朗読個所 : 使徒言行録5・27b-32、
40b-41
黙示録5・11-14
ヨハネ21・1-19
:http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_pasqua03sun.php#first
バチカン4月15日11時10分(ACI/EWTNニュース)
40b-41
黙示録5・11-14
ヨハネ21・1-19
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バチカン4月15日11時10分(ACI/EWTNニュース)
教皇城壁外聖パウロ大聖堂にて写真提供: News.va
教皇はローマの司教として初めて城壁外の聖パウロ大聖堂を訪れたが、その復活節第三主日ミサの説教において、教皇フランシスコは「わたしたちの日々の生活のことばと証しで」神を告げ知らせるようにと望んでおられることを信徒に対して指摘した。
教皇は「主はわたしたちを毎日、自分に勇気と忠誠をもってついて行くようにと呼びかけます。 わたしたちに大いなる賜物を下さいました。それはわたしたちを自分の弟子として選ばれたという賜物です。復活者のように喜びをもって神を告げ知らせるようにとわたしたちを招きますが、それを日々のわたしたちの生活のことばと証しをもって行うようにと望まれます」と指摘した。
「主は唯一です。わたしたちの人生の唯一の神なのです。そしてわたしたちが実に多くの偶像を捨て去り、ただ主のみを拝むようにとわたしたちを招きます。告げ知らせ、証しをし、拝むようにと」と教皇は強調した。
自分の城壁外聖パウロ大聖堂への訪問に触れながら、フランシスコは「わたしたちはパウロの墓の上にいます。パウロと言えば主の大いなる使徒で、言葉をもって主を告げ知らせ、殉教をもって主の証しをし、心の限りを尽くして主を拝みました」と指摘した。
教皇は「ペトロと使徒たちは力強く精密に、自分たちが受けたこと、イエスの福音を告げ知らせました。ではわたしたちは生活環境に神の言葉を運んでいくのにふさわしいでしょうか? わたしたちの日々の生活の一部である家族において、わたしたちに示されたキリストについて語るすべを知っているでしょうか?
「信仰は聞くことによって生まれ、宣べ伝えることによって改めて強められるのです」と強調した。さらに教皇は、「ペトロと使徒たちのした宣言は、言葉だけによるものではなく、キリストへの忠誠がその生活に入るようにし、わたしたちが変えられるようにし、新たな指示を仰ぎ、まさにキリストについての宣言と信仰の証しをするその生き方によるものでした」と再確認した。
イエスからペトロになされたその羊の群れを牧するようにという三回にわたる願いと「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という宣言は「わたしたち、司牧者に」向けられている、と教皇は言った。
「もし神のみ旨によって連れて行かれること、しかも行きたくないところに連れて行かれることまで受け入れられないなら、またもし出し惜しみも、打算もなく、しばしばわたしたちのいのちを危機にさらしてまでの、わたしたちの献身をもってキリストの証しをする心構えがないならば、神の群れを牧することはできません」。
教皇は「これは誰にも言えることです。福音は告げ知らされ、証しされなければなりません」と強調した。「一人一人が自問しなければなりません。自分はどのように自分の信仰をもってキリストの証しをしているだろうか?神に素直に従いながら、キリスト者としてペトロや使徒たちのように考え、決断し、生きる勇気があるだろうか?と」。
「大きな城壁に様々な色や形の石があるように、信仰の証しが多様なのは事実ですが、どれも、目立たない者までもが重要なのです」。
教皇は「日々の聖人というのがいます。「隠れた」聖人たちです。フランス人の作家が言っていたように、ある種「聖性の中産階級」とも言えるでしょうか。その「聖性の中産階級」にわたしたちは誰でも加わることができるのです」と指摘した。
「けれども、世の様々な場所で、ペトロや使徒たちのように、福音が理由で苦しむ人もいます。血の値で染められた証しをもって、キリストに忠実であり続けながら、自らのいのちを捧げる人もいます」。
教皇はまた「信徒や司牧者の、言っていることとやっていることの間のずれ、言行不一致は、教会の信ぴょう性を脅かす地雷のようなものです」と忠告した。
神のことを告げ、証しするということは、教皇が指摘するところによると、「イエスを認識して」初めて可能になる。「なぜならイエスこそがわたしたちを呼び、わたしたちをその歩みに従って巡り歩くように招き、わたしたちを選んだ方だからです」。
フランシスコは「イエスとの密度の高い関係、対話の成り立つ近さ、いのちの通い合う近さを生きることで、イエスを『主(主人)』であると認識することができるようになること」の必要性を説いた。
教皇はさらに、「そこのあなたも、わたしも、皆、自問しましょう。主を礼拝していますか?願いごとをしたり感謝をしたりするためだけに神を呼び求めるのでしょうか?それとも神を礼拝するためにも神に向かっているでしょうか?」
「しかし、では、神を礼拝するとは、何のことでしょうか?それは神と共にいることを意味します。神の現存こそが何よりも真で、善く、重要であると感じながら彼と対話をするために足を止めることを意味するのです。
教皇は「主を礼拝するとは、主にふさわしい場を主に与えるということです。主を礼拝するということは、ただ主のみがわたしたちの人生を本当に導いておられるということを、言葉だけではなく認め、信じることです。主を礼拝するとは、主が唯一の神、わたしたちの人生の神、わたしたちの持つ歴史の神であるということを、主の前で納得することです」と説明した。
神を礼拝することには、「わたしたちの人生における結果があります。多くの偶像を自分から取り去ることです。偶像には小さいものから大きいものまであります。それはわたしたちが持っているものです。それはわたしたちが逃げ場としていること、わたしたちが求めていること、そしてしばしばわたしたちの安定をそこに求めているものです」と指摘した。イエスからペトロになされたその羊の群れを牧するようにという三回にわたる願いと「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という宣言は「わたしたち、司牧者に」向けられている、と教皇は言った。
「もし神のみ旨によって連れて行かれること、しかも行きたくないところに連れて行かれることまで受け入れられないなら、またもし出し惜しみも、打算もなく、しばしばわたしたちのいのちを危機にさらしてまでの、わたしたちの献身をもってキリストの証しをする心構えがないならば、神の群れを牧することはできません」。
教皇は「これは誰にも言えることです。福音は告げ知らされ、証しされなければなりません」と強調した。「一人一人が自問しなければなりません。自分はどのように自分の信仰をもってキリストの証しをしているだろうか?神に素直に従いながら、キリスト者としてペトロや使徒たちのように考え、決断し、生きる勇気があるだろうか?と」。
「大きな城壁に様々な色や形の石があるように、信仰の証しが多様なのは事実ですが、どれも、目立たない者までもが重要なのです」。
教皇は「日々の聖人というのがいます。「隠れた」聖人たちです。フランス人の作家が言っていたように、ある種「聖性の中産階級」とも言えるでしょうか。その「聖性の中産階級」にわたしたちは誰でも加わることができるのです」と指摘した。
「けれども、世の様々な場所で、ペトロや使徒たちのように、福音が理由で苦しむ人もいます。血の値で染められた証しをもって、キリストに忠実であり続けながら、自らのいのちを捧げる人もいます」。
教皇はまた「信徒や司牧者の、言っていることとやっていることの間のずれ、言行不一致は、教会の信ぴょう性を脅かす地雷のようなものです」と忠告した。
神のことを告げ、証しするということは、教皇が指摘するところによると、「イエスを認識して」初めて可能になる。「なぜならイエスこそがわたしたちを呼び、わたしたちをその歩みに従って巡り歩くように招き、わたしたちを選んだ方だからです」。
フランシスコは「イエスとの密度の高い関係、対話の成り立つ近さ、いのちの通い合う近さを生きることで、イエスを『主(主人)』であると認識することができるようになること」の必要性を説いた。
教皇はさらに、「そこのあなたも、わたしも、皆、自問しましょう。主を礼拝していますか?願いごとをしたり感謝をしたりするためだけに神を呼び求めるのでしょうか?それとも神を礼拝するためにも神に向かっているでしょうか?」
「しかし、では、神を礼拝するとは、何のことでしょうか?それは神と共にいることを意味します。神の現存こそが何よりも真で、善く、重要であると感じながら彼と対話をするために足を止めることを意味するのです。
教皇は「主を礼拝するとは、主にふさわしい場を主に与えるということです。主を礼拝するということは、ただ主のみがわたしたちの人生を本当に導いておられるということを、言葉だけではなく認め、信じることです。主を礼拝するとは、主が唯一の神、わたしたちの人生の神、わたしたちの持つ歴史の神であるということを、主の前で納得することです」と説明した。
こうした種々の偶像は、しばしばほぼわからないほどに上手に隠れ潜んでおり、「たとえば野望や、肩書きを並べること、成功の味わい、自己中心的に物事を据えること、他のあらゆるものの上にいたがる傾向、この人生の唯一の主人が自分であると振舞うこと、執着して離れられずにいる罪など、他にも多々あります」と言った。
「この昼下がりに、一人一人その心のなかで一つの問いがこだまし、その問いに素直な心で応えられますように。『主を礼拝するのを阻む自分の生活に隠れ潜む偶像について考えたことがあるだろうか?』と。礼拝するとは、わたしたちの偶像を、最も奥深くに隠れた偶像まで合わせて手放すことであり、主を、わたしたちの人生の教えの道として中心に招くことにあります」。
【説教全文】
Queridos Hermanos y Hermanas:
Me alegra celebrar la Eucaristía con ustedes en esta Basílica. Saludo al Arcipreste, el Cardenal James Harvey, y le agradezco las palabras que me ha dirigido; junto a él, saludo y doy las gracias a las diversas instituciones que forman parte de esta Basílica, y a todos vosotros. Estamos sobre la tumba de san Pablo, un humilde y gran Apóstol del Señor, que lo ha anunciado con la palabra, ha dado testimonio de él con el martirio y lo ha adorado con todo el corazón. Estos son precisamente los tres verbos sobre los que quisiera reflexionar a la luz de la Palabra de Dios que hemos escuchado: anunciar, dar testimonio, adorar.
1. En la Primera Lectura llama la atención la fuerza de Pedro y los demás Apóstoles. Al mandato de permanecer en silencio, de no seguir enseñando en el nombre de Jesús, de no anunciar más su mensaje, ellos responden claramente: «Hay que obedecer a Dios antes que a los hombres». Y no los detiene ni siquiera el ser azotados, ultrajados y encarcelados. Pedro y los Apóstoles anuncian con audacia, con parresia, aquello que han recibido, el Evangelio de Jesús.Y nosotros, ¿somos capaces de llevar la Palabra de Dios a nuestros ambientes de vida? ¿Sabemos hablar de Cristo, de lo que representa para nosotros, en familia, con los que forman parte de nuestra vida cotidiana? La fe nace de la escucha, y se refuerza con el anuncio.
2. Pero demos un paso más: el anuncio de Pedro y de los Apóstoles no consiste sólo en palabras, sino que la fidelidad a Cristo entra en su vida, que queda transformada, recibe una nueva dirección, y es precisamente con su vida con la que dan testimonio de la fe y del anuncio de Cristo. En el Evangelio, Jesús pide a Pedro por tres veces que apaciente su grey, y que la apaciente con su amor, y le anuncia: «Cuando seas viejo, extenderás las manos, otro te ceñirá y te llevará adonde no quieras» (Jn 21,18). Esta es una palabra dirigida a nosotros, los Pastores: no se puede apacentar el rebaño de Dios si no se acepta ser llevados por la voluntad de Dios incluso donde no queremos, si no hay disponibilidad para dar testimonio de Cristo con la entrega de nosotros mismos, sin reservas, sin cálculos, a veces a costa incluso de nuestra vida. Pero esto vale para todos: el Evangelio ha de ser anunciado y testimoniado. Cada uno debería preguntarse: ¿Cómo doy yo testimonio de Cristo con mi fe? ¿Tengo el valor de Pedro y los otros Apóstoles de pensar, decidir y vivir como cristiano, obedeciendo a Dios? Es verdad que el testimonio de la fe tiene muchas formas, como en un gran mural hay variedad de colores y de matices; pero todos son importantes, incluso los que no destacan. En el gran designio de Dios, cada detalle es importante, también el pequeño y humilde testimonio tuyo y mío, también ese escondido de quien vive con sencillez su fe en lo cotidiano de las relaciones de familia, de trabajo, de amistad. Hay santos del cada día, los santos «ocultos», una especie de «clase media de la santidad», como decía un escritor francés, esa «clase media de la santidad» de la que todos podemos formar parte. Pero en diversas partes del mundo hay también quien sufre, como Pedro y los Apóstoles, a causa del Evangelio; hay quien entrega la propia vida por permanecer fiel a Cristo, con un testimonio marcado con el precio de su sangre. Recordémoslo bien todos: no se puede anunciar el Evangelio de Jesús sin el testimonio concreto de la vida. Quien nos escucha y nos ve, debe poder leer en nuestros actos eso mismo que oye en nuestros labios, y dar gloria a Dios. Me viene ahora a la memoria un consejo que San Francisco de Asís daba a sus hermanos: predicad el Evangelio y, si fuese necesario, también con las palabras. Predicar con la vida: el testimonio. La incoherencia de los fieles y los Pastores entre lo que dicen y lo que hacen, entre la palabra y el modo de vivir, mina la credibilidad de la Iglesia.
3. Pero todo esto solamente es posible si reconocemos a Jesucristo, porque es él quien nos ha llamado, nos ha invitado a recorrer su camino, nos ha elegido. Anunciar y dar testimonio es posible únicamente si estamos junto a él, justamente como Pedro, Juan y los otros discípulos estaban en torno a Jesús resucitado, como dice el pasaje del Evangelio de hoy; hay una cercanía cotidiana con él, y ellos saben muy bien quién es, lo conocen. El Evangelista subraya que «ninguno de los discípulos se atrevía a preguntarle quién era, porque sabían bien que era el Señor» (Jn 21,12). Y esto es un punto importante para nosotros: vivir una relación intensa con Jesús, una intimidad de diálogo y de vida, de tal manera que lo reconozcamos como «el Señor». ¡Adorarlo! El pasaje del Apocalipsis que hemos escuchado nos habla de la adoración: miríadas de ángeles, todas las creaturas, los vivientes, los ancianos, se postran en adoración ante el Trono de Dios y el Cordero inmolado, que es Cristo, a quien se debe alabanza, honor y gloria (cf. Ap 5,11-14). Quisiera que nos hiciéramos todos una pregunta: Tú, yo, ¿adoramos al Señor? ¿Acudimos a Dios sólo para pedir, para agradecer, o nos dirigimos a él también para adorarlo? Pero, entonces, ¿qué quiere decir adorar a Dios? Significa aprender a estar con él, a pararse a dialogar con él, sintiendo que su presencia es la más verdadera, la más buena, la más importante de todas. Cada uno de nosotros, en la propia vida, de manera consciente y tal vez a veces sin darse cuenta, tiene un orden muy preciso de las cosas consideradas más o menos importantes. Adorar al Señor quiere decir darle a él el lugar que le corresponde; adorar al Señor quiere decir afirmar, creer – pero no simplemente de palabra – que únicamente él guía verdaderamente nuestra vida; adorar al Señor quiere decir que estamos convencidos ante él de que es el único Dios, el Dios de nuestra vida, el Dios de nuestra historia.
Esto tiene una consecuencia en nuestra vida: despojarnos de tantos ídolos, pequeños o grandes, que tenemos, y en los cuales nos refugiamos, en los cuales buscamos y tantas veces ponemos nuestra seguridad. Son ídolos que a menudo mantenemos bien escondidos; pueden ser la ambición, el carrerismo, el gusto del éxito, el poner en el centro a uno mismo, la tendencia a estar por encima de los otros, la pretensión de ser los únicos amos de nuestra vida, algún pecado al que estamos apegados, y muchos otros. Esta tarde quisiera que resonase una pregunta en el corazón de cada uno, y que respondiéramos a ella con sinceridad: ¿He pensado en qué ídolo oculto tengo en mi vida que me impide adorar al Señor? Adorar es despojarse de nuestros ídolos, también de esos más recónditos, y escoger al Señor como centro, como vía maestra de nuestra vida.
Queridos hermanos y hermanas, el Señor nos llama cada día a seguirlo con valentía y fidelidad; nos ha concedido el gran don de elegirnos como discípulos suyos; nos invita a proclamarlo con gozo como el Resucitado, pero nos pide que lo hagamos con la palabra y el testimonio de nuestra vida en lo cotidiano. El Señor es el único, el único Dios de nuestra vida, y nos invita a despojarnos de tantos ídolos y a adorarle sólo a él. Anunciar, dar testimonio, adorar. Que la Santísima Virgen María y el Apóstol Pablo nos ayuden en este camino, e intercedan por nosotros.
Así sea.
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