こちら、正式なカトリック中央協議会からの翻訳でどうぞ→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0009.htm
兄弟姉妹の皆さん、おはようございます!
わたしの第一回一般謁見に皆さんを迎えることができて、うれしく思います。深い感謝と敬意を込めてわたしの敬愛する前任者ベネディクト16世のなしたわざの「証し」をいたします。復活祭後に、信仰年の要理を再開しましょう。今日は聖週間についての要理に留まりたいと思います。枝の主日をもって、典礼歴全体の中心であるこの週を始め、イエスの受難、死と復活の歩みを共にします。
しかし、わたしたちにとって、聖週間を生きるとは何を意味しうるのでしょうか?十字架と復活に向かうカルワリオの道でイエスについて行くとは何を意味するのでしょうか?
この地上での使命において、イエスは聖地の道という道をめぐり歩き、自分とともに留まり、その歩みを分かち合い、自分の使命を続けさせるために12人のシンプルな人たちを呼びました。神の約束への満ち満ちた信仰を抱いた民のなかから、彼らを選んだのです。
すべての人に、分け隔てなく、偉大な人も質素な人にも、金持ちの青年にも、貧しいやもめにも、権力者にも弱い人たちにも語りました。神の憐みとゆるしをもたらしました。癒し、慰め、理解を示しました。希望を与えました。自分の息子たち一人一人に対してよい父親、よい母親がするように、一人一人の男女に興味を示す神の現存をすべての人々にもたらしました。神はわたしたちが彼のもとを訪れるのを待たず、彼がわたしたちに向けて、限りなくはたらいて下さったのです。神とはそういう方です。彼はいつも初めの一歩を踏み出します。彼がわたしたちに向かって動きだして下さるのです。
イエスはもっとも普通の人々の日常生活の現実を生きました。牧者のいない羊の群れのように見えた群衆を前に心動かされました。兄弟ラザロの死によるマルタとマリアの苦しみを前に涙を流しました。徴税人を自分の弟子として呼びました。また友人の裏切りに苦しみもしました。
イエスにおいて、神は自分がわたしたちの真っただ中で、わたしたちと共にいるという確信をわたしたちに与えてくれました。イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8章20節)と言われました。イエスには家がありませんでした。なぜなら、人々が、わたしたちが彼の家だからです。その使命は誰に対しても神の扉を開けること、神の愛に満ちた存在そのものとなることでした。
聖週間に、わたしたちはこの歩み、神と人類との関係の歴史全体をめぐるこの愛の計画の真骨頂を生きます。イエスは最後の歩みを遂げるためにエルサレムに入ります。そこで自分の存在のすべてを集約するのです。自らを完全に渡し、自分自身のためには何も残しません。自分のいのちすら残さないのです。
最後の晩餐においては、その友人たちと共に、パンを分け合い、「わたしたちのために」杯を回します。神の子はわたしたちのために自らをささげ、わたしたちの手のなかでご自身の体と血を、いつもわたしたちと共にいるために、わたしたちの間に住まわるために捧げます。
またオリーブの園では、ピラトの前での裁判におけると同様、反抗もせず、自らを明け渡します。それはイザヤによって既に告げられた苦しむしもべであり、死に至るまで自らを全く無にするのです(イザヤ53章12節)。
イエスはこの愛を受け身で、あるいは最悪の運命として犠牲に持っていくのではありません。そのため残虐な死を前に、自らの人としての深い揺らぎを隠しません。けれど父への信頼へと完全に捧げていくのです。
イエスは自らの意思で父である神の愛に応えるために死へと自らを渡します。わたしたちに対する父の愛を示すために、父の御心との完全な一致のうちにささげるのです。十字架の上で、イエスは「わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた」(ガラテヤ2章20節)のです。わたしたち一人一人が言うことができます。イエスはわたしを愛し、わたしのために身を捧げられた、と。一人一人、この「わたしのために」という言葉をつぶやくことができるのです。
この全ては、わたしたちにとって何の意味があるのでしょう?これはわたしの歩みでもあり、あなたの歩みでもあり、わたしたちの歩みでもあるというのは、どういうことでしょう?イエスについて行きながら、聖週間を生きるということは、心に生まれる感動によってのみではありません。イエスについて行きながら聖週間を生きるということは、この前の日曜日に言ったように、わたしたち自身の殻から出て、他者との出会いに向かい、存在の中心から外れたところに行くことです。わたしたちがまずはじめに兄弟姉妹たちに、特により遠く離れている人たち、忘れられた人たち、理解を最も必要としている人たちに対して動き出す、ということです。あわれみ深く愛に満ちたイエスの生きた現存を運ぶ必要性はなんと多いことでしょうか!
聖週間を生きるということは、神の論理、十字架の論理にますます入り込んでいくことです。それは痛みや死が第一にあるのではなく、何よりも愛の論理、いのちを与える自己譲与の論理なのです。それは福音の論理に入っていくことなのです。キリストに従い、キリストと共に行くことなのです。外に「出ていく」ことを求める、出ていかれるイエスのもとに留まることです。
自らの殻から出ていくこと、疲れきってマンネリ化した信仰の生き方から出ていくこと、神の創造のわざの地平を閉ざして終わるような自らの構造の内で自己満足に陥る誘惑から出ていくことです。神自らが自分の殻から出てきて、わたしたちの間にやってきて、わたしたちの間にその幕屋を据え、救い、希望を与える憐みをもたらしました。わたしたちも、もしイエスについて行き、彼のもとに留まりたいならば、99匹の羊の囲いのなかに留まることに満足するのではなく、「出ていかなければ」なりません。より遠くにいる、失われた羊をイエスと共に探しに行かなければならないのです。よく覚えていてください。イエスのように、神がイエスにおいて自らの殻から出てきて、イエスがわたしたちすべてのために自らの殻から出てきたように、わたしたち自身の殻から出ていくことです。
わたしに次のように言う人もいるでしょう。「でも神父さん、時間がないんです」、「やらなければならないことがたくさんあるんです」、「それは難しいです」、「こんなに力の足りないわたしに何ができるでしょう?しかもわたしには罪があるし、こんなにもたくさんのことをするなんて」と。しばしばわたしたちは気の散った断続的な日曜日のミサで満足したり、愛徳のちょっとした仕草で満足したりといったことがあります。けれどキリストを運ぶために「出ていく」勇気がないことが多いのです。
わたしたちには、どこか聖ペトロのようなところがあるのです。イエスがほんの少し受難や死、復活について語り、自らを与えること、他者への愛について語ると、この使徒はイエスを脇につれて行き、とがめるのです。イエスが言っていることは、自分の計画を変えてしまい、受け入れがたいものに見え、自分でメシアについて作り上げた概念ならではの安全性に困難を来たすからです。
そこでイエスは弟子たちを見まわし、ペトロに向かって、おそらく福音のなかで最もきつい言葉を発します。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8章33節)。神はいつもあわれみをもって考えます。このことを忘れないでください。神はいつもあわれみをもって考えるのです。神はあわれみに満ちた父親なのですよ!神は息子の帰りを待ち、迎えに行き、まだ遠くにいた時にやってくるのを見る父のように物事を考えるのです。
これはどういうことでしょう?彼は毎日息子が家に帰ってくるかを見に行っていたのです。これがあわれみに満ちたわたしたちの御父なのです。それは自分の家のベランダに上って心から息子を待っていたことのしるしです。神は、不幸に遭った人のそばを、あわれに思いながらも通り過ぎたり他の方に目を背けたりすることなく、よきサマリア人のように見返りを求めずに助けるのです。ユダヤ人かどうか、異邦人かどうか、サマリア人かどうか、裕福かどうか、貧しいかどうか、そういったことを聞かずに、何も求めずに助けるのです。こういうことは求めないのです。何も求めないのです。助けに行くだけです。神さまは、そういう方です。神さまは羊を守り救うためにいのちを差し出す羊飼いのように物事を考えるのです。
聖週間は、わたしたちの心の扉、人生の扉、小教区の扉、ムーブメントの扉、アソシエーションの扉を開くために主がわたしたちに下さる恵みの時です。――多くの小教区の教会の扉が閉ざされているのは、なんと嘆かわしいことでしょう!――そうして扉を開いて、他者との出会いのために「出かけて行き」、わたしたちの方から信仰の光と喜びを運ぶために近づいて行く時です。「いつも出かけていくこと!」そしてこれを神の愛と優しさ、尊敬と忍耐をもって行うのです。わたしたちの手や足、心を差し出すけれど、神ご自身がそれらを導き、わたしたちの活動全てを実りあるものとされるのだ、ということを知りながら。
みなさんが勇気をもって、出会うすべての人に差し出す主の愛の光線をわたしたち自身のうちに運びながら、ここ数日をよく過ごされますよう望んでいます。
最後の挨拶のビデオ:http://www.youtube.com/watch?v=zS5kSv-SmrU
最後の挨拶のビデオ:http://www.youtube.com/watch?v=zS5kSv-SmrU
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