朗読個所: 聖木曜日(主の晩さん)
出エジプト12・1-8、11-14
一コリント11・23-26
ヨハネ13・1-15:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31692919.html?type=folderlist
出エジプト12・1-8、11-14
一コリント11・23-26
ヨハネ13・1-15:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31692919.html?type=folderlist
バチカン、3月28日、14時47分
この情景は胸を打ちます。イエスが自分の弟子たちの足を洗っています。ペトロは何も分っていません。ペトロは拒もうとするけれど、イエスは説明をします。イエスは、神がこれをしたのだけれど、イエス自身から弟子たちに説明をします。「わたしたちがお前たちにしたことに気づきましたか?」お前たちはわたしのことを先生だとか、主(主人)だとか呼んでいるけれど、それで構わない、わたしはそうなのだから。それなら、わたしが、先生であり主人であるわたしがお前たちの足を洗ったということは、お前たちも互いの足を洗い合わなければならない、ということなのですよ。わたしはお前たちにどういう模範に従わなければならないかを見せたのです。あなたたちにわたしがしたように、あなたたちもしなければならないのです。
これはわたしたちの主によって示された模範です。主にとって弟子たちの足を洗うということは重要なことでした。なぜならわたしたちの間で一番上に立つ人は、すべての人に奉仕しなければならないからです。これはひとつのシンボルです。ひとつのしるしです。他の人の足を洗うということは、他の人に奉仕する、ということなのです。
わたしたちも、お互いにこのことをしなければなりませんが、互いの足を洗い合うという行為を毎日するわけにもいきません。ということは、これはどういうことでしょうか?わたしたちは互いに手伝い合わなければならない、ということなのです。時には自分が他の人に対して怒ることもあるでしょう。けれどもわたしたちはこれを乗り越えなければなりません。そしてもしその相手が何か頼んできたら、応えなければならないのです。
互いに手伝い合いましょう。これがイエスがわたしたちに教えておられることです。これが今わたしがすることです。そしてこれをわたしは心をこめて行います。わたしがこれを心をこめてするのは、それがわたしの司祭として、そして司教として、皆さんへの奉仕をしなければならない者としてのわたしの義務だからです。
けれども、この義務はわたしの心からくるものです。わたしが愛している義務です。これを愛をこめて行うのは、主がわたしにこれを教えてくださったからです。でも皆さんはわたしたちを手伝い、互いに、いつでも、手伝い合わなければなりません。そして皆さんとわたしと、互いに手伝い合うにつけ、お互いにとってよいことになっていきます。
今、洗足式を実際に行います。そしてわたしたち一人一人考えなければならないことがあります。わたしには本当に他の人たちを手伝う心構えがあるだろうか?ただ、そのことを考えてください。このしるしによってキリストが愛情をこめてなでてくださることを考えてください。なぜならイエスが来られたのは、このことをするため、わたしたちに仕えるため、わたしたちを手伝うためだからです。
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