2013年6月5日水曜日

6月4日、朝ミサ説教:偽善は堕落した人の語り口

朗読個所  : トビト2・9-14
         マルコ12・13-17


バチカン、6月4日15時54分(バチカンラジオ)
 
 キリスト者は偽善への傾向のある「社会的に上品な語り口」は使わず、むしろまさに子どもたちの透明さをもって福音の真理の代弁者となるのである。これは聖マルタの家で火曜日の朝にパパ・フランシスコによって捧げられたミサの説教中になされた回想である。

 教父と共に共同司式に上がったのは、アルメニアカトリック教会主教のネルセス・ベドゥロス・十九世・タルモウニ卿、スリランカのカンディ司教のフェルナンド・ヴィアンネ卿、バチカン使徒座図書館のジャン・ルイス・ブルゲス卿であった。ジャン司教は図書館の協力者のグループも率いていた。またグレゴリアン大学の心理学科でハンス・ツォルネル神父も列席していた。彼は「治癒と再生に向けて」(2012年)シンポジウムの企画委員会議長であり、ドイツのミュンヘンに聖座グレゴリアン大学が設立した年少者保護のためのセンター創設者のひとりでもある。ミサの終わりにフランシスコはツォルネル神父と顔を合わせ、教会における虐待に対する戦いを続けるようにとの願いを繰り返した。

 偽善は堕落した人(汚職に手を伸ばした人)の好む語り口である。皇帝への税金に関する福音のシーン、その行為が正当性についてのファリサイ派の人々やヘロデ派の人々のキリストへの問いは、パパに月曜日の説教の続きを今日も考えるきっかけとなった。「イエスに近づいてきた意図は、罠に落とすためでした」と確言した。皇帝に税金を納めるのに反対か否かという質問は「親密感を示すつもりで」計画的に用いられた。しかし、すべて偽りである。なぜなら、「この人たちは真理を愛していないからです」とフランシスコは説明した。そうではなく、自分自身だけを愛しており、「そうやって自分の嘘に他の人をだまして巻き込もうとチャンスをうかがっているのです。嘘っぱちの心をもっていて、本当のことが言えなくなっているのです」。

 「偽善はまさに堕落(汚職)のことばです。そしてイエスがその弟子たちに語る時にこう言います。『《“はい”という時はまっすぐそのとおりでありなさい、“いいえ”と言う時には言った通り否でありなさい』。偽善は真理の語り口ではありません、なぜなら真理は決してそれだけではいかないからです。絶対にです!いつも愛と並んでいくのです!愛のない真理はありません。愛は最初の真理です。 愛がないなら、真理もありません。この人たちは自分の関心の奴隷になった真理を求めます。愛があるということができるかもしれませんが、その愛は自分自身の愛、自分自身に対する愛なのです。あのナルシシズム(自己陶酔主義)の偶像は、他者を裏切るにいたらせるもので、信頼の乱用へと導くのです」。

 「説得力がある言い回し」に見えるあのことが、その代わりに「誤りへ、嘘へ」と導く、とローマ司教は強調した。教皇は今日イエスに近づいて行っている人々は「口先では非常にいい人のように見えますが、それは木曜日の夕方にオリーブの園でイエスを捉え、金曜日にピラトの前にイエスを引き出すのと同じ人々なのです」ということに気付かせた。一方で、イエスは自分に従う人に、ちょうどこの姿勢と反対のことを求めている。「然りには然り、否には否」の表現、「愛のある真理のことば」を求めているのである。

 「わたしたちにイエスが求めている柔和には何もありません。そうしたお世辞は一切ないのです。この抜け駆けするための甘みを含ませた言い方とは全く関係がないのです。一切です!柔和は単純です。それは子どもの持っているものに似ています。子どもは偽善者ではありません。なぜなら堕落していないからです。イエスが、『はい』と言う時はまっすぐそのとおりでありなさい、『いいえ』と言う時には言った通り否でありなさいと私たちに言う時、子どもの精神をもって、こうした人々の語り方と正反対のことを言及しているのです」。

 最後の教父が指摘した点で「ある種の内面の弱さ」に触れた。それは「虚栄」として知られているが、その虚栄によって「わたしたちは自分についていいことを言ってもらいたいと望むのです」と注意を促した。これは「堕落した人々はよく知っています」そして「その語り口でわたしたちを弱めようとするのです」。

 「よく考えてみましょう。今のわたしたちのことばづかいはどうでしょうか?真理をもって、愛をもって語っているでしょうか?それとも綺麗なことを言いながらもそれを感じていないよく躾けのなったあの社交的言葉遣いをしているのでしょうか?兄弟の皆さん、わたしたちの語りが福音的でありますように!こうした偽善はへつらい、お世辞といったたぐいのものすべてに始まり、自分たちがへつらったその相手を糾弾するために偽の証人を探すことに終始するのです。今日、わたしたちの語りが単純な者の語り方であるように、子どもの語り方であるように、神の子らの語り方であるように、愛の真理の内なる語り方であるよう、主に願いましょう。 
 (RC-RV)

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