ではなく、無償で忠実な愛の証しなのです。他者との出会いに向かって行き、人生の歩みの中で傷ついた人々の側にいて、必要なものに欠けている人々と分かち合い、病人や老人、除外された人々と共に留まるために、自分自身から出ていくことなのです。「来て、見なさい」、愛は一番強いものであるということを、愛はいのちを与えるのだということを、愛は砂漠に希望の花を咲かせるのだということを。 

 この歓喜に満ちた確信をもって、復活された主よ、今日あなたに心を向けます。 

 わたしたちが全員、あなたに出会い、ひとりの御父がいるということを知ることができ、孤児としての感覚を抱くことから免れられ、あなたを愛し、礼拝することができるように、わたしたちにあなたを求めさせてください。 

 しばしばわたしたちが共犯となっている、対立や計り知れない浪費によって刻まれた、飢餓のむち打ちを崩せるようにわたしたちを助けてください。 

 わたしたちが、無防備な人々、特にしばしば搾取や放棄にさらされている子供たち、女性たち、高齢者たちを保護するための心構えを持つことができるようにしてください。 

 わたしたちがギニア・コナクリ、シエラレオニ、リベリアで、エボラ出血熱におかされている兄弟たち、そして不注意と極貧のために広まっているさまざまな病気に苦しむ人々を治療することができるようにしてください。 

 今日、不正にその愛から抜き取られたために、愛する人々と復活祭を祝うことのできないすべての人々、そして世界の様々な場所で誘拐されている多くの人々、司祭たち、信徒たちを慰めてください。 

 よりよい実りを望むことができる場所に移民し、その人生を尊厳を持って送り、しばしば、その信仰を自由に表明するために自分の土地を後にした人々を励ましてください。 

 栄光に満ちたイエスよ、あなたに嘆願します。あらゆる戦争が終わりますように。大小さまざまな敵意、古くからの敵意も、最近生まれた敵意もなくなりますように。 

 愛するシリアのために哀願します。対立の結果を苦しむ人々が必要な人道的支援を受けることができますように。特に非武装の市民の間で、このきっかけとなっている諸派が、死の種をまくような武力を用いるのをやめますように。そしてずいぶんと前から心から切望されている平和を何とかして承諾していく勇気を持ちますように。 

 栄光に満ちたイエスよ、あなたに願います。イラクにおける兄弟殺しの暴力の犠牲者たちを慰めてください。そしてイスラエル人とパレスチア人の間でのやりとりを再開するようにしてください。 

 あなたを呼び求めます。中央アフリカ共和国における対立に終止符が打たれますように。ナイジェリアのいくつかの地域におけるテロリズムの残虐な攻撃と南スーダンでの暴力を止めてください。 

 そしてベネズエラのために祈ります。熱心に、和解と兄弟的和合に向かって歩みますように。 

 ユリウス暦に従っている諸教会と共に今年祝っているあなたの復活によって、ウクライナにおける平和のイニシアティブを照らし、霊感を与えてください。そうして関連の地域全体が、国際共同体の支えによって、暴力を妨げるためのあらゆる努力を実現し、一致と対話の精神をもって、国の未来を建設し、彼らが、兄弟として、《Christus surrexit, venite et videte(キリストは復活された、来て、見なさい)!》と叫ぶことができますように。 
 
 《Christus surrexit, venite et videte(キリストは復活された、来て、見なさい)!》

愛する兄弟姉妹の皆さん、ご復活おめでとう!

4月19日(土)、復活徹夜祭説教:初恋の想いに戻り、イエスが世にともされた光を受け、地の果てまでこれを運ぶこと!

聖書朗読箇所
 イエス・キリストの復活の福音は安息日の次の朝早く、墓場へと女性たちが向かうことから始まります。彼女たちは主の体を丁寧に弔うために墓穴に向かっていますが、墓は開いていて、空になっているのを見つけます。力に満ちた主の使いが彼らに言います。「恐れることはない」(マタイ28章5節)、そして弟子たちにニュースを伝えに行くようにと命じます。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)。女性たちは大急ぎでその場を離れ、その道すがら、イエスが彼女たちと出会うために出てきて、こう言います。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。



 師匠の死後、弟子たちは散り散りになっていました。その信仰はがらがらと崩れ、何もかもが終わってしまったかのように見えました。確信は崩れ落ち、希望は死んでしまいました。けれどそこで、信じられないことではありましたが、女性たちのあの宣告が、暗闇に差し込む一条の光のように示されたのです。ニュースは広まりました。イエスは、仰せの通り、復活された、と・・・。そしてガリラヤへ行くようにとの命令も告げられました。女性たちは二度もこのことを聞いたのです。最初は天使から、その後でイエスご自身からです。「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会うことになる」。

 ガリラヤは最初の呼びかけのあった場所です。すべてが始まった場所です。そこに戻ること、最初の呼びかけの場所に戻ること。イエスは湖の岸辺を通り、漁師たちは網をしまっていました。イエスは漁師たちを呼び、漁師たちはすべてを捨てて、イエスに従ったのでした(マタイ4章18-22節参照)。

 ガリラヤに戻るということは、十字架と勝利の観点からすべてを読み直すことです。すべてを読み直すこと。その説教も、奇跡も、新しい共同体も、やる気も、離反も、裏切りまでをも。最後のできこと、つまり新たな始まり、この愛の最高の行為からの観点ですべてを読み返すことです。

  また、わたしたち一人一人にとっても、イエスとの歩みの始まりにある種の「ガリラヤ」があります。「ガリラヤに行くこと」には美しい意味があります。わたしたちにとって、自分の洗礼を生きた泉として再発見し、自分の信仰とキリスト者としての経験の根から新たなエネルギーをくみ取ることを意味するのです。ガリラヤに帰るとは、なによりもまず、そこに、その神の恵みが歩みの出発点で自分に触れた白熱したその瞬間に帰ることを意味します。この火花をもって、今日のため、日々のために灯をともし、兄弟姉妹たちに熱と光を運ぶことができるのです。この火花をもって、謙虚な喜び、痛みや絶望で傷つくことのない喜び、善意に満ち落ち着いた喜びが灯されるのです。

 キリスト者のいのちにおいて、洗礼の後に、より存在にかかわる「ガリラヤ」というのもあります。自分に従い、その使命に参与するようにと呼び掛けたイエス・キリストとの個人的で人格的な出会いの体験のことです。この意味で、ガリラヤに帰るということは、心の中で、イエスがわたしの歩いていた道に通りかかり、あわれみをもってわたしを見つめ、自分に従うようにとわたしに求めたときの、この呼びかけの生き生きとした記憶を保つことを意味します。イエスのまなざしとわたしのまなざしとが交わされたあの瞬間、イエスがわたしのことを愛していたことを感じさせたあの瞬間の記憶を取り戻すことです。

 今日、今夜、わたしたち一人一人こう問いかけることができるでしょう。わたしのガリラヤはどのようなものだろう?どこにわたしのガリラヤはあるだろう?覚えているだろうか?忘れてしまっただろうか?これを忘れさせてしまうような道や小道を進んできてしまったのだろうか?主よ、わたしを助けてください。わたしのガリラヤはどのようなものだったかわたしに話してください。あなたは知っておられます。あなたに出会うため、あなたの憐みによって抱きしめられるためにそこに戻りたいとわたしが望んでいることを。

 過越の福音ははっきりしています。復活されたイエスを目にし、その復活の証し人になるために、そこに帰る必要性がある、ということです。それは、後戻りをする、ということではありません。ノスタルジーとは違います。それは初恋の想いに戻り、イエスが世にともされた光を受け、地の果てまですべての人々にこれを運ぶことなのです。


  「異邦人のガリラヤ」(マタイ4章15節;イザヤ8章23節)とはつまり、復活の目の前に広がる地平、教会の目の前に広がる地平です。それは出会いに対する濃厚な願望です。さぁ、(ガリラヤに向かって)歩き始めましょう!

4月18日(金)、十字架の道行きのことば:昨日キリストと共に十字架にかけられていたわたしが、今日キリストと共に栄光を受けている。昨日キリストと共に死んでいたわたしが、 今日キリストと共に生きている。

Papa Francisco en Vía Crucis hoy. Foto: ACI Prensa
 今日、恒例の十字架の道行きをローマのコロッセウムでリードするにあたり、パパ・フランシスコは「神はわたしたちのあらゆる罪の重みをすべてイエスの十字架におかれた」ということを強調した。そこで「わたしたちはどれほど永遠にまで愛されているかを手で触れられるほどまでに手に取ってみるのです」。 
十字架の道行きにおけるパパ・フランシスコのことば全文

神はわたしたちのあらゆる罪の重みすべて、カインがその兄弟に対して行ったことによってしみ込んだ不正のすべて、ユダとペトロの裏切りの苦々しさのすべて、偽りの友たちの傲慢のすべてを、イエスの十字架に置かれました。
 見捨てられた人々の過ごす夜のように、重い十字架でした。 愛する人々の死のように重い十字架でした。悪の醜さをすべて受け取ったために重い十字架でした。しかしながら、それはこのすべてを伴って、長い夜の明けるときのように、栄光に満ちた十字架なのです。なぜならそこに、わたしたちの悪いや裏切りよりも偉大な神の愛すべてを代弁しているからです。
 十字架を見るとき、そこに悪に導かれるがままにした時の人のモンスター性が見られます。けれど同時に、わたしたちをその罪に従って扱うのではなく、その愛に従って接してくださる神の憐みの計り知れなさをも見るのです。

 イエスの十字架を前に、わたしたちはどれほど永遠にまで愛されているかを手で触れられるほどまでに手に取ってみるのです。十字架を前に、自分たちは物事や対象物ではなく、息子なのだと感じます。それはちょうどナジアンゾスの聖グレゴリオが、次のような祈りをキリストに向けつつ確認していたことです。
 我がキリストよ、もしあなたが存在していなかったなら、
 わたしは自らを衰弱しきった被造物だと感じるだろう。
 わたしは生まれた。わたしは溶けてしまうように感じる。
 わたしは眠り、休息し、歩み、
 病気になり、癒す。
 数えきれない嵐がわたしを襲す。
 わたしは太陽と地を豊かにするものすべてに喜ぶ。
 それからわたしは死に、
 肉体は、罪を持たない動物たちのように塵に帰る。
 けれど、わたしには、これ以上何があるというのか?
 何もない、神がなければ。
 あぁ、我がキリスト、もしあなたが存在しておられなかったら、
 わたしは自らを衰弱しきった被造物だと感じるだろう。
 あぁ、イエスよ、わたしたちを十字架から復活まで導き、
 最後の言葉は悪にあるのではなく、
 愛とあわれみ、ゆるしにあるのだということを
 我らに教えたまえ。
  あぁ、キリストよ、我らがもう一度呼び求めるを得しめたまえ。
 昨日キリストと共に十字架にかけられていたわたしが、
 今日キリストと共に栄光を受けている。
 昨日キリストと共に死んでいたわたしが、
 今日キリストと共に生きている。
 昨日キリストと共に墓に葬られていた私が、
 今日キリストと共に復活している。

 最後に、共に、病気の人たちのことを思い出しましょう。十字架の重みの下に見捨てられている人々すべてを思い出しましょう。かれらが十字架の試練の中で希望の力、復活と神の愛の希望の力を見出しますように。

2014年4月18日金曜日

4月17日(木)、聖香油ミサ説教:人に喜びの油を注ぐために、喜びの油を注がれること。


愛する司祭職における兄弟の皆さん。

 この聖木曜日、キリストがわたしたちをこの上なく愛された日に(ヨハネ13章1節参照)、司祭職の制定の幸せな日を思い起こし、またわたしたち自身の司祭叙階を記念しましょう。主はわたしたちにキリストにおいて喜びの油を注がれました。そしてこの油注ぎはわたしたちがこのすばらしいプレゼントを受け、責任を持ってこれを扱うようにと招いています。喜び、司祭としての歓喜。司祭の喜びは自分自身だけのためではなく、神の忠実な民全体にとっても尊い善です。その忠実な民の中から司祭になるように呼ばれ、油注がれ、油を注ぐために派遣されるようにと呼ばれたのです。

 喜びの油を注ぐために、喜びの油を注がれること。司祭としての喜びには、その源泉に、父の愛があります。そして主はこの愛(である神)の喜びが「わたしたちのうちにあり」、「十全に」あるようにと望んでいます(ヨハネ15章11節)。わたしは聖母マリアのことを観想しながら喜びについて考えるのが好きです。マリアは、「生きた福音の母であり、小さい人々のための喜びの泉です」(使徒的勧告『福音の喜び』288)。そして司祭とはとても小さい人だと言っても過言ではないでしょう。奉仕職のためにわたしたちに与えられた賜物の計り知れない偉大さは、人々のうちでも最も小さなものの間ですら遠ざけられるものです。司祭は、もしイエスがその貧しさによってこれを豊かにしてくださらないなら、人々の中でも最も貧しい存在です。もしイエスが友と呼んでくださらないなら、もっとも役立たずの下僕です。もしイエスが、ペトロにしたように、忍耐強く教えてくださらないなら、人々の中で最も愚かなものです。もし善き牧者が群れのさなかで力づけてくださらないなら、キリスト者のなかでもっとも危険にさらされた存在です。自分の力に頼り切った司祭ほど小さな存在はありません。だからこそわたしたちをあらゆる悪のいざないから守る祈りは、聖母の祈りなのです。主がわたしの小ささに善意をもって目を留めてくださったから、わたしは司祭なのです、と(ルカ1章48節参照)。そしてその小ささから、わたしたちの喜びを受けて立つのです。わたしたちの小ささにおける喜びです!

 わたしたちの司祭としての喜びに、三つの特徴的な局面を見出します。これはわたしたちに油注ぎをする喜びです - 塗る(untar)のとは違いますよ、べとべとしたり(untuoso)、贅沢にしたり(suntuoso)、自惚れで派手になったり(presuntuoso)してはだめですから-。衰えることのない喜びです。そしてきらめいてすべての人を惹きつける宣教的喜びです。それも逆から始まります。つまり、遠くの人々から始めて引き寄せるのです。

 わたしたちに油注ぎをする喜び。つまり、わたしたちの心の最も奥深くに沁み通り、自分と同じく形作り、秘跡的に力づけてくださったものです。叙階式の典礼にみられるさまざまなしるしはわたしたちに、教会の、主がわたしたちに下さったすべてのものを伝達し、伝え合うという母としての望みについて語っています。按手、聖香油による油注ぎ、祭服の着用、すぐに訪れるはじめての聖変化への参加・・・。恵みが、一人一人の司祭を包み、統合的に、あふれんばかりに、そして完全に注がれるのです。骨の髄まで油注がれるのです…。そしてわたしたちの喜びは、内側からあふれ出るのです。それはその油注ぎのこだまです。

 衰えることのない喜び。賜物の統合性というのは、誰もそこから減らすことも加えることもできないほどのもので、喜びの休むことのない泉です。衰えることのない喜びというのは、主が約束してくださったものです。誰も奪い去ることはできない、と(ヨハ16章22節参照)。罪や生活の心配事のために眠ってしまったりふたをされたりすることはあるかもしれませんが、奥深くで、ちょうど灰の下でくすぶっている火のついた木材の燠(おき)のように、いつでも新たにされうるものとして、触れられずにそこにあり続けるのです。パウロがテモテにした勧告は、いつでも実際的なものです。「わたしが手を置いたこと(按手)によってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」(Ⅱテモ1章6節参照)。

 宣教的喜び。この三つめの局面は、特に皆さんと分かち合い、取り上げたいと思っているものです。司祭の喜びは神の忠実で聖なる民との深い関係のうちにあります。なぜならそれはずばぬけて宣教的な喜びだからです。油注ぎは神の忠実で聖なる民に油注ぎをするためのものです。洗礼を授け、堅信をさせ、癒し、聖別し、祝福し、慰め、福音宣教するためのものなのです。

 そしてそれは喜びであるため、牧者がその群れのただなかにいるときのみ注ぎ出てくるものなのです-祈りの沈黙においてですら、御父を礼拝する牧者はその小さな羊たちのただなかにいるものです-。そしてそのために、それはその同じ群れによって「庇護される喜び」なのです。悲しみの時ですら、あらゆることが陰ったように見え、孤立の嘆きがわたしたちを誘惑するときでさえ、そうしたしばしば司祭の生活にのしかかってくる感性の鈍ったとき、つまらない時ですら(そういった、わたしも通り過ぎてきたようなときですが)、そういった時ですら、神の民は喜びを庇護することができる、あなたを守り、あなたを抱きしめ、あなたの心が開くのを助け、新たにされた喜びに再開できるようにすることができるのです。

  群れによって「庇護された喜び」はまた、この喜びを取り囲み、保ち、攻撃から守ってくれる三人の姉たちによっても守られています。つまり、貧困姉さん、忠誠姉さん、そして従順姉さんです。

 司祭の喜びは、貧困と姉妹になる喜びです。司祭はふつうの人間的な喜びに乏しいものです。どれほどのものを捨ててきたことでしょう!そして貧しいので、司祭は、他の人たちに実にたくさんのものを与えるのです。喜びと言うのは主と神の忠実な民に求めなければならないものです。自分自身で見つけ出そうとするものではありません。わたしたちの民が、ほんの小さな祝福の仕草にも、そして特別な仕方で秘跡のことで司祭たちに感謝をするにあたり、最高に寛大であることをわたしたちは知っています。多くの司祭は、司祭のアイデンティティ危機について語るにあたり、アイデンティティが帰属を想定するということに気づかずにいます。アイデンティティで、-そしてそういうわけですから存在することの喜びで-神の忠実な民への積極的で献身的な帰属のないものはありません(使徒的勧告『福音の喜び』268参照)。自分の内側に内観的にダイビングをしながら司祭のアイデンティティを見出そうとする司祭は、おそらく「出口」を教える矢印くらいしか見いだせないでしょう。自分から出ていきなさい、礼拝において神を探すために出ていきなさい、出て行ってあなたの民に与えるようにと自分にゆだねられたものを与えなさい、そうしてあなたの民があなたに、あなたはだれなのか、何という名なのか、あなたのアイデンティティはどのようなものなのかを感じさせ、味わわせる役を担うでしょう。そして主がその奉仕者たちに約束した100倍のものをもってあなたを喜ばせてくれるでしょう。もし自分自身から出ていかないなら、油は古くなって嫌なにおいを発し、油注ぎは実りをもたらす力のないものになりえます。自分自身から出ていくということは、自らを覆っているものを脱ぐこと、腹の底からの貧しさを想定しています。

  司祭の喜びは、忠誠と姉妹になる喜びです。基本的にはみんな「無原罪」になりましょう、という意味ではありません。(恵みによってそうであったらどれほどよいことかとは思いますが)。というのは、みんな罪びとだからです。けれどそうです、唯一の妻である、教会への新ためて忠誠を、という意味です。ここでキーになるのが実りをもたらす能力です。司祭たちにはそれぞれ、主が下さった霊的な子供たちがいます。洗礼を授けた人たち、祝福をし、歩みの手助けをした家族、支えている病者たち、要理や養成を分かち合っている青年たち、助けている貧しい人たち…みなその「妻」なのです。かれらを喜ばせることでその妻を寵愛の相手、唯一の愛妻として接しつつ喜ばせ、改めて忠誠を生きるのです。これは、司祭が自分の小教区やゆだねられた宣教活動において司牧する、名字も名前もある生きた教会なのです。彼女に忠実である時、主が「わたしの羊を牧しなさい」(ヨハ21章16.17節参照)とゆだねられた羊たちのただなかでしっかりとしているようになすべきことをすべてなし、手放さなければならないものをすべて手放すとき、これを喜ばせるのです。

 司祭の喜びは従順と姉妹になる喜びです。こういう言い方をすれば、わたしたちに自分が派遣されている小教区、奉仕職に関するライセンス、特別な務め・・・といった従順の一番外側の枠組みだけではなく、あらゆる父性を譲ってくださる父である神との一致でもある、わたしたちに与えられる位階制における教会への従順です。 けれど、従順は奉仕にある教会への従順でもあります。いつでも、より良い方法で、「迅速さの聖母」(ルカ1章39節参照)のイメージ通りにすべての人に奉仕するための心構えと迅速さです。「迅速さの聖母」の姿は、いとこを手伝うために馳せ参じ、カナのワインが足りなくなった台所事情に気が回る姿です。司祭の心構えひとつで、教会は扉の開かれた家、罪びとたちの逃げ場、道で生活をしている人たちの家庭、病人たちのための慈善の家、青年たちのキャンプ、初聖体の小さい子供たちの要理のための教室になります。そこは、神の民が望みと必要性を感じる場です。そこで、聞く耳のある(ob-audire)司祭、創造性に満ちた愛徳をもってそうした善意を励ましたりあわれみをもってその窮乏に手を差し伸べるために司祭を派遣するキリストの愛に満ちた掟を感じる司祭、ここにあり、というところです。

 呼ばれた人は、この世には本物で十全な喜びというのが存在するということを意識していてください。それは、牧者がいない羊たちのように疲れ、抑圧されて歩む、この地上にいる小さな人々、除外されている人々すべてにはらわたがよじれるほどに共感しながら、その民の善のために、その司祭たちの人格において、自分自身そこにいて働くためにその奉仕職に多くの人々を参与させたがった唯一の善き牧者であるイエスの賜物と慰めの与え手として彼に送られるために愛する民のなかから抜擢されたことの喜びです。

  この聖木曜日に、多くの青年たちが、迅速にその呼びかけに答えることの幸せな大胆さを持つや否や喜びの灯をともす、その心の熱意を見出させてもらえるように、わたしは主イエスに願います。

 この聖木曜日に、最近叙階されたばかりで、世にもまれるために出ていき、神の忠実な民の間で身をへずり、初説教、初ミサ、初洗礼、初告解といったものを準備しながら喜ぶ新司祭たちの両目にある喜ばしい輝きを保ってくださるように、わたしは主イエスに願います。それは、油注がれた者として、福音の宝物をはじめて-驚きつつー分かち合い忠実な民が別の仕方、つまり、祈りの願いをしてきたり、祝福を求めて頭を差し出してきたり、その両手を取ってきたり、子どもたちを近づけてきたり、自分の知り合いの病人のために何かしてくれるように頼んできたりという形で自分に油注ぎを返してくるのを感じることができる喜びです。主よ、あなたの若い司祭たちのうちに、出ていく喜び、すべてのことを新しいこととして行う喜び、あなたのために燃え尽きていく喜びを保ってください。

 この司祭の木曜日に、奉仕職を始めてもう何年もたっている司祭たちの司祭としての喜びを確かにしてくださるように、わたしは主イエスに願います。目をそらすことなく、奉仕職の重みに耐える司祭たち、すでに務めとはいったい何なのかの意見を探ってきて、改めてその力を結集し、再軍備をするようなそうした神父たちの背中にあるその喜びを。スポーツ選手が言うように、「空気を入れ替えている」司祭たちの喜びを。主よ、歳を重ねた司祭たちの喜びの、深みと知恵に満ちた成熟を見守ってください。ネヘミヤのように、「主の喜びはわたしの力」(ネヘミヤ8章10節参照)と祈ることができますように。

 最後に、この司祭の木曜日に、高齢の司祭たちの喜びを、健康であれ、病気であれ、輝かせてくださるようにわたしは主イエスに願います。それは、十字架の喜びです。崩れていく粘土の器の中にある衰えることのない宝を持っていることに対する意識から湧き出る、十字架の喜びなのです。永遠のものの味わいを時のはかなさのうちに感じつつ(グアルディーニ)、どこでも気丈でいられますように。主よ、彼らが松明を引き継ぐ喜び、子どもたちの子どもたちが成長するのを見て、元気で微笑みつつ穏やかに、がっかりさせることのないその希望にある約束に心を向ける喜びを感じることができますように。

4月17日(木)、聖木曜日ミサ説教:互いに仕えあう者となること、これこそイエスの遺産




出エジプト 12章1-8、11-14節/一コリント 11章23-26節/ヨハネ 13章1-15節
 聖木曜日に、教皇フランシスコは「主の晩餐の」ミサをささげた。愛の掟の宣告と愛の仕草によって特徴づけられた、主の晩餐のミサである。ブエノス・アイレスの大司教としての奉仕をしていたおt気に、ホルヘ・マリア・ベルゴリオ枢機卿はこのミサを刑務所や病院、貧しい人たちや阻害されている人々のシェルターでささげることにしていた。今年の聖木曜日には、フランシスコはこの伝統を続けることを望み、ドン・カルロ・グノッチの施設を訪れた。ローマの郊外にある、苦しみの場所であるが、希望の場所でもあるところだ。
 (RC-RV)

教皇の説教

 イエスが最後の晩餐で行ったことを感じました。これは別れの仕草でした。これがわたしたちに残す遺産です。イエスは神であり、下僕に、わたしたちに仕える人になりました。そしてこれが遺産なのです。みなさんも仕える人にならなければなりません、お互いに。イエスはこの歩みを愛をもって行いました。皆さんも愛し合い、愛において仕える人にならなければなりません。これがイエスがわたしたちに残してくださった遺産です。

 そしてこの足を洗うという仕草をするのですが、なぜかというと、これは象徴的な仕草だからです。これは奴隷がしていたことです。下僕たちが、食卓をともにする人たちや、昼食や夕食を食べに来た人々に対してしていたことです。なぜならあのころは、道というのはどれも土の道で、家に入ったら、足を洗わなければならなかったからです。

 イエスは一つの仕草、一つの仕事、奴隷の奉仕、下僕の奉仕をします。そしてこれをわたしたちの間に遺産として残すのです。わたしたちは互いに仕える人でなければなりません。だから、教会は、今日までも、最後の晩餐を記念するときに、つまりイエスがエウカリスティアを制定したときに、その儀式の中でこの足を洗うという仕草をもするのです。それはわたしたちに、わたしたちも互いに下僕になりあわなければならないということを思い出させるためです。

 今からわたしがこの詩具疎さをするのですが、わたしたちは全員、自分の心の中で、他の人たちのことを考えましょう。イエスがわたしたちに、他の人に対して持たなければならないと言っている愛について考えましょう。そして、どうすれば他の人々に、よりよく使えることができるかをも考えましょう。なぜなら、そのようにイエスがわたしたちに望んだからです。

2014年4月16日水曜日

4月13日(日)、枝の主日説教:自分はユダに似ているだろうか?イエスのために涙するマリアに似ているだろうか?

 オリーブの枝を手に祭りの雰囲気に満ちた行列をもってこの一週間が始まります。そこでは民全体がイエスを迎えます。子供たちや若い人たちが歌を歌い、イエスをたたえます。けれどこの一週間が進んでいくと、イエスの死とその復活の神秘に入っていきます。

  主の受難の朗読を今聞きました。こう聞いてみるとよいでしょう。「わたしはだれだろう?」「わたしの主を前にして、自分は何者だろう?」「この祭りの日に エルサレムに入っていくイエスを目前にして、自分は何者だろう?」「自分はこの喜びを表現し、イエスをたたえることができる人だろうか?それとも距離を置 いているのだろうか?」「苦しむイエスを目の前にして、わたしは何者だろう?」

 またわたしたちはたくさんの名前を聞きました。とても多くの名前です。

  宗教的指導者のグループ、イエスを殺す決断をした祭司が幾人か、ファリサイ派が幾人か、律法学者が幾人かいます。彼らはイエスをとらえる好機をうかがって いました。「自分はこうした人たちの一人だろうか?」しかももう一つの名前を聞きました。ユダ。30枚の銀貨。「自分はユダのようだろうか?」

  ほかの名前も聞きました。何もわからず、主が苦しんでいた間眠ってしまった弟子たちです。「自分のいのちは眠っているだろうか?」「それともイエスを裏切 るとはどういうことか理解しなかった弟子たちのようだろうか?」 「それともすべてを剣で解決しようとした別のあの弟子のようだろうか?」「自分は先生を引き渡すため、裏切るために、先生を愛しているふりをし、接吻する ふりをするユダのようだろうか?」「自分は裏切り者だろうか?」「自分は法廷を整えるのに急ぎ、偽りの証人を探すあの宗教指導者たちのようだろうか?」 「自分は彼らのようだろうか?」

  そしてこうしたことを自分が行うとき、もし行うとしたら、「これで自分は民を救っていると思うだろうか?」「状況が難しいと見たとき、手を洗って、自分の 責任を引き受けることができず、人々に死刑判決を下させる、あるいは自分で判決を下すようなピラトのようだろうか?」「自分は、自分が宗教的集会にいるの か、裁判の場にいるのか、サーカスに来ているのかもわからずにバラバを選ぶあの大群衆のようだろうか?」その人たちにとってはどれも同じです。イエスを辱 めるために、一番楽しいことを選んだのです。

 「自分は主をたたき、主に唾を吐き、悪態をつき、主が貶められているのを見て楽しむ兵士たちのようだろうか?」「自分は仕事から疲れて帰っているところでありながら、主が十字架を運んでいくのを助ける善意のあったキレネ人のようだろうか?」「十字架の前を通りながら『いやはや・・・なんて肝が据わっているんだろうね!十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう!』とイエスのことをバカにしていた人々のようだろうか?」イエスへの嘲笑・・・

  「自分はそこにいて、沈黙のうちに苦しんでいたあの勇気ある女性たち、あるいはイエスの母のようだろうか?」 「自分は、イエスに自分の墓所を差し上げるために、愛をもってイエスの体を運んでいく、隠れた弟子(アリマタヤの)ヨセフのようだろうか?」「自分は、泣 きながら、祈りながら墓の戸のところに留まるこの二人のマリアのようだろうか?」

  「自分は翌日、『けれど、ご覧下さい、この者は復活することになっていると言っていたけれど、他にだましに来ないようにしてほしいものですね』とピラトの ところに行き、いのちにブレーキをかけ、いのちが外に出てこないようにするために、教義を保護するために墓を障壁でふさぐ、この指導者たちのようだろう か?」

  「こうした登場人物たちの、誰に自分は似ているだろうか?」

 この一週間の間、こうした問いかけがいつもわたしたちと共に進みますように。

4月14日(月)、神学生たちに:もし主の道を続ける心構えがないならば、別の道を探す勇気を持ちなさい


 皆さんは「会社の役職者」になるのではなく、「イエスの似姿を持った牧者」になるのです。これはパパが月曜日にアナーニのレオン会の教皇庁立学校に通う神学生たちに向けて語られた言葉である。この学校はレオン13世によって1897年に設立され、ラシオのイタリア地区の将来の司祭たちを養成する。神学生たちは歩いて巡礼をした後に謁見に参加した。パパはこれをキリストの愛において巡回する「あゆみの美しい象徴」であると定義した。「召命のプロジェクトを実りをもたらす可能性に満ちた使徒的現実に」変えることである。ローマ司教は他の神学校全てと同様、このようにレオン会の務めをまとめた。そして「福音的雰囲気」についてアクセントをつけた。それは「日々、イエス・キリストの気持ち、御父と教会に対するその愛、神の民へのその惜しみない献身に似ていくようにそのうちに浸っていく意識をする」雰囲気である。そして、「祈り、勉強、兄弟愛、使徒的生活」という「四つの養成の柱」を指摘した。

「愛する神学生の皆さん、皆さんは何か専門職を実現するため、会社の役員になるため、あるいは官僚機関の役員になるために準備をしているわけではありません。実に多くの司祭が、その道の半ばにいます。彼らが歩み切ることができなかったのは、痛いことです。どこか役人のようなところがあり、官僚の次元が何らかの形であり、それは教会にとって良くないのです。お願いです。これに陥らないように注意していなさい!皆さんは善き牧者イエスのイメージを持つ牧者に変わっていっているのです。彼のようになり、その群れのただなかで彼の人格を身につけ、その羊たちを牧するために」。

「この召命を前に、わたしたちはおとめマリアが天使に対してしたように答えることができます。『どうしてそのようなことがあり得ましょうか?』と」。イエスのイメージを持つ「よい牧者」になっていくことは、「とても大きなことです。そしてわたしたちはあまりに小さいのです」。けれど実際は、「わたしたちのわざではないのです」。「それは、わたしたちの協力の伴う、聖霊のわざなのです」。

「これは、自らを謙遜に捧げることなのです。形を変えるために粘土を、陶工、それは神ですが、陶工に渡し、水と火を使って、つまりみ言葉と聖霊を使ってこれで仕事をするようにと捧げることです。これは、聖パウロが言っているあのことに入っていくことです。『もはや生きているのはわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです』(ガラ2章20節)。そのようにしてのみ、教会において助祭になったり司祭になったりすることができるのです。そのようにしてのみ、神の民を牧し、わたしたちの道ではなく、イエスの道を、いや、それよりも、イエスという道において率いていくことができるのです」。

 「最初のうちは、必ずしも完全にまっすぐな動機が存在するわけではない」のは確かです。「そういうのが存在するのはむしろ難しいです」。

「わたしたちには誰しも、まっすぐな動機ではないそうした小さなものがいつもありました。けれど時間とともにこれは日々の回心によって解決されていきます。使徒たちのことを考えましょう!聖ヤコブとヨハネのことを考えてごらんなさい。一人は首相になりたくて、もう一人は大蔵大臣になりたがっていました。なぜなら一番大事だったからです。使徒たちは、・・・他のことを考えていました。そして主は実に忍耐強く、・・・意向の修正を行い、最終的には伝道と殉教に命を懸けるほどまでも意向がまっすぐになりました」。

 フランシスコは「生き方と伝道をもって福音をのべ伝えるために、毎日福音を黙想すること」の大切さをこうして強調した。そしてさらに、「和解(ゆるし)の秘跡において神の憐みを体験する」ことの大切さをも強調した。「そしてこれは決してしなくなってはなりません」。「いつも告解をすること!」 「そうして寛大であわれみ深い奉仕者となるでしょう。なぜなら皆さんを寛大であわれみ深い奉仕者にするために自分たちに注がれる神の憐みを感じることになるからです」。よき牧者になるということは、愛をもって聖体祭儀によって養われ、これによってキリスト教の民に栄養を補給することを意味します」。また「祈りの人となり、父をたたえ、たゆまなく兄弟たちのためにとりなしをするキリストの声となっていくことを意味します」。もし皆さんに「この道を、この態度とこうした体験をもって続ける心構えがないのなら、他の道を探す勇気を持つ方がよいのです」。教皇は神学生たちにこのように忠告した。

「教会にはキリスト者としての証しをするのに実に多くの形があります。そして聖性へと導く道も実にたくさんあります。イエスの奉仕の結果には、凡庸さには余地がありません。あの神の聖なる民を自分自身の利益のために用いるようにとつねに導く凡庸さには余地がないのです。災いだ、自分自身を牧するイスラエルの牧者たちは!牧者は羊の群れを牧するべきではないのか?と実に力強く預言者たちは叫んでいました(エゼ34章1-6節参照)」。

 アウグスティヌスは、この預言のフレーズを、その『牧者について』の中で取り上げています。「悪い牧者たちは災いだ。なぜなら神学校は、真実を言えば、わたしたちの持ちうる実に多くの限界のための逃げ場、心理的な限界のための逃げ場、人生において前進していく遊金がないため、そこに自分を守ってくれる場所を探すような逃げ場ではないからです」。

「違います、それではないのです。もし皆さんの神学校がそういうところなら、教会にとっての負担になってしまうでしょう!違います、神学校はまさに前進していくためのものです。この道において前に進み、預言者たちが「災いだ!」と聞くときに、この「災いだ!」がわたしたちに真剣にその将来について考えさせるものとなるのです。かつてピオ十一世が、はっきりしない候補者をもって危機にさらされるよりは、一つ司祭証明を失った方がましだ、と言ったことがあります。かれは登山者だったので、そういうことを知っていたのでしょう」。

 パパはその演説を、神学生たちをおとめマリアにゆだねて結んだ。「ロシアの神秘家たちは、霊的な騒乱の時に、神の聖母のマントの下に逃げ込むことが必要である、と言っていました」。そういうわけで、出ていくのですが、マリアの「マントに包まれながら」出ていきましょう。
(RC-RV)

4月11日(金)、朝ミサ説教:悪魔は21世紀の今も働いている。聖書からどのようにこれに対抗するか学ぼう

朗読箇所:エレミヤ20章10-13節/ヨハネ10章31-42節

 福音から、悪魔の誘惑に対抗して戦うことを学びましょう。これは聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教でパパ・フランシスコが語ったことである。教皇は、わたしたちはだれもが誘惑を受けることを強調した。なぜなら悪魔はわたしたちの聖性を望まないからである。そしてキリスト者の生活は、まさに、悪に対する戦いである、と再確認した。

「イエスの人生は、一つの戦いでした。悪に打ち勝つため、この世の王子に打ち勝つため、悪魔に打ち勝つために来たのです」。この言葉をもって、パパは悪魔に対抗する戦いに全くささげられたその説教を始めた。すべてのキリスト者が直面しなければならない戦いです。悪魔は「イエスを何度も誘惑しました。イエスはその人生において誘惑を感じたのです」。これはちょうど「迫害のようでもあります」。同時に、「イエスに従いたいと望んでいる」わたしたちキリスト者は、「この真理をよく知らなければなりません」と忠告した。

「わたしたちも誘惑されています。わたしたちも悪魔の攻撃の標的なのです。なぜなら悪の精神はわたしたちの聖性を望まず、キリスト者の証しを望まず、わたしたちがイエスの弟子であるようなことを望まないからです。では、悪の精神はどのようにしてその誘惑をもってイエスの道からわたしたちを引き離すのでしょうか?悪魔の誘惑には三つの特徴があり、わたしたちは罠に陥らないためにこれらを知るべきです。悪魔はどのようにわたしたちをイエスの道から引き離すのでしょうか?誘惑は軽く始まり、成長します。いつも大きくなっていきます。二つ目は、育つと他の人に伝染します。ほかの人に伝えられ、共同体的であるようにするのです。そして最後に、魂を落ち着かせるために、正当化します。育ち、伝染し、正当化するのです」。

 イエスの最初の誘惑は、「ほぼ魅了の種を蒔いています」。悪魔はイエスに神殿から身を投げる湯に言います。そこで、誘惑者は、「すべての人は言うだろう、『ここにメシアがいる!』と」と支えます。これはアダムとエバにしたのと同じです。「これは魅了です」。悪魔は「まるで霊的教師であるかのように語ります」。そして誘惑が「拒絶される」と、そこで「育ちます。育って、より強くなるのです」。イエスは「ルカによる福音書においてこのことを語っています。悪魔が拒絶されると、そのあたりをめぐり、他の仲間たちを、こうした悪巧みグループのように見つけて、帰ってくるのです」。そういうわけで、「他の人にもこれを適用させながら育つのです」。そのようなことがイエスにも起こりました。「悪魔は」その敵たちに「適用していくのです」。そして「一筋の水に見えたものが、本当に小さく、静かな水の線に見えたものが、大きな渦になってしまうのです」。誘惑は「育ち、伝染します。そして最後に、自己正当化をします」。イエスが会堂で説教をするときに、すぐにその敵対者たちがイエスの影響力を弱めます。「でも、こいつは大工ヨセフの子だ。マリアの子だ!大学に行ったことなんかないぞ!でも、何の権威で語ってるんだ?こいつは勉強しなかった!」。誘惑は、「他の人すべてがイエスに対立するように適用されました」。そして最も高次のもの、「正当化の一番強いものは、祭司のものです」。こう言います。「一人の男が」「民を」救うために「死んだ方がましだということを知らないのか?」

「育つ誘惑があります。育ち、他の人々に伝染する誘惑です。陰口について考えてみましょう。わたしはなんだかあの人のことがうらやましいなぁ、あっちの人も・・・。そして前は内側に、一人で抱えていた羨望ですが、他の人と分かち合わなければならない気分になり、他の人のところに行って、「でもねね、あの人、見た?」と言うようになります。・・・そして育とうとし、他の人、また別の人に、と伝染します・・・。けれどこれは陰口のメカニズムです。そしてわたしたちはだれもが陰口をするような誘惑を受けたことがあります!皆さんの中にはそういうことがない人もいるかもしれません。もし成人なら。でも、わたしだって陰口の誘惑にかられるのですよ!これは日々の誘惑です。こうやって、一筋の水脈のように、穏やかに始まります。伝染することで育ち、最後に、自己正当化をするのです」。

 「わたしたちの心の中に」人を「台無しにして終わりそうな何かを感じるとき」注意していましょう。「注意していましょう。なぜならもしその一筋の水を時間のあるうちに対処しなければ、育っていき、伝染していくときには、渦となって、こうした人々が自己正当化をして、『一人の男が民のために死んだ方がましだ』と言い切ったように、ただただわたしたちを悪の正当化にしか導かなくなるでしょう」。

「わたしたちはだれでも誘惑を受けます。なぜなら、わたしたちキリスト者の生き方の、霊的生活の法則は、戦いだからです。戦いなのです。なぜならこの世の王子、つまり悪魔は、わたしたちの聖性を望まず、わたしたちがキリストに従うのを望まないからです。 おそらく、皆さんの中には、知りませんが、『でも、神父さん、あなたは古すぎますね、21世紀にもなって悪魔についてお話しするなんて』と言う人もいるかもしれません。けれど、ごらんなさい、悪魔はいます!悪魔は、21世紀にも、います!そしてわたしたちは知識人のようにしているわけにはいかないのですよ、いいですか!悪魔に対抗して戦うためにどうすればいいかを、福音から学ばなkればならないのです」。

(María Fernanda Bernasconi – RV).

4月9日(水)、一般謁見:上智のたまもの

4月8日(火)、朝ミサ説教:十字架は祭壇の飾りではなく、神の愛の神秘


朗読箇所:民数記21章4-9節/ヨハネ8章21-30節

 「十字架のないキリスト教は存在しません」。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教でパパ・フランシスコはこう語った。教皇は「自分だけの力でわたしたちの罪から抜け出す可能性というのはありません」と下線を引き、十字架は祭壇の上に置くための飾りではなく、神の愛の神秘であると再確認した。

 民は砂漠の歩みの最中に神とモーセに対してぶつくさ文句を言っていました。けれど主が蛇を送ったときに、この民はその罪を認め、救いのしるしを求めました。パパは民数記からとられた第一朗読から霊感を受けて、罪における死について考えをめぐらせた。そしてイエスは、その日の福音において、ファリサイ派の人々に、「その罪において死なないだろう」と忠告をしていることに意識を向けさせた。

「わたしたちには自分の罪から自分の力だけで抜け出る可能性というのはありません。その可能性はないのです。ここに出てくる律法学者たちは、律法について教えているこうした人々は、このことについてはっきりとした概念を持っていませんでした。もちろん、神のゆるしを信じていましたが、自分のことを、十分に強い、すべて知っている、と感じていたのです。 そして最終的に宗教を、また神への礼拝を、価値による文化、回想による文化、学識ある人と見られるための振る舞いに関するある種の決まりの文化にしてしまい、そうです、主はゆるすことはできると考えていて、このことを知っていたけれど、これらすべてからあまりにも遠いところにいることになってしまったのです」。

 教皇はまた、主がモーセに砂漠で、蛇を作りそれを杖の上に置き、蛇にかまれた人でこれを見れば命に留まると言うように命じたことを思い返した。けれど蛇とはなんでしょう?パパは尋ねた。「蛇は、罪のしるしです」。創世記にすでにみているように、「蛇が罪を提示しながらエバを誘惑した」ときのようにです。そして神は、「罪を勝利の旗印のように掲げるよう命じるのです」。「これは、もしイエスが福音でわたしたちに語っていることがわからないならよく理解できないことです」。イエスはユダヤ人たちに、「人の子があげられる時、『わたしはある/わたしである』ということを知るでしょう」と言います。そういうわけで、砂漠において罪が掲げられたのですが、「それは救いを探し求める罪です。なぜならそこで癒されるからです」。そしてあげられるのは、人の子であり、まことの救い主、イエス・キリストであることを強調した。

「キリスト教徒の主義は哲学的な教義ではありません。生き延びるため、、よく教育されるため、平和をつくるための生活のプログラムではありません。こうしたものは結果です。キリスト教徒の主義は、一人の人格にあります。十字架において、上げられた人です。自らをへりくだらせてわたしたちを救った人です。自ら罪となられた方です。そうして、罪が裁くであげられたように、ここで、神が、わたしたちのために人となり、罪となられた神があげられたのです。そしてわたしたち罪びとはすべてそこにいたのです。この神の子の深い貶めを理解せずにはキリスト教徒の主義を理解することはできません。神の子は自らへりくだり、仕えるために、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで下僕となったのです」。

 こういうわけで使徒パウロは、「どのようなことでイエスが自らに栄光を帰すか -またわたしたちがどのようなことで自分に栄光を帰すか、とも言えるでしょう-、について語るとき、それはわたしたちの罪からなのです」。わたしたちには、「ほかに自分に栄光を帰す物事などないのです。これはわたしたちの悲惨です」。そして「神の憐みの側から、わたしたちは十字架につけられたキリストにおいて自らに栄光を帰すのです」。このような理由で、「十字架のないキリスト教は存在せず、イエス・キリストのいない十字架も存在しないのです」。神の救いの心は、「その息子にあります。自らの上にわたしたちの罪、わたしたちの傲慢、わたしたちの安定した生活、わたしたちの虚栄、わたしたちの神のようになりたいという願望を身に負ったその息子に」。このため、「十字架にかけられたキリストに自らの栄光を帰すことのできないキリスト者はキリスト教徒となるとはどういうことを意味するのかを理解しなかったことになります」。わたしたちの傷は、「わたしたちの中に罪が残すそういうものです。主の傷、人となられ、貶められ、消された神の傷をもってのみ癒されるものです」。「そしてこれこそが、十字架の神秘なのです」。

「十字架は、いつも各教会に、そこの、祭壇の上に据えなければならない飾りではありません。わたしたちを他の人々と見分けがつくようにするためのシンボルでもありません。十字架は神秘です。自らへりくだり、『無』となり、罪となる神の愛の神秘なのです。どこにあなたの罪がありますか?『わたしは知りません、ここにあまりにたくさんあります』。いいえ、あなたの罪はそこにはありません。十字架の中です。そこに探しに行きなさい。主の傷の中に。そしてあなたの罪は癒されるでしょう。あなたの傷は癒されるでしょう。あなたの罪はゆるされるでしょう。神がわたしたちに下さるゆるしは、主のもとで持っている預金をキャンセルすることではありません。神がわたしたちに下さるゆるしは、十字架に挙げられた、十字架上の我が子の傷なのです。 主がわたしたちをご自分の下に引き寄せ、わたしたちが癒しのために場を許すことができますように」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

4月7日(月)、朝ミサ説教:神の憐みはわたしたちの罪による傷の上になされる愛撫

朗読箇所:ダニエル13章1-9、15-17、19-30、33-62節/ヨハネ8章1-11節

 神の憐みは愛と温もりの大いなる光、わたしたちの罪による傷の上になされる神の愛撫です。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教で、教皇はこう語った。

 姦淫の罪を犯しゆるされた女性に始まって、パパ・フランシスコは神の憐みの意味について説明した。有名なエピソードである。ファリサイ人たちと律法学者たちがイエスの前に姦淫の現場で捕まった女性を連れてきて、この女性に何をすべきかを問う場面である。そこではモーセの律法で、最高に重大だと考えられる罪に関して石打を命じる掟を考慮に入れているものである。

「夫婦は、象徴でありながら、神とその民との関係の人間的な現実でもあります。そして姦淫によって結婚をダメにするとき、神と民との子の関係を汚すことになるのです」。けれど律法学者たちとファリサイ派の人々は、イエスをとがめるための口実を得るためにこの問いを計画したのです。「もしイエスが『どうぞ、どうぞ、石打をしなさい』と言ったならば、人々は『けれどこの人はあの女性のあんなにもいい先生なのに…ひどい、このかわいそうな人になんてことをしたんでしょう!』と言ったことでしょう。そしてもしイエスが『いや、かわいそうだ!ゆるしてあげなさい!』と言ったなら、人々は『この人は律法を守らない』と言ったことでしょう。彼らには、女性は別に大切ではありませんでした。姦淫も大したことはありませんでした・・・。おそらく、彼らのうちには姦淫を犯している人もいたでしょう・・・。どうでもよかったのです!ただ、イエスにわなを仕掛けるということだけが気になっていたのです!そこから、主の答えが出ます。『あなたたちの中で、罪のない人が、彼女に最初の石を投げなさい!』と」。

 福音には、「ある種の皮肉」があり、咎めていた人々は、「一人一人、より歳を取った人から初めて去って行った」と語っています。「どうやら天国の銀行には彼らに相当いい当座預金があったようです」。そこでイエスは女性と二人きりになって、聴罪司祭のようにこう言います。「ねぇ、みんなどこに行ったかな?誰もあなたを裁かなかったの?みんなどこ?あなたとわたしの二人っきりだよ」。糾弾もなく、悪口もなく、神の前にたつあなた。あなたと神!「誰もあなたを裁かなかったのかい?」女性は答えます。「誰も、主よ!」けれど、「偽りの糾弾だったわ!わたしは姦淫は侵さなかったもの!」とは言いません。「自分の罪を認めています」。そこでイエスは断言します。「わたしだってあなたを裁きませんよ!行きなさい、行って、今から先、もう罪を犯してはならない、こんなひどい瞬間を過ごさないために、こんなにも恥ずかしい思いをしないために、神を悲しませないために、神とその民との間にある美しい関係を汚さないために」。「イエスはゆるします!けれどここでは、ゆるし以上の何かが扱われています」。

「イエスは律法を超え、ずっと先に行きます。こうは言いません。「姦淫は罪ではありませんよ!」とは言わないのです!けれど律法によって彼女を裁くことはしません。そしてこれが憐みの神秘なのです。これこそがイエスの憐みの神秘なのです」。

「憐みは、どこか理解に苦しむものです」。

「でも、『神父さま、憐みは罪を消すのですか?』。『いいえ、罪を消すのは神のゆるしです』。憐みと言うのは神がゆるすそのやり方です。なぜなら、イエスは『わたしがあなたをゆるす。行きなさい!』と言うことだってできたわけです。あの天井からイエスの前に下ろされた中風の人に行ったのと同じように。『あなたの罪はゆるされた!』と。しかしここでは、『平和のうちに行きなさい!』と言うのです。イエスはずっと向こうを行くのです。彼女にもう罪を犯さないようにと助言します。ここにイエスのあわれみ深い態度が見られます。罪びとをその敵対者たちから守ります。正当な裁きから罪びとを守るのです。わたしたちも、わたしたちのうちのどれほどが、本当は地獄に行かなければならないのでしょう、わたしたちのうちのどれ程が?そしてそのさばきは正当なのです・・・そsこでイエスはこれを超えてゆるすのです。どのように?このあわれみをもってです!」

「憐みは、ずっと向こうを行き、人の命がこうして、罪を隅に追いやるようなものとするのです。それはちょうど天国のようなものです」。

「わたしたちは天を仰ぎます。たくさんの星、たくさんの星があります。けれど朝になって、太陽が出ると、あまりの光に、星々は見えなくなります。神の憐みはそのような感じです。愛、温もりの大いなる光です。神はゆるしますが、宣言文にはよらず、愛撫をもってゆるすのです。わたしたちの罪の傷を優しくなでながらゆるすのです。なぜなら彼はゆるしを活用していて、これをわたしたちの救いのために活用しているのです。そのように、イエスは聴罪司祭のようにしているのです。この人を辱めることはありません。「何をしたんですか、いいなさい!いつそれをしたんですか?どんな風にしたんですか?そんなこと、誰としたんですか?」とは言わないのです。そうではありません!「行きなさい、行って、今から先、もう罪を犯してはダメだよ!」と言うのです。神の憐みは偉大です。イエスの憐みは偉大です。わたしたちをゆるすこと!わたしたちを愛をもって撫でること!」
(María Fernanda Bernasconi – RV).

4月6日(日)、お告げの祈り:ラザロの復活

ラザロの復活は、神の恵みの力がどこまで届くかを示す。わたしたちの回心、わたしたちの変化。すべての人のためにささげられた神の憐みには一切の限界がない。
 「イエスは、わたしたちの罪がわたしたちを沈めてしまった墓から出てくるように招きます。いや、ほぼ命令形です」。フランシスコは、四旬節最後の主日に サン・ピエトロ広場に到着した何千もの信者たちと巡礼者たちを前に、ラザロの復活に関する福音に霊感を受けて表現した。そこで、ローマ司教はポケット聖書 をプレゼントした。

「主 のみことばについて、わたしたちはイエスを信じ、その掟を守る人のいのちは、死後新たで不死の命に変わることを信じています」。「イエスが自分自身の体を 復活させたけれど地上のいのちには戻らなかったように、わたしたちも、栄光に満ちた体に変容されるであろう自分の体とともに復活することでしょう。イエス は父とともにわたしたちを待ち、イエスを復活させた聖霊の力が自分と一つになっている者をも復活させるでしょう」と説明した。

 キリストの代理者は、ラザロに向けられたイエスの叫びは一人一人に向けられていると語った。なぜなら誰もが詞に定められているからである。「それはいのちの主人であるあの方の声で、わたしたちが全員ゆたかに命を持つようにと望んでいるのです」。

「キ リストはわたしたちが悪と死を選択することで作り上げた墓所にわたしたちを見捨てません。わたしたちが偽りで利己的で中途半端な命に満足しつつ自ら閉じ込 めてしまった牢屋の暗闇から出てくるようにと、わたしたちに執拗に呼びかけます。わたしたち一人一人に繰り返すイエスの言葉、「外に出てきなさい」という 言葉によりすがり、解放されるようにしましょう。わたしたちの復活は、光へ、いのちへと出てくるようにと命令するイエスのことばに従う決断をしたときには じまるのです。

フランシスコ・パパはまた、ラザロを復活させるイエスの行為はあまりに偉大で、あまりにはっきりと神からのものであったために、祭司長たちには我慢できず、イエスを殺す決定をすることになったと語った。
 
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4月4日(金)、朝ミサ説教:権力は預言者を黙らせようとするが、聖霊は檻にとどめることはできない




 「福音を宣言するとき、迫害されるかもしれない」。聖マルタの家で今朝のミサ中にパパ・フランシスコはこう語った。パパは繰り返し、今の時代には教会の初期よりも多くの殉教者がいると語り、無理解や迫害を恐れないようにと信者たちに執拗に頼んだ。
 
宗教を我が物顔で支配したがる神から離れる悪い人の心。パパは第一朗読である知恵の書の朗読箇所から初めてその説教を展開させた。そしてイエスの敵対者たちがわなを仕掛け、「誹謗中傷を」たくらみ、「名誉をはく奪」しようとしていることを観察した。それは「まるで義人を破壊させるための苦汁を準備するようなものです」。これはなぜかというと、その行動に反対するからです。「律法に背くといって・・・咎める」からです。「教えに反した」といって責めるからです。救いの歴史を通して、「預言者たちは迫害されてきました」。イエス自身も、ファリサイ人たちに言っています。いつも〔救いの歴史において、イスラエルの時代にも、教会においてですら、預言者たちは迫害されてきました」。迫害されるのはなぜかというと、預言者たちは「あなたたちは道を誤った!神の道に戻りなさい」と言うからです。そしてこれは、「その悪い道についての権力を持っている人々にとって、うれしくないことなのです」。

「今日の福音は、はっきりしているでしょう?どうですか?イエスは隠れていました。この最後の日々に。なぜならご自分の時が来ていなかったからです。けれどイエスは自分の終わりがどのようなものになりそうなのかを知っていました。自分の最後がどうであるかを。そしてイエスは最初の時から迫害されていました。その伝道の初めに自分の村に帰り、会堂に行って説教をした時のことを思い出しましょう。最初の大いなる驚きのすぐ後に、『でもこの人のことは、わたしたちはどこから来ているか知っているんじゃないか?わたしたちのうちに一人にすぎないだろう?どんな権威で俺たちに教えに来ようってんだ?どこで勉強したんだ?』と言い始めます。彼の価値を下げるのです。これは同じ議論でしょう、違いますか?『俺たちはこの人がどこから来たかを知っている!キリストは、一方で、誰もいつ来てどこから来るか知らないはずだ!』主の価値を下げること、権威をはく奪するために預言者の価値を下げること!」
 
 イエスの価値を下げるのは「なぜかというと、イエスがあの閉ざされた宗教環境、あの檻から出ていき、人々を出していたからです」。預言者は、「聖霊を檻に閉じ込める人々と戦います。そしてそのために迫害されるのです、いつも!」と繰り返した。預言者たちは、「いつも迫害されたり、理解されなかったり、脇に見捨てられたりしてきました。彼らに場をつくらないのです!」この状況は、イエスの死と復活では終わりませんでした。教会において続いているのです!

「外部からの執拗な攻撃と、内部からの迫害」。聖人たちの生涯を読むと、「聖人たちはどれほどの無理解、どれほどの迫害を苦しんだことでしょう」。「なぜなら、彼らは預言者だったからです」。
 
「また、どれほどの教会の思想家たちが迫害されてきたことでしょう。今、この瞬間に、一人のことを考えています。わたしたちから遠くない人です。善意の人、真理の預言者です。主の道から離れている教会をとがめる本を何冊も書いた人です。すぐに修道会から呼ばれ、索引に据えられていた彼の書名も消され、教団から外され、こうしてこの人の人生は終わりました。このことがあってからそれほど経っていません。時がたって、今日は福者です!けれど昨日異端だった人が、今日福者というのは、どういうことでしょうか?なぜなら『昨日権力のあった人々は彼を黙らせたがったからです。彼の行っていることが好きではなかったからです。今日の教会は、神のおかげで悔い改めることを学び、こういうのです。「いや、この人は良い人だ」、と』。それよりももっと先を行きます。聖性への道にあるのです。彼は福者です」。「神の民に真理を語るために聖霊が選ぶ人はすべて、迫害に苦しみます」。そしてイエスこそが「その模範、模型なのです」。主は自らの肩に「その民のあらゆる迫害を負いました」。教皇は顔を苦しみにゆがめて言った。「そして今日も、キリスト者は迫害されています」。「今は始まりの頃と同じくらい、いや、もっと多くの殉教者たちがいる、と大胆に言います」。「なぜならこの世俗的な社会、このあまりに落ち着いた社会には、真理を語り、イエス・キリストを告げ知らせるような問題が欲しくないからです」。
 
「けれど、今日、世界のあるところでは、家で福音書を持つばかりに、あるいは要理を教えたばかりに死刑になったり刑務所に放り込まれたり、という罰が存在しています。そうした国のカトリックの人が、誰かと一緒に祈ることが許されていないと言っていました。禁止されているのです!一人一人別々に、あるいは隠れてしか祈ることができないのです。けれど彼らは聖体祭儀を執り行いと思うのです。どうすればできるのでしょうか?誕生日を準備して、誕生日を祝うふりをして、そこで、パーティーの前に聖体祭儀を祝うのです。こういうことが起こったことがあるのです!警察がやってkるうと、急いですべてを隠し、「おめでとう、おめでとう、誕生日おめでとう!と言いあうのです。そうしてパーティを続けるのです。そのあとで、彼らがいなくなってから、聖体祭儀を終えるのです。そのようにしなければならないのです。ともに祈ることが禁止されているからです。今日、この現代においてです!
 
 そしてこの迫害の歴史は、「主の歩みに」刻まれています。「これは主に従う人々の歩みなのです」。「けれど、最後に、いつもあらためて、主のように、復活をもって終わるのです。けれど十字架を通ってです!」  フランシスコは中国での宣教者、マテオ・リッチ(利瑪竇)神父にその考えを向けた。「彼は理解されませんでした。分かってもらえませんでした。けれど彼は、イエスと同様に従順に従ったのです!」いつも「迫害と、無理解があるでしょう!けれどイエスは主です。そしてそれは挑戦であり、わたしたちの信仰の十字架なのです」。主が、「わたしたちにその歩みを、たとえ迫害の十字架が起こったとしても、続けるための恵みをくださいますように。
ER - RV

2014年4月15日火曜日

4月3日(木)、朝ミサ説教:祈りは、心を変えてもらうための神との戦い


朗読箇所:出エジプト 32章7-14節/ヨハネ 5章31-47節 
 祈りとは、神とのファイトです。自由と粘り強さをもって、友人との誠実な対話としてのびのびと行わなければなりません。こうした祈りはわたしたちの心に変革をもたらします。なぜなら神は本当にどのような方であるかをわたしたちに知らしめてくれるからです。これは、聖マルタの家の小聖堂で祝われた朝ミサの説教でパパ・フランシスコが行ったことのまとめである。

 教皇はその説教を、シナイ山でのモーセと神との対話を中心にした。神はその民に罰を下そうとしています。なぜなら偶像を、金の牛を作ったからです。モーセは力強く種に祈ります。思い直してもらうようにと。「この祈りは神との本当のファイトです。民のトップが神の民であるその民を救うために行うファイトです」。

 そしてモーセは主を前にしてのびのびと語り、わたしたちに、恐れることなく、のびのびと、そして粘り強く、祈るすべをを教えてくれます。モーセは粘り強く訴えます。勇気があります。祈りも、「議論」を込めつつ、「神とやりとりをする」べきです。モーセは、ついに、神を納得させます。聖書はこう言います。「主はご自分の民に下すと告げた災いを思い直された」。そこでパパはこう尋ねた。「けれど、誰が誰を変えたのでしょうか?わたしが主を変えたのでしょうか?私はそうは思いません」。そして言った。

「変わったのはモーセです。なぜならモーセは主がこれをしてしまうだろうと信じ込んでいたからです。主が民を破壊してしまうと信じていたのです。それから主がどれほどその民に対してよい方であったかを思い起こしたのです。どのようにエジプトの奴隷状態から民を解放してくださり、約束をもって導いてくださったかを。そしてこうした議論をもって、神を説得しようとするのですが、このプロセスにおいて、その民の記憶を見出しなおし、神の憐みを見出すのです。モーセは、怖がっていました。神がこれを行ってしまうのではないかと恐れていたのです。最後には、山から下りてくるのですが、その時には心の中になにか偉大なものを抱いていました。わたしたちの神はあわれみ深い方だ、と。神はゆるすことのできるかただ、自らの決断に戻ってくださるかただ、神は父なのだ、と」。

 こうしたことはすべて、モーセのあずかり知るところでした。「けれど多少ぼんやりと知っていたことでした。そして祈りの中でこれに再開するわけです。これがわたしたちの心中で祈りが行うことです。わたしたちの心を変えるのです」。

「祈りはわたしたちの心を変えます。わたしたちに、わたしたちの神はどのような方であるかをよりよく理解できるようにしてくれます。けれどそのためには、主と語り合うことが必要です。むなしい言葉の羅列ではなく。イエスは言います。『異邦人がするようにくどくどと述べてはならない』と。だめです、それではだめです。現実のことをもって語るのです。『でも、主よ、ご覧下さい、わたしにはこんな問題があります。家族にこんなことが、わたしの息子との間に、こんなこと、あんなこと・・・。何をしたらいいでしょう?でも、ご覧下さい、このまま見過ごすなんてしないでください!』と。これこそが祈りです!けれどどれくらいの時間がこのために必要なのでしょう?そうです、時間がかかるのです」。

 それは友達をよく知るためにするのと同様に、神をよりよく知るために、必要な時間なのです。なぜならモーセは、聖書が語っていることですが、友と友とが語り合うかのように主と祈っていたのです。

「聖書はこう語っています。モーセは友人とするように、主と顔と顔を合わせて語った、と。祈りはこうでなければなりません。のびのびと、粘り強く、議論しながら。そしてまた、主を少し突っつきながら。『でも、あなたはこうしてくださると約束してくださったじゃないですか。でもこれは言いませんでしたよ…』と。こうした祈りに心を開くことです。モーセは力づけられて山から下りてきました。『主をもっとよく知った』のです。そして祈りがもたらしてくれたその力をもって、約束の地に民を率いていく仕事を再開するのです。なぜなら祈りは力づけるからです。力づけてくれます。主がわたしたち全員に恵みをくださいますように。なぜなら祈りことは、恵みだからです」。

「どの祈りにも、聖霊がいてくださいます」。「聖霊がいなければ祈りうことはできません」。わたしたちの中で祈っているのは、聖霊なのです。わたしたちの心を変えるのは、聖霊なのです。わたしたちが神に向かって「父よ」と呼ぶようにと教えているのは聖霊なのです。「聖霊が、神とやり取りをするために、精神ののびのびとした自由と、勇気をもって、そう、モーセが祈ったように祈ることを教えてくださるように、聖霊に願い求めましょう。そして、いつもわたしたちの祈りにおいていてくださる聖霊が、この道でわたしたちを率いてくださいますように」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

4月2日(水)、一般謁見:結婚の秘跡

4月1日(火)、朝ミサ説教:多くのキリスト者の怠慢と形式主義が救いの扉を閉ざしている。


 朗読箇所:エゼキエル47章1-9、12節/ヨハネ 5章1-3、5-16節
  「感覚の麻痺したキリスト者は教会に益を及ぼしません」。パパは聖マルタの家で祝われた朝ミサの説教でこう強調した。フランシスコは、形式主義にとどまる必要はなく、「活用すること」、霊的怠慢に打ち勝ち、福音を告げ知らせる第一人者となる危険に身をさらすことこそ必要なのだと再確認した。

 パパはその説教を、イエスと38年間、泉の回廊の下に見られ、癒しを待っていた中風を患っていた人との出会いについて語る福音箇所に留まって発展させた。この男は嘆いていました。なぜなら水に身を浸すことができなかったからです。というのはいつも他の人が自分より先に行ってしまったからです。けれど、イエスは彼に立ち上がって、行くようにと命令します。この奇跡はファリサイ派の人々の批判を巻き起こします。なぜならそれは安息日だったからです。そしてその日にはこのようなことはできないと言っていました。教皇はこの話に二つの強い、霊的な病気が見られるとその見解を述べました。「考えめぐらすことでわたしたちの駅になる」二つの病気についてです。何よりもまず、病人のあきらめです。不快感に満ち、一人で嘆いています。

「わたしは、多くのキリスト者、多くのカトリック信者ことを考えています。そうです!カトリックなんですが、熱意もなく、しかも不快感に満ちている人たちです!『そりゃそうですよ、人生ってそんなものです、しかたないでしょ、でも教会が・・・わたしゃミサに毎日曜日言ってますけど、実際に活用しない方がいいでしょうね。自分は十分健康だと思いますよ。ほかの人にこれを挙げに行く必要は感じませんね…』。それぞれ自分の家で、自分の生活に落ち着いて・・・。もし何かしたら、あとで叱られるし…と。『いやぁ、このままのほうがいいや、危険に身をさらすなんて…』と。これは怠慢という病気です。キリスト者の怠慢と言う病気です。この態度は使徒的熱意を中風の状態にして動けなくし、キリスト者を静かで落ち着いた人にします。けれど、言葉の持つようないい意味においてではありません。福音を告げ知らせるために出ていくことに心を配っていませんから!感覚の麻痺した人々です」。

「そして麻酔状態は、良くない体験です」。その活用しないということは、「霊的怠慢」に形を変えるのです。それは「怠慢です。それは悲嘆です」。こうしたキリスト者は悲しみに沈んでいます。「輝きに満ちた人々ではなく、否定的な人々です。そしてこれこそがわたしたち、キリスト者の病気なのです」。「毎日曜日」ミサにはいく「けれど、お願いですから邪魔しないで、と」。 このような「使徒的熱意のない」キリスト者たちは「役に立ちません。教会にいいことをしないのです」。そしてどれほどのキリスト者がそのように過ごしていることでしょう!パパは苦しみをにじませながら語った。利己主義、自分自身のためのこと。これは怠慢の罪です。使徒的熱意の反対を生き、他の人々にイエスの新しさ、わたしに無償で与えられたこのニュースを差し出そうとするやる気に反して生きています。けれどこの福音の箇所で、もうひとつの罪に出会います。イエスが土曜日に病人をいやしたことで批判された時のものです。「神の恵みに場を与えないキリスト者たちです。そしてキリスト者の生活は、こうした人々の生活は、すべての書類を決まり通りに、証明書をすべてそろえることに集中します」。

「こうした人々のように、偽善的なキリスト者たちです。彼らに興味があるのは形式だけです。あ、安息日でしたか?ダメですね、安息日には奇跡をおこなうなんてありえません。安息日には神の恵みが働くなんてありえません、と。神の恵みに扉を閉ざしています!教会に、こうした人々がどれほどいることでしょう!たくさんいます! これがもう一つの罪です。最初のものは、怠慢の罪を犯す人々です。彼らには使徒的熱意をもって前進することができません。なぜなら自分自身のうちに、その悲しみのうちに、その悔しさのうちに、そうしたものすべてのうちに留まると決めてしまったからです。こうした人々は救いを運ぶことができません。なぜなら救いに扉を閉ざすからです」。

 こうした人々のために、「形式のみが」意味を成します。「それはできない。これが彼らが一番使う言葉です」。そしてこうした人々にはわたしたちも出会います。そしてわたしたちも「何度も怠慢を抱きました。あるいはファリサイ派のように偽善者でありました」。こうした誘惑はやってくるものなのですが、「こうした誘惑から身を守るために、どういうものか知っておかなければならないのです」。こうした二つの誘惑を前に、「その野戦病院」を前に、「そこに、教会の象徴があります」。「実に多くの負傷者」を前に。イエスは近づき、彼らに尋ねます。「癒されたいですか?」そして「恵みを彼らに与えます。恵みがすべてを行うのです」。そして、改めて中風だった人に出会うとこういいます。「もう罪を犯してはならない」。

「この二つのキリスト教のことばです。癒されたいか?と、もう罪を犯してはならない。けれどまずこの人を癒します。ます彼をいやした後で、『罪を犯してはならない』です。温もりと愛に満ちて発せられた言葉です。そしてこれがキリスト者の道なのです。使徒的熱意の道です。実に多くの人々、この野戦病院の負傷者、そしてまた教会の男性たち、女性たちの聖で傷ついた人々に近づく道です。これは兄弟姉妹のことばです。癒されたい?そしてその後で、進んでから、『あぁ、もう罪を犯してはダメですよ、よくありませんからね!と言うのです。これはもっとよいことです。イエスの二つの言葉は怠慢の態度や偽善の態度よりもずっと美しいものです」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

3月31日(月)、朝ミサ説教:信仰を持つ人は、神の約束に向かって歩む。そうでなければ、存在論的ツアー。

 朗読箇所:イザヤ 65章17-21節/ヨハネ 4章43-54節
 
 人生で、精神的な生き方においても、ぶらぶらするのではなく、まっすぐに、決してがっかりさせることのない、神の約束に従うことを言おうとするキリスト者にとっての目標に向かっていくこと。これが、この日の朗読に基づくパパ・フランシスコの教えで、聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサ説教で説明されたことである。

 神の約束に信頼して一生涯欠けてこれに従うキリスト者がいます。信仰が行き詰ってしまうようなキリスト者もいます。それから、進んでいかなければならないという確信がありながらも、その反対に「存在論的ツアー」 に留まってしまう人もいます。パパは、信者に見られる三つのタイプに関する違いを示した。キリスト者の人生は道筋であるということはわかっていながら、この道を行くか、まったくいかないかで別れるものを一般的に名指すものである。

 何よりもまず、第一朗読のイザヤ書の箇所から霊感を受けて、フランシスコは神はいつも「何かを願う前に、約束する」と説明した。その約束は新しい命、「喜び」のいのちなのです。ここに、「希望の徳の根本的な中心が」あります。神が決して「がっかりさせない」ことを知りながら、キリスト者の人生の本質は「約束に向かって歩むこと」であることを押さえつつ、「神の約束に信頼すること」です。一方で、「立ち止まる誘惑」に遭うキリスト者もいます。

「立ち止まったキリスト者がどれほどいることでしょう!弱い希望を持った人がどれほど続いていることでしょう。そうです。天国があることを信じればすべてうまくいくと思っているのです。天国があると信じることは良いことですが、これを求めようとしていないのです!戒律は守るし、決まり事を守る、すべて、どれも、守るけれど…立ち止まっているのです。主は彼らをその民のパン種にすることはできません。なぜなら彼らは歩かないからです。そしてこれは問題です。立ち止まっている人たち。それから他に、彼らの間に、そしてわたしたちの間に、道を間違える人もいます。わたしたちはだれも、何度か道を誤ったことがあります。このことは知っていることです。問題は道を誤ることにはありません。問題は道を誤ったと気づいたときに戻ろうとしないことにあります」。

 信じ、信仰が示すことに従う模範は、福音に描写されている王の役人です。イエスに病気の子どもの癒しを願い、先生がこれを叶えたと定めると、一瞬たりとも疑わずに家に向かって歩き出します。この反対は、おそらく、「最も危険な」グループです。「自分自身をだます」人々に見られるものです。「歩くけれど道をつくらない人々です」。

「彼らは意気揚々としたキリスト者です。ぐるぐる、ぐるぐr回って、まるで人生は存在論的ツアーのようで、目的もなく、まじめな約束もすることなくぐるぐるめぐり続けます。そのように、「わたしは歩いている!」と言っているので、ぐるぐるめぐっては自らをだます人たちです。いや、あなたは歩いていないのですよ。ぐるぐるしているだけです。意気揚々と・・・。一方、主はわたしたちに、とどまらないようにと求めます。道を誤らないように、人生でぐるぐると同じところをめぐらないように。人生でぐるぐるすること・・・。わたしたちに、約束を見つめるようにと求めます。その人のように、その人のように、イエスの言葉を信じたその人のように、約束をもって前進していくように求めるのです!信仰はわたしたちを約束に向けて歩き始めさせます。神の約束への信仰です」。

「わたしたちの罪びととしての状況が、道を歩むようにと強います」。パパ・フランシスコはこのことを認めたが、「主はわたしたちにいつも帰還する恵みをもたらしてくれます」と確言した。

「四旬節は、自分が道の上にいるかを考えるための素晴らしい季節です。あまりにおとなしくしていないか、だったら回心しなさい。あるいは道をあやまっていないか、だったらゆるしのための告白をして、ちゃんとした軌道に乗りなおしなさい。神学論議のツアー客になっていないか、人生でぐるぐるするけれど決して前進するための一歩を踏み出さずにいないか。そうして、軌道修正し、歩き始め、それも約束に向かって歩き始める恵みを主に求めます」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).



3月28日、朝ミサ説教:わたしたちの御父の心は、生むことなく言い続ける、「帰ってこい!」と

 朗読箇所:ホセア 14章2-10節/マルコ 12章28-34節
 神は愛する「他に何もできない」。パパ・フランシスコは今朝の聖マルタの家でのミサでこのことを強調した。パパは繰り返し、主はいつもわたしたちを待ち、わたしたちをゆるし、わたしたちが彼のもとに帰ると宴会を開いてくれる「あわれみの神である」 ことを訴えた。

 わたしたちが神から離れると、神はわたしたちにノスタルジーを感じるのです。パパはその説教を、この日の第一朗読の預言者ホセアをきっかけに発展させた。主は、やさしさに満ちてわたしたちに語ります。また、「わたしたちを回心に招く」とき、たとえこの言葉が「わたしたちにとって少し強く響く」にしても、この中に、「神の愛に満ちたノスタルジー」が存在するのです。御父の子に対して「けぇってこい、もう家に帰る時間だ」と語る勧告が込められているのです。

「これがわたしたちの父の心です。神はこういう方です。疲れません、疲れないのです!何世紀も何世紀もこれをしてきたのです。そして民は何度も何度も背教を重ねてきました。そして神はいつも帰ってくるのです。なぜならわたしたちの神は待つ神だからです。地上の楽園のあの昼下がりの時から、アダムが楽園からなげきつつ、そして一つの約束を抱きつつ去って行ったあの昼下がりからです。そして神は忠実な方です。 主は自分の約束に忠実なのです。なぜなら自分自身を否むことはできないからです。主は忠実です。そのようにして、長い歴史の中で、わたしたち全員のことを待っていてくださったのです。主は、いつも、わたしたちを待つ神です」。

 続いて教皇はその考えを放蕩息子の譬えへと向けた。ルカ福音書は、父が遠くにいた息子を見る、それは彼を待っていたからだ、と語ります。父は、「毎日自分の息子が帰ってくるのを見にバルコニーに上がったわけです。待っていたのです。そして息子を見るや、走って行ったのです」。そして「首をかかえて抱きしめたのです」。息子は言おうとしていた言葉を準備していたけれど、父は語らせないのです。「抱擁をもって口をふさいだのです」。

「これこそがわたしたちの御父です。わたしたちを待つ神です。いつもです。『でも、神父さん、こんなにも罪があります。神様が喜んでいてくださるのか、疑わしいものです』。『試して御覧なさい!もしあなたが御父のやさしさを知りたいのなら、御父の下に行き、やってみなさい。その後でわたしに語りなさい』。神はわたしたちを待ちます。待つ神であると同時にゆるす神でもあります。憐みの神なのです。ゆるすのに疲れを覚えません。わたしたちの方がゆるしを求めるのに疲れてしまうのです。けれど神は疲れません。7の七十倍まで。いつもです。ゆるしに向かって、どうぞ。そして会社の観点からは、出納は芳しくないものになります。神はいつも負けてくれるのです。物事に関しての収支では負けますが、愛において勝つのです」。

 そしてこれはなぜなら、神は「いつも愛の掟をまず果たす方だからです」。「神は愛するほかに何もできないのです」。そして「イエスが、多くの病人に対して行っていた奇跡も、わたしたちが主に対して頭をもたげ、向かっていく勇気をもらうときに、わたしたちに対して毎日主が実現している大いなる奇跡のしるしでした」。そしてこういうことが起こると、神はパーティーを開くのです。「あの貧しいラザロを扉のところに見捨てていたあの金持ちの男の宴会のようではありません」。神は「それとは別のパーティーを開くのです。放蕩息子の父親のしているように」。

 「『なぜならあなたはユリのように花を咲かすでしょう』。それは約束です。『あなたに宴会を開こう』。『彼らの子孫は広がっていくだろう。その輝きはオリーブのよう、その香りはレバノンの杉のよう』。主に近づく勇気のある一人一人の人生は、男性一人一人、女性一人一人の人生は、神のパーティーの喜びを見出すでしょう。つまりこのように、この言葉がわたしたちの父、いつもわたしたちを待ち、いつもわたしたちをゆるし、わたしたちが戻るときにパーティーを開いてくれる御父について考えるのを助けてくれますように」。
(RC-RV)


3月24日、朝ミサ説教:疎外されているから、救われている

朗読箇所:列王記下 5章1-15b節/ルカ 4章24-30節

 疎外の道でこそ、紙がわたしたちに出会い、わたしたちを救うのです。とパパ・フランシスコは3月24日の朝に、聖マルタの小聖堂でのミサで、謙遜への強い呼びかけにその説教を中心に据えながら思い返した。

 救われるために「欄外」に居ることが何を意味するかを説明するために、教皇は列王記(5章1-15a)とルカ福音書(4章24-30節)から取られた二つの特に雄弁な箇所を紹介するその日の典礼に触れた。福音の箇所では、イエスは「信仰の不足のせいで」ナザレでは奇跡を行うことが出来なかったと明言します。まさにあの、自分が育ったところに、「信仰がなかった」のです。まさに、イエスは言います.「預言者というのは自分の故郷では受け入れられないものだ」。そして第一朗読に語られているシリアのナアマント預言者エリシャの話と、シドンのやもめと預言者エリヤの話を思い返します。「その頃のハンセン病患者とやもめは疎外されていました」。特に「やもめたちは公的な愛徳で生きていて、社会の通常の状態には入らなかったものでした」。一方で、ハンセン病患者は外で、町から離れたところで生活しなければなりませんでした。

 このように、福音が語るところによれば、ナザレの会堂で、「イエスはそこでは奇跡は行われないだろうと言います。ここでは預言者を必要とせず、あまりに自信があるので預言者を受け入れないだろう、と」。イエスの面前にいた人々は実際、「自分の括弧付きの“信仰”にとても自信があり規律を守ることにとても満足しており、その他の救いを必要としなかったのです」。「信仰無く戒律を果たすドラマ」を見せる態度です。「わたしは自分で自分を救います。なぜなら自分は安息日毎に会堂に行くし、十戒を守ろうとしています」から「この人がそのハンセン病の患者やそのやもめ、その疎外された人々が自分よりも良いのだなどと行ってくるな」と。

 けれどイエスの言葉はその逆の意味で行きます。イエスはこう言います。「ごらんなさい。もしあなたが疎外されているゾーンにとどまらないなら、救いは得られないでしょう。これこそが謙遜、謙遜の小道なのです。実に疎外されたものであると感じることです」。「そこで主の救いの必要性」を感じるのです。「主のみが救います。わたしたちが決まりを守ることによるのではないのです」。

 このイエスの教えは、しかしながら、ルカの箇所に読まれるものですが、ナザレの人々を喜ばせませんでした。むしろ「怒り、イエスを殺したがった」のです。これは旧約聖書が語るところによれば、シリアのナア万にも感じられた同じ怒りです。ハンセン病から癒されるためには、ナア万は「たくさんの贈り物を持って、たくさんの富を持って王の所に行きます。これで安心だと思ったのです。彼は軍隊の長官ですから」。けれどエリシャは彼を、疎外されるようにと招き、ヨルダン川で「七回」沐浴するように招きます。「すこしばかげて」見えた招きです。あまりにばかげていてナアマンは「侮蔑されたと感じ、イライラして、去っていきました」、まさに「ナザレの会堂の人々」と同様にです。聖書は、この二つの状況のために同じ同士を使います。「不快に思う」と。

 それゆえ、ナアマンは彼等に「謙遜の仕草、こどものように聴き従う仕草を」求めます。「ばかげたことをすること!」けれど彼は反応します。まさに、不快に思って。「わたしたちにはダマスコにアバナ川やファルファル川のように、美しい川ならいくらでもある。それなのにわたしがこんな小川で七回も身を浸すだと?何かが間違っている!」けれどその協力者たちは、良い感覚を持って、「自らを疎外させること、謙遜の行為を実現させるのを助けました」。そしてナアマンはハンセン病から癒されて川から出てきたのです。まさにこれが、「今日の、この四旬節第三週のメッセージです。もし救われたいなら、謙遜の道、恥辱の道を選ばなければならないのです。この証し人は、マリアです。「その参加の中で、神が彼女に目をとめて喜んだのは彼女の処女性や善意、やさしさ、彼女が持っている多くの徳を見たからではありません」。そうではなく、「主はその女奴隷の謙遜、その小ささを見たからです」。まさに「謙遜こそが主が目をとめるものなのです」。

 このようにわたしたちも、「主がわたしたちを見いだすために自分自身を疎外させるこの知恵を眞菜花家ラバなりません」。実際、神は「わたしたちの安心感の中心ではわたしたちを見いださないでしょう。そこには、主は向かわないのです。わたしたちに出会うのは、疎外に於いて、わたしたちの罪に於いて、わたしたちの過ちの数々に於いて、わたしたちの霊的に癒される必要性に於いて、救われる必要性に於いてです。そここそが、主がわたしたちを見いだす場です」。

 そしてこれは、「謙遜の道なのです。キリスト者の謙遜は」、わたしたちに「自分なんの役にも立たない」と言わしめる「徳ではありません」。そうしてわたしたちに「傲慢を隠す」ようにさせるものとは違うのです。そうではなく、「キリスト者の謙遜は心理を語ることにあります。わたしは罪人なのだ、と」。本質的に、単純に「真理を語る」事について語っています。「そしてこれがわたしたちの真理なのです」。けれど、「もうひとつの真理」もあります。「神がわたしたちを救う、ということです。けれどわたしたちを救うのは、あの場所、わたしたちが疎外される場所なのです。わたしたちの安定感の中ではわたしたちを救わないのです」。だからこそ神への祈りが生まれます。「主の救いを受けるための謙遜の恵み、わたしたち自身を疎外の状況に置くこの知恵を持つ恵み」を神がわたしたちにくださいますように。