マタイ5・1-12
バチカン、6月10日16時01分〈バチカンラジオ〉
本物の自由は主に心の扉を開くことから生まれます。これはパパ・フランシスコが今朝の聖マルタの家でのミサで強調したことである。教父は、救いは聖霊の慰めを生きることであり、世の精神がもたらす慰めを生きることにはないと述べた。
共同司式に上がったのはスタニスラウ・リルコ枢機卿、ジョゼフ・クレメンス枢機卿、そしてテリチェリーのインド大司教であるジョージ・ヴァリアマッタム卿である。このミサには信徒評議会の司祭団と協力者達が参列した。
「キリスト者にとっての《慰め》とは何でしょうか?」ローマ司教はその説教を、慰めという単語を大量に用いるパウロのコリント人への第二の手紙の冒頭を観察しながら始めた。「異邦人の使徒は、信仰において若いキリスト者たちに語りかけます。その人たちはイエスの道をほんの少し前に歩き始めたばかりの人たちです」。そしてこの事について「全員が全員迫害されていたわけではありません」と強調した。彼らは普通の人たちでした。「けれどイエスに出会った人々です」。「これはちょうど神の特別な力が必要なほどの人生の転機なのです」と確言した。そしてこの力が《慰め》なのである。しかし、主が「わたしたちの心の中におられるためには、扉を開かなければなりません」と忠告した。わたしたちの「回心」が必要なのである。
「救いとはこれです。世の精神がもたらす慰めを生きることではなく、聖霊の慰めを生きることなのです。あれは救いではないのです。それは罪です。救いは救いである聖霊のこの慰めが来るように前に進むこと、心を開くことなのです。こっちのものを少しもらって、またあっちのものも少しもらって、と交渉をしながらはやっていけないのでしょうか?ちょっとしたフルーツポンチのように、できないのでしょうか?少し聖霊からの慰めをもらって、少し世俗の慰めをもらって、と。駄目なんですよ!こっちかそっちか、どちらかなのです」。
続けて言った。「主は、この事をはっきりと述べています。『二人の主人に仕えることはできない。主に仕えるか、世の霊〈精神〉に仕えるか』(マタイ6章24節参照)。『混ぜる』ことはできないのです。そういうわけで、ここに、聖霊に対してわたしたちが開かれている時に、『主がわたしたちにもたらす新しい掟』を理解することができる、ということが生じるのです。つまり、今日の福音が語っている『真福八端』です。この真福八端は、心が開かれている場合のみ理解されるものです。聖霊の慰めによって理解されるものなのです」。一方、「人間的な知性のみでは理解できないものなのです」。
「それは新しい掟です。けれどもし聖霊に対して開かれた心を持っていないならば、ばからしいことに見えます。『でも、ごらん、貧しくなる、謙虚になる、憐れみ深くなるといったことは、君を成功にはつなげてくれないように思われるけど』と。開かれた心がないならば、聖霊のあの慰めを味わったことがないならば、それは救いですので、このことを理解することはありません。これが救われたその人々、救いに対してその心を開いたその人々にとっての掟なのです。これは聖霊のあの自由をもった、自由な人々の掟なのです。
フランシスコは加えて言った。「人は自分の人生を整えたり、きまりや手順の一覧、まったくもって人間的な一覧に自分を適合させたりすることができます」。けれどこれは「長い目で見ると、わたしたちを救いへは導かないのです」。開かれた心だけがわたしたちを救いへと導くのである。「このようにして、教皇は、多くの人が新しい教義を吟味し、のちにイエスと議論を交わすことに関心を持っていたことを思い返させた。そしてそれが起こったのだが、それは「神のことに、神が変えたいと望んでいることに対して閉ざされた心を持っていたからである。パパは尋ねた。「なぜ、救いに閉ざされた心を持っている人がいるのでしょうか?」。これに応えて言った。「なぜなら救いに恐れを抱いていたからです。必要性を感じながらも、恐れも感じている。なぜなら主が来られる時には、わたしたちが自分のしたいことを押しつけたいからです」。そして加えて言った。「この新しい掟を理解するには、わたしたちを救い、わたしたちを慰め、命を与える聖霊から生まれる自由を必要とします」。
「今日、主に従う恵み、けれどこの自由をもって従う恵みを求めることができます。なぜならもしわたしたちの人間的な自由のみをもって従うならば、しまいには主と議論していた、あのファリサイ人やサドカイ派の人々のような偽善者になってしまうだけです。偽善とはこれです。その救いをもって心を変えるために聖霊に場を与えないことなのです。聖霊の自由は、聖霊がわたしたちに与える自由は、奴隷状態のような形をも持っています。主への『捕らわれ』ですが、これはわたしたちを自由にするものです。それは別の意味での自由なのです。一方、わたしたちの自由というのはただの奴隷状態で、主に向かうものではなく、世の精神に向かうものなのです。聖霊の慰めにわたしたちの心を開く恵みを求めましょう。そうしてこの救いである慰めが、この掟をよく理解できるようにして下さいますように。なれかし〈アーメン〉
本物の自由は主に心の扉を開くことから生まれます。これはパパ・フランシスコが今朝の聖マルタの家でのミサで強調したことである。教父は、救いは聖霊の慰めを生きることであり、世の精神がもたらす慰めを生きることにはないと述べた。
共同司式に上がったのはスタニスラウ・リルコ枢機卿、ジョゼフ・クレメンス枢機卿、そしてテリチェリーのインド大司教であるジョージ・ヴァリアマッタム卿である。このミサには信徒評議会の司祭団と協力者達が参列した。
「キリスト者にとっての《慰め》とは何でしょうか?」ローマ司教はその説教を、慰めという単語を大量に用いるパウロのコリント人への第二の手紙の冒頭を観察しながら始めた。「異邦人の使徒は、信仰において若いキリスト者たちに語りかけます。その人たちはイエスの道をほんの少し前に歩き始めたばかりの人たちです」。そしてこの事について「全員が全員迫害されていたわけではありません」と強調した。彼らは普通の人たちでした。「けれどイエスに出会った人々です」。「これはちょうど神の特別な力が必要なほどの人生の転機なのです」と確言した。そしてこの力が《慰め》なのである。しかし、主が「わたしたちの心の中におられるためには、扉を開かなければなりません」と忠告した。わたしたちの「回心」が必要なのである。
「救いとはこれです。世の精神がもたらす慰めを生きることではなく、聖霊の慰めを生きることなのです。あれは救いではないのです。それは罪です。救いは救いである聖霊のこの慰めが来るように前に進むこと、心を開くことなのです。こっちのものを少しもらって、またあっちのものも少しもらって、と交渉をしながらはやっていけないのでしょうか?ちょっとしたフルーツポンチのように、できないのでしょうか?少し聖霊からの慰めをもらって、少し世俗の慰めをもらって、と。駄目なんですよ!こっちかそっちか、どちらかなのです」。
続けて言った。「主は、この事をはっきりと述べています。『二人の主人に仕えることはできない。主に仕えるか、世の霊〈精神〉に仕えるか』(マタイ6章24節参照)。『混ぜる』ことはできないのです。そういうわけで、ここに、聖霊に対してわたしたちが開かれている時に、『主がわたしたちにもたらす新しい掟』を理解することができる、ということが生じるのです。つまり、今日の福音が語っている『真福八端』です。この真福八端は、心が開かれている場合のみ理解されるものです。聖霊の慰めによって理解されるものなのです」。一方、「人間的な知性のみでは理解できないものなのです」。
「それは新しい掟です。けれどもし聖霊に対して開かれた心を持っていないならば、ばからしいことに見えます。『でも、ごらん、貧しくなる、謙虚になる、憐れみ深くなるといったことは、君を成功にはつなげてくれないように思われるけど』と。開かれた心がないならば、聖霊のあの慰めを味わったことがないならば、それは救いですので、このことを理解することはありません。これが救われたその人々、救いに対してその心を開いたその人々にとっての掟なのです。これは聖霊のあの自由をもった、自由な人々の掟なのです。
フランシスコは加えて言った。「人は自分の人生を整えたり、きまりや手順の一覧、まったくもって人間的な一覧に自分を適合させたりすることができます」。けれどこれは「長い目で見ると、わたしたちを救いへは導かないのです」。開かれた心だけがわたしたちを救いへと導くのである。「このようにして、教皇は、多くの人が新しい教義を吟味し、のちにイエスと議論を交わすことに関心を持っていたことを思い返させた。そしてそれが起こったのだが、それは「神のことに、神が変えたいと望んでいることに対して閉ざされた心を持っていたからである。パパは尋ねた。「なぜ、救いに閉ざされた心を持っている人がいるのでしょうか?」。これに応えて言った。「なぜなら救いに恐れを抱いていたからです。必要性を感じながらも、恐れも感じている。なぜなら主が来られる時には、わたしたちが自分のしたいことを押しつけたいからです」。そして加えて言った。「この新しい掟を理解するには、わたしたちを救い、わたしたちを慰め、命を与える聖霊から生まれる自由を必要とします」。
「今日、主に従う恵み、けれどこの自由をもって従う恵みを求めることができます。なぜならもしわたしたちの人間的な自由のみをもって従うならば、しまいには主と議論していた、あのファリサイ人やサドカイ派の人々のような偽善者になってしまうだけです。偽善とはこれです。その救いをもって心を変えるために聖霊に場を与えないことなのです。聖霊の自由は、聖霊がわたしたちに与える自由は、奴隷状態のような形をも持っています。主への『捕らわれ』ですが、これはわたしたちを自由にするものです。それは別の意味での自由なのです。一方、わたしたちの自由というのはただの奴隷状態で、主に向かうものではなく、世の精神に向かうものなのです。聖霊の慰めにわたしたちの心を開く恵みを求めましょう。そうしてこの救いである慰めが、この掟をよく理解できるようにして下さいますように。なれかし〈アーメン〉
(RC-RV)
0 件のコメント:
コメントを投稿