ヨハネ1-・22-30
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バチカン、4月23日10時20分(ACI/EWTNニュース)
自分の霊名である聖ゲオルギオス(=ジェオルジオ、ホルヘ〔西〕、ジョージ〔英〕、ゲオルグ〔独〕) の祝日のミサを捧げるにあたり(その名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオですから)、「教会の外でイエスと出会うということは、不可能です」と指摘した。
バチカンのパウリーナ小聖堂でローマに住む枢機卿たちと共に捧げられたミサの中で、教皇は参列者に感謝をのべ、その説教は次の三点を中心に繰り広げられた。すなわち、初期キリスト教徒の福音化への熱意、信仰の母である教会、そして宣教師の喜びの三点である。
説教全文 (Vatican.vaのスペイン語版からの翻訳)
敬愛すべき代理枢機卿、お言葉、ありがとうございます。どうもありがとう、枢機卿様、ありがとうございます。
また皆さんにも、今日こうしてこのミサに来てくださって、ありがとうございます。みなさんから歓迎されていることをすごく感じます。ありがとう。皆さんといると居心地がいいです。こういう感じが好きです。
今日の第一朗読を読むと、迫害が勃発し、教会の宣教活動も目立つまさにその時のことを考えさせられます。あのキリスト者たちはフェニキア、キプロス、アンティオキアまで到達し、み言葉を告げ知らせていたのです(使徒11章19節)。心の内にこの使徒的熱意をたたえていました。このようにして信仰というのは広まって来たのです。キプロスやキレネの出身の者の中には、この人たちではなく、他のキリスト者となった人たちなのですが、アンティオキアに着くなり、ギリシャ人たちにも話し始めた人もいました(使徒11章20節)。さらなる一歩です。そして教会というのはこのように前進し続けます。「ユダヤ人にしか告げ知らされていなかったのですから、何を言っているか分らないようなことをギリシャ人たちに語ろうというこのイニシアティブは、誰から得られたものなのでしょうか?それは、聖霊からのものです。あのさらに、もっと、常により前に、と後押ししていたお方です。けれどもエルサレムには、これを聞くと、少し神経質になった人もいました。そうしていわゆる『使徒的訪問の使節』を送りました。バルナバを送ったのです(使徒11章22節)。おそらくユーモアのセンスをもって言えば、バルナバの訪問は、教理省の神学的始まりとも言えるでしょう(笑)。バルナバは物事がうまくいっているのを見ました(使徒11章23節)。このように、教会は母なのです。もっと多くなってきた息子たちの母、さらにずっと多くなってきた息子たちの母です。母になっていきます。ますます母らしくなります。信仰をわたしたちに与える母です。わたしたちにアイデンティティを与える母です。けれども教会のアイデンティティは、IDカード(身分証明書)ではありません。キリスト者の アイデンティティは、教会に属するということにあります。なぜならあの頃の人々は皆教会に属していたからです。母である教会に属していたのです。なぜな ら、教会の外では、イエスに会えないからです。偉大な教皇パウロ6世はこう言っていました。教会なしでイエスと生きたいと望むこと、教会の外でイエスに従いたいと望むこと、教会なしでイエスを愛したいと望むというのは、不条理な二分法だ、と(使徒的勧告『福音宣教』16参照)。そしてわたしたちにイエスを下さる母なる教会がわたしたちにアイデンティティをもたらすのです。それはただの印鑑ではなく、属することそのもの なのです。アイデンティティとは属性のことです。教会に属すること、これはなんと美しいことでしょう!
わたしの頭に浮かぶ三つ目のアイデアは―― つまり一つ目は、宣教の前進が始まったこと、二つ目は、母なる教会ですが ――、バルナバがあの群衆を見た時―― テキストは「こうして、多くの人が主へと導かれた」と言っています(使徒11章24節)――、あの群衆を見て、喜びました。「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜」んだのです(使徒11章23節)。それは福音宣教者に特有の歓喜です。それは、パウロ6世が言っていた、「福音宣教のスイートで(甘みを感じさせ)満足感をもたらす喜び」なのです(『福音宣教』80、訳者注:原文最後の段落参照。中央協議会の翻訳では「福音宣教の喜び」としか訳出されていません)。そしてこの喜びは、迫害と共に、大いなる悲しみと共に始まり、喜びをもって終わります。そのように、教会は前進し続けるのです。ある聖人が、今誰だったか覚えていませんが、言っています。「世の迫害と主の慰めのはざまで」と(アウグスティヌス『神の国』18、51、2:PL41、614参照)。教会のいのちとはそのようなものです。もしマカバイのように、世俗的な道を少し行こうとして、世との取引をしながら行こうと望むなら、主の慰めを得ることは決してないでしょう。もし慰めだけを求めるならば、それは表面的な慰安に過ぎず、主からの慰めではありません。それは人間的慰めなのです。教会は、いつも十字架と復活の間、迫害と主の慰めの間にあります。そしてこれこそが道なのです。この道を行く人は誤ることがありません。
今日、教会の宣教活動の推進力について考えましょう。自分自身の殻から抜け出して福音を告げに出て行った弟子たちの中には、ギリシャ人に対して宣教するとい う、当時にしてみればスキャンダルに近かったことをする勇気を持つ者までいました(使徒11章19-20節)。この育ちゆく母なる教会のことを考えましょう。自らが信仰のアイデンティ ティーを与えている新しい息子たちと共に育ってゆく母なる教会です。なぜなら教会なしでイエスを信じることはできないからです。イエス自身も福音において述べています。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」(ヨハネ10章26節)というように。もしわたしたちが「イエスの羊」でないならば、信仰は届きません。その信仰は、バラの花びらエキスのような信仰で、実体がないのです。そこでバルナバが体験した慰めについて考えましょう。それはまさに「福音宣教者のスイートで満足感をもたらす喜び」です。そして主に、その単刀直入な語り、わたしたち全員が、兄弟として、前進し続けるようにわたしたちを押し出す使徒的熱意を求めましょう。前へと!聖イグナシオが言っていたように、位階的であり、普遍的(カトリック)である、聖なる母なる教会のふところにおいて、イエスの名を運びながら、前進しましょう!なれかし(アーメン)。
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