2013年3月31日日曜日

3月31日、復活祭朝:公式な祝福Urbi et Orbi(ローマ世界と全世界へ)

こちら、正式なカトリック中央協議会からの翻訳でどうぞ→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0013.htm

ビデオ: http://www.youtube.com/watch?v=hC94U5Iunnc&feature=g-high-u
朝日新聞デジタルによる記事:http://www.asahi.com/international/update/0331/TKY201303310097.html

バチカン、3月31日9時11分(ACI/EWTNニュース)

復活祭のUrbi et Orbi(訳者注:教皇によってローマ世界=Urbiと全世界=Orbiに向けてなされる公式な祝福)のメッセージ

親愛なるローマと、全世界の兄弟、姉妹の皆さん、
復活祭おめでとう!
 
 わたしの奉仕職の始まりに、次の宣言を皆さんに告げることができることができるのは、ものすごくうれしいことです。キリストは、復活された!と。家という家、家族という家族に、特により苦しみを抱えている家族に、病院という病院に、刑務所という刑務所にこの祝福が届いたら、と望んでいます。

 何よりも、皆さん一人ひとりの心に届きますように。というのは皆さんの心こそ、この良い知らせ、イエスは復活した、という知らせ、希望はあなたのためにあり、もはやあなたは罪や死の支配下にはいない、という知らせを神が蒔こうと望んでおられる場所だからです。愛が勝ち、あわれみが勝利を得たのです。いつでも神のあわれみが勝つのです。

 わたしたちも、墓に行ってその墓が空であるのを見つけたイエスの弟子であった女性たちのように、この出来事は一体何なのか を自問できるでしょう(ルカ24章4節参照)。
 イエスが復活されたとは、何を意味するのでしょう?神の愛は悪や死そのものよりも強いということを意味します。神の愛はわたしたちの人生を変えることができ、わたしたちの心にある砂漠、その涸れ果てたところに花を咲かせることができるということを意味します。

 これは神の愛のなせる業です。神の子が人となったことによって示されたのと同じこの愛が、そして謙遜と自己譲与の小道の行きつくところまで行き、死者の国に下ってまで、神と切り離されるふちにまで下ってまでした、この同じあわれみに満ちた愛がイエスの亡骸を光であふれかえらせ、イエスの姿を変え、永遠の命へと過ぎ越すのを実現したのです。

 イエスは以前持っていたいのち、地上での生活に戻ったわけではなく、神の栄光のいのちへと入り、わたしたち人間の持つ性質をもってそこに入り、わたしたちに希望に満ちた未来を開いてくださったのです。

 ここに、過ぎ越しの何たるかがあります。出エジプト、すなわち人の、罪の奴隷状態、悪の奴隷状態から愛と善の自由への移行です。それは神がいのちだから、ただひたすら、神はいのちだからです。そしてその栄光とは、わたしたち、生きた人なのです(聖イレネウス『異端論駁』4,20,5-7)

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、キリストは一度きり、またすべての人のために、死んで復活しました。 けれど復活の力、この悪の奴隷状態から善の自由への移行は、あらゆる時代に、わたしたちの人生の具体的な時点、わたしたちの日常生活において実践されなければならないのです。

 今日も、どれほどの砂漠を人間は通り抜けなければならないでしょう!特に神への愛と隣人への愛が足りない時、創造主がわたしたちにくださったもの、くださるものすべてを庇護するということに対する意識がない時、その人の内側にできる砂漠を通り抜けなければなりません。けれど、神のあわれみは最も荒れ果てた土地に花を咲かせることができ、乾いた骨をも、もう一度生かすことができるのです(エゼキエル37章1-14節参照)。

 ここに、つまり、わたしが皆さんにしている招きがあります。キリストの復活の恵みを受け入れましょう。神のあわれみによって新たにされましょう。愛の力に、わたしたちの人生をも変えてもらいましょう。 そしてわたしたちをこのあわれみの道具、神が地に水を注ぎ、あらゆる作られたものを見守り、正義と平和を花開かせるための樋(とい)としましょう。

 そういうわけで、死をいのちに変えてくださる復活されたイエスに、憎しみを愛に、仕返しをゆるしに、戦争を平和に変えていただくように願いましょう。そうです、キリストはわたしたちの平和です。そしてイエスを通して全世界のための平和を願い求めましょう。

 中東のための平和、特に和平の道を見出すのに苦労しているイスラエルとパレスチナの人々の間での平和を求めましょう。はっきりとした、心構えのできた取引が再開し、あまりに長い間続いている対立に終止符を打つことができますように。

 イラクのための平和を求めましょう。あらゆる暴力が決定的に終わりますように。そして特に、愛すべきシリアのための平和を求めましょう。対立と援助と慰めを待っている多くの難民たちの影響を受けている民衆のために。どれほどの血が流れたでしょう!そして危機に対して政治的な解決を見出すことができるまでに、まだどれほどの痛みを引き起こすことになるのでしょう?

 いまだ血みどろの対立の舞台となっているアフリカのための平和を求めましょう。 マリ王国のために祈りましょう。一致と安定を再度見出すことができますように。ナイジェリアのために祈りましょう。悲しいことに、多くの無実の人のいのちがひどく脅かされており、子供も含んだ多くの人々がテロ集団の捕虜となっているところで、テロ行為が鳴りをひそめないナイジェリアの平和のために。

 コンゴ民主共和国と中央アフリカ共和国のための平和を求めましょう。多くの人々が家を追われ、いまだに恐怖のうちに生活している両国の平和のために。

 アジアでの平和を求めましょう。特に朝鮮半島での平和を。逸脱を乗り越え、 新たにされた和解の精神を成熟させますように。

 全世界に平和を求めましょう。簡単な収入を求める人々の貪欲によってまだこれほどにも分裂し、人のいのちと家庭生活を脅かす自己中心主義(エゴイズム)、21世紀になって最も広まっている奴隷制である、人身売買を続けるようなエゴイズムによって傷ついている世の平和のために。

 人身売買は、21世紀の最も広まっている奴隷制なのです!麻薬の密輸入と結びついた暴力と天然資源の不当な搾取によって切り裂かれた世界。このわたしたちの地球に平和がありますように。

 復活されたイエスが、自然災害の犠牲者の皆さんに慰めをもたらしてくださいますように。そして、わたしたちを被造物の責任ある庇護者としてくださいますように。

 兄弟姉妹の皆さん、ローマで、また全世界でわたしの声を聞いている皆さん、わたしは皆さんに詩篇の招きの言葉を向けます。「恵み深い主に感謝せよ、神のいつくしみは永遠。イスラエルの家よ言え、『神のいつくしみは永遠』」(詩篇118編1-2節)。


 兄弟姉妹の皆さん、世界のあらゆる地域から来て、キリスト教の核ともいえるこの広場に集まった皆さんと、メディアを通して心を一つにしている皆さんに改めてわたしの望みを述べたい。
 幸せな復活祭をお過ごしください!

 皆さんの家族、皆さんの国に、毎年この日に力強く新たにされる喜び、希望、平和のメッセージを運んでください。 そして、罪と死に打つ勝たれた復活の主が、皆さんを、特に最も弱い人たち、助けを必要とする人たちを助け、支えてくださいますように。

 皆さん、来てくださったこと、また皆さんの信仰の証しに感謝します。
 もうひとつ、特別な謝辞ですが、こんなにも美しい花々を送ってくださったオランダの下町の皆さんに感謝します。皆さんに改めて言います。主が、皆さんを、全人類を、正義、愛、平和の道へと導いてくださいますように。

 (引き続いて、教会の式文にのっとり、ストラをつけて、全免償の祝福)

教皇:  ペトロとパウロが、わたしたちに与えられた権威のために、
    皆さんとわたしのために取り次いで下さいますように。
    終生おとめなる聖母マリアの功徳と祈り、大天使ミカエル、洗礼者聖ヨハネ、
    使徒聖ペトロとパウロ、そしてすべての聖人の取り次ぎによって、
    主が皆さんに憐みを注ぎ、すべての罪をゆるされた皆さんを、
    永遠のいのちに導いて下さいますように。
会衆: アーメン。
教皇: 皆さんのあらゆる罪の全免償と赦し、実りある償いの時間、
    つねに悔い改める心、つねに悔い改める生活、聖霊の 慰め、
    よい業の継続の行く末(=天国)を、
    全能であり憐み深い神が皆さんに与えてくださいますように。
会衆: アーメン。
教皇: 父と子と聖霊の祝福が皆さんの上に降り、いつまでも留まりますように。
会衆: アーメン。

3月30日、教皇フランシスコによる復活徹夜祭の説教

朗読個所:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31703608.html?type=folderlist

こちら、正式な中央協議会からの翻訳でどうぞ。http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0012.htm

ビデオ→ http://www.youtube.com/watch?v=84BaLHp1uik

バチカン、3月30日9時28分(ACI)


親愛なる兄弟、姉妹の皆さん、

 復活徹夜の輝かしいこの夜の福音の中で、まず、イエスの体に注ぐための香油を持って、イエスの墓に赴く女性たちに出会います(ルカ24章1-3節)。わたしたちが行うのと同様、同情と、愛情、愛のしぐさ、亡くなられた愛する人に対して行う伝統的なしぐさを行うために彼女たちは行きます。彼女はイエスを追っていました。彼の話を聞き、その尊厳において理解してもらえたと感じていました。そして最後まで、カルワリオでの、十字架から降ろされた時までついて行きました。墓に向かっていく時の感情を想像することができます。ある種の悲しみがあり、残念でもあります。というのは、イエスが自分たちを置いて行ってしまったから、死んでしまったから、その歴史が終わってしまったからです。

 いまや以前の生活に戻っていくしかありません。けれど、女性たちは愛に留まりました。そしてそれは彼女たちを墓に行くよう促すほどのイエスへの愛だったのです。けれど、このポイントに来て、まったく思いもよらない何かが起こります。今一度、その心が揺れます。そのプログラムが変わり、その人生を狂わせます。墓の岩が転がされていたのを見、近づき、そして主の体は見出さないのです。このことは彼女たちを全く困惑させ、疑い深くさせ、問いで満たします。「何が起こっているのかしら?」「これはいったいどういうことかしら?」(ルカ24章4節参照)。毎日の出来事の中で、本当に新しい何かが起こる時、こういうことはわたしたちにも生じないでしょうか?わたしたちは立ち尽くします。何のことかわからず、どのように向き合えばいいかわかりません。

 しばしば、新しいことは怖いものです。神がわたしたちにもたらす新しさ、わたしたちに神が求める新しさも、恐れをもたらします。わたしたちはまるで福音に見られる使徒たちのようです。しばしばわたしたちの安全を保ち、墓の前で足を止め、決定的には、過去の有名人のように、歴史の思い出のうちにのみ生きるのです。神のサプライズをわたしたちは恐れています。神のサプライズに恐れているのです。神はいつもわたしたちをびっくりさせます。兄弟、姉妹の皆さん、わたしたちの生活に神がもたらそうとする新しさにわたしたちを閉ざさないようにしましょう。まさか周期的に疲れていたり、落ち込んでいたり、悲しんでいたりしていないでしょうか?罪の重みを感じ、もう手に入れることができないと考えたりしていないでしょうか?わたしたち自身のうちに閉じこもらないようにしましょう。信頼を失わないようにしましょう。決してあきらめないようにしましょう。神が変えることのできない状況はなく、彼にわたしたちが開くならば、赦すことのできない罪はないのです。

 しかし福音に、あの婦人たちの話に戻り、前に進んでいきましょう。彼女らは空の墓を見出し、イエスの体がそこになかったことを見ました。何か新しいことが始まっていました。けれどこれらすべてには何も明らかなことがありませんでした。問いかけが起こり、当惑を引き起こしますが、どんな答えもありません。そこで、二人のまばゆいばかりの衣を着た二人の男性が現れました。そしてこう言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24章5b-6a節1)。

 ただの質素な仕草が、とはいえ間違いなく愛を持ってなされたそのこと、つまり墓に向かうという仕草が、いまや人生を本当に変える出来事、イベントへと姿を変えるのです。もう以前と同じではありません あの婦人たちの人生においてのみではなく、それはわたしたちの人生、そして人類の歴史の中でも、です。。

 イエスは死んでいるのではなく、復活された方、生きておられる方なのです。単に生きるために戻ってきたということではなく、それはいのちそのもの(民数記14章21節ー28節、申命記5章26節、ホセア3章10節)なのです。なぜなら神の子は、生きておられる方なのです。イエスはもはや過去の人ではなく、今を生き、未来に目を向ける、神の永遠の「今日」なのです。このように、神の新しさがあの婦人たちの目の前、弟子たちの目の前、わたしたちの目の前で示されます。それは罪をしのぐ勝利、悪にまさる勝利、死を超える勝利、人生を押さえつけるあらゆることをしのぐ勝利であり、より人間性の少ない顔つきを見せます。そしてこれこそがわたしに向けられた、親愛なる兄弟、親愛なる姉妹であるあなたに向けられたメッセージなのです。

 何度わたしたちは愛であるお方が、なぜ、生きている方を死者の中に探すのかという言葉を必要としてすることでしょう?問題や日常生活の心配事でわたしたち自身のうちに、その悲しみ、辛さのうちに閉じこもる傾向にあります。それは、まさに死のあるところなのです。生きておられるあの方をそこで探さないようにしましょう。

 というわけで、復活されたイエスがあなたの人生に入るのを受け入れなさい。友のように、信頼を持って、彼を迎え入れなさい。イエスこそ命なのです!もし今の今まで彼から遠く離れていたのなら、小さな一歩を踏み出しなさい。両手を広げてあなたを迎え入れてくれるでしょう。もし無関心なら、あえて危険に身をさらしなさい。後悔しないでしょう。もしイエスについて行くのが難しく見えるなら、恐れるのはやめなさい。イエスを信じなさい。イエスがあなたのそばにいることに安心しなさい。イエスはあなたと共にいます。あなたが求めている平和、イエスが求めるとおりに生きるための力をあなたに下さるでしょう。この輝かしい復活徹夜祭の福音で強調したいもう一つのシンプルな要素があります。婦人たちは神の新しさ(ニュース)を見出します。イエスは復活された、生きておられる、ということです。けれど空の墓と輝く衣を着た二人の人を前にした最初の反応は、恐れでした。「地に顔を伏せ」たと、ルカは観察していますが、見る勇気すらなかったのです。けれど、復活の宣言を聞くと、信仰をもってこれを受け入れるのです。

 そして輝く衣の二人の人は基本的な動詞へと導いて行きます。 「思い出しなさい」「まだガリラヤにおられたころ、お話しなさったことを」。……「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(ルカ24章6節、8節)。イエスとの出会いやその言葉、そのしぐさ、その生き方の記憶をたどることへの招き、先生との体験を愛をもって思い出すことが、婦人たちをしてあらゆる恐れを乗り越え、使徒たちと他のすべての人たちに復活の宣言を運ぶことができるようにするのです(ルカ24章9節)。わたしのために、このわたしたちのために神がしてくださったことの記憶をたどること、めぐってきた歩みの記憶をたどること、これが、未来への希望に対して心の扉を両側いっぱいに開くのです。わたしたちの人生において神がなさったことの思い出をたどることを学びましょう。

 この光の夜に、これらのことをすべて心に納めておられた(ルカ2章19節、51節)乙女マリアの取り次ぎを求め、主にその復活に与ることができるよう祈りましょう。変化をもたらすその新しさ、神のサプライズ(びっくりさせるようなこと)にわたしたちを開いてくださいますように。 わたしたちが、自分の個人的な歴史と世界の歴史においてイエスがなさることの思い出をたどることのできる男女となることができますように。わたしたちがイエスを、生きておられる方、わたしたちの間で生きていて働いておられる方として感じることができるようにしてくださいますように。わたしたちに毎日、生きておられるあの方を死者の中で探さないことを教えてくださいますように。アーメン。










聖土曜日、聖骸布の前で。

バチカン、3月30日10時01分(ACI)

この土曜日、イタリアのトゥリンの大聖堂における聖骸布の展示の機会に実現されたビデオメッセージで、教皇フランシスコは聖骸布が「私たちの心に語りかけ、わたしたちを十字架の木を見るにつけ、また愛の雄弁な沈黙に沈潜するにつけ、カルワリオへの道を登るように私達を導きます
聖週間は「わたしたちの心に語りかけ、十字架の木を見、愛の雄弁な沈黙に浸ってくるのです。

親愛なる兄弟、姉妹の皆さん、

 わたしも聖骸布の前に皆さんとともに身を置きます。そしてこの媒体を通して主が私たちに今日与えてくださるこの可能性に感謝します。

 けれどこの形で行うとはいえ、ただ眺めるだけにとどまらず、崇拝することが求められています。それは祈りのまなざしです。さらにいうことができるでしょう。それは彼がわたしたちを見るがままにまかせる、ということです。この顔では眼は閉じられています。亡骸の顔です。けれど、神秘的な仕方でわたしたちを見つめ、沈黙のうちに、わたしたちに語るのです。

 どうしてそのようなことがありうるのでしょうか?皆さんのような信心深い民が、鞭打たれ十字架に架けられた一人の男を描いたこのイコンの前に留まろうとするというのは、一体どうしてありえるのでしょうか?なぜなら聖骸布の男は、わたしたちにナザレのイエスを見つめるように招くからです。

 この像は、布に残されていますが、わたしたちの心に語りかけ、わたしたちをカルワリオの丘を登り、十字架の木を見、愛の雄弁な沈黙に沈潜するようにと導きます。

 ですからこのように、 このわたしたちの目ではなくわたしたちの心を探しているこのまなざしに、到達するに任せましょう。死そのものを通り過ぎながら、沈黙のうちに、わたしたちに言わんとすることを聞きましょう。

 聖骸布を通して、神の唯一で最後の言葉がわたしたちに届きます。その言葉とは、人となられた愛、わたしたちの歴史に受肉された方のことです。それは、世のあらゆる悪を身に帯びてその支配から私たちを解放してくださった神の憐れみに満ちた愛です。

 この歪められた顔は 最も傷ついている人を苦しめる戦争や暴力によって、尊厳を尊重しない生き方による傷ついた男女の実に多くの顔ぶれと似ています。しかしながら、聖骸布の顔は大いなる平和を感じさせます。この拷問を受けた体は最高峰の威厳を表現しています。

 それはまるで集約されているけれど力強いエネルギーを透明に伝えているかのようです。それはまるでわたしたちに、信頼しなさい、希望を失わないようにしなさい、神の愛の力、復活の力はすべてに打ち勝つ、と言っているかのようです。

 だからこそ、聖骸布の男を見つめながら、十字架の前でアシジの聖フランシスコが発した祈りを自分のものとして祈ります。

 最高の、栄光に満ちた神よ、
 わたしの心にある闇を照らしてください。
 主よ、わたしに、
 まっすぐな信仰
 確かな希望、
 完全な愛徳、
 意義と知識をお与えください。
 そうしてあなたの聖なるまことの掟を
 果たすことができますように。アーメン。
 


2013年3月30日土曜日

十字架の道行を締めくくった教皇の言葉

バチカン3月30日、1時34分(ACI)

ローマのコロッセオの周りで行われ、何千もの人が参列した十字架の道行を締めくくるにあたり、 教皇フランシスコは短い演説をした。そこでは十字架は、世の悪を前にした神の答え、その愛すべて、そのゆるしの言葉そのものであると指摘した。

ここに、教皇の言葉の全文を掲載する。

愛する兄弟姉妹の皆さん、
 集中したこの祈りの時にこんなにも多くの人々が参列してくれたことに感謝します。またメディアを通してわたしたちと心を一つにしてくれた皆さん、特に病気の皆さん、高齢の皆さんにも感謝します。
 あまり多くの言葉を加えようとは思いません。というのは今夜はたった一言にとどまりたいからです。それは十字架そのものです。イエスは十字架は世の悪に対して神が答えた言葉そのものだからです。
 しばしばわたしたちの目には神が 悪に答えず、沈黙を守っていると見えることがあります。実際は、神はすでに語り、答えました。その答えこそキリストの十字架なのです。愛、あわれみ、ゆるしであるみ言葉なのです。

 またそれは審判でもあります。神はわたしたちを愛しながらさばきます。神は、わたしたちに愛を示しながらさばくのです。その愛を受けるなら、わたしは救われます。その愛を拒むならば、わたしは自分を断罪するのです。彼による断罪ではなく、自分自身による断罪なのです。なぜなら神は断罪せず、愛し、救うからです。

 十字架の言葉はキリスト者の、わたしたちの間、わたしたちの周りで働き続けている悪への答えです。キリスト者はイエスが自らの十字架を背負われたように、しっかりと自分の肩に十字架を担って悪にこたえなければなりません。

 今夜、この美しい(道行のための)黙想を書いてくれた、レバノンの兄弟たちの証しを聞きました。わたしたちはこの奉仕と、特にわたしたちに示してくれたこの証しに感謝します。教皇ベネディクトがレバノンに行った時の様子を見ました。その地でのキリスト者の一致の美しさと力強さ、イスラム教徒や他の宗教の人たちとの友情を見ました。

 それは中東にとって、また全世界にとって一つのしるしでした。ひとつの希望のしるしです。そういうわけで、毎日の日常生活でこの十字架の道行を続けましょう。共に十字架の道で歩みましょう。この愛と許しの言葉を心に抱いて歩きましょう。すべてが愛なのでわたしたちをたっぷり愛してくださるイエスの復活を希望して歩みましょう。

感動的な洗足式

朝日新聞デジタルによる記事:http://www.asahi.com/international/update/0329/TKY201303290046.html?ref=reca

バチカン3月29日7時12分(ACI)

 バチカンのスポークスマン、フェデリコ・ロンバルディ神父は、ローマの少年院にいる12人の青年たちの洗足式の時に、二人のイスラム教徒、一人のラテン国出身者がおり、実に感動的で心を動かすものであったと述べた。

 カサル・デル・マルコで行われた主の晩餐のミサに参列したロンバルディ神父は、そこには全部で「ふつうそのほとんどがその施設の青年50人なのですが、120人」ほどいたと伝えた。

「主の晩餐の典礼に関して言えば、福音朗読の後に、教皇によるそれは短い説教がありました。 洗足式の準備をする説教といえますが、これを愛と奉仕の模範として示しました」。
 このイエズス会司祭は「足を洗う瞬間は、本当に感動的でした。教皇は青年たちの一列目に近づきました。その12人の中には二人のイスラム教徒の青年、そして二人の女の子たちもいました。これはその施設いいる人たちのさまざまな出自を代表するものでした」とコメントした。

 「教皇は両膝で床に六回ひざまずきました。一回ひざまずくごとに二人の青年の足を洗ったからです。教皇は足を洗い、水を注ぎ、一人一人の青年の足にキスをしましたが、これを素晴らしい奉仕の行為として行ったのです。最高に感動的な瞬間でした」とロンバルディ神父は結んだ。

3月29日、ラニエロ・カンタラメッサによる聖金曜日の黙想:死は永遠への橋へと姿を変えた。

朗読個所  :  聖金曜日(主の受難) ※大斎・小斎
          イザヤ52・13~53・12
          ヘブライ4・14-16、5・7-9
          ヨハネ18・1~19・42:
 http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31698111.html?type=folderlist
 http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31698320.html?type=folderlist

バチカン、3月29日17時20分(ACI/EWTNニュース)
 
今日の午後、サン・ピエトロ大聖堂で教皇フランシスコの司式により、主の受難の祭儀が執り行われた。聖座の説教者、ラニエロ・カンタラメッサ神父が黙想の担当であった。


教皇フランシスコ、主の受難の祭儀において。写真:News.va提供

ラニエロ・カンタラメッサ神父の説教全文をここで読むことができる。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(ローマ3章23-26節)。

 信仰年の頂点、決定的な時に至りました。これこそが救いをもたらす信仰、「世に打ち勝つ信仰」(一ヨハネ5章5節)なのです!信仰は、わたしたちが自分のものとしていくものですが、キリストを通して実現した救いであり、その正義の上着でわたしたちは新たに覆われるのです。

 一方で、その恵みを人に差し出す神の手が伸びていますが、もう一方では、信仰を通してその恵みを迎えるために伸べられる人の手があります。「新しい永遠の契約」は神と人とが交わす強い握手によって刻印を押されています。

 この日に、わたしたちに永遠の扉を開くあの、人生で最も大切な決断を下す可能性があります。それは信じる、ということです!イエスが「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ローマ4章25節)と信じることです!

 四世紀のある復活祭の説教で、ある司教が稀有にも現代的で存在的な次の言葉を発しました。「一人一人の人にとって、いのちの基本は、自分のためにいけにえとなったキリストから始まるのです。けれどキリストは恵みを認め、あの方によって探し求められたいのちについて意識をしたときに、その人のためのいけにえとなるのです」(387年の復活祭説教、SCh36,p.59s)。

 なんとすごいことでしょう!今年の聖金曜日は、信仰年に、ペトロの新しい後継者を前にして祝われていますが、これはもしわたしたちが望むなら、新しいいのちの始まりとなりうるのです。ポワティエの司教ヒラリウスは、歳をとってからキリスト教に改宗しましたが、自分の過去の人生を再考しながらこう言いました。「あなたを知る前には、わたしは存在していなかったのです」と。

 求められているのは、アダムのように過ちを犯した後に隠れないことのみです。義とされる必要性があることを認識し、自分で正当化をしないことです。

 譬え話の徴税人は神殿に上り、短い祈りをしました。「あぁ、神さま、罪びとのわたしをあわれんで下さい」と。そしてイエスはこの人こそが「義とされて」家に帰ったと言います。つまり、正しい者となった、ゆるされた、新しい被造物となった、ということです。きっとその心に喜びあふれる歌が生まれたでしょう(ルカ18章14節参照)。

 何かすごいことをしたのでしょうか?何もしていません。真理において神の前に身を置いただけです。そしてこれが神に必要な唯一の行為なのです。

 アルプスの岸壁を渡っている人が危険なところを乗り越えた後、息を整えるためにしばらく止まり、目の前に広がる新しいパノラマを堪能するように、ローマ人の手紙の第5章を始めるにあたり使徒パウロは同じようなことをします。信仰を通しての義化を告げた後の個所です。

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5章1-5節)。

 これらは、人工衛星から、地球の全地域と惑星全体の赤外線写真のことを考えるとまさにその通りだと言えます。上から見た、あの赤外線に照らされたパノラマは、わたしたちが自然の光で、その中にいながら見ているものと比べると、何と異なって見えることでしょう!

 世に出回った最初の衛星写真の一つを覚えています。シナイ半島全体を写したものでした。色もずいぶんと異なり、輪郭や高低差がよりはっきりとしていました。これはシンボルです。人間のいのちも、カルワリオの高みから、信仰の赤外線を当ててみると、「単純に見る」のとは違って見えるのです。

 旧約の知恵ある人は言いました。どれも同じように起こるのだ、善人にも悪人にも、と。「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを」(コヘレト3章16節、9章2節)。実際、いつの時代でも勝利に満ちた悪も、さげすまれた無垢も見受けられます。

 しかし、世に何か変わらず確かなものがあると信じないために、ここに、ボッスエットが、物事がしばしば反対に見える、と指摘します。つまり、玉座にある無垢と絞首台にある悪が見えるというのです。しかし、コヘレトはどう結んでいたのでしょうか?「わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(コヘレト3章17節)と。改めて平和のうちに魂を落ち着かせる視点を見出したのです。

 コヘレトが知ることができず、しかしわたしたちが知っていることというのは、すでに与えられた次のような判断基準です。「(イエスは言った。)今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12章31-32節)。

 死んで復活されたキリストにおいて、世はその最終目的に到着しました。人類の発展はこんにちめまぐるしいリズムで進んでおり、人類はその発見の実りとして、新しく思いもよらなかった地平が広がっているのを目の当たりにしています。

 また、世(時代)の終わりが既に来たとも言えます。それは父の右にのぼられたキリストにおいて、人類はその最終目的に到達したからです。新しい天と新しい地というのはすでに始まっているのです。

 あらゆる悲惨や不正、地上にある醜悪な非道にも拘らず、キリストにおいてすでに世の決定的な秩序が始まったのです。わたしたちの目に映るものはわたしたちに正反対のことを思わせようとするでしょうが、悪と死は本当に永遠に打ち負かされたのです。

 その泉は枯渇したのです。現実というのは、イエスが世の主であるということにあります。彼によってなされた贖いによって悪は根本的に打ち負かされたのです。新しい世はすでに始まったのです。

 信仰の目をもってすると一番異なって見えることは何でしょうか?それは死です!キリストは暗い牢屋に入っていくように死に入っていきました。けれどそこからこれに対抗する壁を通って出てきたのです。ラザロが再び死ぬためにいのちに戻って来たのとは違い、来たところに戻ったのではないのです。

 誰にも二度と閉ざすことのできない命への突破口を開きました。そして誰もがその後に続くことができるのです。死はもはや人の希望をすべてつぶす壁ではないのです。永遠への橋へと姿を変えたのです。「溜息の橋」と言えるでしょう。それはおそらく誰も死ぬのを好まないからです。けれどもそれでも橋なのです。もはやあらゆることを飲み込んでしまう深淵ではないのです。

 「愛は死のように強」い、と雅歌が歌っています(8章6節)。キリストにおいては、愛は死よりも強いのです!

 「英国の教会の歴史」において、尊者ベーダはどのようにキリスト教の信仰が英国の北部に入って行ったかを語っています。ローマから来た宣教師たちが北ウンベルランドに到着した時、その地の王は新しいメッセージの伝播を認めるべきか否かを決めるために、高官たちによる顧問会を招集しました。

 そこにいた人たちには、好意を示した人もいましたし、反対するものもいました。冬でした。外には雪と吹雪。けれど部屋は輝き温かくなっていました。しばらくして、一羽の鳥が壁の穴から出てきて、おどろいたようにしばらく部屋のなかを飛び回り、その後反対側の壁の穴に入って見えなくなりました。

 そこでそこにいた人たちの一人が立ち上がり言いました。「あぁ、王様、この世でのわたしたちのいのちは、あの鳥のようなものです。どこから来たか分りませんが、短い間この世の光と温かさを味わって喜び、その後どこに行くか分らぬまま、また暗闇に消えていきます。もしこの人たちがわたしたちに、人生の神秘の何らかを示してくれるのなら、聞かなければならないでしょう」。

 キリスト教の信仰は、その介入の時になされたのと同じ理由で、わたしたちの大陸や世俗化した世に帰っていくことができるでしょう。人生の大きな問いや死に対して与える確かな答えをもっている唯一のものとして。

 十字架は信者と信者でない者の分け目です。なぜなら人によってはこれはスキャンダルかつ、ばかげたことであり、別の人にとっては神の力、神の知恵だからです(一コリント1章23-24節参照)。けれどより深い意味においては、これが信者も信者ではない者も、すべての人を一つにするのです。イエスは「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死」ななければならなかったのです(ヨハネ11章51節以降)。新しい天と新しい地はすべての人の権利に属し、すべての人のためにあります。なぜならキリストはすべての人のために死んだからです。

 それらすべてから生まれる緊急の課題は、福音化することです。「一人の方がすべての人のために死んでくださった」ことを考えると「キリストの愛がわたしたちを駆り立て」るのです(二コリント5章14節)。わたしたちを福音化に駆り立てるのです!

 「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマ8章1-2節)というよい知らせをわたしたちは世に伝えます。

 ユダヤ人のフランツ・カフカの語りで、強い宗教的シンボルであり、新しい意味を持ち、ほぼ預言的で、聖金曜日に聞かれるものがあります。そのタイトルは「皇帝のメッセージ」です。一人の王の話です。王は死の床にあって、自分の側に側近を呼び、その耳に一つのメッセージを囁きます。

 そのメッセージはとても大切だったので、自分の耳元で復唱させます。その後でこの伝達者を送り出すために、去らせる仕草をします。けれど、実際の著者の口から、この著者特有の夢のような、ほぼ悪夢のような語り口で、この話がどう続くかを聞きましょう。

 「はじめに片方の手を広げ、続いてもう一方を広げると、まるで誰もいないかのように群衆の間に道が開く。しかし群衆は実に大勢である。その宿舎は無限である。もし彼の前に自由な野が広がるならば、飛んでいるにちがいない!打って変わって、その努力のなんと空しいことか。未だ宮廷内の寝室を通じて道が開きつつあるところで、決して出ていかないだろう。そしてこれをなし得たとしても、何の意味もないだろう。まだ階段を下りていくために努力しなければならないのだ。これをなし得たとしても、全く先に進んだことにならないだろう。中庭を渡らなければならないのだ。そして中庭を抜けると、これを囲む第二の宮殿。そして最後の扉をついに通り抜けても――そんなことは決して起こり得ないのだろうが――、まだ皇帝の街を通らなければならないのだ。そこは世の中心で、屑が山積みになっているのだ。その中にいれば、誰にもこれを通す道を開けることはできない。しかも死んだ者のメッセージのためなどもってのほかである。お前は、一方で、お前の窓際に座り、そのメッセージについて想像するのだ、夜の帳(とばり)が降りるときに」。

 死の床から、キリストは自分の教会に一つのメッセージを託しました。「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)と。この話のようにメッセージを持ったまま、知らないうちに窓際で立ちつくして夢描いている人がまだたくさんいます。ヨハネは、今聞いたばかりのところで、十字架にいたキリストの脇腹を兵士が貫いたと言います。「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」書いてある聖書の言葉が実現するためでした(ヨハネ19章37節参照)。

 黙示録では加えてこう言われています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」(黙示録1章7節)

 この預言は、もはや回心の時ではない、キリストの最終的な来臨を告げるものではありません。自分の立場から、民の福音化の現実を描写しているのです。これにおいて、救いをもたらす主の、神秘に満ちてはいるけれど本当の訪れの証言をしているのです。

 この訪れは絶望の叫びではなく、痛悔と慰めの声です。これこそキリストの貫かれた脇腹において実現されたとヨハネが見ている、預言的な文章の意味なのです。つまりゼカリアが12章10節で言っていることです。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」。

 福音化の起源は神秘的なものです。キリストの十字架から、あの開かれた脇腹から、あの力、そのあの水からもたらされる賜物です。キリストの愛は、あの三位一体の愛のように、歴史的な表明であり、「diffusivum sui」なのです。つまり、おのずと広まろうとし、すべての造られたもの、「特にそのあわれみを最も必要としている人々」に届くのです。

 キリスト教の福音化は侵略ではありません。宣伝でもありません。神の、御子イエスにおける世のための賜物なのです。「頭(であるキリスト)」に、その心臓から体に向かって、最も遠くにいる部分までをも活かす命の流れを感じる喜びを与えることなのです。

 全力を尽くして、教会が、あのカフカが描写する複雑で一杯の城に決して姿を変えないようにしなければなりません。そうすればその歩みを始めた時と同じようにそこからメッセージが自由に幸せに出て行くことができるのです。

 伝達者をとどめうる妨害が何なのかをわたしたちは知っています。キリスト教の教会同士を分けているものから始まって、分け隔てる壁、過度の官僚制、儀式ばったところ、残骸となった過去の法律や矛盾などがあります。

 黙示録において、イエスは自分が門のところに立ち呼びかけていると言っています(黙示録3章20節参照)。しばしば、教皇フランシスコが指摘したように、中に入るためではなく、中から出ていくために呼びかけられるのです。「罪や苦しみ、不正や無知、宗教的無関心、あらゆる形の悲惨な状態といった、存在の中心から離れたところ」へと出ていくことです。

 古い建物に起こりやすいことが起こります。何世紀もたつと、時代の要望に合わせるために、仕切りや外付き階段、部屋や小部屋が増えていきます。気づいた時にはそうした適合のどれも、現実の要望に応えていないことに気づき、さらには、それが障害となっていることに気づくのです。そしてその時には、これを取り壊し、建物にその本来の単純さとすっきりとした線状をもたらす勇気を持つことが必要になるのです。

 これがサン・ダミアンの十字架の前で祈っていた一人の男がある日受けた使命でした。「フランシスコよ、行きなさい。わたしの教会を建て直しなさい」。

 「けれど、だれにそのような務めを果たすことができるのだろうか?」怖れをなした使徒は、世において「キリストの香り」になるという、超人間的な務めを前にして、自問自答しました。そしてここに、こんにちにおいても同じ価値をもった答えを聞きます。「何かわたしたち自身からくるものがわたしたちに権威を与えることができるのではなく、すでにわたしたちの能力は神から来ているのです」。

 神はわたしたちに新しい契約の奉仕者となるための能力を与え、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。なぜなら文字は殺し、霊は命を与えるからです(二コリ2章16節、3章5-6節参照)。

 聖霊が、この教会に新しく希望に満ちた時を始めているこの時に、メッセージを待って窓のそばにいる人々の中で、そしてメッセージを運ぶ人々の中で、そのメッセージを、命を賭けてでも伝える意志が目覚めますように。

教皇フランシスコ司式による2013年十字架の道行の黙想



(ベチャラ・ブトゥロス・ライ枢機卿の指導のもとレバノンの青年たちによって作られた黙想。挿絵:19世紀の十字架の道行。パレスチナのフランシスコ会芸術家による、ベツレヘムにて。)


はじめに:

「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」(マルコ10章17節)。

イエスはわたしたちの存在のもっとも個人的なところでくすぶるこの質問に、十字架の道を歩みながら応えられました。

主よ、誰よりもまずあなたが歩き始められたこの道で、あなたを見つめます。「あなたはその十字架を死への橋として据え、そのために人々は死の国から命の国へと渡ることができるようになったのです」(シリアの聖エフレムの説教より)。

あなたについて行くようにとの呼びかけはすべての人々に向けられています。特に若者たち、そして分裂や戦争、不正に苦しむ人々、兄弟たちの間で希望のしるし、平和の建設者になるために立ち上がる人々に向けられています。

ですからあなたの前で、愛をこめてわたしたちは立ちます。わたしたちの苦しみをあなたに差し出します。わたしたちの眼差しとわたしたちの心をあなたの聖なる十字架に向けます。そしてあなたの約束に支えられて祈ります。「わたしたちのあがない主はたたえられますように。主はわたしたちにその死をもっていのちをお与えになりました。あぁあがない主よ、わたしたちのうちに、その受難、死と復活を通して、あなたの贖いの神秘を実現して下さい」(レバノンキリスト教会、マロン派典礼より)


第一留:イエス、死刑の宣告を受ける



マルコによる福音(15章12―13節、15節)の朗読

そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

権力を誇示するピラトの前に、イエスは正義をもって扱われるべきであった。ピラトは事実、イエスの無罪を認め、釈放する権力をもっていたのである。しかしローマ総督は自分の関心事の論理に仕えることを好み、政治的、また社会的圧迫に屈する。真理を支持することなく、人々に気に入られるために一人の無実の者に死刑判決を下した。無実であったと知りながら、イエスを十字架刑の責め苦へと引き渡し、両手を洗った。

わたしたちの生きる現代社会には、多くの「ピラト」がいます。それは権力の行使をその手にし、それをより強い人たちに仕えるために使う人々です。こうした権力の潮流を前に、弱い者であれ強い者であれ、その権威を不正に従わせ、人間の尊厳と生きる権利を踏みにじる人が多いのです。

主であるイエス様、わたしたちが不正な人のうちに数えられることのないようにしてください。力ある人々が悪や不正、横暴に満足を覚えることのないようにしてください。不正が無実な人々を絶望と死に導くことのないようにしてください。人々に希望を約束し、この世で権威のある人々の良心を照らし、正義をもって統治できるようにしてください。アーメン。


第二留:イエス、十字架を担わされる。



マルコによる福音書(15章20節)の朗読

このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

イエス・キリストは自分に対する権限すべてをもっていると信じている数人の兵士の前にいる。一方でイエスは、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1章3節)と言われるその方なのである。

どの時代でも、人は神になり変わり、自らの創造主であり救い主である方を考慮に入れずに、自分で善悪を定めることができると信じ込んできた(創世記3章5節)。全能であり、理性、権力、あるいは金銭の名のもとに、自分や隣人の人生から神を除外することができると信じてきた。

今日も、世の生活から神を追いだそうとする現実に世は服従しています。それは、推定での人権保護の名のもとに信仰と倫理の価値観をないがしろにする盲目な反教権主義、あるいは宗教的価値観の保護という名目の暴力的な原理主義に似ています(使徒的書簡:『中東における教会』29)。

主であるイエス様、あなたは侮辱を甘んじて受け、自分を弱い者の一人とされました。あなたにすべての人々、そして特に苦痛を感じている東方の国々すべてを委ねます。人々があなたからあなたと共にその希望の十字架を運ぶことができるための力を得られるようにしてください。わたしたちは道に迷っているすべての人々をあなたの御手に委ねます。そうして彼らがあなたのおかげで、真理と愛を見出すことができますように。アーメン。


第三留:イエス、初めて倒れる。



イザヤ書(53章5節)の朗読。

彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。

天のともしびをその聖なる手のひらに持ち、そのまえに天の権威が震えあがるあの方が十字架のくびきの重みのもとで自分を保護することもできずに地面に落ちる。

平和をもって世に来られたあの方が、わたしたちの罪のために傷つき、わたしたちの咎(とが)の重みのもとに倒れる。

「見てください、あぁ信者たちよ、カルワリオの道を進むわたしたちの救い主を。苦々しい苦しみに押しつぶされ、力も尽き果てます。わたしたちの理解を越え、なかなか描写できないこの信じがたい出来事を見つめましょう。地の基が揺らぎ、その創造主であり神である方がその十字架の重みでつぶされたときにそこにいた人々を、ひどい恐れが襲った。そして全人類への愛のための死へと導かれるがままに任せた(カルデア典礼)。

主であるイエス様、わたしたちの落ち込みからわたしたちを立たせてください。わたしたちの道に迷った精神をあなたの真理へとあらためて導いて下さい。あなたのために作られた人間理性が、意味と存在についての根本的な問いを提案しようとすることのない、科学と技術の部分的な真理に満足することのないようにしてください(自発教令『信仰の門』12)。

主よ、わたしたちが聖霊の働きに開くことができるようにしてください。こうしてわたしたちを真理の完成に導いて下さいますように。アーメン。


第四留:イエス、御母に出会う。



ルカによる福音(2章34-35節、51節b)の朗読

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「ごらんなさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」母はこれらのことをすべて心に納めていた。

傷つき苦しみながら、すべての人の十字架を担いで、イエスは御自分の母に会った。そしてその顔において、全人類と面したのである。

神の母であるマリアは、師の最初の弟子であった。天使の言葉を受け入れるにあたって、はじめて受肉されたみことばと出会い、生ける神の神殿へと変えられたのである。マリアはなぜ天と地の創造主が、この世に受肉するために若い女性を、弱々しい存在を選ばれたのか理解しないまま主に出会った。主の顔を絶えず探し求めていたときに、心の静寂のうちに、み言葉の黙想のうちに主に出会ったのである。マリアが主を探し求めていたかのように思われるが、実は主がマリアを探していたのである。

そして今、主は十字架を運びながら、マリアに出会う。

イエスは悲嘆にくれるマリアを見て苦しみ、マリアは我が子を見て苦しみます。けれどこの誰でもが持つ苦しみから、新しい人類が生まれるのです。「マリアさま、あなたに平和がありますように。あぁ、栄光に満ちた聖母、永遠のおとめ、神の母、キリストの母よ。わたしたちの罪をゆるしてくださる愛に満ちたあなたの子のいるところにわたしたちの祈りを運び上げてください」(コプト時課の『神の母への賛歌』、アル・アギバ37)。

主であるイエス様、わたしたちも自分の家族の間で子供のことで両親が苦しみ、親のことで子供たちが苦しんだりします。主よ、このような難しい時に、わたしたちの家族があなたのおられる場所となり、わたしたちの苦しみが喜びに変わりますように。わたしたちの家族の力となってください。そしてわたしたちの家族が、ナザレの聖家族の姿に倣って、愛と平和、落ち着きのオアシスとなりますように。アーメン。


 第五留:イエス、キレネのシモンの助力を受ける。



 ルカによる福音(23章26節)の朗読

 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

イエスとキレネのシモンとの出会いは沈黙のうちに行われた。それはある種の人生の学びの時であった。神は苦しみを望まず、悪を受け付けない。人間も同じである。しかし苦しみは、信仰をもって受け入れられると、救いの歩みへと姿を変える。その時、イエスのように苦しみを受け入れ、キレネのシモンのようにこれを運ぶイエスを助けるのである。

主であるイエス様、あなたはその十字架を運ぶのに、人間が一部を担うようになさいました。あなたの苦しみを分かつようにわたしたちを招かれました。キレネのシモンはわたしたちのうちの一人で、わたしたちに人生の歩みのなかで直面する十字架を受け入れるよう教えてくれます。

主よ、あなたの模範に倣い、わたしたちも今日、苦しみや病気の十字架を運びます。けれどこれを受け入れるのは、あなたがわたしたちと共にいてくださるからです。このことはわたしたちを椅子に縛り付けることはできるでしょうが、夢を抱くことを妨げることはできません。舌を縛り付けることができても、真理への飢えを消し去ることはできません。魂を麻痺させることはできても、自由を奪うことはできないのです。

主よ、わたしたちは、日々あなたの十字架を運ぶために、あなたの弟子になることを望んでいます。あなたがわたしたちと共にこの十字架を運んでくださるために、わたしたちはこれを喜びと希望をもって運びます。なぜならあなたはわたしたちのために死に勝る勝利に至ったからです。
主よ、あなたの証し人となることを知っている病気の人、苦しむ人の一人一人を想い、あなたがわたしたちの歩みにおいて送ってくださる『キレネのシモン』一人一人を想い、感謝します。


第六留:ヴェロニカ、イエスの顔をぬぐう。



詩篇(27編8-9節)の朗読

 心よ、主はお前に言われる「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなくあなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。

ヴェロニカは人々の真っただ中であなたを探しました。あなたを探し、ついにあなたに出会いました。あなたの痛みが極みに達している時に、一枚の布で顔をぬぐうことであなたの痛みを和らげたいと望みました。小さな仕草、けれどあなたへの愛のすべてを表し、あなたへの信仰のすべてを表すしぐさです。そしてわたしたちキリスト教伝統の記憶に刻みつけられた仕草です。

主であるイエス様、あなたのみ顔を尋ね求めます。ヴェロニカは苦しむ人、ゴルゴタに向かう人の一人一人のなかにあなたがおられることをわたしたちに知らせます。主よ、貧しい人々、あなたの小さい兄弟たちのうちにあなたに出会わせてください。そうして泣く人の涙をぬぐい、責任をもって苦しむ人のためにはたらき、弱い人々を支えることができますように。

主よ、あなたは傷ついた人や忘れられた人がその価値や尊厳を失わないこと、そして世においてあなたの隠れた現存のしるしとなって留まるという事をわたしたちに教えられます。わたしたちが人々の顔から貧困と不正の跡を洗うことができますように。そうしてあなたの顔が浮かび上がり、輝きますように。

主の顔を尋ね求めるすべての人々のために祈りましょう。家のない人々、貧しい人々、暴力や搾取にさらされている子供たちのうちにあなたを見出すことができますように。


第七留:イエス、再び倒れる。



詩篇(22編8節、12節)の朗読
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。わたしを遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

イエスはただ十字架の持つ外面的な重みと内面的な重みのもとにある。倒れる時というのは、悪の重みがあまりに大きくなり、まるで不正と暴力に限界がないと見える時である。

しかし主は、御父に対して抱く信頼に支えを見出し、再度起き上がる。御父はイエスを見放した人々を前に、聖霊の力によって起こすのである。イエスを御父のみ旨、何でもできる愛のみ旨と完全に一致させるのである。

主であるイエス様、あなたの二度目の転倒で、わたしたちは解決の糸口がないかに見える状況をたくさん再認識します。その中には、偏見や憎しみのせいで、わたしたちの心を堅くし、宗教対立に招くものもあります。

わたしたちの良心を照らし、「人間的、宗教的相違」にもかかわらず、神のうちにのみある真理に向かって、信教の自由を尊重しながら、共に歩むように呼ばれたわたしたちがすべての人を照らす真理のきらめきを見出すことができますように。そうして、異なる宗教が「共通善に仕え、一人一人の発展と社会建設に貢献するために力を合わせる」ことができるでしょう(使徒的勧告『中東における教会』27―28)

聖霊、来てください。キリスト者を、特に中東にいるキリスト者を慰め、励ましてください。キリストと一致して、不正と対立で傷ついた地上で普遍的なその愛の証し人となることができますように。アーメン。


第八留:イエス、自分のために泣くエルサレムの婦人たちに出会う。



ルカによる福音(23章27-28節)の朗読

民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」。

カルワリオへの道で、主はエルサレムの婦人たちに出会う。彼女たちは希望のない苦しみを扱っているかのように主の苦しみに泣く。彼女たちは十字架の木に呪いのしるし(申命記21章23節参照)しか見ない。一方、主はこの木をあがないと救いの道具として望まれた。

受難と十字架刑において、イエスは多くの人の身代わりとして自分のいのちを与える。こうしてくびきのもとにある抑圧された人々の痛みを和らげ、悲嘆にくれる人々に慰めを与える。エルサレムの婦人たちの涙をぬぐい、その目を開いて過越の現実に目を向けさせる。

わたしたちの世には悲嘆にくれる母親や、差別や不正、苦しみによって暴力を受けた、その尊厳を傷つけられた女性で満ちています(使徒的勧告『中東における教会』60参照)。あぁ、苦しみのキリスト、彼女たちにとって平和となり、その傷に注がれる(癒しの)香油となってください。

主であるイエスよ、「女のうちで祝福された」マリアにおける受肉をもって(ルカ1章42節)、あらゆる女性の尊厳を高められました。受肉によってあなたは人類と一つになられました(ガラテヤ3章26-28節)。

主よ、わたしたちの心の望みがあなたと出会うことにありますように。苦しみに満ちたわたしたちの歩みが、いつもあなたと共なる、あなたに向かう希望の道のりでありますように。なぜならあなたはわたしたちの人生の隠れ家、わたしたちの救いだからです。アーメン。


第九留:十字架の重みに、イエス、三度倒れる。



コリント人への手紙(第二、5章14-15節)の朗読

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

三度、イエスはわたしたちの罪を背負った十字架のもとに倒れる。そして三度、ゴルゴタへの道を続けるため、つぶされたままにならないように、誘惑に打ち負かされないように、残りの力を振り絞って立ち上がろうとされる。

その受肉の時から、イエスは人の苦しみと罪の十字架を運んでいる。完全な形で人の性質を身に受け、いつまでも、勝利は可能であること、神との親子関係の歩みは開かれていることを人々に示される。

主であるイエス様、あなたの開かれた脇から生まれた教会は、キリスト者とを互いに遠ざけるあなたが彼らに望まれた一致を引き離す分裂の十字架のもとで抑圧されています。あなたと御父が一つであるように「皆がひとつになるように」(ヨハネ17章21節)というあなた望みから迷い出てしまいました。わたしたちに立ちはだかる分裂を前に、主よ、個人的な関心、あるいは小さなグループだけの関心から生まれる判断基準だけに走る誘惑に屈することなく(使徒的勧告『中東における教会』11)、真理と愛のうちに、起き上がり、一致のうちに歩み続けるための知恵と謙遜をお与えください。

「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」(一コリント1章17b節)分裂のメンタリティーを手放すことができますように。アーメン。


第十留:イエス、衣をはがされる。


詩篇(22編19節)の朗読

わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。

時が満ちると、主イエスよ、あなたはわたしたちの人間性をまとわれました。「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」(イザヤ6章1節)と述べられているあなたが、主よ、今は、その服までもはぎ取られています。わたしたちがあなたから上着を奪い、あなたは下着までもわたしたちにお与えになりました(マタイ5章40節参照)。あなたはあなたの肉体を覆う垂れ幕が割けることをおゆるしになり、父の臨在に改めて入ることをゆるされるようにしてくれました(ヘブライ10章9-10節参照)。

わたしたちだけで、あなたから独立して自己実現できると信じていました(創世記3章4-7節参照)。わたしたちは裸であることに気づきましたが、あなたの永遠の愛が神の息子、娘の尊厳とあなたの聖化をもたらす恵みによって再びわたしたちを覆ってくださいました。

主よ、様々な困難、しかも迫害までも含めた困難によって服をはぎ取られ、移民によって弱まった、東方教会の子らに、よい知らせをのべ伝えるために自国に留まる勇気をお与えください。

あぁ、人の子イエス、あなたの服ははぎ取られましたがそれは死者のなかから復活した新たな被造物をわたしたちに示すためでした。神とわたしたちを隔てる垂れ幕をわたしたちから取り去り、あなたの神の現存をわたしたちのうちに織り込んで下さい。

わたしたちから服をはぎ取りわたしたちを裸にする人生の出来事を前にした怖れに打ち勝つことができるようにしてください。そしてわたしたちの洗礼の新しい人を新たにまとわせ、あなたこそ歴史を導く唯一の真の神であることを告げながらよい知らせをのべ伝えることができますように。アーメン。




第十一留:イエス、十字架に釘づけにされる。



ヨハネによる福音(19章16節、19節)
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

ここに、待ち望まれたメシアの姿がある。犯罪人の間で十字架の木にかけられている。人類を祝福してきた手は貫かれている。よい知らせを告げるためにわたしたちの地を踏みしめた足は天と地の間にぶら下がっている。一瞥するだけで病人を癒しわたしたちの罪をゆるした愛に満ちた目は、今やただ天を見据えている。

主であるイエス様、あなたはわたしたちの過ちのために十字架に架けられました。あなたは父に願い、人類のためにとりなしておられます。金槌の一振り一振りが、いけにえとなったあなたの心の鼓動のように響き渡ります。

カルワリオの丘で救いのよい知らせを告げる者の足は、何と美しいことでしょう。イエスよ、あなたの愛が宇宙に満ちています。あなたの貫かれた手は悩みの時のわたしたちの隠れ場です。罪の淵がわたしたちを脅かす時を迎えるたびに、あなたの傷口に健康とゆるしを見出します。

あぁイエスよ、絶望に打ちひしがれている若者、麻薬やセクト、堕落の犠牲となっている青年すべてのために祈ります。その奴隷状態から解放してください。彼らが目をあげ、愛を迎え入れますように。あなたのうちに幸福を見出しますように。わたしたちの救い主であるあなたが、彼らを救ってくださいますように。アーメン。




第十二留:イエス、十字架上で息を引き取る。



ルカによる福音(23章46節)の朗読
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

十字架の高みからの、一つの叫び。死の瞬間のゆだねの叫び、苦しみのさなかでの信頼の叫び、新しいいのちが産まれる時の叫び。いのちの木にかけられ、父の手にその霊を委ね、あふれんばかりのいのちをわき出させ、新しい被造物を作りだしながら上げられる叫びです。わたしたちも今日この世の挑戦に立ち向かいます。心配事の波がわたしたちを飲み込み、わたしたちの信頼を揺らがしているとわたしたちは感じます。主よ、わたしたちを形作りわたしたちに寄り添うあなたの手の内で憩うまで、わたしたちの内面にはどのような死もわたしたちに打ち勝つことのないものがあることを知ることによって得られる力をお与えください。

そうしてわたしたち一人一人が次のように叫ぶことができますように。
「昨日は、キリストと共に十字架に架けられていた。
 今日は、キリストのうちに栄光を帯びている。
 昨日は、キリストと共に死んでいた。
 今日は、キリストと共に生きている。
 昨日は、キリストと共に墓に葬られていた。
 今日は、キリストと共に復活している」(ナジアンゾスのグレゴリオ)

わたしたちの夜の暗闇のなかで、わたしたちはあなたを見つめます。あなたの天の父、いと高き方に向かうことをわたしたちに教えてください。

今日、堕胎を推進する人たちのために祈ります。彼らが愛だけが命の泉となりうるということを意識できますように。安楽死の擁護者たちと、人の命を危険にさらす技術と処置を推進する人々のためにも祈ります。彼らの心を開き、真理においてあなたを知り、いのちと愛の文化の建設に献身する約束をすることができますように。アーメン。




第十三留:イエス、十字架から降ろされ、母の腕に委ねられる。


ヨハネによる福音(19章26-27a節)の朗読
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」

主であるイエス様、あなたを愛する人々があなたのもとに留まり、信仰を守っています。その信仰は苦悩の時にも死に際しても、悪が勝ち、真理や愛、正義や平和の声が押し殺されたと世が信じる時にも、落ち込みません。

あぁ、マリア様、あなたの手のなかにわたしたちの地(地球、土地)をゆだねます。「この祝福されたちが執拗に破壊され、死んでいくのを見るのは何と悲しいことでしょう」(使徒的勧告『中東における教会』8)。まるで何ものも悪やテロリズム、殺人や憎しみを取り去ることができないかのように見えます。「わたしたちの救いのために御子がその無垢な手を広げられた十字架を前に、あぁ、おとめよ、この日、ひれ伏します。平和を与えてください」(ビザンチン典礼)

戦争や、この現代にあって中東の国々や世界の他の地域を荒廃させる暴力の犠牲者たちのために祈ります。難民や強制的に移動させられた移民が一刻も早く自分の家、自分の土地に戻ることができますように。主よ、無実な犠牲者の血が、より兄弟愛と平和と正義に満ちた新しい東方の種となり、この東方が霊的、人間的文化と価値観の温床としての召命を再び輝かせることができますように。

東方の星よ、新しい朝の訪れがどこから来るかを示して下さい。アーメン。




第十四留:イエス、墓に葬られる。


ヨハネによる福音(19章39―40節)
そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。

ニコデモはキリストの体を引き取り、これを引き受け、創造のわざを思い起こさせる庭の、墓に納める。イエスは甘んじて十字架に架けられたのと同じささげで、人々の手に完全に「渡され」、「墓石のもとで眠ることまでも」彼らと「完全に一致し」、甘んじて埋葬もされる(ナレクの聖グレゴリオ)。

困難や、痛みに満ちた出来事、死を受け入れるには、確かな希望、生きた信仰が欠かせない。

墓の入り口に置かれた石は動かされ、新たないのちが生まれるだろう。

実際、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章4節)。

わたしたちは奴隷状態に戻らないために、神の子の自由を受けました。わたしたちにはあふれんばかりのいのちが与えられました。美や意味の欠如したいのちにはもう満足ができないのです。

主であるイエス様、わたしたち光の子らが闇を恐れないようにしてください。今日、人生の意味を探している人々、希望を失ってしまった人々すべてのために祈ります。罪と死に対するあなたの勝利を信じることができますように。アーメン。