ヨハネ12・44-50
http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31847301.html?type=folderlist)
バチカン4月24日(バチカンラジオ)
4月24日水曜日の要理の時間に、サンピエトロ広場に集まった8万人以上の巡礼者を前に、ローマ司教は信仰宣言で告白される真理のひとつの神秘に入 るのを助ける、三つの福音書の個所について考えを巡らせた。そこではイエスは「改めて生きるものと死せるものを裁くために栄光に満ちてこられる」とある。
この枠内で、フランシスコは待つ時というのは、最終的な来臨の前にイエスが下さる時間であると表明した。若者について語りながら、彼らにこう言った。「そ のタレントを地中に埋めないでください!人生というのは自分自身のために保存されるためにあるわけではないのです。差し出すためにあるのです」。
「最後の審判のたとえの中で、主の再臨が描かれ、愛徳において裁かれるであろうと警告がなされています。つまり、他者、特により助けを必要としている人を どれだけ愛したかによってこれがなされると描写しています」と確言した。そして「望まれていることというのは、出会いのために準備してあることです。つま り、その現存のしるしを見る能力であったり、祈りと秘跡によって信仰を活き活きと保つことであったり、神を忘れないために眠ってしまわないようにするため に目覚めていようとすることであったりします」。「この今の時に、神がわたしたちのためにあわれみと忍耐をもってささげ、そうして日増しに貧しい人々の中 に主を認めることを学ぶ」ように警告しています。そして全ての人が「神があわれみと忍耐をもってささげる今ということの時を生き、日々貧しい人々の中にイ エスを見出すことを学ぶように」と招いた。
(イエズス会士ギリェルモ・オルティス訳)
正式には、中央協議会の翻訳をどうぞ→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0020.htm
「バチカン放送局」(日本語ページ)2013-04-24 19:02:09の記事↓
「自分に閉じこもらず、神から与えられたものを奉仕に用いよう」教皇、一般謁見で
教皇フランシスコは、バチカンで24日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は使徒信条の考察を続けながら、この日は「主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」という部分を取り上げられた。
そして、マタイ福音書中の「十人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、そして「最後の審判」についてのイエスの説教の3ヶ所を引用しつつ、キリストの再臨と最後の審判を、「今」を生きる自分たちの信仰生活の中から見つめるよう招かれた。
教皇のカテケーシスは以下のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
使 徒信条の中で、わたしたちは「主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」と宣言します。人類の歴史は男と女が神の姿に似るも のとして創造されたことに始まり、キリストの最後の審判で終わります。歴史のこの両極は忘れられていることが多く、特にキリストの再臨と最後の審判につい ては、キリスト者にとってよくわからずあいまいなものとなっていることもしばしばです。
イエスは公生活の間、よくご自身の最後の到来につ いて言及されました。今日は、イエスが「時の終わり」について語るマタイ福音書の3つの箇所、「十人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、そして 「最後の審判」についての説教に耳をよく傾けることで、この神秘に触れてみたいと思います。
まず、キリストの昇天を思い出しましょう。神 の御子は彼自身がその身に負われたわたしたちの人性を御父のもとにもたらしました。そして歴史の終わりにすべての現実が御父のもとに託される時まで、すべ ての人々・世界を自分に引き寄せながら、神の開かれた腕の中に導くことを望まれました。しかし、キリストの最初の降臨から最後の再臨までの間のこの時間を わたしたちは今、生きているのです。
「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25,1-13)は、この「今の時間」を背景に語られています。 それはこういう話です。十人のおとめが花婿の到着を待っていますが、そのうちの愚かなおとめたちは眠り込んでしまいました。花婿が間もなく着くとの突然の 知らせに、皆は迎え出る準備をしますが、五人の賢いおとめたちはともし火のための油を用意していたのに対し、愚かな五人は油の用意がなかったために火のつ いていないランプを抱えることになりました。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に花婿は到着し、彼女たちは婚宴の席に入るための扉を閉ざされてし まいます。彼女たちは扉を何度もたたきますが、すでに遅すぎました。花婿はこう答えます。「わたしはお前たちを知らない」。
花婿とは主で す。そして花婿の到着を持つ時間とは、主がその再臨の前に、わたしたちに憐れみと忍耐をもって与えられた時間なのです。それは目覚めているための時間で す。信仰と希望と愛のともし火を保っているべき時間、善と美と真理に心を開いているべき時間です。キリストの再臨がいつなのかわたしたちは知らないゆえ に、神の御心に従って生きるべき時なのです。
わたしたちが命じられたことは、出会いのための準備、イエスとの出会いという素晴らしい邂逅 のために準備していなさい、ということです。それは、イエスの現存のしるしを見出し、祈りや秘跡を通して信仰を生き生きと保ち、神を忘れないために眠り込 まずに目覚めているということを意味します。眠り込んでしまったキリスト者の人生は悲しいものです。それは幸せな人生ではありません。キリスト者はイエス の喜びのもとに、幸福でなくてはなりません。眠り込んではなりません!
2番目のたとえは「タラントン」の話(マタイ25,14-30)です。これは、わたしたちが神から受け取った賜物をどのように使うかということと、主が戻ってこられ、わたしたちにそれをどのように使ったかを尋ねられる時との関係を考えさせます。
こ のたとえはわたしたちがよく知っているとおりです。主人は旅に出る前にすべてのしもべたちに何タラントンかのお金を預け、彼の留守中にそれを有効に使うよ うにさせました。最初のしもべには5タラントン、2番目のしもべには2タラントン、そして3番目には1タラントンを与えました。主人の留守中に最初の2人 は彼らのタラントン-古代の通貨のことですが-、これを増やしました。これに対し、3番目のしもべは自分のタラントンを地面に隠し、主人にそのまま渡しま した。
帰った主人はしもべたちの働きを評定します。最初の2人を褒め、3番目のしもべを外の暗闇に追い出します。なぜなら彼は恐れのため にタラントン(=タレント)を隠し、自分の中に閉じこもっていたからです。キリスト者が自分の中に閉じこもり、主が与えられたものをすべて隠してしま う、…これはキリスト者ではありません。神から与えられたすべてに感謝しないのは、キリスト者ではありません。
このたとえは、主の再臨を 待つ時間は、行動の時間であることをわたしたちに教えています。わたしたちは行動の時にあるのです。神からの賜物をわたしたちのためではなく、神のため、 教会のために実らせる時です。世界により多くの善を育てるよう努力する時です。特にこの今日の危機にあって、自分の中に閉じこもらないことが大切です。主 がわたしたちに与えてくださったすべてのもの、自分の才能、精神的・知的・物的豊かさを埋もれさせず、自分を開き、他の人々に関心を持ち、連帯することが 必要です。
この広場に多くの若者を見ました。そうでしょう?大勢の若者たち、どこにいますか?人生の歩みを始めた皆さんに聞きます。神様 が皆さんに与えた才能について考えたことがありますか?どうしたら他の人たちに奉仕できるか、考えたことがありますか?才能を埋もれさせてはいけません。 大きな理想、心を広げさせ、あなたたちの才能を豊かに実らせる奉仕の理想に賭けてください。人生は、自分の中にそれを大事にしまっておくために与えられた のではありません。それは与えるために、与えられたのです。親愛なる若者たち、大きな心を持ってください。偉大なことを夢見るのを恐れないでください。
終わりに「最後の審判」についての箇所 (マタイ25,31-46) を考察しましょう。
こ こには主の再臨が書かれています。その時、主は、すべての人間、生者と死者を裁かれます。ここで福音書記者が用いているのは、牧者が羊と山羊とを分けるイ メージです。右には、神の御旨に従って行動した人たち、飢え渇いた人、異邦人、着る物のない人、病気の人、囚人たちを助けた人たちが置かれます。異邦人と 言いましたが、このローマ教区にもいる多くの外国人たちのことを思います。彼らのためにわたしたちは何ができるでしょうか。この一方で、隣人に手を差し伸 べなかった人たちが、左に置かれます。
これは、わたしたちが愛について神から裁かれるだろうということを言っているのです。わたしたちが どのように兄弟たちを、特に弱く貧しい人たちを愛したかということです。もちろん、わたしたちは恵みによって、神の先立つ無償の愛の行為によって、義とさ れ、救われたということを忘れてはなりません。自分たちだけではわたしたちは何もできないのです。
信仰は何よりもわたしたちが受け取った 賜物です。しかし、それが実りをもたらすために、神の恵みは、常にわたしたちが神ご自身に向かって開くことと、わたしたちの自由で具体的な答えを要求しま す。キリストは神の救いの憐れみをわたしたちに伝えてくださいました。そして、ご自分に信頼し、その愛の贈り物にふさわしい、信仰と愛に動かされた行いか らなる、良い人生をわたしたちに願われました。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、最後の審判を見ることは、わたしたちにとって決して恐ろしいこ とではありません。それはむしろ、今この時をより良く生きるように促してくれるのです。神は、わたしたちが毎日、貧しい人や小さき人々の中に神ご自身を見 出し、善のために働き、祈りと愛のうちに目覚めているようにと、憐れみと忍耐をもってこの時をわたしたちに与えられました。わたしたちの人生と歴史の終わ りに、主がわたしたちを良い忠実なしもべとして認めてくださいますように。
(バチカン放送局さんのもとのページhttp://ja.radiovaticana.va/news/2013/04/24/%E3%80%8C%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AB%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%93%E3%82%82%E3%82%89%E3%81%9A%E3%80%81%E7%A5%9E%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%82%92%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%AB%E7%94%A8%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%86%E3%80%8D%E6%95%99%E7%9A%87%E3%80%81%E4%B8%80%E8%88%AC%E8%AC%81%E8%A6%8B%E3%81%A7/gia-686145)
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