〔聖書個所 第一朗読:イザヤ43・16-21、第二朗読:フィリピ3・8-14、福音朗読:ヨハネ8・1-11(こちらで朗読個所が読めます→http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_quaresima05sun.php#first)〕
(カトリック中央協議会から、すでに翻訳が出ていました。
こちら→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0005.htm)
これは美しい情景です。イエス様が一人で山にいて、祈っておられる。一人で祈っていて(ヨハネ8章1節参照)、そのあと、神殿に再び現れ、町の人が皆彼のもとに押し寄せる(2節参照)。イエスが人々のただ中におられる。そのあと、最後には、女性と二人だけ残される(9節参照)。そのイエスの孤独!けれど実りをもたらす孤独です。父との祈りにおける孤独。そしてその、なんとも美しい孤独が、まさに今日の教会のメッセージなのです。あの女性とのあわれみの孤独です。
また人々の間にも違いがみられます。人々がみんなイエスのもとに押し寄せ、イエスは座り、人々に教え始められました。イエスの言葉を聞こうとした人々です。開かれた心の人々、神の言葉を必要としている人々。一方では何も聞かない人たちがいました。聞く能力のない人々です。そしてその人たちこそあの女性を連れてきた人たちです。「ごらんください、先生、この女はこんなことして、あんなことして・・・こういうタイプの女たちにモーセがするようにと命じたことをしなければならないでしょう」(4-5節参照)と。
思うに、わたしたちもこの人々と同じです。一方では、イエスに耳を傾けたいけれど、他方、しばしば他の人を傷つけたり、他の人を罪に定めるのが好きなのです。イエスのメッセージはこれです。あわれみ。わたしにとって、へりくだって言いますが、これは主のメッセージで一番強いものです。あわれみ。けれどイエスご自身が既におっしゃっていたことがあります。「わたしは正しい人々のために来たわけではない」と。正しい人たちは自分で正しさを証明できるのです。あぁ!主よ、あなたは賛美されますように。もしあなたがこれをする基準なら、わたしは値しません。けれど彼らはこれができると信じ込んでいるのです…。「わたしは罪びとのために来た」(マルコ2章17節参照)。
マタイの召し出しの後のあのおしゃべりを思い浮かべてください。「いやしかし、この人は罪びとたちと一緒になっている!」(マルコ2章16節参照)。そして彼はわたしたちのために来られたのです。ちょうどわたしたちが自分のことを罪びとと認識した時に。
けれどもしわたしたちが祭壇の前にいたあのファリサイ人のように「あなたに感謝します。なぜならわたしは他の人たちのようではないからです。当然のことながら、入口の扉のところにいる、あんな徴税人のようでもないからです」と言っているようであるならば、主の心を知ることはなく、絶対にこの憐みを感じる喜びは得られないでしょう。
神のあわれみに委ねきるのは簡単ではありません。なぜならその淵の深みは計り知れないからです。けれどこれをしなければならないのです。「あぁ、神父さん!もしわたしの人生を知っていたら、そんなふうにはお話にならないでしょう」。「なぜ?なにをなさったんですか?」「あぁ、神父さん!ひどいことをしたんです」。「だったらなおさらいいんですよ!イエスのもとに行きなさい。彼はこういったことを話してもらえるのがうれしいんですよ」。
イエスは忘れます。イエスは特別に忘れる能力を備えているのです。彼は忘れ、あなたにキスをし、あなたを抱きしめ、ただこう言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」(ヨハネ8章11節)。彼があなたに与える助言はこれだけです。
一か月たつと、また同じ状況に陥るでしょう。主に立ち返りましょう。主は決してゆるすのに疲れを覚えません、絶対に!わたしたちの方が彼のゆるしを求めるのに疲れてしまうのです。ですからイエスにゆるしを願うのに疲れを覚えない恵みを願い求めましょう。彼はゆるすのに決して疲れを覚えないからです。この恵みを願いましょう。
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