サムエル下12・7-10、13
ガラテヤ2・16、19-21
ルカ7・36~8・3
「信じつつわたしたちには命がある
『いのちの福音』の集いはローマで6月15日と16日に行われます。これはとても大切なイベントです。世界じゅうの信者に教父と共にいのちの聖なる価値についての共通の証しを囲んで集まる機会なのです。老人や病人、疲弊している人々、苦悩の状況を生きている人々を囲むのです。
このイベントはよき牧者の足跡を追うために甘美さに満ちてすべてを捨てる人々を祝い、支え、励ます機会でもあります。彼らは老人、障碍者、病者、胎児、苦しむ人の肉体的、感情的、霊的必要に応えようと献身している人たちです。
わたしたちの希望はサン・ピエトロ広場に信者が大勢集まり、世界じゅうにイエスのあがないの使命の本当の気持ちの表現が合唱となって世界じゅうに響き渡るように、というものです。『わたしが来たのは、(あなたたちが)命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10章10節参照、Evangelium Vitae、1項)。
新福音化推進評議会議長
リノ・フィジケッラ大司教」
バチカン、6月16日(News.va)
愛する兄弟姉妹の皆さん、
この式典にはとても美しい名前があります。『いのちの福音』です。信仰年における、この聖体祭儀をもって、わたしたちは主に、主の様々な表明すべてにおける命の賜物に感謝したいと思います。また同時にいのちの福音を告げ知らせたいと思います。
先ほど耳にした神のみ言葉から始めて、わたしたちの信仰のための黙想の、シンプルな三つのポイントを提案したいと思います。最初に、聖書は生きた神を、命である神、命の泉である神をわたしたちに啓示するということ、二つ目に、イエス・キリストは命を与えるということ。そして聖霊はいのちにおいてわたしたちを支えているということです。神の道を歩み続けることはいのちに導き、反対に偶像に従えば、死へと導くのです。
1.第一朗読は、サムエル記下から取られていますが、命と死について語っています。ダビデ王は自分の軍隊の兵士でヒッタイト人ウリヤの妻に姦淫を行ったことを隠そうとします。そのため、ウリヤが戦死するようにと第一線に送ります。聖書は人間のドラマを、そのあらゆる現実のうちに、善も悪も、情欲も、罪も、その罪の結果もすべて含んでわたしたちに示します。人は自己正当化をしようとする時、自分のエゴイズムに閉じこもり、神の座に就き、死の種をまいて終わるのです。そしてダビデ王の姦淫は一つの例になっています。エゴイズムは嘘に導き、自分自身と隣人をだまそうとします。けれど神をだますことはできません。
わたしたちは何を預言者がダビデに向かって言ったかを聞きました。「あなたは神の目に悪とされることを行った(わたしの意に背くことをした)」(サムエル下12章9節参照)と。王の目の前に、その死の働きが見せつけられ、-本当に、彼がしたことは死のわざであって、命のわざではありません-ダビデ王はこれを理解し、赦しを願います。「わたしは主に罪を犯した」(13節)と。そしてあわれみ深い神、命を求めていつもわたしたちを赦す神は、ダビデ王を赦し、改めて命を与えます。預言者は言います。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。
どのようなイメージを神について抱いているでしょうか?おそらく、厳しい裁判官、わたしたちの生きる自由を取り締まる人のように映るかもしれません。けれど聖書全体がわたしたちに思い返させているのは、神は生きておられる方で、命を与える方、満ち満ちた命の小道を指し示す方である、ということです。
わたしは創世記の冒頭のことを考えています。神は地の塵から人を作り、その鼻にいのちの息を吹きかけ、人は生きるものとなりました(2章7節)。神は命の泉です。そしてその息のおかげで人には命があり、その息こそがその地上での存在の歩みを支えるのです。
同じようにモーセの召命を想います。主がモーセに自らをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、生きた者の神として自己紹介をし、モーセをファラオのもとに送ってその民を解放しようとする時、その名を啓示します。「わたしは『わたしである(わたしはある、わたしはいる)』というものである」。歴史の中に臨在する神、奴隷状態から解放する神、死から解放する神、民を導きだす神なのは、神は生きるものだからです。
また十戒の賜物にも思いをはせます。本当に自由ないのちのため、満ち満ちた命のために神がわたしたちに指し示す道は、『いいえ』への賛歌、つまりこれをしてはだめ、これをしてはだめ、これもしてはダメ……というようなものではありません。違います。それは神、愛、命への『はい』の賛歌なのです。愛する友の皆さん、わたしたちのいのちは神においてのみ満たされます。なぜなら彼のみが生きておられる神だからです。
2.今日の福音個所は、わたしたちにもう一歩先へと進ませます。イエスはあるファリサイ人の家で食事をしている間に一人の罪深い女性に会います。それはそこにいた人々にスキャンダル(つまずき) を引き起こします。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7章47節)と。
イエスは生きた神の受肉です。実に多くの死のわざを前に、罪や利己主義、自分に閉じこもることを前に、命をもたらす方です。イエスは迎え入れ、愛し、立ち上がらせ、励まし、赦し、もう一度歩くための力を下さり、命を取り戻してくれます。あらゆることにおいて、イエスがその仕草や言葉をもって変革をもたらす神のいのちの仕草と言葉をもたらしたように福音を見ます。これが主の足に香水を塗る女性の経験です。自分が理解され、愛されると感じ、愛の仕草でこれに応え、神のあわれみによって触れてもらい、赦しを得、新しいいのちを始めるのです。生きた神は、あわれみ深い方です。皆さんも同じ意見ですか?共に言いましょう。神はあわれみ深い方です。もういちど、神はあわれみ深い方です。生きておられる方である神は、あわれみ深いのです。
これは使徒パウロの経験でもありました。第二朗読で先ほど聞いた通りです。「わたしが今、肉において生きているのは(今のわたしの肉における生命は)、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラ2章20節)。この生命とはいったい何なのでしょうか?それは神の生命そのものなのです。そして誰がわたしたちをこの生命へと導くのでしょうか?聖霊、復活したキリストの賜物です。聖霊こそがわたしたちを本物の神の子供として、長子であるイエス・キリストにおける子らとして神のいのちへと導いて下さる方なのです。わたしたちは聖霊に対して開かれているでしょうか?聖霊に導かれるに任せているでしょうか?
キリスト者は霊的な人です。これは「雲の中」で、つまり現実離れして(幽霊のように)生きる人になるということを意味しているのではありません。違います。キリスト者とは神に基づいて日々の生活において考え、行動する人のことです。そのいのちが本物の子らとして充足し、ふさわしくあるために聖霊によって生かされ、養われるようにと委ねる人のことです。そしてそれは現実性と実りの豊かさを意味します。聖霊によって導かれるのに任せる人は、現実的になります。現実をどのように図り、評価すべきかが分るのです。また実り豊かでもあります。そのいのちは周囲にいのちを生み出します。
3.神は生きておられる方、あわれみ深い方です。イエスはわたしたちに神のいのちをもたらし、聖霊はわたしたちを神の本物の子供の活き活きとした関係へと導き、わたしたちをその関係に保って下さいます。けれど、しばしば、経験から分るでしょうが、人はいのちを選びません。「いのちの福音」を迎え入れません。そうではなくいのちに対して障壁を据えるイデオロギーや理論に流されてしまいます。そうしたものはいのちを尊重しません。なぜならエゴイズム、利己主義、金銭の貯蓄、権力、快楽に強いられてやってくるからです。そして愛や他者の善の探求からの強い促しは無視しているのです。そこには神のいない、神のいのちも神の愛もない人間の都づくりを求めるたゆまぬ幻想があります。新しいバベルの塔です。神やキリストのメッセージ、いのちの福音を拒むことが、自由へと導き、人間の完全な自己実現へと招くと考えているのです。その結果は、生きた神の代わりに人間の作った、一時的な偶像が据えられます。そうした偶像は自由の酔いしれた瞬間をもたらしますが、最後には新しい形態の奴隷状態と新しい形態の死をもたらすものになります。詩篇作者の知恵がこう語っています。「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える」(詩篇19編9節)。このことをいつも覚えていましょう。主は生きておられる方、あわれみ深い方です。主は生きておられる方で、あわれみ深い方です、と。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、神を見る時に、いのちの神として見つめましょう。その掟や福音のメッセージを、自由への道、命への道として見つめましょう。生きておられる神がわたしたちを自由にするのです。愛に『はい』と言い、利己主義に『いいえ』を言いましょう。いのちに対して『はい』と言い、死に対して『いいえ』を言いましょう。自由に対して『はい』と言い、この時代の多くの偶像の奴隷状態に対して『いいえ』を言いましょう。愛、いのち、自由であり決して横領をしない神(Iヨハ4章8節、ヨハネ11章25節、8章32節参照)、生きておられ、あわれみ深い神に『はい』と言いましょう。
生きている神への信仰のみがわたしたちを救うのです。イエス・キリストにおいて聖霊の賜物をもってわたしたちにそのいのちを捧げ、わたしたちがその憐れみによって神の本物の子らとして生きることができるようにしてくださった神への信仰です。いのち(=神)の母であるマリアさまが、「いのちの福音」を受け入れ、その証しをいつもすることができるように、助けてくださるように願い求めましょう。なれかし(アーメン)。
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