2013年6月16日日曜日

6月14日(金)、朝ミサ説教:もろい土の器。自分が弱く罪びとであることを認めること

朗読個所  : 二コリント4・7-15
          マタイ5・27-32

バチカン、6月14日17時10分(バチカンラジオ)
 
 キリストの救いの賜物を本当に受ける唯一の方法は誠意をもって、自己正当化を何としてでも避け、自分の弱さや罪のある状態を認識することにあります。パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂で今朝祝われたミサの説教の間にこう確言した。

 この金曜日、共同司式に上がったのは聖職者省の議長マウロ・ピアチェンツァ枢機卿と、秘書のモルガ・イルズビエタ大司教であった。彼らには司祭団と同じ省の担当者たちも伴った。さらに、ジュゼッペ・ベルテッロ枢機卿と、アルゼンチンはウマウワカの司教であるペドロ・オルメード・リヴェーロ卿と、フィリピンはダエットの補佐司教であるベンハミン・J.アルモネーダ卿であった。

 土のもろい器でありながら完全に無償な形で与えられた大いなる宝を守ることを意識する人。これはその主を前にしてキリストに従う者である。教父はコリントのキリスト者たちにパウロが説明をしている手紙について考えを巡らし、信仰の「尋常ではない潜在力」は神の業であり、罪びとたちの上に、「土の器」の中に注がれなればならないことを明らかにした。まさに「めぐみとイエス・キリストの潜在力との」関係から、そしてわたしたち哀れな罪人から、「救いの対話」が湧き出た、とパパは見解を述べた。しかしながら、この対話はあらゆる種類の「自己正当化」を避け、「わたしたちのあるがままでなければなりません」と述べた。

 「パウロは、何度も、まるで決まり文句のように、ですよね?自分の罪について語ってきました。『このことを皆さんに言っておきます。わたしは教会の迫害者だったのです。わたしは迫害してきました・・・』と。いつも自分の罪の記憶に戻っています。自分のことを罪びとだと感じます。けれどその時にはこうは言いません。『わたしは昔は罪びとでしたが、今は聖人です』とは、言わないのです。今も、サタンの一つのとげがわたしの肉体に刺さっています、と。わたしたちが自分の弱さを見るようにしています。罪自体を見るように、と。イエス・キリストを迎え入れる罪びとなのです。彼はイエス・キリストと対話をするのです」。

 秘訣は、謙虚にあります、とパパは指摘した。パウロ自身がそのことを示しています。パウロは公に「その奉仕の履歴」、つまりイエスによって遣わされた使徒として達成したすべてのことを認識している、とフランシスコは述べた。しかし、だからと言って、隠れこむようなこと、あるいは教皇が言っているような「便覧」、つまりその罪の数々を隠すようなことはない。

 「同じように、これはわたしたち神父、わたしたち司祭の模範でもあります。もしわたしたちが業績の履歴だけで誇りに思い、それだけならば、間違いに終わるのです。それではわたしたちには救い主イエス・キリストを告げ知らせることはできません。なぜなら深い所でそのことを感じないからです。謙虚でなければなりません。けれど本物の謙虚さ、名字も名前もある(訳者注:スペイン語の表現では、『具体的な』という意味)謙虚さでなければならないのです。『わたしはこのことと、このことと、このことで罪びとです』というように。パウロが『わたしは教会を迫害してきました』と言っているように、彼がするように、具体的なことでの罪びととして。あの謙虚さとは言うけれど御絵にある聖人の顔のような謙虚さを見せようとする罪びとではないのです。でしょ?違うのです。謙虚さというのは強いのです」。

 「司祭の謙虚さ、キリスト者の謙虚さは具体的なのです」。ローマ司教は、彼らに対して、「もしキリスト者が自分自身に対するこの告白をせず、教会に対してもしないならば、何かが機能しないのです」とはっきりと述べた。そして機能しなくなると、それは最初に「イエスがわたしたちにもたらす救いの美しさを理解することができない」ということに出てくる。

 「兄弟の皆さん、わたしたちは一つの宝をもっています。それは、救い主イエス・キリストです。イエス・キリストの十字架です。わたしたちが誇りとしているこの宝です。けれどそれを土の器に入れて持っているのです。わたしたちの『(罪の)便覧』をも誇りにしましょう、なぜならイエス・キリストの救いは具体的だからです。イエス・キリストはわたしたちをアイデア、理想、頭だけのプログラムで救ったのではありません。違います。わたしたちをこの肉体も含めて、肉体の具体的なことをもって救ったのです。へりくだり、人となり、肉体をとり、最後まで突き進みました。けれど、ただ土の器の中でのみ、これを理解でき、受けることができるのです」。

 同様にイエスに出会ったサマリア人女性は、イエスと語り合った後、自分の村の人々にまず自分の罪を知らせます。主と出会った後、パウロと似たような仕方で振舞うようになるのです。「わたしは思うのです、この女性は、間違いなく天国にいると思います」とパパ・フランシスコは見解を述べた。なぜなら、イタリア人の詩人であり作家のマンツォーニが言っているように、「主が奇跡を行い始めて良い結末を迎えなかったケースを見たことがない」からである。そして主が始めたこの奇跡は、間違いなく天国において善い結末を迎えたに違いない。パパは結んで言った。「このサマリア人女性に、わたしたちがイエス・キリストの栄光に満ちた神秘を運び理解できるための土の器となることができるよう、助けを求めましょう」。

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