2013年4月18日木曜日

4月17日朝ミサ:教会はベビーシッターになっていてはならない。(日本の隠れキリシタンの信仰に触れながら)

朗読個所  :  使徒言行録8・26-40
           ヨハネ6・44-51
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31808154.html?type=folderlist

バチカン4月17日13時32分(ACI)

写真提供: Facebook/News.va Español
  
 バチカンの従業員と共に聖マルタの家での毎日のミサを捧げるにあたり、今朝教皇フランシスコは、キリスト者たちは洗礼の結果を受けとめ、キリストを告げ知らせなければならない、なぜならこの献身がないならば教会は母であることを放棄することになるからであるということを思い出させた。

  キリストを告げるのを放棄する時「教会は母であることを放棄し、子供が寝るまで見守るだけのベビーシッターになってしまいます。それは教会の潜伏状態です」。だからこそ「わたしたちの洗礼について、わたしたちの洗礼のもたらす応答責任について考えましょう」と説明した。

 教皇は「キリスト者であるということは、キリスト教徒の弁護士や医者になるためにその道の学問を研究することではありません。違います。キリスト者であるということは、イエス・キリストを告げ知らせる聖霊の力をもって前進させる賜物なのです」と思い出させた。

 「わたしたち洗礼を受けた者にとって大きな責任(応答する務め)があります。キリストを告げ知らせること、教会を前に進めることです。この母性は教会において実りをもたらします」と教皇は熱弁した。

 「しばしば、『いや、まぁ、でもわたしはキリスト者ですよ。洗礼を受けたし、堅信もしたし、初聖体もしたし…身分証明書はできているから、もういいでしょう』と考えがちです。では、もうゆっくり眠りなさい、あなたはキリスト者ですから。でも…、あなたを歩みへと導く聖霊の力はどこに行ったのでしょうか?」と問いかけた。

 わたしたちの生き方、わたしたちの証し、そしてわたしたちのことばをもってイエスを告げ知らせるために聖霊に忠実となることが欠けています」。

 教皇は17世紀の日本での迫害の時に、カトリックの宣教師たちが国外追放された時、キリスト者共同体は司祭なしで200年もの間信仰を保ったことを思い出させた。日本に宣教師たちが返り咲いた時、「全共同体がそのいたところにいて、皆洗礼を受けており、皆要理を学んでおり、皆教会で結婚をしていた」のを見出した。そしてそれは「洗礼を受けた人々の努力のおかげでした」。

 最初のキリスト者たちの迫害の間、マリアは「たくさん祈っていた」ことを教皇は思い出させた。そしてマリアは聖ステファノの殉教をはじき出した暴力的な迫害にもかかわらず勇気をもって前進し続けるために洗礼を受けた人々を励ました。

 「これは少し教会の生活スタイルにあります。愛徳の平和と迫害のはざまです」。これはいつの歴史の時点でも起こることであるのは「それがイエスのスタイルだからです」と言った。


 迫害と共に、多くの信者は逃げだし、司祭もなくただ福音の宣言のみのうちに留まった。家を手放し、何も持たず、危機にさらされていたが、各地を転々として歩き回りながら、み言葉を告げ知らせた。

 「彼らは持っていた富を持ち運んだのです。それは信仰という富です。主が彼らに与えた富なのです。けれど、歩き、告げ知らせる勇気がありました。そして皆彼らを信じたのです!奇跡をおこなったのです!」とフランシスコは声を張り上げた。

 「この最初のキリスト者たちには、洗礼の力のみがあり、使徒的勇気、聖霊の力を受けたのですが、このことはわたしたち、洗礼を受けた者のことを考えさせます。そしてこの力がわたしたちにはあるかどうかを自問し、考えます。しかし本当に洗礼さえあれば大丈夫、福音化するために充分である、とわたしたちは信じていますか?」

 「わたしたちの証しと、またわたしたちのことばを通して、わたしたちの生活においてイエス・キリストをのべ伝えるようにといつもわたしたちを励ます洗礼がもたらした、わたしたちのうちにある聖霊に信頼した、勇気ある受洗者となる恵みを主に願い求めましょう」。


4月18日バチカンニュースからの投稿↓

 洗礼の力はキリスト者を、安全性のない場合にも、迫害のさなかでも、キリストを告げ知らせる勇気をも問うようにと後押しする。昨日教皇フランシスコが聖マルタの家でささげた朝ミサの間の説教で確言したことばである。エルサレムの最初のキリスト教共同体と聖ステファノの殉教の後に始まった迫害について語りながら、教皇は「教会のライフスタイルには、少しこう言うところもあります。愛徳の平和と迫害のはざま、というところです。なぜならそれがイエスのスタイルだからです」。

 「家を離れ、自分たちの身の回りのものはほんの少しのものでした。家は安全でした。けれど転々としながらみ言葉を伝えるようになりました。身の回りのものというのは、持っていた富ですが、その富は、信仰のみでした。それは主が彼らに与えた富でした。彼らは簡素で忠実な人たちでした。ほんの一年ほど前に洗礼を受けたばかりの人たちでした。けれど告げ知らせに行くための勇気を持っていました。そして、彼らは信頼に値する人でした!そして奇跡を行いました!」

 最初のキリスト者たちには、ただ洗礼の力のみがあった。それは彼らに使徒としての勇気を与えるものであった。それは聖霊の力であった。フランシスコは洗礼を受けた者としての応答責任を再発見するようにと招いた。

 「わたしたち洗礼を受けた者には大きな責任が課せられています。キリストを告げること、教会を前進させることです。この教会の実りをもたらす母性を推し進めることです。キリスト者であるということは、ある研究コースを終えて、キリスト者弁護士や医者になる、ということではありません。キリスト者であるということは、イエスキリストの宣言において聖霊の力を持ってわたしたちが前進することができるようにする恵みなのです。

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