ヨハネ14・6-14
バチカン、5月3日(バチカンニュース)
キリスト者は全員、勇気を持って信仰を伝達すべきである。これは今朝、聖マルタの家の小聖堂でのミサのなかで列席の信者たちに向かってなされた勧めである。この機会に、教皇はイエスがわたしたちを祈りにおいても勇気を持つようにと招いていることを強調し、キリスト者に「生ぬるい人」にならないようにと勧めた。ミサのなかで、そこにはソーシャル・コミュニケーション部の長官であるクラウディオ・マリア・チェッリ大司教が共同司式をしていたが、ローマ聖庁スイス兵警備隊が、そのダニエル・ルドルフ・アンリッヒ隊長とともに列席していた。ミサの終わりに、彼らに特別な挨拶の言葉を向けた。「皆さんの奉仕は、教会の忠誠の美しい証しであり、教皇への愛の証しです」と述べた。
「主がわたしたちすべてに」「勇気の恵み」と祈りにおける「継続力を下さるように」。これが教皇の望みで、ちょうど福音の宣言における勇気をテーマにした今日の説教の中心となった。わたしたち信仰を受けたキリスト者はすべて、「その信仰を伝えなければなりません」、「わたしたちの生き方と、わたしたちのことばを持って宣言しなければなりません」と言った。しかしでは、信仰の基本は何だろうか?教皇は、「復活されたイエスへの信仰、自分の死を持ってわたしたちの罪をゆるし、父をわたしたちを和解させて下さったイエスへの信仰」であることを強調した。
「そしてこのことを伝えるということは、わたしたちに勇敢になるように求めている。勇気です、しばしば、単純な。すみませんが、ひとつ個人的な話を思い出しました。わたしが子どもだったころ、私の祖母は聖金曜日になると毎回、わたしたちをろうそく行列に連れて行き、行列の最後に、横たわるキリスト像のところにたどり着きました。祖母はわたしたちにひざまずかせ、わたしたち子供たちはこう言ったものです。『見なさい。彼は死んでいます。けれど明日には復活するでしょう!』。信仰、死んで復活されたキリストへの信仰はこうやって入りました。教会の歴史において、何度も何度もこの強い確信をぼかそうと望み、霊的な意味での復活について語ろうとすることがありました。それではだめなのです。キリストは生きているのです!」
「キリストは生きています!」そして「わたしたちのあいだにも生きているのです!」とローマ司教(教皇)はよい知らせ、つまりその復活を宣言する勇気を持つようにとキリスト者に繰り返し勧告した。しかし、イエスがわたしたちに求めている他の勇気も存在することを思い出させた。
「イエスは」、と少し力を込めて言った。「イエスは、わたしたちに祈りへの挑戦をしてこう言っています。『わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう』(ヨハネ14章13-14節)。これは強いですよ!イエスのもとに赴き、『あなたがわたしにこのことをおっしゃったのですよ。かなえてください。信仰が育ちますように。福音化が進行しますように。このわたしが抱えている問題が解決しますように』とこのように願う勇気を持ちましょう。祈りにおけるこの勇気はありますか?それともただ、どのような形であれ、少し祈りで時間つぶしでもするように祈っているのでしょうか?あるいはあの勇気を、祈りにおいてもあの自由な発言権をもって祈っているのでしょうか?」
教皇は、聖書においてどのようにアブラハムとモーセが「主と取引をする」勇気を持っているかが書かれていることを思い出させた。「他の人々のため、教会のため」の勇気である。それは今日にも意味があるものである。「教会が勇気を失う時、教会に生ぬるさの雰囲気が入り込みます。生ぬるい人々。生ぬるいキリスト者。勇気のないキリスト者。教会に実にひどい危害を加えるキリスト者。なぜなら生ぬるさはあなたを自己完結的にし、わたしたちの間に問題を持ちかけます。目的もなく、勇気もなく、天に向かう祈りの勇気もなく、福音を告げ知らせる勇気すらありません。わたしたちは生ぬるいのです。そしてわたしたちには小さいことに干渉する勇気、妬みのうちに口出しする勇気、競争する気、自己中心的に進む気はあるのです。こうしたことには勇気があるけれど、それは教会のためにはならないのです。教会は勇気を持たなければなりません!わたしたちは皆、祈りにおいて、イエスの挑戦を受けながら、勇敢でなければならないのです」。
(RC-RV)
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