2013年5月16日木曜日

5月15日、朝ミサ説教:牧者がオオカミにならないように

朗読個所  : 使徒言行録20・28-38
           ヨハネ17・11b-19

バチカン、5月15日18時47分(バチカンラジオ)

 司祭たちや司教たちがお金や虚栄の誘惑に負けず、神の民の奉仕に当たるようにと祈ってください。これは、聖マルタの家の小聖堂で今朝捧げられたミサ中の説教でパパ・フランシスコが言った勧告である。そのミサには、バチカン・ラジオの報道従業員のグループが参列した。

 教皇は使徒言行録の個所についての解説からその説教を始めた。そこでは、パウロがエフェソの「長老たち」に自分たち自身と群れ全体に気を配り、「残忍な狼ども」に注意を払うようにと勧告している。「この個所は、新約聖書の中でも最も美しいページのひとつに数えられます」フランシスコは言った。「ぬくもりと司牧的愛に満ちています」。そこには「司教とその民との素敵な関係」が確認される。そして司教団や司祭団は他者のための奉仕のためにいる、民を守り、建設し、弁護するためにいると説明した。「これは防衛の関係、神と牧者、牧者と民の間の愛の関係です」とパパは言った。

 「結果的には、司教たちは自分のために司教なのではなく、民のための司教であり、司祭も自分のために司祭なのではなく、民のための司祭なのです。民への奉仕に当たっており、民を育み、自らの群れを牧するためにいるわけです。そうじゃありませんか?民を狼どもから守るためにいる。このことを考えるのは、素敵なことです!司教がこの歩みでこれを行う時、それは、パウロがその人々と作り上げたような、民との素敵な関係でしょう?そして司祭がこうした民との素敵な関係を持つ時、わたしたちに一つの愛が与えられます。彼らの間に愛があります。本物の愛です。そして教会は再び一致するのです」。

 パパは続けて説明した。司教や司祭と民との関係は、「存在論的、秘跡的」な関係である、と。「わたしたちには皆さんの祈りが必要です。なぜなら司教や司祭も試みられるからです」。司教や司祭たちはたくさん祈らなければならず、復活したイエスを告げ知らせなければならない。そして「勇気をもって救いのメッセージを語り伝え」なければならない。「けれども、わたしたちも人間です。わたしたちも罪びとなのです」そして「試みられるのです」。そして問いかけた。司教や司祭たちの受ける試み(誘惑)とは何なのか?

 「聖アウグスティヌスは、預言者エゼキエルについてコメントをしながら、二つのことを語っています。一つは富です。これは貪欲へと姿を変える可能性のあるものです。そしてもう一つは虚栄です」。そして言。「司教や司祭が、羊の群れを自分自身のために利用しようとする時、動きが変わってしまいます。彼はその民のための司祭や司教ではなく、その民から盗む司祭や司教になってしまうのです。聖アウグスティヌスは言います。『彼は羊を食い物にするためにその肉体に触れる、つまり、利用する。取引をし、金銭に執着している。貪欲になり、実にしばしば聖職売買のようなものにもなる。あるいは自らを高めるために、虚栄によって羊毛(民の体を覆うもの)を利用する』と」。

 パパは所見を述べた。「このように、一司祭、あるいは一司教が金銭を追い求めてく時、民は彼を愛しません。これがしるしなのです。けれど、彼自身が悪い結果で終わるのです」。聖パウロ自らの手に職を得ていたことを思い返して言った。「パウロは銀行には一切預金がなく、仕事をしていたのです。そして一司教、または一司祭が虚栄を追い求めていく時、競走を渇望するようになります。そしてこれは教会にひどく悪くはたらきます。最後にはバカなことをし、見栄を張り、人に万能であると見てもらいたがる……。そして民はこんなことは愛さないのです!

 フランシスコは繰り返して言った。「わたしたちが貧しくなるように、わたしたちが民への奉仕をしながら、へりくだった者、おとなしい者になれるように、わたしたちのために祈ってください」。そして、最後に、使徒言行録の2028節から30節を読むようにと勧めた。そこではパウロが「どうか、あなたがた自身と群れ全体に気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」。

 「この美しいページを読み、読みながら祈ってください。わたしたち司教や司祭たちのために祈ってください」とフランシスコは言った。そして加えて言った。

 「なぜならわたしたちには忠実であり続ける必要が多大にあるからです。そうして群れを見張り、同様にわたしたち自身のことをも見張る人となることができるのです。そうしてわたしたちの心がいつもその群れに向かうようになるでしょう。また主がわたしたちを誘惑から守ってくれるように祈ってください。なぜなら、もしわたしたちが富の道を行くなら、もし虚栄の道を行くなら、わたしたちはオオカミになってしまうのであって、牧者にはならないのです。このために祈ってください。この個所を読み、祈ってください。あれかし(アーメン)」。
(スペイン語訳:マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ)

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