2022年10月26日水曜日

第17回 世界青年の日(ワールド・ユース・デー)メッセージ

 「マリアは立ち上がり、急いで出かけた」

(ルカ139節)

 

大好きな青年の皆さん、

 

 ワールドユースデー、パナマ大会のテーマは「わたしは主のはしため。みことばどおりにこの身に成りますように」(ルカ138節)でした。この出来事の後で、私たちは新しい目的地、2023年リスボンに向けた歩みを再開しています。そこで神さまは、私たちの心に、立ち上がるようにと、急かすような招きをこだまさせています。2020年には、「若者よ、あなたに言う、起き上がりなさい!」(ルカ714節)というイエスの言葉を黙想しました。去年は、使徒聖パウロの体験から着想をもらいました。パウロに向けた復活者イエスの言葉「起き上がりなさい! わたしはあなたを、あなたが見たものごとの証人とする」(使徒2616節参照)です。リスボンにたどり着く前に、まだもう少し歩むべき区間が残っていますが、そこを私たちは、ナザレのおとめマリアと共に歩むことになります。お告げのすぐ後に、「立ち上がり、直ちに出かけた」(ルカ139節)マリアは、いとこのエリサベトを助けに行きます。この三つのテーマに共通の動詞は「立ち上がる」です。それは、思い出しておくといいことですが、「再興(復活)させる」、「命へと目覚めさせる」という意味をも抱えた表現です。

 

 最近は、本当に大変な時で、人類が、すでに世界規模の感染症のトラウマによる試練を味わい、戦争の惨劇によってずたずたにされている中で、マリアはすべての人に、特にマリアのように若い皆さん青年たちに、寄り添いの道、出会いの道を再開します。皆さんの多くが来年の8月にリスボンで体験するであろう経験が、皆さん青年たちにとって、また皆さんと共に、全人類にとって、新しい始まりの時を代表するものとなってほしいと望みますし、そうなると私は確信しています。

 

マリアは立ち上がった

 

 マリアは、お告げの後で、自分自身にかかりきりになる可能性もありました。自分の身に降りかかった新しい状況の性で、心配もしたでしょうし、恐れもあったでしょうから。けれどそれはしませんでした。マリアは神に完全に信頼しました。むしろエリサベトのことを考えました。立ち上がり、太陽の光の下、命や動きのある所に出かけて行きました。たしかに天使の衝撃的なお告げは、彼女の人生計画にいわゆる「地震」を起こしたにもかかわらず、この若きマリアは、固まらせる力に身を任せることはありませんでした。なぜなら彼女はイエス、つまり復活の力と共にいたからです。マリアの中に、すでにいけにえの小羊がいました。いけにえでありつつも、いつも生きておられる方として。マリアは立ち上がり、歩みを始めます。なぜなら、神の諸計画こそが、彼女の人生にとってあり得る最高のプロジェクトであることを確信していたからです。マリアは神の神殿になりました。歩く教会の模範的姿になりました。出かけて行って奉仕を始める教会、良いニュース(福音)を運ぶ教会になりました。

 

 自分自身の中に復活したキリストの現存を体験すること、「生きた」キリストと出会うこと、これこそが霊的な最高の喜びです。これは、だれもが「のんびり」していられなくなる光の爆散なのです。私たちを即座に行動へと移させ、このニュースを他の人たちに伝えるように、この出会いの喜びの証しをするようにと後押しをします。この力が、復活後の日々に、最初の弟子たちの走りを支えたものです。「婦人たちは恐れていたが、喜びにあふれ、急いで墓から離れ、弟子たちにこの知らせを告げに行った」(マタイ288節)。

 

 復活のお話しは、頻繁に二つの動詞を用います。「気付く(目覚める)」と「立ち上がる」です。これらを持って、主は和得た士たちに光のもとに出ていくように、私たちのもとにある閉ざされた扉すべての敷居をまたぐため、主に導かれるに任せるようにと促します。「これは教会にとって意味深いイメージです。私たちも主の弟子として、またキリスト者共同体として、即座に立ち上がるように招かれています。それは、復活の躍動力の中に入って行くためであり、また主が私たちに示そうとしておられる道のさなかで主に導かれるに任せるためです」(2022629日、聖ペトロとパウロの祭日説教)。

 

 主の母は、行動する青年たちの模範です。鏡の前で自分の姿に見とれて動かない人や、ネットに「囚われている」人ではありません。マリアは完全に、外向きの方向性を持っています。マリアは復活を生きる女性です。いつも出エジプトの状態にあります。自分から出て、偉大な「他者」、つまり神に向かい、また他の人びとに向かいます。他の人びとというのは、ちょうどいとこのエリサベトがそうであったように、兄弟姉妹、特に助けを必要としている人々です。

 

 

…そして直ちに出かけた

 

 ミラノの聖アンブロジオは、ルカによる福音の注解の中で、こう書いています。マリアは山間部に向けて出かけましたが、それは「喜びに満たされ、直ちに、慈愛を果たすべきという願いに促されているのを感じたからです。何か奉仕できないかと心から望み、その激しい喜びに急かされるように向かいます。もはや完全に神に満たされたマリアは、急いで高みに向かう以外、どこに向かっていくことができたというのでしょう。実際、聖霊の恵みは、遅さというものを知りません」。マリアの迅速な動きは、そのようなわけで、奉仕の要求への対応であり、喜びに満ちた福音の宣言であり、聖霊の恵みに対する迅速な応答なのです。

 マリアは高齢のいとこの必要性を前に問い質されました。たじろぐことも、無関心にとどまることもありませんでした。自分のことよりも、他の人たちのことの方を考えていました。この態度が彼女の生き方に躍動感と熱意をもたらしました。皆さんも一人ひとり、自問してみるといいでしょう。「自分の周りの人に見られる必要性に、自分はどのように関わっているだろうか」「すぐに見過ごすための言い訳を考えてしまうだろうか、それとも関心を持ち、いつでも助けられる心構えをするだろうか」 当然のことながら、皆さんには、世界の問題のすべてを解決することはできません。けれどきっと、一番近くにいる人たちや、自分の住んでいる地域の問題から始めることができるでしょう。かつて、マザーテレサはこのように言われたことがあります。「あなたがなさっていることは、大洋の一滴にすぎません」。これに対してマザーテレサは、「けれどもしそれをしないなら、大洋には一滴分が不足するでしょう」。

 

 具体的で緊急の必要性を前にしたら、迅速に行動しなければなりません。世の中で、どれほどの人が誰か世話をしてくれる人の訪問を待っていることでしょう! どれほどの高齢者、病人、囚人、難民が、私たちのいつくしみに満ちたまなざし、私たちの訪問、無関心の障壁を崩す兄弟姉妹を待っていることでしょう!

 

 大好きな青年の皆さん、どんな「急ぎの用事」が皆さんを動かしていますか。じっとしていられなくなるような、皆さんに動こうという促しを感じさせるものは何ですか。世界規模の感染症や、戦争、強制力を受けた移民、貧困、暴力、自然災害のような現実によって苦しむ多くの人びとは、自問しています。「なぜ私にこんなことが?」「なぜよりによって私に?」「なぜ今?」ですから、私たちの実存の中心的な質問は、「私はだれのためにいるのだろう?」なのです(シノドス後勧告『キリストは生きている』286参照)。

 ナザレの若きおとめの急ぎの用事は、主から尋常ではない賜物をいただいた人たちの持つそれです。これを分かち合わずにはいられず、体験した計り知れないほど大きな恵みをあふれ返らせずにはいられません。

 それは、自分の必要性よりも他の人びとの必要性を第一に据えることのできる人たちの持つそれです。マリアは他の人たちからの評価を求めることや、人の注意を引くことで時間を無駄にするようなことのない、若い人の模範です。ソーシャルネットワークで「いいね」を押してもらうことに依存するようなものとは違います。むしろ、出会いや分かち合い、愛や奉仕から生じてくる、よりほんもののつながりを求めて自ら行動します。

 

 お告げの瞬間に始まり、はじめてその親戚のエリサベトを訪問しに行った時から、マリアは助けを求める子らを訪問するために時間も空間も乗り越えるのをやめたことがありません。私たちの歩みは、もし神が宿っておられるなら、直接、私たちの兄弟姉妹の一人ひとりの心に私たちを連れて行きます。イエスの母であり、私たちの母であるマリアによる「訪問を受けた」人々の証言が、本当にたくさん私たちの所に届くんですよ! 遠く離れた地で、何世紀もの間、ご出現や特別なお恵みを伴って、マリアはその民を訪問してこられました。実際、マリアによる訪問を受けた所のない場所など、この地上にはありません。神の母は、愛に満ちた優しさに突き動かされてその民のさなかを歩み、人びとの苦悩や世の移ろいを自分のものとして受け止めます。そういうわけで、マリア聖地やマリアに捧げられた教会、小聖堂に足を運ぶ子らの数は多いのです。本当に多くの信心業の表現があるのですよ! 巡礼や祝祭日、嘆願や家庭での聖母像訪問、まだまだ他にもいろいろな具体的な形で、主の母とその民が互いに訪問し合う、生きた関係性が紡がれています。

 

「良い」急ぎの姿勢は、いつも私たちを高みへ、また他の人びとへと後押しする

 

 「良い」急ぎの姿勢は、いつも私たちを高みへ、また他の人びとへと後押しします。良くない急ぎの姿勢も存在しています。例えば、表面的に生きることや、すべてを軽く受け止めること、献身の約束もなく、人のことを気にすることもなく、自分がしていることに本当に参与することもないような、そういう生き方へと導くものです。そういう急ぎは、思考も、ましてや心も使うことなく、他の人たちと生活し、学び、働き、遊びに出かける時の性急な態度です。こうしたことは、相互の人間関係において生じうることです。家の中だと、家族のことにしっかり耳を傾けない時や、家族のために時間をかけない時に生じます。友情の場合、友だちが自分を楽しませ、必要を満たしてくれるようにとは期待するのに、相手が危機に陥るとか、こちらに何かを要求してくるとなると、すぐに相手を避け、他の人に身を寄せるような時です。さらには、愛情面の絡む関係にもあります。恋人同士の場合、互いを深く知り合い、深く理解し合うための忍耐を持っている人は多くはありません。こうした態度は学校や職場、また他の日々の生活の場面にもあり得るでしょう。ともかく、こうしたことが性急に体験される場合、実りをもたらす可能性はかなり低くなります。不毛のままであり続ける危険性が存在しています。これが、箴言の書で読んでいるものなのです。「勤勉な人はよく計画して利益を得、あわてて事を行う者は欠損をまねく」(箴言215節)。

 

 ついにマリアがザカリアとエリサベトの家に到着したとき、すばらしい出会いの場が生み出されました。エリサベトは神から自分に向けられた驚異的な介入を体験し、その老齢にも関わらず息子を授かりました。自分のことをまず語ってもおかしくない十分な理由がありましたが、自分のことでいっぱいにはならず、若い親戚のマリアとその胎内の御子を出迎えるように心が傾いていました。マリアの挨拶を聞くや否や、エリサベトは聖霊に満たされました。こうした聖霊による驚きや侵入の出来事は、ほんもののホスピタリティを体験する時、つまり中心を自分自身ではなくホスペス(宿泊者)を据えた時に生じます。このようなことは、ザアカイの物語でも見受けられます。ルカ1956節にはこう書いてあります。「イエスはその場所[ザアカイがいた所]に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

 

 私たちの多くは、イエスが予期せぬ時に、私たちに会いに出て来られたことを体験しています。最初は、イエスの中に親近感や尊重、偏見の不在、断罪の不在、他の人の中には見たことのないようないつくしみのまなざしを味わいます。それだけでなく、イエスは遠くから私たちを見つめるだけでは飽き足らず、私たちと共にいて、私たちとその生活の時を分かち合いたいと望んでおられるのを感じます。この体験の喜びは、私たちの中に、イエスを向か入れるのに急ぐ態度、イエスと共にいて、よりよくイエスのことを知ることの緊急性が目覚めます。エリサベトとザカリアはマリアとイエスを迎え入れました。この二人の高齢者たちから、ホスピタリティとは何を意味するのかを学びましょう! 皆さんのご両親や祖父母の方々、また共同体にいらっしゃる高齢者の皆さんに、彼らにとって神さまや他の人たちに対するホスピタリティを提供するとは何を意味するのか、質問してごらんなさい。皆さんに先立つ方々の体験に耳を傾けるのは、皆さんにとって益となるでしょう。

 

 大好きな青年の皆さん、今こそ、若いマリアと年老いたエリサベトの間に生じたように、具体的な出会いの歩み、自分とは異なる人たちを真に迎え入れる歩みを、もう一度始める時です。こうして初めて、私たちは世代間の距離、社会層間の距離、あらゆる民族やあらゆるグループ間の距離、さらには戦争までをも凌駕することができるのです。青年たちは、いつでも断片化され分断された人類にとっての新たな一致の希望です。けれどそれが可能なのは、しっかりと記憶に結び付いていること、年輩の方々の体験談や夢に耳を傾けたときだけです。「前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう」(第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ)。歴史の教訓を忘れないため、また現代の二極化や過激思想を乗り越えるために、青年たちと高齢者の間の契りが必要です。

 エフェソの信徒たちに書簡をしたためながら、聖パウロはこう告げます。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し(たのです)」(21314節)。イエスは、各時代に人類が抱える挑戦に対する神の応答です。そしてこの応答を内に携え、エリサベトとの出会いの場に赴くのです。高齢の親戚エリサベトに対するマリアからの一番のプレゼントは、イエスを彼女のもとに連れていくことでした。確かに、具体的なお手伝いもかけがえのないものです。けれど、おとめマリアを生ける神の聖所に変えた、おとめの胎内のイエスの現存ほど、ザカリアの家を大きな喜びと意味で満たすことのできるものはありませんでした。この山間部で、イエスは、その現存だけで、一言も発せず、その最初の「山上の垂訓」を行ったのです。沈黙のうちに、神のいつくしみに信頼する小さき者やへりくだった者の祝福を宣言したのです。

 

 青年の皆さん、私が皆さんに伝えたいのは、教会が運ぶ大きなメッセージはイエスだ、ということです! そうです、イエス自身、私たち一人ひとりへのその無限の愛、その救い、私たちに与えられた新たな命です。そしてマリアは、この計り知れないほどすばらしい賜物を私たちの生活に迎え、他の人びとにそれを伝えるにはどうすればいいかの模範です。そこでマリアは私たちをキリストの運び手とし、苦しむ人類にその共感に満ちた愛や寛大な奉仕を運ぶ者とするのです。

 

 

みんな一緒にリスボンへ!

 

 マリアは、皆さんのような青年でした。私たちのうちの一人でした。トニーノ・ベリョ司教は、マリアについてこう書きました。「聖マリアよ、[…]周知のとおり、あなたは岸から離れた航海へと連れて行かれました。けれどもし私たちがあなたに、岸の近くを帆走するようにと強いるなら、それは、あなたを私たちの小さな沿岸輸送に狭めようと望んでのことではありません。あなたを私たちの落胆の海岸線からこれほど近くに見据えることで、私たちもあなたのように、自由と言う大洋を進む冒険へと招かれていたのだという意識を取り戻すことができるからです」(『マリア、私たちの時代の女性』、マドリッド、1996年、11頁)。

 

 この三連のWYDメッセージの最初のメッセージで喚起したように、ポルトガルから、十五世紀や十六世紀に、多くの青年たち――その多くは宣教師でした――が、未踏の地に向かって船出しました。自分のイエスとの体験を他の人びとや国々に分かち合うためでした(2020WYDメッセージ参照)。そしてこの地に、二十世紀の初頭、マリアは特別な訪問をしたいと望み、ファティマから全世代の人びとに、回心と真の解放へと招く神の愛の強力で驚くべきメッセージを投げかけました。改めて、来年の8月にリスボンのワールドユースデー国際大会で頂点を迎える青年による国際巡礼に参加するように、そして今度の1120日、王たるキリストの祭日には、全世界のそれぞれの教会で世界青年の日を祝うようにと、熱い想いで皆さん一人一人をお招きします。この点について、いのち・信徒・家庭省が最近出した文書『それぞれの教会で世界青年の日を祝うための司牧的手引き』は、青年司牧で働くすべての人にとって、大きな助けとなるでしょう。

 

 大好きな青年の皆さん、ワールドユースデーで、皆さんが今一度、神との出会いの喜び、兄弟姉妹との出会いの喜びを体験できることを私は夢見ています。距離感と孤立の長い期間の後で、リスボンで、神の助けのもと、国籍と世代を超えた兄弟愛に満ちた抱擁の喜び、和解と平和の抱擁、新たな宣教的兄弟愛の抱擁の喜びを共に再発見しましょう。聖霊が皆さんの心に、シノドス(共同の道づくり)らしいスタイルで、偽りの境界線から離れ、立ち上がる望み、皆で共に歩む喜びを、燃え立たせてくださいますように。今こそ、立ち上がるときです! 直ちに立ち上がりましょう! そして、マリアのように、私たちの内にイエスを運び、すべての人とこのイエスを分かち合いましょう。この皆さんの人生の美しい瞬間に、前進し続けてください。そして聖霊が皆さんの中で行いうることを後回しにしないでください。心を込めて、皆さんの夢と皆さんの歩みに祝福を送ります。

 

2022815日、聖母被昇天祭に、

ローマ、ラテランの聖ヨハネ大聖堂より

フランシスコ