取り澄ましたキリスト者にならず、他者、特に銀行の経済状態よりも大切な目的である家庭を助けながら、出会いの文化を作る信仰の勇気を持つように。これはパパ・フランシスコがサン・ピ
エトロ広場に土曜日の夜、諸運動、新しい共同体、協会、信徒団体に捧げられた聖霊降臨の徹夜祭に参加するために押し寄せた20万人近くの人々に表明したことの要約である。
ここにあるのはパパのふところから応えられた4つの質疑応答の全文である。
質問1
「キリスト教の真理は魅力的で探究するに値します。人間の存在の深い必要性に応えるからです。そこでは確信をもってキリストがすべての人々の全人格の唯一の救い主として告げ知らされています」。
教皇さま、これはとても印象的な言葉でした。信仰年に、またわたしたちを今夜ここに導いてきた巡礼におい
て、わたしたちのほとんどが体験したいと望んでいる直接的で根本的な経験を表しています。わたしたちはあなたの前で信仰を新たにし、固め、強めようとして
います。わたしたちは信仰が1回手に入れたら完全というようにはならないことを知っています。ベネディクト16世
の『信仰の門』の言葉ですが、「信仰は分りきった前提条件ではありません」。この定言は世や他の人、わたしたちが生きてきた伝統についてのみ言われている
ことではありません。この定言は基本的にわたしたち一人一人に関するものです。しばしばわたしたちは信仰は新しい出来事の若枝、変化の始まりだけれど、そ
の後人生のあらゆる困難に信仰を注ぎこんでしまうことに気づきます。わたしたちの学びや行いすべての泉とはならないようです。
教皇さま、教皇さまが持っているような信仰の確信というのは、わたしたちが生きている間に体験できるのでしょうか?どのようにそれができるのかを示して下さい。わたしたちは信仰の弱さを乗り越えることができるのでしょうか?
質問2
教皇さま、わたしの毎日の生活は他のたくさんの人の体験と似通っています。仕事場で信仰を生きたい、他者との誠実な関わりの中で主との出会いに
おいて善く受け入れられながら生きようと努めています。わたしたちは「神の考え」です、というより、そうあろうとしています。わたしたちにいのちを与えた
神秘的な愛によってつまずきながら。
わたしは学校で教えており、この意識がわたしの子供たちや同僚たちに対して情熱を注ぐ動機を与えてくれます。しばしば確認するのは、多くの人は
幸せをそれぞれの道を取りながらその人生の中で探します。そしてその大いなる問いはしばしば何でも手に入れようとする物質主義にせばめられ、永遠に満足せ
ずに留まる、あるいはどんなことにも意味はないというニヒリズムに留まります。
自分の中でわたしが問いかけるのは、信仰からの提案、つまり人格的な出会い、共同体、民の信仰というのは、どのようにすればわたしたちの時代の
男女の心に届くのだろうか、ということです。わたしたちは永遠に向かって作られています。「大きなことのために人生をかけるように」と教皇さまは最近おっ
しゃいました。けれども、わたしたちを取り囲む者すべてが、またわたしたちの青年たちにとって、教皇さまに、凡庸で即席の答えに満足していただかなければ
ならないと言っているように思われます。そして人は他のことを相手にしないで永遠に妥協しなければならないと言っているかのようです。しばしばわたしたち
は、五旬祭前夜の弟子たちのように怖気づいています。教会はわたしたちを新しい福音宣教へと招きます。わたしは、ここにいる全員が、それぞれの経験を持つ
心のうちにこの挑戦を強く感じているのではないかと思います。
そういうわけで、教皇さま、この時代においてこの挑戦をどのように生きればいいかわたしたちすべてが分るように、わたしを助けてください。わた
したち運動や協会、共同体すべてが自分たちが呼ばれている務めを実践しなければならないのですが、教皇さまにとって何が一番大事なのでしょうか?今日、信
仰を効果的に伝えるにはどうしたらいいのでしょうか?
質問3
教皇さま、選出の後にレポーターに教皇様がおっしゃったことばを聞いて、感動しながらこれに耳を傾けました。「貧しい人々による貧しい教会とい
うのは一体どのようなものになるのだろう?」ここにいるわたしたちの多くは愛徳や正義の活動に献身しています。わたしたちは苦しむ人のいるところで教会に
よって立てられた現存の活動的な部分を成しています。
わたしは従業員で、わたしの家族とともに、出来る限りの形で、個人的に地域に献身し、貧しい人々を助けています。けれど、何か物足りない気がす
るのです。できることならマザー・テレサとおなじ心で、すべてはキリストのため、と言えれば、と思うのです。この体験を得るための大いなる助けは同じ目的
で献身しているわたしの共同体の兄弟姉妹です。そしてこの努力において、わたしたちの信仰と祈りを支えています。欠乏は大変なものです。彼女はわたしたち
に思い返させました。「…まだ世の中には貧しい人がたくさんいます。そしてどれほどの苦しみがこうした人々の中に見出されることでしょう」。そして危機は
すべて悪化しています。わたしは多くの国々を苦しめている貧困について、また世が立ち向かっていることについて考えます。安定した生活、職業難、大きいグ
ループでの移民の動き、新たなタイプの奴隷状態、放棄、多くの家族、老人、家や仕事のない人々の孤独……。
教皇さま、質問させて下さい。どうすればわたしも、すべての人も、貧しい人々による、貧しい人々のための教会を生きることができるのでしょう
か?どのようにすれば苦しむ人々がわたしたちの信仰の問題となるのでしょうか?わたしたち信徒の運動や協会は、教会のためにできる具体的で効果的な貢献を
したいと望んでいます。そして公的な倫理、発展の模範、政治、つまるところ男女としてある新しい様式に影響するこの危機を前にして社会のためにできること
はなんでしょうか?
質問4
歩くこと、建設すること、信仰告白すること。これが教皇さまの、動きのある教会のための「プログラム」であると、少なくとも教皇さまの最初の説
教でわたしなりに理解したもので、これはわたしの慰めにもなり、わたしを励ましてもくれました。慰められたのは、家族と普遍教会とのキリスト共同体の深い
一致の中で自分を見出すことができたからです。励まされたのは、ある意味で時の誇りとキリストへの執着の表明性を取り除くように義務付けられたからです。
けれどこれらの言葉の中のひとつ、信仰告白する、という言葉がわたしに一抹の不安をもたらし、この感覚を乗り越えることができない、と言わなけ
ればなりません。信仰の証し人として自分の信仰を告白すること。前にすでに耳にしたように、そのために苦しんでいるわたしたちの兄弟姉妹は多く、彼らのことを考えています。彼らは日曜日の朝に、ミサにいこうかどうかを決めかねています。自分の生活を危機にさらしながらミサに行くのだと知っているからです。
彼にとっては、多くの人の間でキリスト教の信仰のせいで差別されていると感じている人たちがいるのです。それも、わたしたちの世界の多くの場所でそうで
す。こうした状況を前に、わたしの信仰告白、証しは生ぬるく、おぼつかないように思われます。
もっと何かしたいのですが、何ができるのでしょう?そしてわたしたちの兄弟姉妹を助ける仕方は?わたしたちには政治や社会の文脈を変えるために何もできない、あるいはほんの少ししかできないのにどうすればその苦しみを和らげることができるでしょう?
教皇の答え
皆さん、こんばんは!
みなさんと、祈り、一つになり、
聖霊の賜物を待つためにこの広場に集まった世界じゅうの皆さんを知ることができてうれしいです。わたしは皆さんの問いを知り、そのことについて考えまし
た。ここに、つまり、理解に至るのは至難の業です。まず、最初に本当のことを言っておきます。へへ。ここに自分で書いてみたんですよ(笑い、拍手)。
最初の質問について
教皇さまの歩みの中ですでに信仰の確信に至っているので、どうすれば信仰の弱さに打ち勝つことができるかを示す道を示してほしい」というものです。
これは歴史的な質問ですね。というのはわたしの歩んだ歴史と関係があるからです。わたしは幸いなことに信仰を単純で具体的な形で生きる家庭に育つことがで
きました。けれど、特にわたしの祖母、父方のお婆ちゃんですが、彼女がわたしの信仰の歩みに決定的な足跡を残しました。わたしたちに説明をしてくれた女性
です。わたしたちにイエスについて語り、要理を教えてくれた女性です。いつもよく思いだすのは、聖金曜日になると、夕方にろうそく行列に連れていかれ、行
列の最後に横たわるキリストの像のところに到着したことです。そこでお婆ちゃんは子供だったわたしたちに、跪かせ、「ごらんなさい。今は死んでいます。け
れど、明日復活されるのですよ」と言ってくれたものです。
わたしはこの女性からキリスト者の最初の宣言を受けました。これは最高に素敵なことです。最初の宣言が自分の家で、家族と共にあった、素敵でしょう?(拍手)そし
てこのことがわたしに多くの母親たち、多くのおばあちゃんたちの信仰伝達の使命というものを考えさせるのです。キリスト教最初期にもそうでしたが、母親や
祖母たちが信仰を伝えるのです。なぜならパウロもティモテに言っているのです。「あなたのお母さんと、あなたのお婆ちゃんの信仰を覚えています」。ここに
おられるすべてのお母様方、お婆さま方、このことを考えてください。信仰を伝える、ということを。なぜなら神はわたしたちのそばに、信仰の歩みを助けてく
れる人々をわたしたちのために置いて下さるからです。わたしたちは抽象的なことにおいては信仰に出会いません。違います。いつも宣言をする人、イエスは誰であるかをわたしたちに語る人、あなたに信仰を与える人、あなたに最初の宣言をする人なのです。そしてこのことはわたしが持った最初の信仰体験です。
けれど、わたしにとってとても大切な日があります。それは1953年9月21日です。17歳になろうとしていた時でした。それは学生の日でした。わたしたちにとっては、春分の日、皆さんにとっては秋分の日ですね。そしてその春の学生の日のお祭りに行く前に、いつも参加していた小教区のところを通りました。 そこで知らない司祭に出会いました。わたしはゆるしの秘跡を受ける必要性を感じて、これがわたしにとって出会いの経験になりました。わたしのことを待って いた誰かに出会ったのです。何が起こったか分りません。覚えていないのです。なぜその司祭がそこにいたのか、あるいはなぜわたしはゆるしの秘跡を受ける必 要性を感じたのか、預かり知らないのです。けれど誰かがわたしのことを待っていたということは確かです。その誰かはわたしをずいぶんと前から待っていたの です。そしてゆるしの秘跡の後に、何かが変わりました。わたしは前と同じではありませんでした。一つの声、一つの呼びかけを感じていたのです。わたしは司祭にならなければならないと確信しましたが、この信仰における経験は重要です。(拍手)
わたしたちは神を探さなければならないと言います。彼のもとに行きゆるしを願うことが不可欠だと。けれどわたしたちが赴く時、彼はすでにわたしたちを待っ
ており、それ以前からそこにおられるのです。わたしたちには、スペイン語でこのことをよく説明する表現があります。主がわたしたちに「プリメレアール」される。彼こそまず第一におられる(拍手、恐らくスペイン語を話す人々から)、あなたを待っておられる、ということです。そしてこれは大いなる恵みです。自分のことを待っている誰かに出会うというこ
と
は。あなたは、罪びととして歩み続け、彼はあなたを赦すために待っているのです。主を春一番の花である、アーモンドの花であると言ったイスラエルの預言者
のあの経験です(エレミヤ1章11-12節参照)。他の花が咲き始める前に、彼はそこで待っておられます。主はわたしたちを待ち、わたしたちが探し求める時、主がわたしたちを迎え入れるため、わたしたちにその愛を与えるために待っておられるというこの現実に出会うのです。そしてこれはあなたの信じない心の中では、あなたをほんとうにびっくりさせます。そして主との出会いと共に信仰が育っていくのです。
ある人は言うでしょう。いえ、わたしは本を読んで信仰について学ぶ方が好きです、と。信仰について研究することは重要です。しかしそれだけでは十分ではないのだということを見てください。大切なのは、イエスとの出会いです。彼との出会いです。(大きな拍手)なぜなら彼こそがそれをわたしに下さるからです
。弱さにとっての一番の敵は何だか分りますか?好奇心をそそりませんか?それは、恐れです。けれど恐れはだめです!わたしたちはもろいものです。よくわかっています。けれど、主はもっと強いのです!もしあなたが彼と共に行くなら、問題はないのです!子供はとてももろいです。今日も、たくさんの子供を見ま
した。けれど、お父さんと一緒に行くなら、お母さんと一緒に行くなら、安心しているのです!主と共にいるなら、わたしたちは安全です。主と共に信仰は育ち
ます。(拍手) 主のみ手から送り出されていくのです。そしてこれがわたしたちを育み、わたしたちを強くするのです。けれど、もし自分たち自身で価値を保つことがで
きると思うなら……。ペトロに起こったことを思い出しましょう。「主よ、わたしはあなたを知らないとは言いません」(マタイ26章33―35節参照)と言いながら、後で鶏が鳴いた時には、すでに三度知らないと言った後だったのです!(同上69-75節
参照)。わたしたち自身に必要以上の過信をする時、わたしたちはよりもろいものです。その時が一番もろいのです。一番もろい。いつも主と共にいましょう!そして主に語
るということは、ミサをもって語ること、聖書をもって語ること、祈りをもって語ることを意味します。けれど同時に家庭において、ママと共にも語ります。さ
らには母親に語ることもです。というのは母親がわたしたちを主に導き、すべて知っているからです。わたしがおとめマリアに向かってママに対するように祈り、
物事を願う時、わたしは一番強くなれました。これが弱さについて考えることです。少なくともこれがわたしの経験です。自分を毎日強めてくれる一つのことが
あります。それはおとめマリアに向かってロザリオの祈りをささげることです。(拍手) わたしは本当にすごい力を感じます。というのはわたしが彼女と共に歩むから
で、自分に強さを感じるのです。
二つ目の問いにこたえていきましょう。
「わたしは、ここにいる全員が、それぞれの経験を持つ 心のうちにこの挑戦を強く感じているのではないかと思います。
そういうわけで、教皇さま、この時代においてこの挑戦をどのように生きればいいかわたしたちすべてが分るように、わたしを助けてください。わた
したち運動や協会、共同体すべてが自分たちが呼ばれている務めを実践しなければならないのですが、教皇さまにとって何が一番大事なのでしょうか?今日、信
仰を効果的に伝えるにはどうしたらいいのでしょうか?」
三つのことばだけを言いましょう。
最初のものは、イエスです。何が一番大切ですか?イエスです。もしわたしたちが組織や他のこと、すばらしいことと共に前進し続けても、もしイエスがいないなら、前進しないのです。うま
くいかないのです。イエスが一番大切です。今、すこし叱りたいと思います。けれど、兄弟愛を込めて、わたしたちの間だけです。皆さんは広場で「フランシス
コ、フランシスコ、パパ・フランシスコ」と叫びました。けれど、どこにイエスはいたんですか?わたしが皆さんに叫んでもらいたいのは、「イエスさま!イエ
スは主です!わたしたちの間におられます!」という言葉ですよ。(拍手、大拍手) これから、「フランシスコ」ではなくて、「イエスさま!」と叫んでください。(再び拍手)
二つ目の言葉は、祈りです。神の顔を見つめます。けれど何よりも、これは先に言ったことと関係がありますが、見守ってもらっていることを感じることです。主がわたしたちを見つめておられるのです。主がまず最初にあなたを見つめているのです。
わたしの経験は主の前に、午後、聖櫃の前に祈りに行く時に体験することです。しばしばわたしは少し眠ります。(笑いがあがる) これは本当のことです。というのは一日の疲れで眠くなってしまうのです。
(拍手) けれど、主はわたしのことを理解してくださるのです。わたしは主がわたしのことを見つめていてくださると考えると多くの慰めを感じるのです。わたしたちは
祈らないといけないと思います。話さなければ、話さなければ、話さなければ、と。違います。主の眼差しを感じなさい。イエスがわたしたちを見つめる時、わたしたちに力を与え、わたしたちを主の証しをするように支えるのです。
質問は、信仰の証しについてで
したよね?違いましたか?最初は、「イエス」、次いで、「祈り」です。神がわたしたちをその手で導いて下さると感じることです。続いて、このことの重要性
を見出しましょう。彼によって導かれることです。これは他のどんな計算よりも重要な部分です。わたしたちは彼に導かれて初めて本物の福音宣教者でありえます。ペトロのことを考えてください。おそらくちょっと昼食後に昼寝をしていたのでしょうか、幻を見ます。あらゆる動物が載った布を見ます。そしてイエスが何かを言っていた声を聞くのですが、何の事だか聞き取れませんでした。その時に、ユダヤ人ではない誰かが、ある家に入ってもらうために彼を呼びに来ます。そしてどのようにして聖霊がそこにおられたかを目にしたのです。ペトロはイエスに導かれてユダヤ人ではない異教徒たちの最初の福音宣教をするにいたったのです。それは当時なにかヘブライ人には想像もつかないことだったのです(使徒10章9-33節)。このように歴史すべてがいきます。全歴史が、です!イエスに導かれることです。彼自身がリーダーなのです。わたしたちのリーダーはイエスなのです。
そして三つ目は、証しです。イエス、祈り、祈りに関しては主によって導かれることに委ねる、とありますが、それから証しです。けれど何かを付け加えたいと思います。このことはイエスに導き、あなたにイエスの驚きをもたらします。戦略を考えながら、プランを立てながらデスクで福音宣教を計画しなければならないと考えることもできるでしょう。
けれど、これらのことは道具なのです。小さな道具です。重要なのはイエスであり、イエスによって導かれることにあるのです。それがあってはじめて、戦略を練ることができるのです。けれどこれは二義的なものです。
さて、もう一度 最後、証しで
す。信仰のコミュニケーションは証しをもってのみ行われうるものです。それは愛です。わたしたちのアイデアをもって行うのではなく、自分の人生で生きられた福音をもって、わたしたちの間で生きている聖霊によって行われるのです。これはわたしたちと聖霊の間のシナジー(共同作用)のようなものです。そしてこれが証しへと導くのです。教会はこの証しをする聖人たちになるようにと前進させます。ヨハネパウロ二世やベネディクト十六世も言っていたように、今日の世界は証しを必要としてやみません。それほど教師を必要とはしておらず、むしろ証し人を必要としているのです。多く語るのではなく、全人生をもって語ることです。生活の言行一致、人生の一貫性をもってです!人生の一貫性というのは、社会的に造られた者としてではなく、他者に向けてわたしを導くイエスとの出会いとしてキリスト教を生きることです。社会的にこんなふうで、キリスト教徒で、それからあとはわたしたちの中にしまっておく、という風ではだめなのです!証しをするのです!
三つ目の質問に行きましょう。
「教皇さま、質問させて下さい。どうすればわたしも、すべての人も、貧しい人々による、貧しい人々のための教会を生きることができるのでしょう
か?どのようにすれば苦しむ人々がわたしたちの信仰の問題となるのでしょうか?わたしたち信徒の運動や協会は、教会のためにできる具体的で効果的な貢献を
したいと望んでいます。そして公的な倫理、発展の模範、政治、これは、大切ですね、つまるところ男女としてある新しい様式に影響するこの危機を前にして社会のためにできることはなんでしょうか?
証しのことをもう一度話しま
しょう。まず、福音を生きる、ということがわたしたちにできる一番重要な貢献です。教会は政治運動ではあります。あるいは組織的な善でもありません。(拍手) それではないのです。わたしたちはNGOではありません。教会がNGOになってしまったら、塩気をなくします。味がないのです。虚しい組織になるだけです。(拍手) これにおいてみなさんは賢くあってください。なぜなら悪魔はわたしたちをだまそうとするからです。なぜならこれは効率主義の危険だからです。
イエスを告げ知らせる、という
ことと、効率、効率的であるということは別のことです。異なるのです。それは別の価値なのです。教会の価値は、その底辺では、福音を生き、わたしたちの信仰
の証しをすることにあるのです。教会は地の塩、世の光なのです。神の国のパン種が社会の中にあるようにするよう呼ばれているのです。そして何よりもまず証
しをすることです。兄弟愛の証し、連帯の証し、分かち合いの証しです。誰かが連帯は価値ではなく消え去らなければならない「応急処置」だといっているのな
ら……そんなことあってはならないでしょう!あなたは効率というのをただ世俗的にしか考えていないのです。危機の時、―今わたしたちが生きているような時
のことですが―、けれど前に「嘘に満ちた世にいる」とだれか言いましたが、こうした危機の時に、注意しましょう。それはただの経済危機や文化的危機に限り
ません。それは人間の危機なのです。危機に直面しているのは人間そのものなのです!そして破壊されそうになっているのは人間なのです!けれど人間は神の似姿なのです!だからこれは深い危機なのです!こうした危機の時代に、自分だけのことを心配しているわけにはいきません。孤独や絶望、問題を前にした無力感
に閉じこもっていることはできないのです。
お願いですから、閉じこもらないでください!これは危険です。わたしたちが友達と一緒に、あるいは運動をしながら、同じことを考えている人たちと一緒に教会に近づいていきますと・・・
けれど何があるか分りますか?教会が閉じこもる時、苦々しくなります。苦々しくなるのです。一年間締め切られた部屋のことを考えてみてください。あなたがそこに赴く
と、湿りきったにおいがあります。わたしたちはうまくいかないいろいろなことでこのようなのです。閉め切ってある教会も同じです。それは病んだ教会です。
教会は自分自身の殻から出ていかなければならないのです。どこへ?存在の中心から外れたところです。どのような形でもいいのです、けれど出ていきなさい。
イエスはわたしたちに言います。「全世界に行きなさい!行けって!告げ知らせろって!福音の証しをしろって!」(マルコ16章15節)。
けれど、自分自身から出ていく
と、どんなことが起こるのでしょう?人の家に行ったり道に出たりする人に生じうること、つまり事故が起こることもあるでしょう。けれどもわたしは皆さんに言います。わたしだったら事故のために傷ついた教会のほうが、閉め切って病みきった教会よりも千倍好きです!(大きい拍手) 外にでなさい、外に!
黙示録が言っていることも考えてみてください。何か素敵なことを言っています。イエスが扉のところに立ち呼んでおられる、わたしたちの心に入るために呼んでおられます(黙示録3章20節
参照)。これが黙示録の意味です。けれどこの問いをさせてください。何度イエスがそこにいて扉のところで出ていくように呼びながら、自分たちの安全を求め
て出かけるのをやめたでしょう?しばしば、わたしたちを奴隷状態にするだけのために役立つだけで、わたしたちを神の自由な子供たちのようにさせない凝り固まった構造に閉じこもったでしょうか?(拍手) この「出ていく」ことにおいて、出会いに赴くことは重要です。
わたしにとってこの言葉はとて
も重要です。他者との出会い、という言葉です。なぜか、ですか?なぜなら信仰というのはイエスとの出会いであり、わたしたちはイエスがすることと同じことをしなければならないからです。つまり、他者と出会うということです。わたしたちは衝突の文化、断片化の文化、自分に役立たないものは捨てるような文化、
粗大ごみの文化に生きています。けれどこの点において、皆さんに考えていただきたい。そしてこれは危機の一部を成しているのですが、民についての知恵を
もっている老人たちと、子供たちです。…浪費の文化です!けれどわたしたちは出会うために赴き、わたしたちの信仰をもって一つの「出会いの文化」を作らな
いとならないのです。友情の文化、兄弟姉妹がいる文化を。そこでは自分と同じような考えをしない人とも話すことができるところ、しかも信仰の違う人たち、
同じ信仰をもたない人たちとも話ができるところを作らなければならないのです。彼らは皆、わたしたちとどこか共通のものをもっています。それは、彼らは神
の似姿であり、神の子らである、(拍手) ということです。自分が何に属しているかなど関係なく、あらゆる人と出会うために赴きなさい。
そしてもう一つの点は重要です。貧しい人たちです。もし自分自身の殻を打ち破って出ていけば、貧しさに出会います。近頃、―これを言うのはあまり心臓によくありませんが―、近頃、非常に貧しい人が寒さで死ぬことはニュースにならないようで。今日、おそらく、ニュースになるのはスキャンダル記事です。スキャンダル!あぁ、それならニュー
スだ!近頃、子供に食べる者がないということはニュースではないと考える人が多いのです。これは深刻なことです。これはひどいことなのです!黙っていられないことです!落ち着きましょう。物事はこのようです。取り澄ましたり、あまりに行儀がよいようでは、キリスト者であることはできません。紅茶を飲みながら神学的なことを話して、それで落ち着いていられる。駄目です!(拍手) わたしたちは勇気のあるキリスト者になっていかなければなりません。そしてキリストの肉体
を持つ人々を探しに行かなければならないのです!
彼らはキリストの体なのです!
わたしがゆるしの秘跡を聞きに行く時には…まだ行けずにいます。というのはゆるしの秘跡を聞きに出かけるには…、ここから出ていくことができないんですね、(大爆笑) これは別の問題ですが…ともかく、前にいた教区でゆるしの秘跡を聞きに行っていた時には、誰かが来ると、いつもこういう質問をしていました。「でも、
施しはしますか?」「はい、神父様」「あぁ、いいよ、いいよ」。そこで、もう二つの質問をします。「わたしに話して下さい。施しをする時に、相手の目を見ますか?」「いや、よく分りません。気にしませんでした」。二つ目の質問。「それでは施しをする時、その人の手に触れますか?それともお金を放り投げるだけですか?」これは問題です。キリストの体、貧しい人たちのこの痛みをわたしたちに委ねるキリストの肉体に触れることです。貧困というのは、わたしたちキリスト者にとって、哲学あるいは文化あるいは心理学的範疇にあるものではありません。これは神学的範疇にあるのです。おそらく、第一のカテゴリーでしょ
う。そこで神が、神の子が自らをいやしくし、道行くわたしたちと共に歩むために貧しくなられたのです。そしてこれがわたしたちの貧しさです。キリストの体の貧しさです。受肉を通して神の子がわたしたちにもたらした貧しさです。貧しい人々のための貧しい教会はキリストの肉体を持った人々のもとへ赴くことから始まります。
もしわたしたちがキリストの体に赴くなら、何かを理解し始めます。貧しさとは一体何なのか、主の貧しさとは何なのかを理解するのです。そしてこれは簡単なことではありません。けれどキリスト者にとってよろしくない問題があります。世の精神、世俗的な精神、霊的な世俗性です。これはわたしたちをある種の満足感に導き、イエスの精神ではな
く、世の精神を生きるように仕向けます。あなたがなさっていた質問は、「公的な倫理、発展の模範、政治、つまるところ男女としてある新しい様式に影響するこの危機を前にして社会のために行うためにどのように生きられるか」ということでした。これは人間の危機、人を破壊する危機だということからですが、これは人から倫理をはぎ取った危機なのです。公の生活において、政治において、もし倫理がないなら、上(=超越者)からの倫理がないなら、なんでも可能で、何でもすることができ
るのです。そしてニュースを読む時、一般の生活で倫理を欠くことがどれほど全人類にひどい害を及ぼしているかを見ることができます。(拍手)
あなたに一つのお話しをしたいと思います。今週すでに二回話しましたが、あなたに三度目改めてお話しします。これは十二世紀のラビの聖書的なミドラシュ(ユダヤ教的解釈書)のお話で
す。ラビはバベルの塔の建設についてのお話をしてこのように語ります。バベルの塔を建設するために、レンガを作らなければなりませんでした。何を言おうと
しているかというと、さて大変です、泥を混ぜ、藁を置いて、色々やって、ようやく窯に入れます。そしてレンガが出来上がって、今度はバベルの塔の建設に
持っていかなければならないのでした。手間暇かかったためにレンガは宝物でした。レンガが落ちると、国家的悲劇で、労働者は罪を着せられました。レンガは
それほどまで貴重だったので、これが落ちるというのは大騒ぎだったのです。けれど、たとえ労働者が落ちても、何も起こりませんでした。別のことでした。これは今日でも起こっています。銀行の投資が少しうまくいかないと、悲劇です。なんということでしょう?!けれどもし人が飢餓で死んでも、食べる者が何もな
くても、健康がなくても、関係ないのです!これがわたしたち今日の危機です!(拍手) そして貧しい人たちのための貧しい教会の証しはこうしたメンタリティに逆らっ
て行くのです。
四つ目の質問。
こうした状況を前に、わたしの信仰告白、証しは生ぬるく、おぼつかないように思われます。
もっと何かしたいのですが、何ができるのでしょう?そしてわたしたちの兄弟姉妹を助ける仕方は?わたしたちには政治や社会の文脈を変えるために何もできない、あるいはほんの少ししかできないのにどうすればその苦しみを和らげることができるでしょう?」
福音を宣べ伝えるということに
は、二つの徳が必要です。勇気と忍耐です。あなたの言っている彼ら(苦しんでいるキリスト者たち)は忍耐の教会にいるのです。彼らは苦しんでおり、教会の最初の世紀よりももっと殉教者がいます。(拍手) もっと殉教者がいるのです!わたしたちの兄弟姉妹たちです。苦しむこと!彼らは殉教に至るまで信仰を保ちます。けれど殉教は敗北ではありません。殉教というのはわたしたちがすべき最も高いレベルでの証しなのです。
わたしたちは殉教に向かう、小
さな殉教に向かう歩みを進めています。このことを我慢して、このことをして…けれど歩みを続けているのです。そして彼らは、可哀想に、いのちをささげます。けれどパキスタンの状況を聞いたわけですが、イエスへの愛のための損害に関しては、イエスの証しをしながらなされます。キリスト者はおとなしさ、へりくだり、単純に自分の持っているあり方を、イエスへの信頼のうちにいつも保たなければなりません。イエスに信頼を置きながら、しばしばこうした対立には宗教的起源はなく、時には社会政治的結託にあるのですが、宗教は、残念なことに、火に注がれる油のように用いられるのです。
キリスト者はいつも悪に対して善をもって応えることができなければなりません。たとえそれがしばしば難しくてもです。こうした兄弟姉妹に、わたしたちが深く一致していることを感じても
らえるように努めるのです。深く一致していることをですよ!その状況にとっては、キリスト者は「忍耐の状態」にいることを知っています。イエスが受難に向かう時、忍耐の状態に入りました。彼らにこれを知らせるため、むしろ主を知らせるために忍耐の状態に入ったのです。ここに問いがあります。この兄弟姉妹のために祈るのですか?彼らのために祈るのですか?毎日の祈りですか?わたしは祈る人が手を挙げるようにとは今は頼みません。そんなことはしません。今は尋ねません。けれどこう考えてください。毎日の祈りの中でイエスにわたしたちは言います。「主よ、この兄弟を見てください。とても苦しんでいる、多くの苦しみを負ったこの姉妹を見てください」と。彼らは限界の体験をします。単にいのちと死の間にある境界線です。そしてわたしたちにとっては、この経験はすべての人に対して、全世界に対しての宗教的自由を推進するように促す運びとならなければなりません。どの男性も女性も自分の宗教において、たとえどんなことに
なっても自由でなければなりません。なぜでしょうか?なぜなら人は男性も女性も神の子供たちだからです。(拍手)
これで、皆さんの質問に関して何かを語ったと思います。そしてかなり長くなってしまったことをお詫びいたします。どうも、ありがとう!皆さん、ありがとう。(拍手) そして閉ざされた教会ではなく、存在の外側にあるところ、通りに出ていく教会ということを忘れないでください。主がわたしたちをそこで見つめておられるのだ、ということを。ありがとう。(拍手)
0 件のコメント:
コメントを投稿