2013年3月26日火曜日

3月25日、朝ミサ説教:聖週間に神の無限の忍耐について黙想しよう

朗読個所 : 受難の月曜日
          イザヤ42・1-7
          ヨハネ12・1-11:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31675538.html?type=folderlist





3月25日、18時21分(ACI/EWTNニュース)

この受難の月曜日に、教皇フランシスコは、この聖週間に、カトリックの信者は一人一人の罪や弱さに対して、神の愛はそれらよりも常に上回っているのだから、これらに対して神が持っている忍耐について黙想するようにと呼びかけた。

このように教皇は聖マルタの家で今日祝ったミサの短い説教のなかで示唆した。そこでユダがイエスの足に香水を注ぎかけたマリアを批判する聖書の個所をきっかけに、忍耐についての黙想を繰り広げた。

神の『無限の』忍耐は、ユダに対してイエスが忍耐を保つこの聖書個所に映し出されている。聖ヨハネはその福音においてユダは貧しい人々に興味があったのではなく、盗んでいたお金に興味があったことを暴いている。イエスは「お前は泥棒だ」とは言わず、その愛をもって、「ユダに対して忍耐強かったのです。そうやってその忍耐、その愛をもって彼を惹きつける方法を探っていました」。

「わたしたちにとってこの聖週間中、神の忍耐について考えることは有意義でしょう。主がわたしたちに対して、わたしたちの弱さに対して、わたしたちの罪に対して持っているあの忍耐について考えることは。」と教皇は勧告した。

「いつ神の忍耐について考えるのか。それは神秘です!」教皇は叫んだ。「わたしたちに対して彼が持っているこの忍耐!わたしたちは色んなことをやらかしてしまいます、けれど彼は忍耐強いのです」。「彼は福音において遠くから息子を見定めた、相続財産の有り金全部をもって家出したあの息子を見いだした父のように、忍耐強いのです」。

そしてなぜ彼は遠くにいるのに見ることができたのでしょうか?と教皇は尋ねる。「なぜなら毎日高い所に上って息子が帰ってくるかどうかを見に行っていたからです」。フランシスコは言いました。これが、「神の忍耐です。これがイエスの忍耐です」。

「この聖週間中、個人的なかかわりについて考えましょう。「わたしの人生においてわたしに対するイエスの忍耐はどうだっただろうか?」これを特に考えましょう。そうしてその後わたしたちの心から出てくる言葉はたった一言でしょう。「主よ、ありがとう。忍耐してくれてありがとう!」

1 件のコメント:

  1. 神の予言のサーヴァント
    ````````
    ワードAtmakは必ずしも"私は支持する人という意味ですがInfactは、名前です。

    Atmakの書き込みはאתמךです
    アフマドの書き込みですאחמד

    イザヤ42:1
    神は言う
    "'僕'(アブド-EEと発音)、(Atmakと発音)'誰私が守る'、見よ;

    神は彼の使用人の到来について言及
    僕アフマド(イザヤ42:1)を見よ - ので、誰がGod'servantのようにこのアフマドです?

    彼は、他ならない
    アブド·アッラー·アフマド(神のしもべ、アフマド) - 預言者ムハンマドは見た

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