2013年6月27日木曜日

6月26日、朝ミサ説教:司祭たちは霊的父性を持つ恵みを求めるように

朗読個所  : 創世記15・1-12、17-18
          マタイ7・15-20

バチカン、6月26日19時50分(バチカンラジオ)
 
 神は司祭たちが「父性」、つまり委ねられた人々対する霊的な意味での父性の特別な恵みを十全に生きるようにと望まれています。このようにパパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂で捧げられた今朝のミサの説教で確言した。

 教皇と共に共同司式に上がった枢機卿や司祭団は、パレルモの名誉大司教であり、今日司祭叙階60周年を記念するサルヴァトーレ・デ・ジョルディ枢機卿に付き添っての参列であった。そのような状況を鑑みて、パパはその説教において、同日10時半の一般謁見のテーマについて語る前に、多大な評価を示す言葉を向けた。

 「父性の望み」は「男性の神経細胞の最も深い所に刻み込まれています」とパパは言った。「司祭も例外ではありません。けれどこの望みを特別な仕方で生きているのです」。

 「男性でありながらこの望みがないならば、この人には何かが欠けているのです。何かがうまくいっていないのです。わたしたちは誰でも、十全であるため、十全になるために、成熟した人になるために、父性の喜びを感じなければなりません。独身制を生きるわたしたちも同じことです。父性というのは、他の人々に命を与えることです。命を与えること、命を与えること。わたしたちにとっては、司牧的父性、霊的父性ですが、これが命を与えることで、そうして父(神父)になっていくのです」。

 パパは、神が年老いたアブラハムに一人の息子を得る喜びを、その子孫が天の星のように数多くなる事とともに約束する創世記の個所に基づいて着想を得て考えをめぐらした。そしてこの契約に調印するために、アブラハムは神の指示に従い、動物の犠牲を整え、それから獰猛な禿鷹の攻撃からこれを守る。パパは次のようにコメントした。「90歳を超えているこの男性が、手に杖をもってその犠牲を守る姿を想うと感動します。わたしには父親が家族、子供たちを必死に守っている姿を連想させるのです」。

 「子どもたちを守るとは一体どういうことなのかを知っている父親です。そしてこれはわたしたち司祭が求めなければならない恵みなのです。父(訳者注:日本語で「神父」と訳されている言葉は、西洋言語では単純に「父」という単語)になるように、父(神父)になれるように。父性の恵み、司牧的父性の恵み、霊的父性の恵みを求めること。罪というならば、わたしたちはたくさん抱えています。けれどこれは『サンクトールム(聖人たち、聖性を求める人々)』に共通のものです。誰でも罪は抱えています。けれど子どもをもたないこと、父親にならないことは、まるで人生がその目的に到達しないかのようです。道の途中で滞ってしまうかのようです。そして、だからこそ、わたしたちは父でなければならないのです。けれどそれは主が下さる恵みです。人々はわたしたちのことをこう呼びます。『パードレ(訳者注イタリア語、スペイン語、ポルトガル語などで「父、神父さん」の意)、パードレ、パードレ』と。わたしたちにそう望んでいるのです。司牧的父性の恵みをもって父親としていてほしいと望んでいるのです」。

 パパ・フランシスコは情愛に満ちた調子で、司祭叙階60周年を迎えたデ・ジョルジ枢機卿に言葉を向けた。「わたしは愛すべきサルバトーレ(枢機卿)がどのようなことをしたかは知りませんが、間違いなく父であったと思います。これがしるしです」と言いながら、枢機卿と共に列席していた司祭団の方を向いて言った。「これからは、皆さんの番です」。同時に次のような見解を述べた。「どの木も実を付けるけれど、良い木であるならば、その実も良いはずでしょう?ね?」。そして人好きの良い雰囲気で言った。「ですから、悪い実にならないようにしてください(笑)」。

 「子のうちに父として歩んでゆく、というような、教会におけるこの父性の恵みをくださる主に感謝しましょう。終わりに、この二つのイコン(イメージ)に加えてもう一つのことを考えています。子を求めるアブラハムのイコン、家族を守ろうと、杖を手にしているアブラハムのイコン、そして生まれた子供を受け取る神殿の老人シメオンのイコンです。そこで自然と典礼を生じさせます。主(そのもの)に向けられた喜びの典礼です。そしてみなさんに、主が今日、喜びをたっぷりとくださいますように」。 
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).

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