2013年6月13日木曜日

CLAR、教皇とバチカンでのゲイ集団の存在に関する言及の記事を撤回

6月12日13時53分(ACI/EWTNニュース)

 男女修道者ラテンアメリカおよびカリブ連合(以下、CLAR)は、昨夜の発表で、「確実に教皇に帰することはできない」と、バチカンにゲイ集団が存在すると言及した表現について指摘した。

 バチカンでのゲイ集団の存在をパパ・フランシスコが認めたとされるニュースは世界じゅうを巡っているが、それはCLARが去る6月6日にローマでパパと個別の会見を行った時の内容を「Reflexión y Liberación(反省と解放)」というウェブサイトで「読者だけに限定して」紹介されたまとめに基づく。

 スキャンダルに対する返答で、CLARは火曜日の夜に次のように発表した。

 「去る6月6日の会見の間に教父・フランシスコとの間で持たれた会話に関するテキストの公開に関し、深くお詫び申し上げます。それは同席の者からパパになされた問いかけから発展した会話内容です。

 その機会には会話の録音は一切されませんでした。しかし少し後で参加者の記憶をもとに同会見のまとめが作成されました。このまとめは、教父に対してなされた問いかけは含まれておらず、参加者自身の個人的な思い出のためになされたものであります。実際、断じてこの公開には誰からの許可も権威づけも得ていません。この基盤に立っては、テキストに含まれた独自の表現を、確実に、教父に帰することができないのは当然であり、ただその一般的な感想に過ぎません。CLARの議長は起きたこと(世界じゅうで話題になったこと)とこれが作りだすことになってしまった混乱に対し、深くお詫び申し上げます。シスター・メルセデス・レティスィア・カサス・サンチェス、FSpS、司祭ガブリエル・ナランホ・サラサル、CM、議長および総秘書」



(訳者より、以下、上記の物議をかもしたCLARに掲載された記事原文はここをクリック

La presidencia de la CLAR con el Papa



前触れなく、パパ・フランシスコは男女修道者ラテンアメリカおよびカリブ連合の指導層を受け入れ、対話した。輪になり、イエスによって作られた初代共同体の頃と同様に会話をした。

信頼と簡素さの雰囲気の中で、フランシスコは限界や境界における宣教を続けるのを恐れないようにと連合の指導者たちを励ました。「勇気を出して!新しい地平を目指して前進して下さい!貧しい人たちや大陸にいて新しく生まれてきている出来事に向かっていく危険に身をさらすことを恐れないように」とパパは指摘し、会合の最後にはラテンアメリカ諸国とカリブの多くの場所で「福音のしるしと証し」となっている修道生活に熱心に感謝をした。

ローマ聖庁で祝われたこの歴史的な集いの短いまとめを特別に読者の皆さんに限って提供しよう。

パパ・フランシスコの謁見
CLAR, 201366

 扉を開けて・・・扉を開けて!

間違いもあるでしょう。ついうっかり失敗してしまうこともあります。そういうこともあるものです。おそらく教理省からみなさんのところに手紙が届いてこう言った、あぁ言ったということを言われるかもしれません。けれど心配しないでください。説明すべきことは説明して、けれど前進し続けてください。扉を開いて下さい。命が訴えているその場所で何かをして下さい。閉じたままで病んでいく教会よりも何かして失敗する教会の方がよいのです。

 (教皇選出について) わたしは片時も平和を失いませんでした。知っていますか?そしてこれはわたしのスタイルではないのです。ふつう自分のことで心配して、ナーバスになりやすいのです。けれど片時も平和を失いませんでした。そのことがこれは神からのものだろうなぁ、と納得した理由です。

 (この時代に、我々にもたらした希望の反映と聖マルタの家で生活することに決めたことについて) この行動は、自分自身から来たものではありません。自分に生じたことではないのです。何か計画を持ってきたわけでもなく、わたしを選んだ時に与えられた計画でもないのです。これをしているのは、主が望まれていたことのように感じられたからです。けれどこの行動はわたしからのものではないのです。ほかの『誰か』がいらっしゃる。そのことがわたしに安心感をくれます。

 わたしは(コンクラーベ期間に)必要な服だけを持ってきました。夜にはそれを洗っていたのです。そうしたら突然これです。他に可能性がなかったのです!ロンドンで行われていた賭けでは、わたしは44番手だったらしいですが、ごらんなさい、わたしにかけた人たちは大もうけをしたでしょうね!これはわたしから来たものではないのです。

 ねじを巻かなければなりません。オッタビアーノでよる老人が凍え死んでもニュースにはなりません。多くの子供たちが教育を受けていなくても、飢餓で苦しんでいても(アルゼンチンのことを考えているのですが)、ニュースになりません。一方、世界の主要な金庫は3ポイント上がったり下がったりということで騒ぐのです。これが世界での出来事です。よく見直さなければなりません。こんなことありえてはならないのです。コンピューターは神のイメージや似姿には作られていないのです。それは道具です。けれど、道具にすぎないのです。お金も神のイメージや似姿ではありません。人間だけが神のイメージであり似姿なのです。見直さなければなりません。それが福音なのです。

 原因に、根の部分に行かなければなりません。堕胎は悪です。そのことは如実です。けれどその法律を認めるということの裏には何があるのでしょうか。どのような関心事があるのでしょうか。それはしばしば大きいグループが金銭を動かして支えようとしている状況なのです。皆さん知っていますか?原因のところに行かなければなりません。出てきている症状だけに留まっていてはだめなのです。拒むことを恐れないでください。いやなことを体験するでしょう。問題にもなるでしょう。けれど拒むことを恐れないでください。それこそが修道生活の預言性なのです。

 さんと二つの憂慮を分かち合います。一つはまさに今教会にあるペラギウス的な流れです。ある種の王政復古主義グループがいるのです。わたしはそういう人を数人知っています。そしてブエノス・アイレスでその方々との会見を受けることになりました。そして60年頃に戻るような感覚に襲われるのです!第二バチカン公会議以前に!1940年ごろに会話をしているような感覚。一つの逸話があります。嘲笑するためではなく、ただイメージをつかむためです。その人を敬意を持って受け入れました。けれど私は心配です。わたしを選んだ時、こうしたグループから一つ手紙をもらいました。そしてそこには「教皇さま、霊的花束を差し上げます。ロザリオ3525回」。なぜあなたのために祈ります、こういうことを願います、と言えばいいのに、何回ロザリオを、というように言うのでしょう?そしてそうしたグループはわたしがやっていた実践としつけに戻っているのです。皆さんは違いますね、誰も年寄りではありませんから。あの頃に学んだしつけ、あの頃に実践していたことです。でもいまではないはずです。今のしつけには取り込まれていないはずです。

 二つ目はグノーシスの潮流ですそうした汎神論・・・二つともエリートの潮流です。けれどこちらの方がより形ができているエリート潮流です。一人の女子修道会の総長が、自分の修道会のシスターたちに朝の祈りをせずに、宇宙の霊的沐浴をするようにと勧めたとか、そういうようなものです。わたしが心配するのは、そういうことは受肉を無視していくからです。わたしたちの肉体をとった神の子はどうなっているのでしょう。肉体をとった御言葉、そしてラテンアメリカで肉体を持っているこの方は天井に投げ捨てられている。 貧しい人たちや、痛み、わたしたちの友の肉体はどうなっているのでしょうか?

 福音は古い決まりではありません。この汎神論でもありません。もし中心から外れたところに目を向け、極貧の人々、麻薬漬けの人々、人身売買、そこにこそ福音があるのです。貧しい人たちこそ福音なのです。

  (ローマの司祭組織の責任をとることの困難や、彼を支えるであろう枢機卿の委員会について尋ねると) まぁそうですね、難しいことです。司祭組織にも聖なる人はいます。本当に、聖人と呼べる人がいます。けれど汚職の風潮もあります。これもあるのです、ほんとうに。「ゲイ組織」のことです。いや本当に、そこにいるものなのです。どうしなければならないか、検討しなければなりません。

 ローマの司祭組織の改善は、コンクラベ前の大集会でほとんどの枢機卿が求めたものです。わたしも求めました。改善はわたしにはできません。こうした手続きというのは…わたしはひどく秩序立っていないのです。こうしたことに得意だったことは一度もありません。けれど、委員会の枢機卿たちが前に運んで行ってくれます。そこにはロドリゲス・マラディアガ枢機卿がいますが、彼はラテンアメリカ出身で、指揮をとっています。エラスリスがいます。とても秩序だった人です。ミュンヘン出身の実に秩序立っている人です。こうした人たちが前に進めてくれるでしょう。

 わたしのために祈ってください。わたしが失敗を最小限にとどめることができるように。

 アパレシーダの会議は終わっていません。アパレシーダは文書に限りません。これは出来事なのです。
 
 アパレシーダは、何かが違いました。これには仕事のための文書からは始まらなかったものなのです。意見は提出されていましたが、文書ではありませんでした。終る時にも、文書はありませんでした。最終日の前日にあったのは2300の「様式」でした。アパレシーダは大陸宣教へと送り出しました。そこでアパレシーダの会議は終わりました。宣教への促しのうちに

 アパレシーダが特別だったのは、ホテルでも、黙想の家でもなく、マリア聖地で祝われたことにもあります。週日にはミサが祝われていました。参加者は、普通の仕事日でしたので250人ほどでした。けれど週末には、そこはいっぱいでした。神の民が聖霊を求めながら司教たちに寄り添ったのです。

 わたしは議長のジョアオンが、-彼の名を出すのは一番突っ張って見えたからですが、まぁいいでしょう、でもそうです-ミトラを付けて出てきて、人々は彼に挨拶をして、子どもたちは近付くし、彼は子どもたちに挨拶をするし、そうやって抱きしめてあげて…その同じ司教がそのあとで投票をしていたのです。ホテルにいた場合の投票内容とは、同じようにはならないでしょう。

 聖地の地下に会議室がありました。だからバックミュージックは聖歌や聖地でのミサの声でした。それはそれはなにか特別なものでした。

 心配していることがあります。まだどう読めばいいか分らずにいるのですが。修道会の中には、とても小さいグループですが、ほんの少しの人で、年齢も重ねている人ですが、召命のない人がいるのです。どう言えばいいのでしょうか。聖霊がその人たちに続けないようにと求めているような、恐らく教会での仕事をすでに果たしたというか、なんでしょうか。けれどそこにいて、建物にとらわれ、お金に捉われている人がいるのです。わたしにはそこで何が起こったのか分りません。どう読み取ればいいか分りません。けれど、そうしたグループのために配慮して下さい、と皆さんにお願いします。お金の取り扱い。これは何か反省を加えるべきものです。

 奉献生活のために修道会で生きているこの時を活用して下さい。太陽の時です。活用して下さい。監督は善い人です。そして秘書は、皆さんによって「ロビーされた」のです!。いや、実際は、USGの議長でありながら、一番納得のいくのは彼がなることでした。より良いことです。

 司教たちとの対話にその努力をかけてくださいCELAMとの対話、国際カンファレンスとの対話。聖体的一致に関して異なる考え方を持った人たちがいるのは分りきったことですが、彼らと語り、会話し、話して下さい。

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