朗読個所:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31703608.html?type=folderlist
こちら、正式な中央協議会からの翻訳でどうぞ。http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0012.htm
ビデオ→ http://www.youtube.com/watch?v=84BaLHp1uik
バチカン、3月30日9時28分(ACI)
親愛なる兄弟、姉妹の皆さん、
復活徹夜祭の輝かしいこの夜の福音の中で、まず、イエスの体に注ぐための香油を持って、イエスの墓に赴く女性たちに出会います(ルカ24章1-3節)。わたしたちが行うのと同様、同情と、愛情、愛のしぐさ、亡くなられた愛する人に対して行う伝統的なしぐさを行うために彼女たちは行きます。彼女はイエスを追っていました。彼の話を聞き、その尊厳において理解してもらえたと感じていました。そして最後まで、カルワリオでの、十字架から降ろされた時までついて行きました。墓に向かっていく時の感情を想像することができます。ある種の悲しみがあり、残念でもあります。というのは、イエスが自分たちを置いて行ってしまったから、死んでしまったから、その歴史が終わってしまったからです。
いまや以前の生活に戻っていくしかありません。けれど、女性たちは愛に留まりました。そしてそれは彼女たちを墓に行くよう促すほどのイエスへの愛だったのです。けれど、このポイントに来て、まったく思いもよらない何かが起こります。今一度、その心が揺れます。そのプログラムが変わり、その人生を狂わせます。墓の岩が転がされていたのを見、近づき、そして主の体は見出さないのです。このことは彼女たちを全く困惑させ、疑い深くさせ、問いで満たします。「何が起こっているのかしら?」「これはいったいどういうことかしら?」(ルカ24章4節参照)。毎日の出来事の中で、本当に新しい何かが起こる時、こういうことはわたしたちにも生じないでしょうか?わたしたちは立ち尽くします。何のことかわからず、どのように向き合えばいいかわかりません。
しばしば、新しいことは怖いものです。神がわたしたちにもたらす新しさ、わたしたちに神が求める新しさも、恐れをもたらします。わたしたちはまるで福音に見られる使徒たちのようです。しばしばわたしたちの安全を保ち、墓の前で足を止め、決定的には、過去の有名人のように、歴史の思い出のうちにのみ生きるのです。神のサプライズをわたしたちは恐れています。神のサプライズに恐れているのです。神はいつもわたしたちをびっくりさせます。兄弟、姉妹の皆さん、わたしたちの生活に神がもたらそうとする新しさにわたしたちを閉ざさないようにしましょう。まさか周期的に疲れていたり、落ち込んでいたり、悲しんでいたりしていないでしょうか?罪の重みを感じ、もう手に入れることができないと考えたりしていないでしょうか?わたしたち自身のうちに閉じこもらないようにしましょう。信頼を失わないようにしましょう。決してあきらめないようにしましょう。神が変えることのできない状況はなく、彼にわたしたちが開くならば、赦すことのできない罪はないのです。
しかし福音に、あの婦人たちの話に戻り、前に進んでいきましょう。彼女らは空の墓を見出し、イエスの体がそこになかったことを見ました。何か新しいことが始まっていました。けれどこれらすべてには何も明らかなことがありませんでした。問いかけが起こり、当惑を引き起こしますが、どんな答えもありません。そこで、二人のまばゆいばかりの衣を着た二人の男性が現れました。そしてこう言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24章5b-6a節1)。
ただの質素な仕草が、とはいえ間違いなく愛を持ってなされたそのこと、つまり墓に向かうという仕草が、いまや人生を本当に変える出来事、イベントへと姿を変えるのです。もう以前と同じではありません あの婦人たちの人生においてのみではなく、それはわたしたちの人生、そして人類の歴史の中でも、です。。
イエスは死んでいるのではなく、復活された方、生きておられる方なのです。単に生きるために戻ってきたということではなく、それはいのちそのもの(民数記14章21節ー28節、申命記5章26節、ホセア3章10節)なのです。なぜなら神の子は、生きておられる方なのです。イエスはもはや過去の人ではなく、今を生き、未来に目を向ける、神の永遠の「今日」なのです。このように、神の新しさがあの婦人たちの目の前、弟子たちの目の前、わたしたちの目の前で示されます。それは罪をしのぐ勝利、悪にまさる勝利、死を超える勝利、人生を押さえつけるあらゆることをしのぐ勝利であり、より人間性の少ない顔つきを見せます。そしてこれこそがわたしに向けられた、親愛なる兄弟、親愛なる姉妹であるあなたに向けられたメッセージなのです。
何度わたしたちは愛であるお方が、なぜ、生きている方を死者の中に探すのかという言葉を必要としてすることでしょう?問題や日常生活の心配事でわたしたち自身のうちに、その悲しみ、辛さのうちに閉じこもる傾向にあります。それは、まさに死のあるところなのです。生きておられるあの方をそこで探さないようにしましょう。
というわけで、復活されたイエスがあなたの人生に入るのを受け入れなさい。友のように、信頼を持って、彼を迎え入れなさい。イエスこそ命なのです!もし今の今まで彼から遠く離れていたのなら、小さな一歩を踏み出しなさい。両手を広げてあなたを迎え入れてくれるでしょう。もし無関心なら、あえて危険に身をさらしなさい。後悔しないでしょう。もしイエスについて行くのが難しく見えるなら、恐れるのはやめなさい。イエスを信じなさい。イエスがあなたのそばにいることに安心しなさい。イエスはあなたと共にいます。あなたが求めている平和、イエスが求めるとおりに生きるための力をあなたに下さるでしょう。この輝かしい復活徹夜祭の福音で強調したいもう一つのシンプルな要素があります。婦人たちは神の新しさ(ニュース)を見出します。イエスは復活された、生きておられる、ということです。けれど空の墓と輝く衣を着た二人の人を前にした最初の反応は、恐れでした。「地に顔を伏せ」たと、ルカは観察していますが、見る勇気すらなかったのです。けれど、復活の宣言を聞くと、信仰をもってこれを受け入れるのです。
そして輝く衣の二人の人は基本的な動詞へと導いて行きます。 「思い出しなさい」「まだガリラヤにおられたころ、お話しなさったことを」。……「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(ルカ24章6節、8節)。イエスとの出会いやその言葉、そのしぐさ、その生き方の記憶をたどることへの招き、先生との体験を愛をもって思い出すことが、婦人たちをしてあらゆる恐れを乗り越え、使徒たちと他のすべての人たちに復活の宣言を運ぶことができるようにするのです(ルカ24章9節)。わたしのために、このわたしたちのために神がしてくださったことの記憶をたどること、めぐってきた歩みの記憶をたどること、これが、未来への希望に対して心の扉を両側いっぱいに開くのです。わたしたちの人生において神がなさったことの思い出をたどることを学びましょう。
この光の夜に、これらのことをすべて心に納めておられた(ルカ2章19節、51節)乙女マリアの取り次ぎを求め、主にその復活に与ることができるよう祈りましょう。変化をもたらすその新しさ、神のサプライズ(びっくりさせるようなこと)にわたしたちを開いてくださいますように。 わたしたちが、自分の個人的な歴史と世界の歴史においてイエスがなさることの思い出をたどることのできる男女となることができますように。わたしたちがイエスを、生きておられる方、わたしたちの間で生きていて働いておられる方として感じることができるようにしてくださいますように。わたしたちに毎日、生きておられるあの方を死者の中で探さないことを教えてくださいますように。アーメン。
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