2013年6月30日日曜日

6月29日、聖ペトロとパウロの祭日説教:信仰、愛、一致を確固たるものとする

朗読個所  : 聖ペトロ・聖パウロ使徒(祭)
          使徒言行録12・1-11
          二テモテ4・6-8、17-18
          マタイ16・13-19


バチカン、6月29日10時25分(バチカンラジオ)
 
 ローマの教会の中心的な二人の守護聖人である使徒ペトロとパウロの祭日を祝うミサをささげつつ。「これは全世界の司教団の存在にとって一番の喜びの色合いがこもった祭りです」。「ある意味で、わたしたちに聖霊降臨の出来事を再体験させてくれるような大きな財産です。あの頃のように今日も、教会の信仰はあらゆる言語で語られ、様々な民を一つの家族に集めようと望んでいます」。教父は「ペトロの座の奉仕職について、『確かなものとする』という動詞に導かれて三つの考えを」取り上げる。「ローマ司教は何において確かなものとなるように呼ばれているのでしょうか?……何よりも、信仰において確かなものとなる、愛において確かなものとなる、そして一致において確かなものとなるように、です」。

 このサン・ピエトロ大聖堂での荘厳祭儀は、伝統にのっとって、新しい大司教にその大司教用のパリオを着せるところから始まった。ローマ司教フランシスコはこれを果たし、イオアンニス主教に導かれたコンスタンティノープルの教父代表とエキュメニカル教父バルトロメ一世によって送られた代表者の列席に信頼を置いた。
(CdM – RV)

教父フランシスコの説教全文
 

使徒聖ペトロとパウロの祭日
(2013年6月29日)

大司教の皆さん、
イオアンニス主教様、
司教職と司祭職の兄弟尊父たち、
愛する兄弟姉妹の皆さん、

 わたしたちはローマの教会の中心的な守護者である使徒聖ペトロとパウロの祭日を祝っています。これは全世界の司教団の存在にとって一番の喜びの色合いがこもった祭りです。ある意味で、わたしたちに聖霊降臨の出来事を再体験させてくれるような大きな財産です。あの頃のように今日も、教会の信仰はあらゆる言語で語られ、様々な民を一つの家族に集めようと望んでいます。

 コンスタンティノープルの教父座の代表、イオアンニス主教に感謝の心をこめて挨拶します。エキュメニカル教父のバルトロメ一世に、この新しい兄弟愛の表明に感謝します。大使の皆さん、市政の権威者の皆さんに挨拶いたします。トマネルコルの皆さん、つまりバッハの教会でリプシアのトマス教会合唱団が典礼を盛り上げ引き続きエキュメニカルな存在を作り続けていますが、彼らに特別な感謝をいたします。

 ペトロの座の奉仕職について、『確かなものとする』という動詞に導かれて三つの考えを取り上げます。ローマ司教は何において確かなものとなるように呼ばれているのでしょうか?


1.何よりも、信仰において確固としたものとなることです。福音はペトロの信仰告白について語っています。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16章16節)。彼自身から来た告白ではなく、天の父にうながされた告白です。そして、この告白をもとに、イエスは彼に言います。「あなたはペトロ(岩)、そしてこの石の上に私の教会を建てよう」(18節)。パパの座、ペトロの教会奉仕は、生ける神の子であるイエスへの信仰告白、いと高き方から与えられた恵みの徳への信仰告白にその基礎をおいています。今日の福音の第二部では、世俗的な仕方で考えることの危険を見ることになります。イエスがその死と復活、神の道、権力の人間的な道とは相いれない道について語る時、ペトロの中で肉も血も緩みます。「イエスをいさめ始めた。『主よ、あなたからそのようなことは遠く離れているように!』」(16章22節)。そしてイエスはペトロにきつい言葉を言います。「サタンよ、わたしから離れよ。お前はわたしにとってつまずきの石だ」(23節)と。わたしたちのアイデア、わたしたちの感情、人間的な権力の論理が力をふるうように任せ、信仰や神によって教えられ、導かれようとしない時、わたしたちはつまずきの石になってしまうのです。キリストへの信仰は、わたしたちキリスト者の生活の光、教会の奉仕者の光です。

2.愛において確固としたものとなる。先ほど聞いた第二朗読に、パウロの心を揺さぶる言葉があります。「わたしは尊い戦いをし、競走を走り終え、信仰を守り抜きました」(IIティモテ4章7節)。何の戦いについて語っているのでしょうか?ひどいことにまだ世界で血を流し続けているような人間の武器をもってしての戦いではありません。そうではなく、殉教(証し)の戦いです。聖パウロにはたった一つの武器があるのみです。それはキリストのメッセージです。そしてキリストと他者への全人生の捧げが武器なのです。そしてまさにこれが、このキリストを第一の人として身をさらし、福音によって燃え尽くされ、けちけちせずにすべての人に対してすべてになり、信頼のおける人となり、教会を建設する、ということを成し遂げさせたのです。ローマ司教はこのイエスへの愛と、分け隔てや限り、壁のないすべての人への愛を生き、確固としたものとするように呼ばれています。そしてローマ司教だけでなく、皆さんも全員、新しい大司教や司教団にも、同じ務めがあります。福音によって燃え尽くされること、すべての人にとってすべてとなることです。貯めこまず、自分から出て神の忠実で聖なる民への奉仕に向かう務めです。

3.一致において確固としたものとなること。ここで、わたしは先ほど行った仕草について言及したいと思います。パリオは、ペトロの後継者との一致のシンボルです。「信仰と聖体的一致における一致の、永遠で目に見える、基本であり基礎」(LG18)なのです。そして今日、皆さんがここにいるということは、愛する兄弟の皆さん、教会の聖体的一致は画一性を意味しないということのしるしです。第二バチカン公会議は、教会の位階的構造についてふれながら、主が「この使徒たちと共に、ある種のコレギウム、常連のグループを作り、その中からペトロを代表者として選んだのでした」(LG19)と明言しています。一致において確固としたものとなること。司教団のシノドス(訳者注:「共なる歩み」の意味、司教団の会議のこと)、教皇との調和のうちにあること。この、シノドス性(ともに歩む性格)の道を進まなければなりません。教皇の奉仕との一致のうちに育たなければならないのです。そして公会議は続けて言います。「このコレギウムは、多くの人々によってなるために、神の民の多様性と一致を表現します」(LG22)。教会における多様性。これは豊かな富です。いつも一致の調和のうちに基礎を置きます。それはちょうど大きなモザイクが小さなタイルの集まりでできていて一つの大きな神のデザインを成すのと似ています。そしてこのことは教会の体を傷つけるありとあらゆる対立をいつでも乗り越えられるように促さなければなりません。相違の中で一致してあるということ。一致するためには他のカトリックの道はないのです。これがカトリック精神なのです。これがキリスト者の精神なのです。相違の中で一つになること。これこそがイエスの道なのです。パリオは、ローマ司教、普遍教会、司教団のシノドス議会との聖体的一致のしるしでありながら、同時に皆さん一人ひとりに対して皆さんが一致の道具となる献身をも想定しています。

 神に教示されながら主を告白すること。キリストとその福音への愛によって燃え尽きること。一致の奉仕者となること。司教職における愛する兄弟の皆さん、これらが聖ペトロとパウロがわたしたち一人一人に委ねているモットーであり、すべてのキリスト者によって生きられるようにと望まれているものなのです。神の母聖マリアがわたしたちを導き、いつもその取り次ぎで寄り添ってくださいますように。使徒たちの元后、わたしたちのためにお祈りください。アーメン。

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