2013年4月10日水曜日

4月8日、『お告げの祭日』のミサ説教

朗読個所 : お告げの祭日
           イザヤ7・10-14、8・10c
           ヘブライ10・4-10
           ルカ1・26-38: http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31753543.html?type=folderlist
バチカンニュース4月9日


 キリスト者の一人として、「発展」とは「へりくだること」、神の愛が目立つために謙遜の道を選びながらへりくだることを意味する。この「金字塔」として定義されているこの考えについての話が、教皇フランシスコは昨日(4月8日)に「聖マルタの家」の小聖堂で捧げられたミサのなかでの説教の中心となった。

 昇れば昇るほど小さくなっていく道。それは、証し人がその感謝をふさわしく示すことができるように、神を立てる、キリスト者の謙遜の道である。このリフレクションは今週の月曜日の典礼的祭日、お告げの祭日に教皇に湧いてきたものである。マリアとヨセフが住民登録のための皇帝の命令を果たすためにたどる道こそが、謙遜の道である、と教皇は述べた。

 「あまりよく分らない」けれど「神のみ旨にその魂を任せた」のが謙遜なマリアである。息子の誕生を待つ妻の「大いなる責任」を自らのものとして抱え行くために「へりくだる」のが謙遜なヨゼフである。「神の愛というのは、この通りです。そうしてわたしたちのもとにたどり着き、謙遜の道を行かれるのです」と教皇フランシスコは指摘した。これが人々へのその愛を表現するために主が好んだことであり、それは「ここで命令するのはわたしだ」と言って自分をひけらかす「様々な強い偶像」と正反対のものである。「一方、わたしたちの神は偽の神ではなく」、「木で彫られた神ではなく、人となられた方であり、謙遜の道を行くのを好まれるのです」と教皇は見極めた。

 それはイエスが続けた同じ謙遜で、十字架までへりくだる道である。キリスト者の一人として、「これこそが金字塔なのです」。「発展ということは、前進すると同時にへりくだることなのです」。「他の道を行くことはできません。自分を小さくしないならば、もしあなたが自分を小さくしないならば、あなたはキリスト者ではないのです」と教皇は強調した。しかしながら、「謙遜になるというのは目を落としてうつむいて道を行くことではないのです」。これではなく、イエスの謙遜、あるいはその母、もしくはヨゼフの謙遜である。教皇いわく、謙遜の道を選ぶということは、「神の愛徳のすべてがこの歩みのうちにあるようにすることです。それこそイエスの選んだ唯一の道です。他の道は選ばなかったのです」。

 しかも「復活の勝利」は、この道を続けるとフランシスコは指摘した。「キリスト者の勝利はへりくだりの道を取ります」。わたしたちは「謙遜の恵みを願いますが、この謙遜なのです。愛徳を必ずまがうことなく通る道です」。なぜなら「もし謙遜がないなら、愛は麻痺し、動かなくなるからです」。

 典礼には、他の人々に合わせて、修道誓願を更新した愛徳姉妹会のシスターたちや、わたしたち(バチカンニュース)のブラジル版番組の同業者である、バチカンテレビセンターの社員も参列した。

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