2013年6月3日月曜日

6月3日、朝ミサ説教:罪びとであるということは大丈夫だけれど、堕落した人になるのはだめ!

朗読個所  : トビト1・3、2・1b-8
         マルコ12・1-12

バチカン、6月3日15時41分(バチカンラジオ)
 
  罪びと、堕落した人々、聖人。パパ・フランシスコは今朝の聖マルタの家でのミサの説教でこの三つの名称に焦点を当てた。パパは堕落した人々は教会に対して大変な害を及ぼす、自分自身の崇拝者であるから。一方聖なる人は教会に益となる、教会の光であるから、と強調した。

 ミサではアンジェロ・アマート枢機卿が共同司式に上がり、列聖省の司祭や協力者団と、ジェンティルオミニ、つまりローマ聖庁の騎士団グループが列席した。

 「わたしたちがブドウ園の主人になりたいと思ったらどうなるでしょう?」パパはその説教を、回想するために、悪いブドウ園の労働者のたとえについて語る福音に端を発してその説教を発展させた。「ここには教会における三種類のキリスト者のモデルが見受けられます。罪人たち、堕落した人々、聖人です」。「罪びとについて話す必要はそれほどありません。全員罪びとですから」とパパは見解を述べた。「わたしたちは内側から知っています。そして罪びとというのはどういうものかを体験しています」と続けた。なぜなら「何かがうまくいかないからです」。「譬え話は他のモデルについて語っています。ブドウ園を自分たちのものにしようとし、ブドウ園の主人との関係を失ってしまった人々の姿です」その主人は、「わたしたちを愛をもって呼び、わたしたちを庇護し、またわたしたちに自由を下さる方です」。こうした人々は「自分が強いと思っていました。神から離れて自分勝手にできると感じていたのです」。

 「この人たちは、ゆっくりと、あの自分勝手な状態に引きずられていきました。神との関わりにおける身勝手さです。『わたしたちにはあの主人は必要ない。わたしたちを邪魔しに来ないでくれ!』と。そしてわたしたちはそうやって前進するのです。こうした人たちは堕落した人たちです!わたしたちすべてと同様に罪びとだった人たちは、一歩あゆみを進めました。まるで罪に凝り固まったかのようでした。神を必要としないのです!けれどこれは表面的でした。なぜならその遺伝子コードには神とのこの関わりが刷り込まれているからです。そしてそれを否定できないので、特別な神を作り出します。自分たちが神になっていくのです。これが堕落した人々なのです」。

 「これは、「またわたしたちにとっても危険です」とパパは加えた。「キリスト者の共同体」の中で、堕落した人々というのは自分たちのグループのことだけを考えます。「いいでしょう、いいでしょう。わたしたちのグループの人だから」というように考えるけれど実際には「自分たちのためにほかの人たちを使っているのです」との見解を述べた。

 ユダは悪い罪びとというところから始めて堕落に終わりました。身勝手の道は危険な道です。堕落した人たちはひどい健忘の人々です。ブドウを植えた主人のこの愛を忘れてしまったのです。彼らのためにして下さったのに、です!この愛との関わりを切ってしまいました。そして彼らは自分自身の崇拝者になります。「キリスト者の共同体において堕落した人々がどれほど害を及ぼしてきていることか!主がこの堕落の道に引きずられていくことから解放してくださいますように」。

 ローマ司教は聖なる人々について語った。そこで今日その死から50年を数える、「聖性の模範」であるヨハネ二十三世教皇のことを思い返した。今日の福音において、聖人というのはブドウ園の「貸付金を集めに行く人々」であるとの見解を述べた。「彼らは自分たちに何が待ち受けているかを知っていますが、これをしなければなりません。そして義務を果たすのです」。

 「聖なる人々、主に従うあの人々、主を礼拝するあの人々、愛の思い出を失わなかった人々、主が共にブドウ園を植えた人々。教会の聖人たち。そして堕落した人々が教会に大変な害を及ぼすように、聖なる人々は教会に大変益になります。使徒ヨハネが言っています。堕落した人々は反キリストであり、わたしたちのただ中にいるけれどわたしたちに属していません。神の言葉はわたしたちに、聖なる人々は光のようだと語っています。「礼拝をしながら神の玉座の前にいるであろうあの人々」のことを。「今日、自分を罪びととして感じられる恵みを願いましょう。けれど、本物の罪びと、普通の罪びとではなく、これと、これと、これ、という具体的なこと、具体的な罪のせいで自分は罪びとなのだと感じられる恵みを願いましょう。罪びとであることは大丈夫だけれど、堕落した人になるのはダメ!そして聖性の道を行く恵みを求めましょう。アーメン」 

(RC-RV)

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