2013年3月30日土曜日

教皇フランシスコ司式による2013年十字架の道行の黙想



(ベチャラ・ブトゥロス・ライ枢機卿の指導のもとレバノンの青年たちによって作られた黙想。挿絵:19世紀の十字架の道行。パレスチナのフランシスコ会芸術家による、ベツレヘムにて。)


はじめに:

「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」(マルコ10章17節)。

イエスはわたしたちの存在のもっとも個人的なところでくすぶるこの質問に、十字架の道を歩みながら応えられました。

主よ、誰よりもまずあなたが歩き始められたこの道で、あなたを見つめます。「あなたはその十字架を死への橋として据え、そのために人々は死の国から命の国へと渡ることができるようになったのです」(シリアの聖エフレムの説教より)。

あなたについて行くようにとの呼びかけはすべての人々に向けられています。特に若者たち、そして分裂や戦争、不正に苦しむ人々、兄弟たちの間で希望のしるし、平和の建設者になるために立ち上がる人々に向けられています。

ですからあなたの前で、愛をこめてわたしたちは立ちます。わたしたちの苦しみをあなたに差し出します。わたしたちの眼差しとわたしたちの心をあなたの聖なる十字架に向けます。そしてあなたの約束に支えられて祈ります。「わたしたちのあがない主はたたえられますように。主はわたしたちにその死をもっていのちをお与えになりました。あぁあがない主よ、わたしたちのうちに、その受難、死と復活を通して、あなたの贖いの神秘を実現して下さい」(レバノンキリスト教会、マロン派典礼より)


第一留:イエス、死刑の宣告を受ける



マルコによる福音(15章12―13節、15節)の朗読

そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

権力を誇示するピラトの前に、イエスは正義をもって扱われるべきであった。ピラトは事実、イエスの無罪を認め、釈放する権力をもっていたのである。しかしローマ総督は自分の関心事の論理に仕えることを好み、政治的、また社会的圧迫に屈する。真理を支持することなく、人々に気に入られるために一人の無実の者に死刑判決を下した。無実であったと知りながら、イエスを十字架刑の責め苦へと引き渡し、両手を洗った。

わたしたちの生きる現代社会には、多くの「ピラト」がいます。それは権力の行使をその手にし、それをより強い人たちに仕えるために使う人々です。こうした権力の潮流を前に、弱い者であれ強い者であれ、その権威を不正に従わせ、人間の尊厳と生きる権利を踏みにじる人が多いのです。

主であるイエス様、わたしたちが不正な人のうちに数えられることのないようにしてください。力ある人々が悪や不正、横暴に満足を覚えることのないようにしてください。不正が無実な人々を絶望と死に導くことのないようにしてください。人々に希望を約束し、この世で権威のある人々の良心を照らし、正義をもって統治できるようにしてください。アーメン。


第二留:イエス、十字架を担わされる。



マルコによる福音書(15章20節)の朗読

このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

イエス・キリストは自分に対する権限すべてをもっていると信じている数人の兵士の前にいる。一方でイエスは、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1章3節)と言われるその方なのである。

どの時代でも、人は神になり変わり、自らの創造主であり救い主である方を考慮に入れずに、自分で善悪を定めることができると信じ込んできた(創世記3章5節)。全能であり、理性、権力、あるいは金銭の名のもとに、自分や隣人の人生から神を除外することができると信じてきた。

今日も、世の生活から神を追いだそうとする現実に世は服従しています。それは、推定での人権保護の名のもとに信仰と倫理の価値観をないがしろにする盲目な反教権主義、あるいは宗教的価値観の保護という名目の暴力的な原理主義に似ています(使徒的書簡:『中東における教会』29)。

主であるイエス様、あなたは侮辱を甘んじて受け、自分を弱い者の一人とされました。あなたにすべての人々、そして特に苦痛を感じている東方の国々すべてを委ねます。人々があなたからあなたと共にその希望の十字架を運ぶことができるための力を得られるようにしてください。わたしたちは道に迷っているすべての人々をあなたの御手に委ねます。そうして彼らがあなたのおかげで、真理と愛を見出すことができますように。アーメン。


第三留:イエス、初めて倒れる。



イザヤ書(53章5節)の朗読。

彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。

天のともしびをその聖なる手のひらに持ち、そのまえに天の権威が震えあがるあの方が十字架のくびきの重みのもとで自分を保護することもできずに地面に落ちる。

平和をもって世に来られたあの方が、わたしたちの罪のために傷つき、わたしたちの咎(とが)の重みのもとに倒れる。

「見てください、あぁ信者たちよ、カルワリオの道を進むわたしたちの救い主を。苦々しい苦しみに押しつぶされ、力も尽き果てます。わたしたちの理解を越え、なかなか描写できないこの信じがたい出来事を見つめましょう。地の基が揺らぎ、その創造主であり神である方がその十字架の重みでつぶされたときにそこにいた人々を、ひどい恐れが襲った。そして全人類への愛のための死へと導かれるがままに任せた(カルデア典礼)。

主であるイエス様、わたしたちの落ち込みからわたしたちを立たせてください。わたしたちの道に迷った精神をあなたの真理へとあらためて導いて下さい。あなたのために作られた人間理性が、意味と存在についての根本的な問いを提案しようとすることのない、科学と技術の部分的な真理に満足することのないようにしてください(自発教令『信仰の門』12)。

主よ、わたしたちが聖霊の働きに開くことができるようにしてください。こうしてわたしたちを真理の完成に導いて下さいますように。アーメン。


第四留:イエス、御母に出会う。



ルカによる福音(2章34-35節、51節b)の朗読

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「ごらんなさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」母はこれらのことをすべて心に納めていた。

傷つき苦しみながら、すべての人の十字架を担いで、イエスは御自分の母に会った。そしてその顔において、全人類と面したのである。

神の母であるマリアは、師の最初の弟子であった。天使の言葉を受け入れるにあたって、はじめて受肉されたみことばと出会い、生ける神の神殿へと変えられたのである。マリアはなぜ天と地の創造主が、この世に受肉するために若い女性を、弱々しい存在を選ばれたのか理解しないまま主に出会った。主の顔を絶えず探し求めていたときに、心の静寂のうちに、み言葉の黙想のうちに主に出会ったのである。マリアが主を探し求めていたかのように思われるが、実は主がマリアを探していたのである。

そして今、主は十字架を運びながら、マリアに出会う。

イエスは悲嘆にくれるマリアを見て苦しみ、マリアは我が子を見て苦しみます。けれどこの誰でもが持つ苦しみから、新しい人類が生まれるのです。「マリアさま、あなたに平和がありますように。あぁ、栄光に満ちた聖母、永遠のおとめ、神の母、キリストの母よ。わたしたちの罪をゆるしてくださる愛に満ちたあなたの子のいるところにわたしたちの祈りを運び上げてください」(コプト時課の『神の母への賛歌』、アル・アギバ37)。

主であるイエス様、わたしたちも自分の家族の間で子供のことで両親が苦しみ、親のことで子供たちが苦しんだりします。主よ、このような難しい時に、わたしたちの家族があなたのおられる場所となり、わたしたちの苦しみが喜びに変わりますように。わたしたちの家族の力となってください。そしてわたしたちの家族が、ナザレの聖家族の姿に倣って、愛と平和、落ち着きのオアシスとなりますように。アーメン。


 第五留:イエス、キレネのシモンの助力を受ける。



 ルカによる福音(23章26節)の朗読

 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

イエスとキレネのシモンとの出会いは沈黙のうちに行われた。それはある種の人生の学びの時であった。神は苦しみを望まず、悪を受け付けない。人間も同じである。しかし苦しみは、信仰をもって受け入れられると、救いの歩みへと姿を変える。その時、イエスのように苦しみを受け入れ、キレネのシモンのようにこれを運ぶイエスを助けるのである。

主であるイエス様、あなたはその十字架を運ぶのに、人間が一部を担うようになさいました。あなたの苦しみを分かつようにわたしたちを招かれました。キレネのシモンはわたしたちのうちの一人で、わたしたちに人生の歩みのなかで直面する十字架を受け入れるよう教えてくれます。

主よ、あなたの模範に倣い、わたしたちも今日、苦しみや病気の十字架を運びます。けれどこれを受け入れるのは、あなたがわたしたちと共にいてくださるからです。このことはわたしたちを椅子に縛り付けることはできるでしょうが、夢を抱くことを妨げることはできません。舌を縛り付けることができても、真理への飢えを消し去ることはできません。魂を麻痺させることはできても、自由を奪うことはできないのです。

主よ、わたしたちは、日々あなたの十字架を運ぶために、あなたの弟子になることを望んでいます。あなたがわたしたちと共にこの十字架を運んでくださるために、わたしたちはこれを喜びと希望をもって運びます。なぜならあなたはわたしたちのために死に勝る勝利に至ったからです。
主よ、あなたの証し人となることを知っている病気の人、苦しむ人の一人一人を想い、あなたがわたしたちの歩みにおいて送ってくださる『キレネのシモン』一人一人を想い、感謝します。


第六留:ヴェロニカ、イエスの顔をぬぐう。



詩篇(27編8-9節)の朗読

 心よ、主はお前に言われる「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなくあなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。

ヴェロニカは人々の真っただ中であなたを探しました。あなたを探し、ついにあなたに出会いました。あなたの痛みが極みに達している時に、一枚の布で顔をぬぐうことであなたの痛みを和らげたいと望みました。小さな仕草、けれどあなたへの愛のすべてを表し、あなたへの信仰のすべてを表すしぐさです。そしてわたしたちキリスト教伝統の記憶に刻みつけられた仕草です。

主であるイエス様、あなたのみ顔を尋ね求めます。ヴェロニカは苦しむ人、ゴルゴタに向かう人の一人一人のなかにあなたがおられることをわたしたちに知らせます。主よ、貧しい人々、あなたの小さい兄弟たちのうちにあなたに出会わせてください。そうして泣く人の涙をぬぐい、責任をもって苦しむ人のためにはたらき、弱い人々を支えることができますように。

主よ、あなたは傷ついた人や忘れられた人がその価値や尊厳を失わないこと、そして世においてあなたの隠れた現存のしるしとなって留まるという事をわたしたちに教えられます。わたしたちが人々の顔から貧困と不正の跡を洗うことができますように。そうしてあなたの顔が浮かび上がり、輝きますように。

主の顔を尋ね求めるすべての人々のために祈りましょう。家のない人々、貧しい人々、暴力や搾取にさらされている子供たちのうちにあなたを見出すことができますように。


第七留:イエス、再び倒れる。



詩篇(22編8節、12節)の朗読
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。わたしを遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

イエスはただ十字架の持つ外面的な重みと内面的な重みのもとにある。倒れる時というのは、悪の重みがあまりに大きくなり、まるで不正と暴力に限界がないと見える時である。

しかし主は、御父に対して抱く信頼に支えを見出し、再度起き上がる。御父はイエスを見放した人々を前に、聖霊の力によって起こすのである。イエスを御父のみ旨、何でもできる愛のみ旨と完全に一致させるのである。

主であるイエス様、あなたの二度目の転倒で、わたしたちは解決の糸口がないかに見える状況をたくさん再認識します。その中には、偏見や憎しみのせいで、わたしたちの心を堅くし、宗教対立に招くものもあります。

わたしたちの良心を照らし、「人間的、宗教的相違」にもかかわらず、神のうちにのみある真理に向かって、信教の自由を尊重しながら、共に歩むように呼ばれたわたしたちがすべての人を照らす真理のきらめきを見出すことができますように。そうして、異なる宗教が「共通善に仕え、一人一人の発展と社会建設に貢献するために力を合わせる」ことができるでしょう(使徒的勧告『中東における教会』27―28)

聖霊、来てください。キリスト者を、特に中東にいるキリスト者を慰め、励ましてください。キリストと一致して、不正と対立で傷ついた地上で普遍的なその愛の証し人となることができますように。アーメン。


第八留:イエス、自分のために泣くエルサレムの婦人たちに出会う。



ルカによる福音(23章27-28節)の朗読

民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」。

カルワリオへの道で、主はエルサレムの婦人たちに出会う。彼女たちは希望のない苦しみを扱っているかのように主の苦しみに泣く。彼女たちは十字架の木に呪いのしるし(申命記21章23節参照)しか見ない。一方、主はこの木をあがないと救いの道具として望まれた。

受難と十字架刑において、イエスは多くの人の身代わりとして自分のいのちを与える。こうしてくびきのもとにある抑圧された人々の痛みを和らげ、悲嘆にくれる人々に慰めを与える。エルサレムの婦人たちの涙をぬぐい、その目を開いて過越の現実に目を向けさせる。

わたしたちの世には悲嘆にくれる母親や、差別や不正、苦しみによって暴力を受けた、その尊厳を傷つけられた女性で満ちています(使徒的勧告『中東における教会』60参照)。あぁ、苦しみのキリスト、彼女たちにとって平和となり、その傷に注がれる(癒しの)香油となってください。

主であるイエスよ、「女のうちで祝福された」マリアにおける受肉をもって(ルカ1章42節)、あらゆる女性の尊厳を高められました。受肉によってあなたは人類と一つになられました(ガラテヤ3章26-28節)。

主よ、わたしたちの心の望みがあなたと出会うことにありますように。苦しみに満ちたわたしたちの歩みが、いつもあなたと共なる、あなたに向かう希望の道のりでありますように。なぜならあなたはわたしたちの人生の隠れ家、わたしたちの救いだからです。アーメン。


第九留:十字架の重みに、イエス、三度倒れる。



コリント人への手紙(第二、5章14-15節)の朗読

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

三度、イエスはわたしたちの罪を背負った十字架のもとに倒れる。そして三度、ゴルゴタへの道を続けるため、つぶされたままにならないように、誘惑に打ち負かされないように、残りの力を振り絞って立ち上がろうとされる。

その受肉の時から、イエスは人の苦しみと罪の十字架を運んでいる。完全な形で人の性質を身に受け、いつまでも、勝利は可能であること、神との親子関係の歩みは開かれていることを人々に示される。

主であるイエス様、あなたの開かれた脇から生まれた教会は、キリスト者とを互いに遠ざけるあなたが彼らに望まれた一致を引き離す分裂の十字架のもとで抑圧されています。あなたと御父が一つであるように「皆がひとつになるように」(ヨハネ17章21節)というあなた望みから迷い出てしまいました。わたしたちに立ちはだかる分裂を前に、主よ、個人的な関心、あるいは小さなグループだけの関心から生まれる判断基準だけに走る誘惑に屈することなく(使徒的勧告『中東における教会』11)、真理と愛のうちに、起き上がり、一致のうちに歩み続けるための知恵と謙遜をお与えください。

「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」(一コリント1章17b節)分裂のメンタリティーを手放すことができますように。アーメン。


第十留:イエス、衣をはがされる。


詩篇(22編19節)の朗読

わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。

時が満ちると、主イエスよ、あなたはわたしたちの人間性をまとわれました。「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」(イザヤ6章1節)と述べられているあなたが、主よ、今は、その服までもはぎ取られています。わたしたちがあなたから上着を奪い、あなたは下着までもわたしたちにお与えになりました(マタイ5章40節参照)。あなたはあなたの肉体を覆う垂れ幕が割けることをおゆるしになり、父の臨在に改めて入ることをゆるされるようにしてくれました(ヘブライ10章9-10節参照)。

わたしたちだけで、あなたから独立して自己実現できると信じていました(創世記3章4-7節参照)。わたしたちは裸であることに気づきましたが、あなたの永遠の愛が神の息子、娘の尊厳とあなたの聖化をもたらす恵みによって再びわたしたちを覆ってくださいました。

主よ、様々な困難、しかも迫害までも含めた困難によって服をはぎ取られ、移民によって弱まった、東方教会の子らに、よい知らせをのべ伝えるために自国に留まる勇気をお与えください。

あぁ、人の子イエス、あなたの服ははぎ取られましたがそれは死者のなかから復活した新たな被造物をわたしたちに示すためでした。神とわたしたちを隔てる垂れ幕をわたしたちから取り去り、あなたの神の現存をわたしたちのうちに織り込んで下さい。

わたしたちから服をはぎ取りわたしたちを裸にする人生の出来事を前にした怖れに打ち勝つことができるようにしてください。そしてわたしたちの洗礼の新しい人を新たにまとわせ、あなたこそ歴史を導く唯一の真の神であることを告げながらよい知らせをのべ伝えることができますように。アーメン。




第十一留:イエス、十字架に釘づけにされる。



ヨハネによる福音(19章16節、19節)
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

ここに、待ち望まれたメシアの姿がある。犯罪人の間で十字架の木にかけられている。人類を祝福してきた手は貫かれている。よい知らせを告げるためにわたしたちの地を踏みしめた足は天と地の間にぶら下がっている。一瞥するだけで病人を癒しわたしたちの罪をゆるした愛に満ちた目は、今やただ天を見据えている。

主であるイエス様、あなたはわたしたちの過ちのために十字架に架けられました。あなたは父に願い、人類のためにとりなしておられます。金槌の一振り一振りが、いけにえとなったあなたの心の鼓動のように響き渡ります。

カルワリオの丘で救いのよい知らせを告げる者の足は、何と美しいことでしょう。イエスよ、あなたの愛が宇宙に満ちています。あなたの貫かれた手は悩みの時のわたしたちの隠れ場です。罪の淵がわたしたちを脅かす時を迎えるたびに、あなたの傷口に健康とゆるしを見出します。

あぁイエスよ、絶望に打ちひしがれている若者、麻薬やセクト、堕落の犠牲となっている青年すべてのために祈ります。その奴隷状態から解放してください。彼らが目をあげ、愛を迎え入れますように。あなたのうちに幸福を見出しますように。わたしたちの救い主であるあなたが、彼らを救ってくださいますように。アーメン。




第十二留:イエス、十字架上で息を引き取る。



ルカによる福音(23章46節)の朗読
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

十字架の高みからの、一つの叫び。死の瞬間のゆだねの叫び、苦しみのさなかでの信頼の叫び、新しいいのちが産まれる時の叫び。いのちの木にかけられ、父の手にその霊を委ね、あふれんばかりのいのちをわき出させ、新しい被造物を作りだしながら上げられる叫びです。わたしたちも今日この世の挑戦に立ち向かいます。心配事の波がわたしたちを飲み込み、わたしたちの信頼を揺らがしているとわたしたちは感じます。主よ、わたしたちを形作りわたしたちに寄り添うあなたの手の内で憩うまで、わたしたちの内面にはどのような死もわたしたちに打ち勝つことのないものがあることを知ることによって得られる力をお与えください。

そうしてわたしたち一人一人が次のように叫ぶことができますように。
「昨日は、キリストと共に十字架に架けられていた。
 今日は、キリストのうちに栄光を帯びている。
 昨日は、キリストと共に死んでいた。
 今日は、キリストと共に生きている。
 昨日は、キリストと共に墓に葬られていた。
 今日は、キリストと共に復活している」(ナジアンゾスのグレゴリオ)

わたしたちの夜の暗闇のなかで、わたしたちはあなたを見つめます。あなたの天の父、いと高き方に向かうことをわたしたちに教えてください。

今日、堕胎を推進する人たちのために祈ります。彼らが愛だけが命の泉となりうるということを意識できますように。安楽死の擁護者たちと、人の命を危険にさらす技術と処置を推進する人々のためにも祈ります。彼らの心を開き、真理においてあなたを知り、いのちと愛の文化の建設に献身する約束をすることができますように。アーメン。




第十三留:イエス、十字架から降ろされ、母の腕に委ねられる。


ヨハネによる福音(19章26-27a節)の朗読
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」

主であるイエス様、あなたを愛する人々があなたのもとに留まり、信仰を守っています。その信仰は苦悩の時にも死に際しても、悪が勝ち、真理や愛、正義や平和の声が押し殺されたと世が信じる時にも、落ち込みません。

あぁ、マリア様、あなたの手のなかにわたしたちの地(地球、土地)をゆだねます。「この祝福されたちが執拗に破壊され、死んでいくのを見るのは何と悲しいことでしょう」(使徒的勧告『中東における教会』8)。まるで何ものも悪やテロリズム、殺人や憎しみを取り去ることができないかのように見えます。「わたしたちの救いのために御子がその無垢な手を広げられた十字架を前に、あぁ、おとめよ、この日、ひれ伏します。平和を与えてください」(ビザンチン典礼)

戦争や、この現代にあって中東の国々や世界の他の地域を荒廃させる暴力の犠牲者たちのために祈ります。難民や強制的に移動させられた移民が一刻も早く自分の家、自分の土地に戻ることができますように。主よ、無実な犠牲者の血が、より兄弟愛と平和と正義に満ちた新しい東方の種となり、この東方が霊的、人間的文化と価値観の温床としての召命を再び輝かせることができますように。

東方の星よ、新しい朝の訪れがどこから来るかを示して下さい。アーメン。




第十四留:イエス、墓に葬られる。


ヨハネによる福音(19章39―40節)
そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。

ニコデモはキリストの体を引き取り、これを引き受け、創造のわざを思い起こさせる庭の、墓に納める。イエスは甘んじて十字架に架けられたのと同じささげで、人々の手に完全に「渡され」、「墓石のもとで眠ることまでも」彼らと「完全に一致し」、甘んじて埋葬もされる(ナレクの聖グレゴリオ)。

困難や、痛みに満ちた出来事、死を受け入れるには、確かな希望、生きた信仰が欠かせない。

墓の入り口に置かれた石は動かされ、新たないのちが生まれるだろう。

実際、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章4節)。

わたしたちは奴隷状態に戻らないために、神の子の自由を受けました。わたしたちにはあふれんばかりのいのちが与えられました。美や意味の欠如したいのちにはもう満足ができないのです。

主であるイエス様、わたしたち光の子らが闇を恐れないようにしてください。今日、人生の意味を探している人々、希望を失ってしまった人々すべてのために祈ります。罪と死に対するあなたの勝利を信じることができますように。アーメン。

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