(伝統的な典礼歴に則り、三位一体の祝日後すぐの木曜日)
創世記14章18―20節
Iコリント11章23-26節
ルカ9章11b-17節
聖なるキリストの御体と御血の荘厳祝日に当たり、教父フランシスコはラテランの聖ヨハネ大聖堂の広間でミサをささげ、メルラナ通りを巡り、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の近くで頂点に達する聖体行列を執り行った。
その説教を、ローマ司教はそこにいた数多くの信者に向けて語り、聞いたばかりの聖ルカによる福音に、いつも気になるイエスの表現「あなたたちが食べさせなさい」(ルカ9章13節)という表現があることを引き合いに出すことから始めた。
このフレーズに端を発し、教皇は次の三つの言葉に従って語った。追従、一致、分かち合いである。
パパ・フランシスコはこの夜、本当にエウカリスティアにおられるキリストを礼拝しながら次のように自分自身に問いかけるように招いた。「自分はイエスに変えられるのをゆるすだろうか?」「主がご自身をわたしに差し出すのを受け入れ、自分の小さな囲いからますます出て行って主と他の人々に与え、分かち合い、愛することを恐れないようにと導かれることを認めるだろうか?」
追従、一致、参加。こう言いながらその説教を結んだ。「エウカリスティア(感謝の聖体祭儀)への参加がわたしたちにいつも次のことを呼び覚ますように祈りましょう。毎日主に従い、(聖体的)一致の道具となり、わたしたちなりのことを主とわたしたちの隣人と分かち合っていくこと。そうして、わたしたちの存在は本当に実りをもたらすものとなるのです」。
(MFB - RV).
――― 説教全文 ―――
愛する兄弟姉妹の皆さん、
今聞いた福音には、わたしをいつもどきっとさせるイエスの表現があります。それは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(ルカ9章13節)という表現です。このフレーズから、わたしは三つの言葉に導かれたいと思います。追従、一致、分かち合いです。
1.なによりも、食べさせなければならないその相手は誰でしょうか?答えは福音個所の初めに見出されます。群集、多くの人々です。イエスは人々の間にいて彼らを受けとめ、彼らに語り、彼らを癒し、彼らに神のあわれみを示します。その中で自分とともに留まり、世の具体的な状況に浸りこんでいくために12人を選びます。そして人々は彼に従い、彼に耳を傾けます。イエスが新しい仕方で、本物で一貫性のある人の権威をもって語り行動するからです。真理をもって語り行動し、神から来る希望を与え、愛である神の顔の啓示として語り行動するからです。そして人々は、喜びをもって、主をたたえるのです。
この夕刻には、わたしたちが福音の群衆です。わたしたちも何とかしてイエスに従い、耳を傾け、エウカリスティアにおいてイエスとの一致に入り、イエスと共に歩み、イエスがわたしたちと共に歩めるようにと試みています。自分自身に問いかけましょう。自分はどのようにイエスに従っているだろうか、と。イエスはエウカリスティアの神秘にある沈黙のうちに語り、ますます、イエスに従うということはわたしたち自身から出て行き、わたしたちの人生を自分の持ちものではなく、主と他の人々への捧げものとすることにあるのだということを思い返させます。
2.もう一歩先に進みましょう。イエスが弟子たちにしている、彼ら自身が群衆の飢えを満たすようにとの招きが生まれるのでしょう?二つの要素から生まれています。何よりも、イエスに従いながら、夕方になって寂しい所、人里離れたところにいることが確認され、その後弟子たちが心配して人々が町や家に言って泊るところと食べ物をさがしに去らせるようにとイエスに頼んだその群衆(ルカ9章12節参照)にあります。群衆の必要を前に、使徒たちの解決策はこれだったのです。一人一人自分で何とか考えるように。人々を去らせるとは!わたしたちキリスト者もこの誘惑に何度駆られることか!他の人々の欠乏の責任を負わず、「神があなたを助けてくださいますように!」という敬虔な言葉で去らせてしまうことがあるのです。けれども、イエスの解決策は他の方向に向かいます。弟子たちをドキッとさせる方向です。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。けれど、群衆に食べ物を与えるなど、わたしたちにどうすればできるというのでしょうか?「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。けれどイエスは諦めません。弟子たちに頼んで人々を五十人ずつくらいの共同体にして座らせ、その眼差しを上げて天に向け、祝福の言葉を口にし、パンを割き、人々に配るために弟子たちに与えます。それは深い一致の時です。主の言葉によって養われた群衆は、今やいのちのパンで栄養を摂ります。そして全員が満たされた、と福音記者は記しています。
この夕刻に、わたしたちも主の食卓のまわりにいます。エウカリスティアのいけにえの食卓です。今一度イエスがそこでわたしたちに自分の体を与え、十字架の唯一のいけにえを現存させる食卓を囲んでいるのです。それはそのみ言葉への傾聴において、その体とその血で栄養を摂ることにおいて、主がわたしたちを群衆から共同体へと移行させ、無名の状態から(聖体的)一致へと移行させる場なのです。エウカリスティアは一致の秘跡です。それは個人主義からイエスへの追従と信仰を共に生きるためにわたしたちを引っ張り出します。そこでわたしたちは主の前で自問しなければならないでしょう。わたしはどのようにエウカリスティアを生きているだろうか?無名の一人としてだろうか、それとも主との本当の一致、しかし同時にこの同じ食卓を分かち合うこれだけ多くの兄弟姉妹との一致の瞬間として生きているのだろうか?わたしたちのエウカリスティアの祭儀はどうなっているのだろう?と。
3.最後の要素です。どこからパンの増殖が生まれるのでしょう?答えはイエスの弟子たちへの招きに見出されます。「あなたたちが彼らに与えなさい」、「与える」、分かち合う。弟子たちは何を分かち合うのでしょう?持っているほんの少しのもの、五つのパンと二匹の魚です。けれどちょうどそのパンとその魚が主の手の内にあり、すべての人の飢えを満たすのです。そしてちょうどその弟子たち、自分の可能性の無力を前に、差し出せるものの困窮を前に当惑しているその弟子たちこそが、大群衆を座らせて、イエスの言葉に信頼して、群衆の飢えを満たすパンと魚を配るのです。そしてこのことはわたしたちに、教会において、しかし社会においても、恐れてはならないキーワード、つまり「連帯」という言葉が存在することを指摘します。連帯とはつまり、「持っているもの、わたしたちのつつましやかな能力を神のために使う心構えをすること」を言います。なぜなら分かち合うことにおいてのみ、自分を差し出すことにおいてのみ、わたしたちのいのちは肥沃になる、実りをもたらすのです。連帯。世の精神からはあまりよい風に見られない言葉です。
この夕刻に、今一度、主はわたしたちのためにパンを配ります。それは自分の体です。自らがプレゼントになるのです。そしてわたしたちも、飢えとの「神の連帯」、決して尽きることのない連帯、わたしたちを驚かせてやまない連帯を経験するのです。神がわたしたちの側におられる方となり、十字架のいけにえにおいてわたしたちにいのちを差し出すために死の暗闇に入りながらへりくだり、悪や自己中心主義、死に打ち勝つのです。この夕刻にもイエスはエウカリスティアにおいてご自身を捧げ、わたしたち自身の歩みを分かち合い、さらに自分自身を糧とします。自ら、道が困難になり、障害がわたしたちの歩みにブレーキをかけるときにわたしたちの人生を支える本物の糧となるのです。エウカリスティアにおいて、主はわたしたちがご自身の歩みを踏襲するようにします。その歩みとは、あの奉仕の道、分かち合いの道、自己贈与の道、持っているものが少なくとも、わたしたちの人数が少なくても、もし分かち合われるならば豊かさとなる道です。なぜなら神の力は、わたしたちをに変化をもたらすためにわたしたちの貧しさのもとに降って来られる愛の力だからです。
この夕刻にですから、エウカリスティアにおいて本当においでになるキリストを礼拝しながら自問しましょう。わたしは主のもたらす変化を受け入れるだろうか?わたしは主がわたしにご自身を与えられるというのを認め、わたしの小さな空間からますます出て行って主と他の人々に与え、分かち合い、愛することを恐れないようにと導くその手に委ねるだろうか?、と。
追従、一致、分かち合い。エウカリスティア(感謝の聖体祭儀)への参加がわたしたちにいつも次のことを呼び覚ますように祈りましょう。毎日主に従い、(聖体的)一致の道具となり、わたしたちなりのことを主とわたしたちの隣人と分かち合っていくこと。そうして、わたしたちの存在は本当に実りをもたらすものとなるのです。アーメン。