マタイ6・1-6、16-18
キリスト教は様々なきまりごとの「詭弁」ではありません。この考えは、神とは喜びと寛大さであるという事実を理解し生きるのを妨げます。聖マルタの家の小聖堂で祝われた今朝のミサの説教の中でパパ・フランシスコはこう確言した。
ローマ司教と共同司式に上がったのは、司教評議会の長官マルク・クヴェレット枢機卿とその秘書のロレンツォ・バルディッセーリ大司教、彼らには協力者のグループが随伴し、また家庭評議会の議長であるヴィンチェンツォ・パリア大司教とその秘書ジェン・ラッフィッテ卿である。彼らにもこの評議会の重要な役割を持った人々が伴った。
「偽善者は神の民を袋小路に導きます」。このように偽善者たちが今日の福音とパパの説教の主役である。教皇はマタイ福音書の有名な個所で、施しをしたり祈ったり断食したりする時にうぬぼれた姿を公に示す律法学者やファリサイ派の人々と、同じ状況を責任を持って行わなければならない正しい態度、つまり神にとって喜ばしく報いを与えられる分別である「人に見られないように」という態度としてイエスが弟子たちに指示することとを対比した。具体的にはさらに、パパ・フランシスコは律法学者やファリサイ派の人たちの虚栄について、信者に「あまりに多くのきまりごと」を強要する意図について述べた。そして彼らを「詭弁の偽善者、タレントのない知識人、つまり神に出会う知性のない人々、知性をもって神を説明するその知性のない人々」と定義した。彼らはそうしながら自分自身も他の人々も神の国に入ることを妨げる、というのである。
「イエスはこう言っています。『あなたがたが(神の国に)入らないばかりか、他の人も入れないようにしている』。この人々は善意のかけた倫理学者であり、何が善意なのかを知らない人たちです。けれど、倫理家ではあります。『これと、これと、これをしなければならない』と、あなたを善意なく決まりごとづくめにします。そして多くの服を寄せる衣のすその決まりや、実に多くのことをする決まりごとがあって、そうして立派な人、完璧な人に見せるのですが、そうした決まりごとには美のセンスがありません。美のセンスがないのです。ただ美術館に留まるような美しさしかないのです。タレントのない知識人、善意のない倫理家、美術館に留まるような美しさの運搬者。こうした人たちは偽善者で、イエスはこうした人たちのことを何度も叱っています」。
「けれどそれで終わりではありません」とフランシスコは続けて言った。「今日の福音では、主は別のクラスの偽善者について語っています。彼らは聖なることについてこれを行うのです」との見解を述べた。
「主は断食、祈り、施しについて語ります。それはキリスト者の敬虔、つまり教会が四旬節にわたしたち全員に提案する内なる回心の三つの柱です。この歩みにも多くの偽善者がいて、断食や施しをすること、祈ることでうぬぼれる人々がいるのです。わたしは偽善がこの神との関わりの点まで到達すると、わたしたちは聖霊に反する罪に非常に近い所まで来ていると思います。こうした偽善は美を知りません。愛を知りません。真理を知りません。とても卑しく、あさましいものです」。
「教会における偽善について考えましょう。全員に対してどれほど害をもたらすことか」とパパ・フランシスコははっきりと認識した。一方、他の福音の個所に描かれている登場人物を模倣するために「イコン(模範像)」として一つのあり方を指摘した。「わたしをあわれんで下さい。わたしは罪びとです」と言いながら謙虚な質素さをもって祈る徴税人のことである。「これが毎日わたしたちが、自分が罪びとであるという意識をもってしなければならない祈りです」とパパは確言した。しかしそれは「具体的な罪の認識であって、理論的なものではありません」。この祈りこそが、偽善、「わたしたちすべてにある」誘惑と反対の道を進むのを助けてくれるものである、と思い返しながら教皇は説教を結んだ。
「けれどわたしたちは全員、恵みをもいただいています。イエス・キリストからもたらされる恵みです。喜びの恵み、寛大さの恵み、広さの恵みです。偽善者は喜びとは何なのか、広さとは何なのか、寛大さとは何かを知らないのです」。
(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – RV).
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