イザヤ49・1-6
使徒言行録13・22-26
ルカ1・57-66、80
聖ヨハネのように、教会は殉教に至るまで神の言葉を告げ知らせるように呼ばれています。このようにパパ・フランシスコは、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日に当たり、聖マルタの家での今日のミサで強調した。パパは、教会は何かを自分のために取ることは決してあってはならず、福音の奉仕のためにいつもあるべきである、と強調した。
ミサには、ジャンフランコ・ラヴァスィ枢機卿他が共同司式をし、文化評議会の司祭団や協力者達のグループと、la Pontificia Comisión de Arqueología Sacra y de la Oficina Filatélica y Numismática Vaticanaの従業員グループが参列した。
教会が洗礼者聖ヨハネの誕生を祝う日に、パパ・フランシスコはその説教を、ヨハネという名を頂いている人々全てに対する挨拶からはじめた。パパは言った。「洗礼者聖ヨハネの姿は、そんなにいつでもかんたんに理解できるものではありません」。「その人生について考える時、彼は預言者で」、「偉大な人であったけれど、後で不幸な人のように終わっていく人です」と見解を述べた。「では、ヨハネは何者なのでしょう?彼自身、これを説明しています」と教皇は言った。「『わたしは声である。砂漠の中の声である』。けれど、それは言葉のない声です。なぜなら、言葉は彼ではなく、他の人だからです」。「ここに、ヨハネの神秘があります。言葉を支配することを決してしません。ヨハネは指し示す人、指さす人なのです」。「ヨハネの人生の意味は、他の人を指し示すことにあります」と付け加えた。パパ・フランシスコは言った。「教会がヨハネの祭日を、一年のうち日の長さが最も長い時期、最も光のある時期を選んだという事実は印象的です」。「そして本当にヨハネは、光の人、光を運んでいた人、けれど光そのものではなく、光を反射していた人でした」。「ヨハネは月のようです。イエスが宣教をはじめると、ヨハネの光は小さくなり始め、消えていきました」。パパは言った。「言葉ではない声。光、けれど自分自身が輝いているのではない光」。
「ヨハネはまるで無のようです。それがヨハネの声です。消えていく。そしてわたしたちがこの人の人生を観想する時、とっても偉大で、とっても力強く、誰もが彼はメシアではないかと思います。この命が、牢屋の暗闇までへりくだっていったかのようになっているのを観想する時、大いなる神秘を観想します。わたしたちはヨハネの最期の日々がどのようであったかを知りません。このことを知らないのです。わたしたちが知っているのは、彼が殺されたこと、その頭は盆の上に乗せられて、踊り子から娼婦への大きなプレゼントとされたことだけです。これ以下にはいけないほどに、へりくだりました。あれがヨハネの最期でした」。
パパは続けた。「牢屋で、ヨハネは疑念を抱き、苦悩を抱き、その弟子たちを呼んでイエスに尋ねに送ります。『(待ち望んでいた救い主は)あなたですか?それとも他の人を待たなければならないのですか?』と。その人生には病みも、痛みもあります。このことからすらもヨハネはまぬかれなかったのです」とパパは言った。そして加えた。「ヨハネの姿は教会のこととしてわたしに多くのことを考えさせます」。
「教会は告げ知らせるために存在しています。み言葉の声、自分の夫の声、つまりみ言葉の声を告げるために。そして教会は殉教に至るまでこの言葉を告げ知らせるために存在しているのです。殉教というのはまさに傲慢な人々、地上でもっとも傲慢な人々の手の内にあります。ヨハネは重要な人になることができたはずです。自分について何か言い得たはずです。ただ、これだけを示しました。自分を声だと感じていたのであって、み言葉であるとは感じていませんでした。ヨハネの秘密です。なぜヨハネが聖人であって、罪を犯さなかったのでしょうか?なぜなら決して、真理を自分のもののように扱わなかったからです。自分をイデオローグとすることを望まなかったのです。み言葉降るように、自分自身を否定しました。そしてわたしたちは、教会として、今日、イデオローグ化した教会になり下がってしまわない恵みを求めることができます」。
加えて言った。「教会は、イエスの声を聞き、その声となり、勇気をもってこれを告げ知らせなければなりません」。「それが、イデオロギーのない教会、自分のためいのちというもののない教会です。教会は『月の神秘』なのです。その夫の光をいただき、夫が大きくなるために小さくなるという神秘なのです」。
「これが今日わたしたちに、わたしたちのため、教会のためにヨハネが差し出している模範です。いつでもみ言葉への奉仕にあるような教会となるために。教会が決して自分自身のために何ものをもとらないように。今日、祈りのうちに喜びの恵みを願いました。このみ言葉の声となる、このみ言葉を告げ知らせるという、み言葉へのその奉仕のうちにこの教会を喜ばせることを主に願いました。ヨハネを真似する恵みを願いましょう。自分のアイデアもなく、自分の持ち物のように福音を所有することもなく、ただみ言葉を示す声としての教会とのみなるように。そしてこれが殉教に至るまでなされるように。なれかし(アーメン)」。
(MZ-RC,RV)
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