バチカン4月1日9時45分(ACI/EWTNニュース)
復活の八日間、『天使の月曜日』という名で親しまれている復活の月曜日を祝う「レジナ・チェリ」の祈りを司式するにあたり、教皇フランシスコは憎しみが愛に場を譲り、悲しみが喜びに明け渡すために、わたしたちの生活で悪に対するキリストの勝利を迎えるようにと、皆を促した。
サン・ピエトロ広場に集まった何千もの信者を前に、教皇は次のような言葉を発した。
愛する兄弟、姉妹の皆さん、
復活祭、おめでとう!今日もこんなにも復活の喜び、わたしたちの信仰の中心となる神秘を分かち合うためにやってきてくれたことに感謝します。キリストの復活の力が一人一人に届き、特に苦しんでいる人たちに届き、また(神への)信頼と希望を最も必要としている状況にある人たちに届きますように。キリストは悪に対して完全で決定的な形で勝利したのですが、わたしたち、どの時代のどんな人でもしないといけないのは、この勝利をわたしたちの人生の中に、また歴史や社会の具体的な現実の中に迎える、ということです。
ですから、今日、典礼の中で神に願うことをアンダーラインを引くつもりで強調するのは大切なことと思われるのです。「あぁ、お父さん(=神様のこと)、いつもあなたは新しい息子たちを教会に与えながら、教会が成長するようにしてくださいます。信者が信仰をもって受け入れた秘跡をその生活の中で表現することができますように」(復活の月曜日の集会祈願)。そうです、わたしたちを神の子らとする洗礼や、キリストとわたしたちを結びつけるエウカリスティア(聖体祭儀、感謝の祭儀、ミサ)は、生活になっていかなければなりません。つまり、態度、振る舞い、しぐさ、選択の仕方などで表現できるように解釈されなければならないのです。
過ぎ越しの諸秘跡のうちにある恵みというのは、個人の存在のため、家庭生活のため、社会の人間関係のために、大いなる刷新をもたらす力をはらんだものなのです。けれど、いずれにしても人の心を通って行きます。もしキリストの恵みがわたしに届くがままにするなら、もしよくないわたしのその部分、わたし自身にも他の人にも悪いわたしのその部分においてキリストがわたしを変える、ということを許すなら、もしわたしが、キリストの勝利がわたしの人生の中で確かなものとなり、その物事をよく変えていく働きが広まっていくのを認めるならば、ということです。
これが恵みの力なのです!恵みなしでは何もできないのです。恵みなしではわたしたちは何ものでもあり得ないのです。そして洗礼の恵み、エウカリスティア的一致の恵みがあれば、神の恵みの道具となっていくことができるのです。 その神の美しいあわれみの道具に!わたしたちが受けた秘跡を生活で表現すること。ここに、愛する兄弟、姉妹の皆さん、ここにわたしたちの日々の努めがあります。けれど、こうも言えるでしょう。ここに日々の喜びがあるのです、と!聖霊のリンパ腺を通って力を与えられながら、キリスト自身であるブドウの木の枝として、キリストの恵みの道具であることを感じる喜びです!
死んで復活した主の名において、共に祈りましょう。聖母マリアの取り次ぎによって、過ぎ越しの神秘がわたしたちの中で、わたしたちの時代の中で深く働き、憎しみが愛に、欺瞞が真理に、復讐がゆるしに、悲しみが喜びに場を明け渡しますように。
(レジナ・チェリの祈りが終わってから、力強くおっしゃっいました)
キリストは復活されました!!!
みなさん、よい復活祭を!復活祭、おめでとう!おいしく昼ご飯を食べてください!
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